《 世の中なんか、たしなむ程度にしておきなさい 》
ひと頃、自分探しという言葉がよく使われました。
今でも自分探しは続いている様ですが、この頃は「アタ
マ」の中に“小さな自分”を設定して、それを囲い込んで“自
分”とするパターンも多い様です。
(もしかしたら、このブログもそうかも知れない・・・。う
~ん・・・。)
「意識というものは、社会(世の中)が脳の中に浸潤して
来たもので、どちらかといえば自分ではなく社会(世の中)
に属するもの」ですから、「世の中」や「自分のアタマ(意
識)」の中に、「自分」をいくら探しても見つかるはずはあ
りません。
「世の中」は、わたしたちの「アタマ」の本体です。本体
なんですが、わたしたちの「アタマ」が端末で、「世の中」
はわたしたちの「アタマ」が繋がったネットワークであっ
て、「これが本体」という独立した実体が在るわけではあり
ません。まぁ、大きなサーバーとかは在りますね、聖書・コ
ーラン・学校・マスコミ・株式市場 etc・・・・。
そういったものも在りますが、「世の中」の実体は、相互
に関わり合うわたしたち自身、ということに成りますね。
考えれば当たり前の話なんです。
考えれば当たり前の話なんです。
当たり前の事なんですが、でも普通は「わたし」という個
人が先にあって、その個人が繋がって「世の中」を作ってい
るとかんがえます。しかし、実際は「世の中」がわたしたち
を作ります。
わたしたちは「世の中」に作られ、わたしたちが「世の
中」を作ります。「世の中」はわたしたちを作ることで、
「世の中」の再生産を続けている訳ですね。
でも、今や「世の中」はあまりにも膨れ上がり、その片隅
でわたしたちは窒息寸前じゃないですか?(そうは思いませ
んか?)
だから、こう薦めます。
《 世の中なんか、たしなむ程度にしておきなさい 》
と。
(「なさい」とチョット上から目線なのは、その方が文章の
切れが良いからで、私が偉いと思っているわけではありませ
ん。それと、そもそも自分に言い聞かせていることですか
ら)
では、誰が「世の中をたしなむ」のでしょう?
わたしたちは、「本来の自分」から離れる程、幸せを感じ
では、誰が「世の中をたしなむ」のでしょう?
「世の中をたしなむ」という意識を持つ時、その意識は、
それまでの「世の中」に作られた意識ではなく、「世の中」
から外れた意識になります。それが「自分」というものだと
思います。
わたしたちは、「本来の自分」から離れる程、幸せを感じ
られなくなります。完全に離れてしまえば、生きていられま
せん。
「世の中」に完全に取り込まれてしまった時、わたしたち
は、まさに“自分”を見失い、人を殺し、テロや戦争まで行
い、日本では多くの人たちが自ら命を絶ちます。
「それは、時に想像を絶する恐怖として、時には巨大な怪
物となって、わたしたちを押し潰しさえします」と初回に書
いたのはそういうことです。
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