2026年8月12日水曜日

気楽で優しい傍観者

 
 
 
 ベネズエラの地震があり、熊本の地震があり、昨日
 
はコロンビアでも地震があったそうだ。次々に起こる
 
災害のニュースを考えながら、ぼんやりと「四苦八
 
苦」のことを考えていた。
 
 「生」「老」「病」「死」(四苦)
 
 「愛別離苦」
 
 「怨憎会苦」
 
 「求不得苦」
 
 「五蘊盛苦」 
 
 これらをまとめて「四苦八苦」という。 
 
 
 以前「“苦”はすべて“求不得苦”だ」という話を
 
書いたことがある。「人は“苦”に会わないことを求
 
めるけれども、それは無理だから、すべては“求不得
 
”だ」と。「それを裏返すと“拒不逃苦”だな」な
 
どと今日思った。拒んでも逃げられない。
 
 
 嫌なことはいくらでもやってくる。些細なことから
 
耐え難いようなことまで、生きている限りなくならな
 
い。些細なことなら避けることもできるけれど、避け
 
ようとすること自体が、もう既に嫌なことに行動を支
 
配されてしまっていると言える。「嫌だなぁ」と思っ
 
た瞬間に、嫌なことにほとんど主導権を握られてしま
 
う。嫌なことを拒むほど、嫌なことの影響力は大きく
 
なる。
 
 では、拒まなければいいのか?
 
 そういうわけにいかないことは誰にでもわかる。詐
 
欺電話が掛かって来て受け入れていてはバカを見てし
 
まう。ではどうするか?拒まずに拒むのが良かろうと
 
考える。

 
 「はあ?何言ってんの?」

 説明します。

 
 拒むことを拒まない。
 
 あるいは、嫌なことを拒んでいる自分を受け入れ
 
る。
 
 要するに、嫌なことに直接関わらないようにする。
 
 
 「ああ、嫌がってるなぁ」 
 
 「かなり、拒んでるなぁ」 
 
 
 そんな風に、嫌がったり拒んだりしている自分を傍
 
観する。
 
 
 
 私は座禅をしないけれど、澤木興道老師や余語翠巖
 
老師の本を読み続けて、曹洞宗の座禅が「只管打坐」
 
というものだとは知っている。
 
 ただ座る。無になろうとか、悟りを開こうなどとし
 
ない。アタマが様々な妄想をしても、そのままにさせ
 
ておき、ただそれを眺めている。それと同じことを、
 
生活をしながら、暮らしながら行う。“泣いたり笑っ
 
たり怒ったりしている自分”を眺めている自分が在る
 
ことを忘れない。
 
 
 世の中でいろんな事件や災害が起こるけれど、傍観
 
者は気楽なものだ。辛い目に遭っている人を見ると、
 
自分も辛くなったりするけれど、それでも傍観者は当
 
事者とは違うし、むしろ気楽でいるべきだ。
 
 
 OSHO(ラジニーシ)がこんなことを言っている。


 世界はまさに 悲しみの中にある
 
 惨めさの真っただ中にある
 
 人々のハートには計り知れない苦悩がある
 
 だが、あなたがそのことで悲しむ必要はない
 
 理由は簡単だ   
 
 悲しむことによって あなたも彼らの仲間に入り
 
 さらに悲しみをつくり出すだけだからだ
 
 それでは助けにならない
 
 
 それはまるで人の病気を見て
 
 自分も病気になるようなものだ
 
 あなたが病気になっても
 
 病人を健康にすることはできない
 
 
 (中略)
 
 
 あなたはできるかぎり
 
 喜びに満ちていなければならない 
 
 人々を救うのは悲しみではなく喜びだからだ
 
 あなたは明るくなければならない
 
 この悲しい世界にあっても楽しめるということを
 
 人々に知らせる必要がある・・・・
 
 
          『ゴールド・ナゲッツ』より 
 
 
 一人の人間の中でも同じことだ。アタマが怯え、嘆
 
き悲しむ時、ハートも一緒に嘆き悲しんでいては救わ
 
れない。ハートは落ち着いた傍観者で在るべきだ。そ
 
してそれは可能なんだから。
 
 
 かと言って、人が泣いている時にヘラヘラ笑ってい
 
てもいけない。沢木老師はこう言う。
 
 
 仏というものは一切衆生と付き合いをせねばならぬ
 
 人が子供を亡くした時には
 
 オーオーと(泣いて)付き合わねばならぬ
 
 「おれはグループ呆けせん」(おれは悟ってる)と
 
 付き合いをしないのはダメである
 
         ・・・
 
 菩薩というのは悟りながら迷ってやるのである
 
 「ワシは悟っている。凡夫は勝手に迷え」
 
 というのではない
 
 凡夫と一緒に迷うてやるのだから
 
 菩薩行というのは広大無辺である
 
 
               『禅に聞け』より 
 
 
 苦悩する自分のアタマも、悲しむ誰かのアタマも、
 
バカにしてはいけない。それは現に有って、人間らし
 
いものなのだから。けれどそれと一緒になって苦しむ
 
のは賢いことではない。OSHO の言うように、病人が
 
一人増えるだけだから。
 
 
 「おれは悟った。悲しみも喜びも無用だ」
 
 そんな人間はさっさと墓に入ればいいのだ。
 
 生きているのなら、感情があることを尊ばなければ
 
生きてる値打ちがない。
 
 
 悲しい出来事に出逢えば泣く、腹立たしい出来事に
 
は怒る・・・けれど、そうありながらも落ち着いた傍
 
観者が自分の中に在って、目の前で泣いている人の中
 
にもそれが在ることを、気付いていなければいけな
 
い。
 
 
 「あわてる必要はない。泣くのも無理はない。け
 
ど、いつか一緒に笑おうな」と、自分にも人にも心の
 
中で語りかける・・・。気楽で優しい傍観者である自
 
を忘れてはいけない。
 
 
 
 
 

2026年8月9日日曜日

核兵器廃絶は可能か?

 
 
 
 今日は8月9日で、長崎で平和祈念式典が行われて
 
いた。テレビではコメンテーターが核廃絶について意
 
見を言ったりと、毎度おなじみの光景だったけれど、
 
最近は一部の政治家が「日本も抑止力として核を持つ
 
ことを考えるべきだ」という意見を言うようになっ
 
た。タブーが破られてきたなと思う。
 
 核廃絶を唱える側から容認派を見ると「人でなし」
 
なんだろうし、容認派から否定派を見ると「あたまの
 
中お花畑」ということで、両派の間の溝が埋まること
 
はないだろう。けれど私は、両方とも双子の兄弟みた
 
いなものではないかと思う。
 
 
 核廃絶を訴える人は、なぜ核廃絶を望むのか?
 
 殺されるのが怖いからだろう。
 
 それは当然のことだと思う。
 
 
 抑止力として核武装することを訴える人は、なぜ核
 
武装を望むのか? 
 
 やはり殺されるのが怖いからだろう。
 
 それも当然のことだと思う。
 
 
 拒絶する人も容認する人も元は同じであって、その
 
対処方が真逆なだけだ。そしてその真逆も、背中合わ
 
せで紙一重だろう。
 
 
 
 「核兵器は恐ろしい。無い方がいい」 
 
 普通の神経の人なら誰だってそう思う。その素直な
 
感覚は大事だけれど、「核兵器は恐ろしい」という感
 
覚があるがゆえに、核兵器を無くすことは不可能だ。
 
 「奴らは核兵器を持ってる。恐ろしい。我々も持た
 
ねば攻撃されるかもしれない」それも素直な感覚だか
 
ら。
 
 
 現在、核兵器を「持っている」「持っているだろ
 
う」「持とうとしている」というのを合わせて11カ
 
国なんだそうな。仮にそれらの国が核廃絶に合意して
 
「すべて廃棄しました」と表明したところで、お互い
 
に信じるだろうか?アメリカ・ロシア・中国の国土は
 
広い。少しぐらい隠し持っていても分からない・・・
 
そういう疑念が拭えない限り、どの国も核兵器を無く
 
さないだろうし、その疑念を払うことは不可能だ。
 
 
 人を行動させる最も強い動機は「恐れ」だ。そし
 
て、人を恐れさせる大きなものは「疑い」だ。
 
 核兵器廃絶を訴えるのも、核兵器に頼ろうとするの
 
も、人が「恐れ」と「疑い」に揺さぶられる存在であ
 
ることを象徴している。両者がどこかで手を打って合
 
意することは無いだろう。互いに「人でなし」「お花
 
畑」と揶揄し続けるだろう。ただ「恐れ」と「疑い」
 
から生まれた兄弟のような存在だということは、互い
 
に認識しておくべきだろうと思う。具体的には不可能
 
だと思うけれど、人間が核の問題から解放されるとし
 
たら、そこにしか突破口はないはずだ。
 
 
 誰もが、怖がりで、人を信じられなくて、強がりで
 
ある限り、核兵器も戦争もなくならない。
 
 
 「そんなこと言ってるアンタはどう思うの?」
 
 と疑問を持たれるかもしれない。
 
 私は「知らんがな。勝手にやってれば?」思ってい
 
る。私に解決策は思い付かないから。ただ、現実とし
 
て尋ねられれば「日本も持ってていいんじゃない?い
 
まさら、核兵器を無くすなんて不可能としか思えない
 
んだから」と答えるだろう。
 
 
 「原爆」という言葉はとても強い。その強さは、人
 
間がやる他の醜悪な事を陰に隠してしまいがちにな
 
る。原爆より焼夷弾の方が遥かに多くの犠牲者を出し
 
たことは、あまり話題にされない。原爆は一瞬でとて
 
つもない破壊と殺戮を行うけれど、その開発のコスト
 
は大きい。焼夷弾と原爆では、作るときに手間か、使
 
う時に手間か、の違いであって、狂気の道具であるこ
 
とでは同じだ(放射能の問題はあるけれど)。

 
 死を怖れ、免れようとして人は武器を作るけれど、
 
その武器の存在がさらに死を想起させる。堂々巡りは
 
終わらない。終わらせたいのなら、死を捉え直して、
 
怖れを払拭するしか手はないだろうけれど、そんなの
 
ごく一部の人にしか無理だろう。

 
 「核兵器廃絶」
 
 もちろん私もそれを望む。
 
 しかし、人が死を怖れる存在である限り、それは叶
 
わないだろう。核兵器が恐ろしいが故に、核兵器は無
 
くならない。核兵器が意味を持たなくなるような、さ
 
らなる脅威の兵器が生み出されれば核兵器は用なしに
 
なるだろうけれど、その時には「怖れ」どころか「絶
 
望 」がもたらされることになるのだろうな。
 
 アタマが悪い・・・。 
 
 
 
 
 

2026年7月10日金曜日

あきらめなかったから

 
 
 
 10年前に亡くなったシンガーソングライターで村田
 
和人という人がいる。山下達郎らが音楽制作に関わっ
 
ていた人で、80年代にはそこそこ売れていた。当時の
 
ミュージックシーンでは中堅的な立ち位置と言えばい
 
いのだろう。大ブレイクする実力があったと思うけれ
 
ど、売れる売れないはタイミングと運が大きく作用す
 
る。ビッグネームにはなれなかった。
 
 キャッチーな良い音楽を作る人で、私もベスト盤を
 
一枚持っているが、私が村田和人を聴き始めるきっか
 
けになったのが『Stay The Young』という曲で、いま
 
でも年に1〜2回は聴く好きな曲だ。今日も、久しぶり
 
に聴いていて「あきらめる」ということについて思っ
 
たことがあった。
 
 
 曲の中で「涼しい顔してあきらめるのが 上手な生
 
き方には思えない」と歌われる。夢をあきらめること
 
についての歌なんだけれど、よくある「夢を追いかけ
 
ろ」みたな曲とは少し趣が違う感じのする曲だ。
 
 曲の中で歌われる「夢」というのが、社会的な評価
 
を受けることよりも、自分で自分を評価できる生き方
  
に寄っているように感じる。「社会の枠にハマって、
 
自分をあきらめていないか?」と問いかけているよう
 
に思える曲だ。
 
 
 このブログでは、社会的な評価を得ることに拘泥す
 
ることを批判的に書いてきた。それは違わないし、
 
「あきらめる」ということも、誰もがしなければなら
 
ないことだと思っている。なにしろ「生をあきらめ、
 
死をあきらむるは、仏家一大事の因縁なり」だ。人は
 
皆あきらめるべきだ。
 
 
 そんな風な考え方の私が何故この曲を好きなのか?
 
今日、それを考えたのだけれど、答えは先ほど書いた
 
ことの中にある。
 
 “「あきらめる」ということは、誰もがしなければ
 
ならないこと”だから、「あきらめること」をあきら
 
めてはいけないという話です。
 
 若い時から「あきらめること」が私の夢だった。詭
 
弁のように聞こえるかもしれないけれど、本気でそう
 
思っていたのです。
 
 
 「この世の中はおかしい。関わっていると何かを間
 
違える」
 
 そういう感じが消せない私は、世の中で評価される
 
こと(夢)を疑い、そこから離れようとした。
 
(こうして書いてみると、ほとんど仏道修行ですね。
 
こういうのを「在家の出家」という) 
 
 
 作詞は安藤芳彦という人で、本人の作詞の意図はわ
 
からないけれど、私には単純に「夢を追いかけろ」と
 
いうようには聞こえない。でも、この曲を好きな人の
 
ほとんどは「何かを成し遂げる夢をあきらめるな」と
 
受け取っていることだろう。言葉というのは受取る人
 
次第で全然違う意味を持つ。
 
 
 「夢をあきらめることが、夢だ」という、なんとも
 
ひねくれまくった人間に気に入られては、村田和人さ
 
んも苦笑いするしかないだろうけれど、病気によって
 
音楽活動(人生)を終わらざるを得なかった村田さん
 
にとって、最期に夢をあきらめることは、涼しい顔で
 
死を迎えるために必要だったはずだ。
 
 もちろん涼しい顔で死ぬ必要もない。
 
 涼しかろうが苦しかろうが、それが自分の人生なら
 
それでいいのである。それこそが「あきらめること」
 
だ。 
 
 
 『Stay The Young』はとても良い曲です。
 
 興味があれば聴いてみて
 
 
 
 
 

2026年7月9日木曜日

良いニュースとは

 
 
 
 毎日いろんなニュースが流される。私はベネズエラ
 
の地震の事が気になるのだけど、続報はほとんど無
 
い。トンガの噴火のときもそうだったけど、メディア
 
はああいうのはお気に召さないらしい。

 
 少し前にニュースで、京都で父親が小学生の男の子
 
を殺した事件や動物園の焼却炉で職員が妻の遺体を焼
 
いた事とか、ストーカー殺人とかを盛んに流してたけ
 
ど、ああいうのは本当はプライベートな出来事だ。犯
 
罪にまでなってはいるけれど、個人的な人間関係のも
 
つれだから、あの手のニュースを流しても見る人にな
 
んにもメリットは無い。あれらの犯人は不特定多数の
 
人を対象にしているわけじゃないからね。あんなのを
 
ニュースにするのは、ただのゴシップ、スキャンダリ
 
ズムでしかないけど、アタマはああいうのが大好き
 
だ。
 
 メディアは被害者の実名を出すけど、このご時世、
 
被害者がわけのわからないバッシングにさらされたり
 
もするし、あんなの百害有って一利なしだろう。いつ
 
も「やめてあげろ」と思う。犯人の名前を出すのだっ
 
て、実質的なメリットが有ることはほとんどない
 
し・・・まぁ、メディアは止めないだろうけどね。
 
ニュースは基本的にゴシップで、人はそれを求めて
 
る。

 
 「他人の不幸は蜜の味」っていう言葉があるけど、
 
人の不幸を知って本気でニヤついてる人間が結構いる
 
らしいのには、驚かされる。私は他人の不幸を見ると
 
気持ちが沈むので、何が面白いのかさっぱりわからな
 
い。(煽り運転をした車が自爆するのとかは楽しんで
 
しまうけど)
 
 他人の不幸が嬉しいなんて、比較して上か下かで
 
幸・不幸だとする観念にどっぷり浸っているんだろう
 
けど、そんなことを考えている人間こそ不幸だ。比較
 
していると、永久に満たされることはないからね。
 
 
 ニュースを見て「良いニュースだ」と思うことは年
 
に数回しかない。「良いニュース」とは、誰からも文
 
句は出ないであろうニュースだと思うが、そういう
 
ニュースがごくわずかなのは、みんな自分の都合で物
 
事の良し悪しを決めて判断し行動していて、世の中が
 
揉めるから仕方がないだろう。
 
 
 アメリカのドラマで「良いニュースと悪いニュース
 
があるが、どちらから聞きたい?」 というセリフが
 
よく有るけど、大抵「悪いニュース」の方が大きい。
 
そっちの方が刺激が有っていいのだろう。アタマは刺
 
激を求めている。そういう意味で「悪いニュース」
 
は“良いニュース”なんだろう。ゴシップがもてはや
 
されるわけだ。
 
 
 ところで、価値判断が無い場合にニュースは生まれ
 
るだろうか?生まれないだろう。ニュースには、それ
 
を流す者の価値観が入っている。
 
 良くも悪くもなく淡々とした事はニュースにならな
 
い。
 
 「今日ここまでのニュースです。本日は日本全国、
 
特にお伝えするほどの事がない穏やかな日です・・・
 
以上終わり。」そういうことになる。
 
 
 ニュースは平和と相性が悪い。平和ならメディアは
 
無理にでも平和を乱そうとする。なぁに、メディアに
 
限らず人間は大体そうだ。平々凡々としてるとムズム
 
ズして、しなくていいことをし始めるんだから。で、
 
目出度く平和が乱れるとニュースが流される。
 
 アタマは悪いなぁ。 
 
 
 
 
 

2026年7月7日火曜日

感覚に相談する

 
 
 
 「“反骨精神”って言葉聞かなくなったなぁ」
 
 今日、ふとそう思った。
 
 「もしかしたら若い子に言っても意味が通じないん
 
じゃないのか?」
 
 そんな気もする。
 
 
 世の中のルール、時には法律に対してでも、違和感
 
を感じたら抵抗するという人がかなり減ってきている
 
んじゃないかと感じる。 
 
 思想的な反抗ではなくて、人としての素朴なフィー
 
リングから「変じゃないの?」と感じて抵抗する・・
 
そういう人が減っているんじゃないんだろうか。
 
 まぁ、勝手に思ってるだけだけど、小学生などがと
 
ても真面目でききわけが良いこととか、SNS に些細な
 
マナー違反なんかを罵る書き込みがあふれたりするの
 
を見ると、世の中の決まりごとに対する批判精神が無
 
い人が増えているのではないか?人間的な余裕が無
 
く、反骨精神も乏しいように思う。
 
 
 『大人たちよ、おめでとう!』(2023/3)という話
 
で書いたけれど、今の日本社会は管理がとても強く
 
なって、管理され、管理の中で生きることに慣れた人
 
間が増えているだろう。もちろん無秩序な社会より秩
 
序正しい社会の方が良い。それに反対はしないけれ
 
ど、行き過ぎてしまっているのではないのか? 
 
 
 《過ぎたるは及ばざるより悪しき》と書いたことが
 
あるけれど、“アタマにとって望ましいこと=人間に
 
とって望ましい”とは限らない。ある程度までなら望
 
ましいことでも、行き過ぎれば問題を起こす。物事に
 
は“ほどほど”ということがある。けれども“ほどほ
 
ど”は中途半端でもある。その曖昧さを許容するゆと
 
りをなくしているのではないか。良い意味での適当さ
 
を・・。
 
 
 自分で考えるということ以前に、無意識に自分の感
 
覚に蓋をして、自分から余計な面倒を生み出さないよ
 
うにしているように思える。
 
 
 たった幅3mの道に信号が付いていて、車も来ない
 
のに赤信号だからと歩行者が律儀に待っている・・・
 
それは法律上正しいし、当人も別に変に思っていない
 
だろうけど、身体は「面倒だ」と感じていないだろう
 
か? その感覚を無視して抑え込んではいないだろう
 
か? もしそうなら、その微妙なストレスが、いつか
 
溜まり過ぎて思いもしない形で吹き出してくるかもし
 
れない・・・。SNS で攻撃的になる人間が多いのはそ
 
ういうことかも知れないじゃないか。

 
 コロナの頃、日本人の八割以上がワクチンを打った
 
けれど、私は打たなかった。荒唐無稽な陰謀論を信じ
 
たわけではない。コロナの発症率、重症化率、致死率
 
と、安全性の臨床試験をしていないあのワクチンの得
 
体の知れなさを考えると、打つ妥当性を認められな
 
かったからだ。別の見方をすれば、自分の身体の免疫
 
力を信頼したといえる。社会の声や雰囲気より、自分
 
の内面の声と自分の知識と経験の方が、私にとっては
 
大切だ。
 
 
 知性ある者は、かならず問いかける
 
 「なぜ?  なぜ、私はこれをしなければならない
 
 のです? 道理と重要性が納得できないかぎり
 
 私はそれに関わりたくありません」
 
 そうやって、人は責任をとれるようになってゆく
 
 
              和尚(ラジニーシ)  
 
 
 私の知性がどの程度のものかは知らないけれど、ど
 
んなことでも納得した上でやりたいし、そのことに責
 
任を持ちたい。そうしないと自己嫌悪で苦しくなって
 
しまう。その選択のためにつまづくことになっても、
 
納得できないことに唯々諾々と従うよりマシだ。
 
 
 責任を持たないことには喜びは無い。
 
 「これは自分が決めたことだ」と責任を持ったこと
 
は、上手く行っても行かなくても手応えが有る。誰か
 
がアタマで決めたことを吟味もせずに従って何が面白
 
いのだろうか? 自己嫌悪を感じないのだろうか? 
 
 
 「アタマは悪さをする」
 
 自分のアタマでも、誰かのアタマでも、私はアタマ
 
が言うことは必ず感覚に相談する。
 
 「こんなこと言ってるけど、どう感じる?」 
 
 それは人間として当たり前のことだと思うけれど、
 
世の中を見回すとそんな者は少数派らしい。 
  
 
 
 
 
 

2026年7月4日土曜日

長い困難

 
 
 
 ベネズエラの地震の被害がとんでもないね。コンク
 
リート造の大きな建物がいっぱい崩壊しているから、
 
国際的な大きな協力がなければ、あれを撤去するだけ
 
でも十年はかかってしまうんじゃないだろうか。被災
 
者がこれから辿る長い困難を思うと何も言葉が出な
 
い。冷淡に思わるかもしれないけれど、被災者は耐え
 
るしかない。自分のさだめは自分が生きるしかないか
 
ら。
 
 明日、自分をどんなさだめが待っているか誰も知ら
 
ない。どんなさだめでも、起こることは受け止めてい
 
くしかない。

 
 受け止め切れないかもしれない・・・それならそれ
 
で仕方がない。
 
 死んだ方がマシだと思うほどかもしれない・・・そ
 
れならそれで仕方がない。
 
 さだめを恨んで鬼のような心を持つかもしれな
 
い・・・それならそれで仕方がない。

 
 自分にどうすることもできないから「さだめ」なん
 
だ。仕方がない。自分の思惑の出る余地は無い。


 アニメの『風の谷のナウシカ』のクライマックス。
 
小さな女の子がババさまに訊く「みんな死ぬの?」。
 
ババさまが答える、「さだめならね。従うしかないん
 
だよ」。

 
 現代人はあきらめを忌む。すぐに、「自分で、自分
 
たちの力で、困難を克服するんだ」と語る。けれど
 
私は、大きな困難に遭ったときはあきらめるべきだと
 
思う。ただし、それは捨鉢に投げ出してしまう意味で
 
はない。
 
 ババさまの答えのような、「さだめを受け入れ従っ
 
ていく」という、深い謙虚さを持つということ。
 
 「自分の力で・・・」という、自我が先走る形では
 
なくて、「さだめの導くことに自分の力を尽くしてい
 
く」とあきらめること。

 
 こういう考えは消極的だと苦々しく思う人も多いこ
 
とだろう。でも私は、あきらめの上にこそ、人の坦々
 
とした強さが現れて来ると思う。地に足のついた行い
 
が生まれて来ると思う。
 
 その結果、結局困難に打ち負かされてしまうかもし
 
れない。けれど、もうあきらめはついている・・・。

 
 「自分で・・・」と先走っても、さだめに従って
 
も、しなければならないことは同じだ。
 
 さだめに従えば、さだめが引っ張ってくれる。自分
 
が先に立てば、自分がさだめを引っ張らなければなら
 
ない(実際には無理だが)。どちらが辛いだろうか?
 
 さだめに導かれるままに、坦々とするべきことをす
 
る方が楽になれるのではないだろうか?

 
 ベネズエラの人にこんな話を届けたいと思っている
 
わけじゃない。こんなこと言えない。そもそも届かな
 
い。届いたところで受け入れてもらえない。そんなこ
 
とは分かっている。私の意識がニュースに反応して、
 
こんな話を書き出しているだけだ。過酷なさだめにど
 
う向き合うかを確かめようとして。
 
 
 地震は信(まこと)に大変に候。野僧
 
 草庵は何事もなく、親類中死人もなく
 
 めでたく存じ候。うちつけに、死なば死なずに
 
 永らえて、かかる憂きめを見るがわびしさ
 
 
 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
 
 死ぬ時節には死ぬがよく候
 
 これはこれ災難をのがるる妙法にて候
 
                   良寛  
 
 (地震で子を亡くした山田杜皐への手紙)
 
 
 
 肚を括って、さしあたり生きてみるしかない。
 
 順なる時も、逆なる時も、それしかない・・・。 
 
 
 
  

2026年7月3日金曜日

切り取る

 
 
 
 ネット上は、さまざまに切り取られた情報で溢れて
 
いる。好意的な切り取りも、悪意のある切り取りも、
 
存在理由の分からない切り取りもあるけれど、物事を
 
切り取らずに丸ごと情報にするのは不可能なので、す
 
べては切り取りにならざるを得ない。
 
 
 フィクションの創作物ならそれでいい。アニメだと
 
か音楽だとかの作品なら、提出されたものがすべて
 
で、それで丸ごとだ。気に入るか気に入らないかで済
 
むことだ。しかし、現実の物事は問題を起こす。人は
 
切り取られた外側を自分の都合の良いように詮索し、
 
仮定した挙句に、自分の仮定を事実のごとく固定し始
 
める。そうして切り取られた情報を中心に、人の数だ
 
け固定された“その人なりの事実”が世の中にあふれ
 
てゆき、あっちでもこっちでも揉め事が起こることに
 
なる。
 
 
 悪意のある切り取りも、善意からの切り取りも、物
 
事を見誤らせる。じゃぁ、もう発信などしなければよ
 
いかといえば、ことはネットだけの話じゃ済まない。
 
わたしたちは、眼の前の実際の物事さえ切り取らずに
 
受取ることができない。思考を使う限り、切り取る必
 
要がある。丸ごとの物事は大きすぎて思考には扱えな
 
いから。
 
 
 誰もが物事の断片を集めてそれを事実だと見做す。
 
 大まかな形はわかるかもしれないけれど、集められ
 
なかった断片の一かけらに、重要な意味があるかもし
 
れないではないか。いったい誰に正しい(?)判断が
 
できるだろう。せいぜい良識のある判断ができる程度
 
だけれど、その良識にもいろいろある。
 
 
 悪意のある切り取りには、誰かを叩きたい人間がこ
 
こぞとばかりに群がる。好意的な切り取りにはお仲間
 
が喜んで集まる一方で、アンチが潰しにかかる。アタ
 
マが悪すぎる。狂っているけれど、それがアタマの性
 
質だから無くならない。
 
 
 世の中と関わる限り、わたしたちは思考を止められ
 
ない。切り取ることを止められない。それは業であっ
 
てどうしようもないけれど、せめて「見えないものの
 
方が膨大なのだ」という認識だけは忘れたくないもの
 
だ。
 
 
 と、そんなことをどこかの権威のある有名人が言っ
 
たところで、それも切り取られて毀誉褒貶される。 
 
 
 膨大な見えないものの前で立ち止まる・・・判断な
 
どできないのだと肚を括る・・・その中に入っても、
 
混乱しかないのだと肝に銘じる・・・。
 
 
 世間のことも、まわりのことも、
 
 なるがままにさせておき、
 
 黙って、見ていられる人になる。
 
 その方がうまくいく、という計算さえ持たずにね。
 
          『タオ-ヒア・ナウ-』加島祥造 
 
 
  世の中から必要なものを得るための最低限の義務
 
を果たしたら、あとは関わらない方が身の為だ。
 
 そんな風に生きていると世の中は非難してくるだろ
 
うけどね。こちらの見えている一部を切り取ってね。