もうブログを始めて丸9年になる。なにもわからず
に発作的に始めたので、9年なんてウソみたいな感じ
がする。書く内容も5年ほど前から同じようなことば
かりになっているので、恥さらしな感じもするけれ
ど、物を書き続けるとか何かを作り続けるというのは
そういうものなので、まぁいいんじゃないかと思う。
「寄せては返す波の音」
山本夏彦さんは自身の著作活動をそう評した。同じ
ことばかり書いてると。けれども、それは山本さんに
限ったことでもない。なにかを表現する人は、その人
の視点・感覚でしかものを捉えられないし、表現の手
法もその人のスタイルから出ることはできないので、
長く続けるほどに、同じことの繰り返しになってしま
う。もしそこが変わるのなら、そもそも上っ面の表現
をしていたのであって、その表現には“その人”が存
在していない。血が通っていない。
そういうことではなくて、表現のスタイル・内容が
大きく変化することもあるが、それは何か本質的な変
化がその人に起きた場合だ。何らかの大きな出来事に
会って、従来の価値観がぶち壊されたとき人は大きく
変わる。
あるいは、それまでのスタイルを維持することに疲
れてしまって、楽な方へシフトするときも変わるけれ
ど、こちらの方はあまり良い結果にならない。
こういうことを書いていると桑田圭佑の顔が浮か
ぶ。サザンのデビュー以来「天才だ!」と思って桑田
の曲を聞き続けていたけど、『白い恋人達』以降は聴
かなくなった。毒を吐かなくなったからだ。さらにメ
ロディーも手練手管で作るようになったと感じて、私
は急激に冷めてしまった。いまだに残念に思っている
が、同じことはあらゆる表現者に起きるし、仕方がな
いことだ。
桑田の場合は、これまでに無い表現を生み出すこと
が時代的に不可能になったというタイミングも大きい
だろうけど、毒を吐かなくなったのはなぜなのかと不
思議だ。何か個人的に大きなことがあったのだろうな
と思っている。
長く表現を続ける人には、そういう撤退やマンネリ
のどちらかが起こる。どちらもが起こることもある。
が、そういうことは当人の能力や責任とは別の話だ。
それは遅かれ早かれ起こる。必然であって避けられな
いのだ。
けれど、撤退はともかく、マンネリはものともせず
に続けるのが望ましい。表現しようという意欲が無理
なく出てくるのなら、むしろその表現はされるべきだ
ろう。
私には30年以上、幾度となく読み返している本が
いくつも有る。それらの本の持つムードのようなもの
に浸ることで、自分の感覚が安定する(下手をすれ
ば、自己暗示のタコツボにはまり込む危険があるけ
ど)。すでに暗記してしまっている文章を読んで、あ
らたな発見もあったりする。血が通ったものは古くな
らない。
確かゲーテが言っている。
「充分に読め。が、沢山読むな」
誰の言葉か忘れたけれど、こういうのも有る。
「多くの女を愛した男より、ひとりの女を愛し続け
た男の方が、より深く女というものを知っている」
本であれ何事であれそうだろう。
だから表現する者はあれこれ考えずに“自分なり”
にまかせてゆけばいいのだろう。その方が、そこに血
が通う。
自分が掘った深さだけ、その表現は誰かの深いとこ
ろに触れるだろうけれど、自分の深いところに触れた
くない人は、深く掘られた表現を避ける。そして浅い
人生を生きる。
いつまでかは知らないけれど、まだしばらく、私は
世の中のお話を掘り返してゆくのだろう。そこを覗き
込みたい人は必ずいるはずだから。
私がしていることは、表現というより解体作業だろ
うと思うが、人は工事現場に通りかかると、覗き込み
たくなるものだから。