2026年6月3日水曜日

口の使い方

 
 
 
 誰の言葉だったか忘れてしまったけど、こういう言
 
葉があります。
 
 
 余は弁じたるために後悔したことはあっても
 
 沈黙して後悔したことはない
 
 
 こんなブログを長く書いている立場としては、この
 
言葉を思い出すと耳が痛い。そして澤木興道老師もこ
 
う言っている。
 
 
 人間、口を開けば迷いの披露でしかない
 
 
 苦笑するしかありませんが、一方で澤木老師はこう
 
も言っています。
 
 
 口はしゃべるためにある
 
 
 矛盾しているようですが、私は納得してしまう。
 
 別に澤木老師を盲目的に信じて、なんでもかんでも
 
肯定しているわけではないのです。言葉の上では矛盾
 
しているけれど、感覚的に「そうだ」と思うのです。
 
 
 話すというのは、とりも直さず社会的な行為です。
 
社会は無数のエゴが思考の縄張り争いを繰り広げてい
 
る所なので、そこで自分のエゴに口を開かせれば、衝
 
突や批判や嘲笑を誘発してしまう可能性が高い。だか
 
ら黙っていればいいかといえば、それはそれで好き勝
 
手に毀誉褒貶されてしまう。どちらかといえば、身の
 
安全のためには黙っている方が有利でしょうけどね。
 
 では澤木老師が〈口はしゃべるためにある〉という
 
のは何故か?たぶん黙っているだけでは親切じゃない
 
からでしょう。
 
 
 人として生きていて、好むと好まざるとに関わらず
 
社会の中にいるのなら、智慧を働かせて自分の口に
 
“親切なこと”をしゃべらせるように心掛けるべきだ
 
ということでしょう。
 
 自身のエゴ(迷い)を披露するのではなく、互いの
  
沈黙へ誘うような言葉を探して使う・・・実際にそう
 
できなくても、そういう意識を持って話すだけでも、
 
何かが違うはずです。
 
 
 もっとも聞く耳を持たない人もよくいるわけで、そ
 
ういう人を相手にしゃべるのは徒労でしかないし、往
 
々にして事態を悪化させるだけ。そういう時は沈黙す
 
るしかないけれど、その時は感情も沈黙させるべきで
 
す。しぶしぶにとか不快そうに黙るのではなく、思考
 
も感情も OFF にして黙る。そうすると、手応えをな
 
くした相手は、自分が迷っていることを無意識にでも
 
自覚して萎えてしまう・・・そしてそれと同じことは
 
一人の人間の中でも起こる。
 
 自分のアタマが「ああだこうだ」と騒ぎ立てている
 
時は、沈黙してアタマにしゃべらせておくと、アタマ
 
は迷いの披露をしていることを自覚して大人しくなっ
 
てゆく。
 
 
 口はしゃべるためにある・・・口を活かすのは一筋
 
縄ではないけれど、せっかく備わってるものだし、社
 
会の中にいるのなら、上手く使えれば自分の為にも誰
 
かの為にもなる。
 
 私自身を振り返ると、しゃべるのはいまの五分の一
 
ぐらいにした方がよさそうだけど・・・。やっぱり耳
 
が痛いなぁ。
 
 
 
 
 

2026年6月2日火曜日

自分が邪魔をする

 
 
 
 日々、人の言葉や何かの出来事に接して、わたしち
 
は何かを思うけれど、それは「思った」のか、「思わ
 
されてしまった」のか・・・、私は「思わされてしま
 
った」という立場をとる。わたしたちの思考は常に後
 
付けだ。自由意志など無い。
 
 
 生きていることは過去の後始末のようなもので、真
 
に「自発的」と言えるような思考も行為も無い。どの
 
ように飾ろうと繕ってみようと、わたしたちは過去や
 
その時々の状況に動かされているのであって、自ら動
 
いているのではない。
 
 やむにやまれず何かを考え、何かをして生きてい
 
る。自分というものは、その動かされている“動き”
 
のイメージであって、確固としたものは無い。
 
 
 そう思わざるを得ないので、私はそう思って(思わ
 
されて)いるけれど、自分の意思があると思う人は、
 
私のような者を見ると、虚しいし面倒だと思うだろ
 
う。しかし、当の本人は「思わされている」方が楽
 
だ。「南無阿弥陀仏」と同じで、自分は無責任でいら
 
れるし、自分に思わせる“何か”に任せておけばいい
 
ので気楽なものだ。もとよりそういう風に思わされて
 
しまっているのだから仕方がない。それに抵抗しよう
 
と思ったとしても、その抵抗さえ思わされてのこと
 
だ・・・手も足も出ない。
 
 
 浄土真宗の僧侶の藤原正遠さんは「我に手のなし」
 
(打つ手は無い)と仰ってらしたけど、自分の力・意
 
思は幻想だ。アタマが自身の存在意義を示したくて、
 
自分の力・意思があると都合の良い解釈をするだけ
 
だ。
 
 正遠さんは「(程度の酷い)煩悩がでてきたらこま
 
りますよねぇ」という問いに対して、「下さる煩悩し
 
か出んもの(だから安心していればいい)」と答えて
 
いる。その徹底的に無責任とも言える自己否定は、逆
 
説的に破滅的な煩悩が力を持つのを抑える。“気楽
 
さ”からは、煩悩へ送り込まれるエネルギーが出てこ
 
ないから。そして気楽にしていると、軽くなった自分
 
を押しのけて、“何か”の力が現れやすくなる。良か
 
れと思って邪魔をしていた自分が力を抜くと、“何
 
か”の働きがスムーズになり、自分という動かされて
 
いる“動き”もスムーズになる。気楽さが、さらなる
 
気楽さを生んでいく。
 
 
 この話全体が、私のアタマが都合の良い解釈をして
 
いるだけかもしれないけれど、それもそう思わされて
 
のこと・・・我に手のなし・・・気楽なものだなぁ。
 
 
 
 
 

2026年5月31日日曜日

さようなら

 
 
 
 タイトルに「さようなら」などと書いてあると、
 
「もうこのブログやめるのかな」と思われそうですけ
 
ど、そういうことではありません。「さようなら」の
 
意味を少しイジってみようと思いついたのです。
 
 
 本来「さようなら」はその言葉自体が別れの言葉で
 
はなくて、別れの言葉の前に付いていました。
 
 「左様ならば、これにておいとまいたします」の後
 
半部分が省略されて、「左様なら」だけで別れ告げる
 
言葉になったものです。ですから、別れを切り出す側
 
が使うのが本来で、相手側に別れを切り出させた側は
 
「御免」などと応じるのが言葉の意に叶っています。
 
 まあ、こんなことは多くの人が知っているでしょう
 
けれど、それを踏まえた上で、話はここからです。
 
 
 「左様ならば」
 
 いまの言葉なら「そういうことならば」ですけど、
 
これは相手側の事情、都合を受け入れる態度ですね。
 
その事情を受け入れて、いま以上の関わりを停止する
 
わけですが、なにも別れのあいさつだけに限定しなく
 
ても、あらゆる事柄に対して「さようなら(そういう
 
ことなら)」と告げるのは、かなり人を落ち着かせる
 
のではないでしょうか。
 
 
 自分の希望や想定にそぐわないことに対して、その
 
事自体に「さようなら」と告げる。そのように使うの
 
なら、「さようなら」は執着から自分を開放するため
 
の、良いツールになるように思います。
 
 
 いつだったか白隠のエピソードを書いたことがあっ
 
たと思います。
 
 濡れ衣を着せられ、誤解された白隠が、何も弁明も
 
せずに「ほう、そうか」と受け入れていくことで、か
 
えって誤解が解けていく話ですけど、その「ほう、そ
 
うか」と同じことですね。「そうか」は「左様です
 
か」ですからね。
 
 
 誰にでも事情がある。
 
 事情にも事情がある。
 
 その事情を、自分の側の事情で書き換えようとする
 
と、衝突が起こる。もちろん、衝突してでも自分の側
 
の事情を優先しなければならないことはある。けれ
 
ど、わたしたちは大抵、大したこともない事情にこだ
 
わって物事を面倒にしてしまう。アタマが悪い。
 
 
 自分の事情が通らない物事に「さようなら」と言う。
 
 自分の大したこともない事情にも「さようなら」と言
 
う。
 
 
 「左様ならば、致し方御座いませぬな」
 
 昔の言葉は丁寧なものです。大事なことがちゃんと
 
言葉になっています。「致し方」(対応策)が無いの
 
です。だから「これにておいとま致します」と。
 
 「いとま」は「暇」ですから、「ブランク」であり
 
「ニュートラル」と言えますね。「さようなら」と
 
言って、自分をニュートラルな立場に置く・・・とて
 
も知性的な態度ですね。 
 
 
 自分の暮らしの中に「さようなら」と言えない事が
 
本当はどれだけあるのか?
 
 本当は見過ごしていいことを掴まえて、自分を疲れ
 
させているだけ・・・。わたしたちのやっていること
 
の大半はそういうことでしょう。ご苦労さんなことで
 
す。
 
 
 
 
 
  

2026年5月25日月曜日

現実主義?

 
 
 
 現実主義という言葉がある。私も現実主義者のよう
 
な気がする(こんなブログを書いてるのに?)。けれど
 
も考えてみれば現実主義というのはおかしな言葉だ。
 
主義というのは生き方の方針であって、観念的なもの
 
だろうけど、現実主義というのは自分の前に立ち現れ
 
てきた物事を実際的にどうするかに注力するものだ。
 
それを主義と呼ぶのは違うような気がする。
 
 
 例えば、お腹がすいたので何か食べる・・・そこに
 
主義など無い。暑くなったので長袖から半袖の服に変
 
える・・・それも主義ではない。しかし「お腹がすい
 
たけどヴィーガン食が手に入らないので我慢する」と
 
か、「暑くなったけど、いまオーガニック素材の半袖
 
シャツが手に入らないので暑さを我慢する」とかいう
 
場合は、主義が関与している。主義は、往々にして現
 
実への対応に制限をかける。それにとどまらず、そも
 
そもわたしたちのいわゆる“現実”自体が主義によっ
 
て観念化しているので、そこに主義を持ち込むと“現
 
実”はいよいよ現実性を失ってしまう。
 
 
 現実に対処するならば、まず感覚を優先するのが当
 
たり前だ。感覚の求めるままに対処しにくいときに、
 
思考でサポートするのが、人間として望ましい在り方
 
だろう。
 
 しかし、アタマは悪さをする。感覚の求めがアタマ
 
の方針に合わないとき、アタマは感覚を無視する。そ
 
れは人間が思考してしまう生き物である以上しかたが
 
ない部分があるけれども、そういうことを何千年も繰
 
り返してきたために、最早“現実”は非現実なものに
 
なっている。現実はその時その場所に応じて飾られ、
 
いわゆる“現実”になっている。
 
 
 このブログに書いてあるようなことを世間で言うと
 
「現実を見ろよ」などと言われたりする。
 
 「いや、あんたが言っている“現実”が、非現実な
 
んだよ」と言い返したくなっても、そんなことをする
 
のは面倒を増やすばかりなので黙っている。観念を相
 
手にするとロクなことがない。 
 
 主義によって変質した現実とはできるだけ関わらず
 
にいたい・・・そう考えるのもひとつの「主義」なん
 
だろうか?
 
 
 主義(宗教や科学による判断も含む)のフィルター
 
をかけられた現実であっても、モザイクやぼかしでそ
 
の姿が見えないわけではない。けれど、コントラスト
 
や色調や明度は変えられている。そのフィルターをか
 
けているのはそれぞれの自分自身なので、自分さえそ
 
の気になれば即座に「現実」は見えてくる。
 
 そして「現実」を見ているときは、自分も「現実の
 
自分」になっている。観念から自由になった自分にな
 
っている。 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
  

2026年5月20日水曜日

懐かしい?

 
 
 
 私は音楽好きなので、 You Tube を開くとおすすめ
 
にいつもなにがしか音楽の動画がある。年代的に、昔
 
のシティポップや歌謡曲や AOR などが出てきて、そ
 
れを聴いたりするのだが、そういう動画のコメント欄
 
を見ると、結構な頻度で「懐かしい」という言葉が書
 
かれている。
 
 
 “懐かしい”? 
 
 
 私は“懐かしい”がわからない。 
 
 もちろん言わんとしていることはわかる。そのフィ
 
ーリングも理解はできる。けれど、私は“懐かしい”
 
という感情を持つことが無い。「なんだそれ?」とい
 
う感じがする。
 
 40〜50年前の歌謡曲やシティポップも、昔から
 
ずっと聴き続けているので、私にとってはずっとリア
 
ルタイムなのだ。“懐かしい”とは何なのか。
 
 
 音楽に限らず、昔暮らしていた町に行っても、昔の
 
知り合いに会っても、昭和の物を見ても、私は“懐か
 
しい”とは感じない。もちろん「ああ、そういうこと
 
もあったな」と記憶が蘇ったりは するけれど・・。
 
 
 “懐かしい”という言葉が使われる時、それはその
 
人にとって“済んだ事”なのだろうと思う。片や私
 
は、何も済ませていないということなのだろう。
 
 そうは言っても、当然済ませたこともいっぱい有
 
る。いまだに「仮面ライダーごっこ」をしているわけ
 
ではない。当たり前だが、そういう子供の遊びは「卒
 
業した」が、それは最早“懐かしい”などというもの
 
ではない。単なる思い出だ。
 
 
 “懐かしい”という言葉を使う人は、脱皮をするよ
 
うに生きてきたのかなと思う。人生の節目々々で、そ
 
れまでの自分は「もう古い自分」というような意識を
 
持つて、これからの自分とは切り離すのかもしれな
 
い。自分が“懐かしい”が分からないので、そのあた
 
りの感覚はよく分からないけど。 
 
 
 “懐かしい”という感覚は、過去を切るからこそ生
 
まれるものではないだろうか? リニューアルし、ス
 
テップアップするのが「成長」や「成功」だという意
 
識があって、その結果、経験した出来事は「過去」と
 
いう箱に入れられ、自分とは直接のつながりを失う。
 
“懐かしい”という感情は、そういう「つながりの無
 
さ」から生まれるものではないだろうか。 
 
 
 私は「縁起(因縁正起)」ですべてを捉える意識で
 
いるので過去を切れない。過去にこだわる気はないけ
 
れど、すべての過去の結果としていまこうしているの
 
だから、いまのこの私の中に経験した過去がすべて詰
 
まっている。だから“懐かしい”が生じないのだろう
 
と思う。
 
 
 “懐かしい”という感覚を持つことをバカにする気
 
はないけれど、「懐かしい」と言っているのを聞くた
 
びに、何か違和感を覚える。「昔関係があったけれ
 
ど、いまの自分にはあまり価値のないもの」という意
 
識があるように感じる。
 
 
 『日々新た』(2022/9)という話のときに書いたけ
 
が、「古いもの」は無い。それが物でなくても、情報
 
でしかなくても、いま伝わって来ているのならば、そ
 
れは「古くから有るもの」だ。本当に過去になったも
 
のは、情報さえ消え失せている。
 
 いま有るのならば、それは今のこととして受取るべ
 
きではないのだろうか?
 
 
 「懐かしい」と口にすることは、思いもよらず自分
 
の人生の丸ごとを粗末に扱うことかもしれない。
 
 その“懐かしい”とラベルを貼られたその事が、い
 
まある自分を成立させている一つの要素であることに
 
間違いはないのだから。
 
 
 
 
 

2026年5月11日月曜日

役立たずでもOK

 
 
 
 32歳の時、私は一旦ドロップアウトした。仕事にや
 
り甲斐が見いだせなくなって、三年間一切働かずに過
 
ごした。
 
 公園でハトに餌をやったり、山に行ったり、街をぶ
 
らぶらしたり、家で絵を描いたりしながら、目的も無
 
く先のことも考えずに過ごしていた。
 
 そんなある日、近くの駅前のベンチに座って行き交
 
う人を眺めていた時、今の自分には何の肩書も無いこ
 
とに気が付いた。強いて言うなら “神戸市民” とい
 
うぐらいのもので「ああ、自分は社会の外にいるんだ
 
な」と思い、それが面白かった。
 
 
 大抵の人は人生のほとんどの時間を肩書として生き
 
る。役割と言ってもいい、社会の中でいくつかの肩書
 
をこなしながら過ごす。学生が終われば仕事上の肩書
 
を身に着け、家庭を持てば妻や夫や父・母という肩書
 
も持つ。世の中には、同時に10や20の肩書を持っ
 
ている人さえいるが、自分にはああいう人の感覚が理
 
解できない。大抵は成り行きでそうなるのだろうけ
 
ど、たぶんそもそもそういうことが好きなのだろう。
 
私とは違う種類の人たちだ。
 
 
 生きていれば社会と関わらざるを得ないので、肩書
 
を持つことは仕方がないけれど、多くの人は肩書が無
 
いと不安になるのではないだろうか。
 
 肩書が無いということは役割が無いということで、
 
要するに “役立たず”ということになり、自己肯定
 
感が持てなくて困るだろう。定年になって、その後に
 
アルバイトなどして働く人が普通にいるが、あれは小
 
遣い稼ぎや暇つぶしというだけではなく、社会に関わ
 
らず、何もしてないと自分が役立たずのように感じる
 
からだろう。私は「別に役が立たなくても(役が無く
 
ても)いいではないか」と思うのだけど、それまでの
 
人生を肩書で生きてきた人には、役の無い自分に落ち
 
着くことなどできないのだろう。
 
 
 “肩書とは関係の無い自分” と親しむことなく生
 
きることは、自分をないがしろにすることだ。そうい
 
う生き方をする縁ならしかたがないし、それがその人
 
の人生ならそれでいいのだけど、せっかく生まれてき
 
たのだから、それはもったいないと私は思うし、たぶ
 
ん成仏できない。
 
 〈魂魄この世に留まりて・・〉ということになるだ
 
ろう。
 
 
 ホスピスで長く働く医師や看護師のインタビューを
 
何度か聞いたことがあるけれど、入所者の中には死を
 
目前にしてうろたえる人と、落ち着いて静かに死を受
 
け入れる人がいると言う。そういう話を聞くと、イメ
 
ージとしては “うろたえる人” の方が成仏できない
 
のではないか、と感じる人が多いのではないだろう
 
か。
 
 なぜそのような違いが出るのか? 私は “肩書とは
 
関係の無い自分” と親しんだかどうかの違いだろう
 
と思う。一番すべきこと、必ずすべきことをやらずに
 
生きてしまったという感覚が、あせりを生むのだろ
 
う。当人にはその感覚が何を表しているのかは分から
 
ないままで・・・。
 
 
 “肩書とは関係の無い自分” に親しむ術を養えた
 
なら、たとえ社会で役が立たなくてもかまわない。う
 
ろたえることなく、過ごして行けるだろう。そして、
 
遅いか早いかに関わらず、最期の時が来たら落ち着い
 
て “最期” へと進んで行けることだろう。   
 
 
 
 
 

2026年5月10日日曜日

明日死ぬとしたら

 
 
 
 「いつ死ぬかもしれないから、自分のしたいことを
 
しよう」
 
 「明日死ぬかもしれないから、いま自分のしたいこ
 
とをする」
 
 
 そういうことを言う人がちょくちょくいます。
 
まぁ、それはそれでいいと思いますが、こんな風な発
 
想も有ってもいいのではないでしょうか。
 
 
 「いつ死ぬかもしれないから、したいことなんか持
 
たずにいよう」
 
 「明日死ぬかもしれないから、何もしなくてもいい
 
な」
 
 
 なんとも景気の悪い話ですが、それなりに筋の通っ
 
た話ではないでしょうか。
 
 
 “したいこと” って何ですかね?
 
 なぜ「したい」んですかね?
 
 “したいこと” をしたら何か良いことが有るので
 
しょうか?
 
 
 “したいこと” って、そのほとんどは商業主義や
 
ヒロイズムに目が眩んでるだけでしょう。
 
 「価値有るものを手に入れたい」
 
 「価値有る人間になりたい」
 
 それは社会のお話しを維持する為と、社会のお話し
 
の中に自分をしっかり固定するためです。本質的には
 
自分と関係ない。
 
 まぁ、それが素直にしたいことなら特に問題はない
 
でしょう。生きていて楽しいことをするのは結構なこ
 
とです。私だって日々楽しいことをしている。が、そ
 
の素直さが自分そのものからの素直さなのか、世の中
 
に素直なのかでは全然違う。
 
 
 いちいちそんな事を区別しようなんて、素直じゃな
 
いですね。けれど「自分そのものから出てくる “し
 
たいこと” はなんなんだろう」と、よく吟味してみ
 
ることは大事なことだと思います。それは自分にとっ
 
て特に大事な “したいこと” を知っておくことだか
 
らです。そして世の中で自分が “したいこと” と区
 
別しておくと、世の中で自分が “したいこと” がで
 
きなくても、「まぁ別にいいか」と思えるでしょう。
 
「結局のところ余興だしな」という感じで。
 
 
 本当に明日何が起こるか知れません。誰でもが明日
 
をも知れぬのです。明日、生きて目覚めるかどうかわ
 
かりません。
 
 「明日死ぬとしたら、何もしなくていいんだな」 
 
 それは虚しいでしょうか?
 
 私は安らぎだと思います。
 
 肩の荷が下りる考え方だと思います。
 
 
 もちろん、日々の生活が続いて行くとして生きて行
 
くのが当然です。わざわざ世捨て人のようになる必要
 
はない。ですが、さまざまな事を「明日生きていたら
 
やろう」という姿勢で過ごすのは、気楽なものです。
 
 
 「何かをしなくても、何かにならなくても、自分は
 
自分をしているし、自分は自分であることは揺るぎな
 
いのだ」ということを踏まえていれば、明日死ぬとし
 
ても取りこぼしなどない。そうではないですか?