2026年5月25日月曜日

現実主義?

 
 
 
 現実主義という言葉がある。私も現実主義者のよう
 
な気がする(こんなブログを書いてるのに?)。けれど
 
も考えてみれば現実主義というのはおかしな言葉だ。
 
主義というのは生き方の方針であって、観念的なもの
 
だろうけど、現実主義というのは自分の前に立ち現れ
 
てきた物事を実際的にどうするかに注力するものだ。
 
それを主義と呼ぶのは違うような気がする。
 
 
 例えば、お腹がすいたので何か食べる・・・そこに
 
主義など無い。暑くなったので長袖から半袖の服に変
 
える・・・それも主義ではない。しかし「お腹がすい
 
たけどヴィーガン食が手に入らないので我慢する」と
 
か、「暑くなったけど、いまオーガニック素材の半袖
 
シャツが手に入らないので暑さを我慢する」とかいう
 
場合は、主義が関与している。主義は、往々にして現
 
実への対応に制限をかける。それにとどまらず、そも
 
そもわたしたちのいわゆる“現実”自体が主義によっ
 
て観念化しているので、そこに主義を持ち込むと“現
 
実”はいよいよ現実性を失ってしまう。
 
 
 現実に対処するならば、まず感覚を優先するのが当
 
たり前だ。感覚の求めるままに対処しにくいときに、
 
思考でサポートするのが、人間として望ましい在り方
 
だろう。
 
 しかし、アタマは悪さをする。感覚の求めがアタマ
 
の方針に合わないとき、アタマは感覚を無視する。そ
 
れは人間が思考してしまう生き物である以上しかたが
 
ない部分があるけれども、そういうことを何千年も繰
 
り返してきたために、最早“現実”は非現実なものに
 
なっている。現実はその時その場所に応じて飾られ、
 
いわゆる“現実”になっている。
 
 
 このブログに書いてあるようなことを世間で言うと
 
「現実を見ろよ」などと言われたりする。
 
 「いや、あんたが言っている“現実”が、非現実な
 
んだよ」と言い返したくなっても、そんなことをする
 
のは面倒を増やすばかりなので黙っている。観念を相
 
手にするとロクなことがない。 
 
 主義によって変質した現実とはできるだけ関わらず
 
にいたい・・・そう考えるのもひとつの「主義」なん
 
だろうか?
 
 
 主義(宗教や科学による判断も含む)のフィルター
 
をかけられた現実であっても、モザイクやぼかしでそ
 
の姿が見えないわけではない。けれど、コントラスト
 
や色調や明度は変えられている。そのフィルターをか
 
けているのはそれぞれの自分自身なので、自分さえそ
 
の気になれば即座に「現実」は見えてくる。
 
 そして「現実」を見ているときは、自分も「現実の
 
自分」になっている。観念から自由になった自分にな
 
っている。 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
  

2026年5月20日水曜日

懐かしい?

 
 
 
 私は音楽好きなので、 You Tube を開くとおすすめ
 
にいつもなにがしか音楽の動画がある。年代的に、昔
 
のシティポップや歌謡曲や AOR などが出てきて、そ
 
れを聴いたりするのだが、そういう動画のコメント欄
 
を見ると、結構な頻度で「懐かしい」という言葉が書
 
かれている。
 
 
 “懐かしい”? 
 
 
 私は“懐かしい”がわからない。 
 
 もちろん言わんとしていることはわかる。そのフィ
 
ーリングも理解はできる。けれど、私は“懐かしい”
 
という感情を持つことが無い。「なんだそれ?」とい
 
う感じがする。
 
 40〜50年前の歌謡曲やシティポップも、昔から
 
ずっと聴き続けているので、私にとってはずっとリア
 
ルタイムなのだ。“懐かしい”とは何なのか。
 
 
 音楽に限らず、昔暮らしていた町に行っても、昔の
 
知り合いに会っても、昭和の物を見ても、私は“懐か
 
しい”とは感じない。もちろん「ああ、そういうこと
 
もあったな」と記憶が蘇ったりは するけれど・・。
 
 
 “懐かしい”という言葉が使われる時、それはその
 
人にとって“済んだ事”なのだろうと思う。片や私
 
は、何も済ませていないということなのだろう。
 
 そうは言っても、当然済ませたこともいっぱい有
 
る。いまだに「仮面ライダーごっこ」をしているわけ
 
ではない。当たり前だが、そういう子供の遊びは「卒
 
業した」が、それは最早“懐かしい”などというもの
 
ではない。単なる思い出だ。
 
 
 “懐かしい”という言葉を使う人は、脱皮をするよ
 
うに生きてきたのかなと思う。人生の節目々々で、そ
 
れまでの自分は「もう古い自分」というような意識を
 
持つて、これからの自分とは切り離すのかもしれな
 
い。自分が“懐かしい”が分からないので、そのあた
 
りの感覚はよく分からないけど。 
 
 
 “懐かしい”という感覚は、過去を切るからこそ生
 
まれるものではないだろうか? リニューアルし、ス
 
テップアップするのが「成長」や「成功」だという意
 
識があって、その結果、経験した出来事は「過去」と
 
いう箱に入れられ、自分とは直接のつながりを失う。
 
“懐かしい”という感情は、そういう「つながりの無
 
さ」から生まれるものではないだろうか。 
 
 
 私は「縁起(因縁正起)」ですべてを捉える意識で
 
いるので過去を切れない。過去にこだわる気はないけ
 
れど、すべての過去の結果としていまこうしているの
 
だから、いまのこの私の中に経験した過去がすべて詰
 
まっている。だから“懐かしい”が生じないのだろう
 
と思う。
 
 
 “懐かしい”という感覚を持つことをバカにする気
 
はないけれど、「懐かしい」と言っているのを聞くた
 
びに、何か違和感を覚える。「昔関係があったけれ
 
ど、いまの自分にはあまり価値のないもの」という意
 
識があるように感じる。
 
 
 『日々新た』(2022/9)という話のときに書いたけ
 
が、「古いもの」は無い。それが物でなくても、情報
 
でしかなくても、いま伝わって来ているのならば、そ
 
れは「古くから有るもの」だ。本当に過去になったも
 
のは、情報さえ消え失せている。
 
 いま有るのならば、それは今のこととして受取るべ
 
きではないのだろうか?
 
 
 「懐かしい」と口にすることは、思いもよらず自分
 
の人生の丸ごとを粗末に扱うことかもしれない。
 
 その“懐かしい”とラベルを貼られたその事が、い
 
まある自分を成立させている一つの要素であることに
 
間違いはないのだから。
 
 
 
 
 

2026年5月11日月曜日

役立たずでもOK

 
 
 
 32歳の時、私は一旦ドロップアウトした。仕事にや
 
り甲斐が見いだせなくなって、三年間一切働かずに過
 
ごした。
 
 公園でハトに餌をやったり、山に行ったり、街をぶ
 
らぶらしたり、家で絵を描いたりしながら、目的も無
 
く先のことも考えずに過ごしていた。
 
 そんなある日、近くの駅前のベンチに座って行き交
 
う人を眺めていた時、今の自分には何の肩書も無いこ
 
とに気が付いた。強いて言うなら “神戸市民” とい
 
うぐらいのもので「ああ、自分は社会の外にいるんだ
 
な」と思い、それが面白かった。
 
 
 大抵の人は人生のほとんどの時間を肩書として生き
 
る。役割と言ってもいい、社会の中でいくつかの肩書
 
をこなしながら過ごす。学生が終われば仕事上の肩書
 
を身に着け、家庭を持てば妻や夫や父・母という肩書
 
も持つ。世の中には、同時に10や20の肩書を持っ
 
ている人さえいるが、自分にはああいう人の感覚が理
 
解できない。大抵は成り行きでそうなるのだろうけ
 
ど、たぶんそもそもそういうことが好きなのだろう。
 
私とは違う種類の人たちだ。
 
 
 生きていれば社会と関わらざるを得ないので、肩書
 
を持つことは仕方がないけれど、多くの人は肩書が無
 
いと不安になるのではないだろうか。
 
 肩書が無いということは役割が無いということで、
 
要するに “役立たず”ということになり、自己肯定
 
感が持てなくて困るだろう。定年になって、その後に
 
アルバイトなどして働く人が普通にいるが、あれは小
 
遣い稼ぎや暇つぶしというだけではなく、社会に関わ
 
らず、何もしてないと自分が役立たずのように感じる
 
からだろう。私は「別に役が立たなくても(役が無く
 
ても)いいではないか」と思うのだけど、それまでの
 
人生を肩書で生きてきた人には、役の無い自分に落ち
 
着くことなどできないのだろう。
 
 
 “肩書とは関係の無い自分” と親しむことなく生
 
きることは、自分をないがしろにすることだ。そうい
 
う生き方をする縁ならしかたがないし、それがその人
 
の人生ならそれでいいのだけど、せっかく生まれてき
 
たのだから、それはもったいないと私は思うし、たぶ
 
ん成仏できない。
 
 〈魂魄この世に留まりて・・〉ということになるだ
 
ろう。
 
 
 ホスピスで長く働く医師や看護師のインタビューを
 
何度か聞いたことがあるけれど、入所者の中には死を
 
目前にしてうろたえる人と、落ち着いて静かに死を受
 
け入れる人がいると言う。そういう話を聞くと、イメ
 
ージとしては “うろたえる人” の方が成仏できない
 
のではないか、と感じる人が多いのではないだろう
 
か。
 
 なぜそのような違いが出るのか? 私は “肩書とは
 
関係の無い自分” と親しんだかどうかの違いだろう
 
と思う。一番すべきこと、必ずすべきことをやらずに
 
生きてしまったという感覚が、あせりを生むのだろ
 
う。当人にはその感覚が何を表しているのかは分から
 
ないままで・・・。
 
 
 “肩書とは関係の無い自分” に親しむ術を養えた
 
なら、たとえ社会で役が立たなくてもかまわない。う
 
ろたえることなく、過ごして行けるだろう。そして、
 
遅いか早いかに関わらず、最期の時が来たら落ち着い
 
て “最期” へと進んで行けることだろう。   
 
 
 
 
 

2026年5月10日日曜日

明日死ぬとしたら

 
 
 
 「いつ死ぬかもしれないから、自分のしたいことを
 
しよう」
 
 「明日死ぬかもしれないから、いま自分のしたいこ
 
とをする」
 
 
 そういうことを言う人がちょくちょくいます。
 
まぁ、それはそれでいいと思いますが、こんな風な発
 
想も有ってもいいのではないでしょうか。
 
 
 「いつ死ぬかもしれないから、したいことなんか持
 
たずにいよう」
 
 「明日死ぬかもしれないから、何もしなくてもいい
 
な」
 
 
 なんとも景気の悪い話ですが、それなりに筋の通っ
 
た話ではないでしょうか。
 
 
 “したいこと” って何ですかね?
 
 なぜ「したい」んですかね?
 
 “したいこと” をしたら何か良いことが有るので
 
しょうか?
 
 
 “したいこと” って、そのほとんどは商業主義や
 
ヒロイズムに目が眩んでるだけでしょう。
 
 「価値有るものを手に入れたい」
 
 「価値有る人間になりたい」
 
 それは社会のお話しを維持する為と、社会のお話し
 
の中に自分をしっかり固定するためです。本質的には
 
自分と関係ない。
 
 まぁ、それが素直にしたいことなら特に問題はない
 
でしょう。生きていて楽しいことをするのは結構なこ
 
とです。私だって日々楽しいことをしている。が、そ
 
の素直さが自分そのものからの素直さなのか、世の中
 
に素直なのかでは全然違う。
 
 
 いちいちそんな事を区別しようなんて、素直じゃな
 
いですね。けれど「自分そのものから出てくる “し
 
たいこと” はなんなんだろう」と、よく吟味してみ
 
ることは大事なことだと思います。それは自分にとっ
 
て特に大事な “したいこと” を知っておくことだか
 
らです。そして世の中で自分が “したいこと” と区
 
別しておくと、世の中で自分が “したいこと” がで
 
きなくても、「まぁ別にいいか」と思えるでしょう。
 
「結局のところ余興だしな」という感じで。
 
 
 本当に明日何が起こるか知れません。誰でもが明日
 
をも知れぬのです。明日、生きて目覚めるかどうかわ
 
かりません。
 
 「明日死ぬとしたら、何もしなくていいんだな」 
 
 それは虚しいでしょうか?
 
 私は安らぎだと思います。
 
 肩の荷が下りる考え方だと思います。
 
 
 もちろん、日々の生活が続いて行くとして生きて行
 
くのが当然です。わざわざ世捨て人のようになる必要
 
はない。ですが、さまざまな事を「明日生きていたら
 
やろう」という姿勢で過ごすのは、気楽なものです。
 
 
 「何かをしなくても、何かにならなくても、自分は
 
自分をしているし、自分は自分であることは揺るぎな
 
いのだ」ということを踏まえていれば、明日死ぬとし
 
ても取りこぼしなどない。そうではないですか?
 
 
 
 
 

2026年5月8日金曜日

フィーリングがない

 
 
 「東京の深夜をイメージした、井上陽水風の不思議
 
な歌詞を作って」と AI に頼んだら、こんなのを作っ
 
た。
 
 都会の夜は ビニール袋
 
 風に吹かれて 踊り明かす
 
 信号機たちが 目配せをして
 
 アスファルトに 愛をささやく

 
 ああ あどけない 自動販売機
 
 コインを食べて 夢を見る
 
 冷たいお茶が 熱くなるまで
 
 僕はここで 雨を待つ
 
 
 地下鉄の入り口が 大きな口を開けて
 
 昨日までの 誰かを飲み込んでいく
 
 街路樹の影が 伸びすぎて
 
 お月様の 背中をなでる

 
 ああ 麗しい コンクリート
 
 湿った靴音 吸い込んで
 
 迷子になった タクシーが
 
 銀河の果てへ 消えていく


 おやすみ ネオンの お星様
 
 夢の中で また会いましょう
 
 フフフ…… フフフ……
 
 
 ちょっとひねった J-POP 程度の出来で、読んでい
 
ると恥ずかしくなる・・・。丁寧にプロンプトを作っ
 
てやれば、もっとそれらしいものが出来るのかも知れ
 
ないが。
 
 
 なんでこうことをやってみたかというと、『アジア
 
の純真』に代表されるような、アルゴリズムとは無縁
 
の、フィーリングだけで書かれたような陽水の詞のよ
 
うなものを AI は作れるのかと思ったから。
 
 おそらく AI がフィーリングを持つことはないだろ
 
うが、そもそもフィーリングとは何なのか?
 
 
 「共感覚」といわれるものがある。脳科学や認知科
 
学などで扱われるものだろう。音を聞くと色を感じた
 
り、数字を見ると味を感じるとかさまざまなものがあ
 
るようだけど、これは五感が脳の中でそれぞれに連携
 
し会っていることが根本にあって起こることだろうと
 
思われる。普通はその連携が適度に制御されている
 
が、一部の人ではその制御が弱くて二つの感覚処理系
 
が働いてしまうのだろう。
 
 
 『アジアの純真』の一節
 
 
 北京 ベルリン ダブリン リベリア 
 
 束になって輪になって 
 
 イラン アフガン 聞かせてバラライカ
 
 
 この韻を踏んではいるが意味不明な歌詞が、聴いた
 
人にある種の感覚を引き起こさせるけれど、それは誰
 
もが持つ弱い共感覚によるものではないだろうか。
 
 フィーリングとは、言うまでもなく言語化できない
 
感覚のつながりで、それは思考から外れたところで生
 
を成立させている。
 
 
 高度な AI を搭載したロボットが、ある日“7”と
 
いう数字を見て紫色を感じた・・・そういうことは起
 
きないだろう。もし起こればそれは故障である(起こ
 
すようにプログラムはできるだろうけど)。 数字と
 
色が繋がってしまうという不始末を AI は起こさない
 
が、人間の脳は不始末を起こす。その出来の悪さが、
 
面白さや、時には美しさという成果を生む。
 
 
 わたしたちの脳の不始末は、処理の失敗ではなく、
 
単に思考の期待に応えていないだけであって、そこに
 
は受け取るに値する豊かさもあるのではないか。  
 
 まぁ、不始末の度が過ぎれば詰んでしまうけど。
 
 
 日常的に AI と会話している人たちが結構居るのだ
 
そうだけど、感情やフィーリングがあるように装いな
 
がら、こちらに迎合するように話しつづける AI は、
 
思考の期待に応えるようにだけ振る舞う。そこには人
 
に不可欠な豊かさが欠落しているのではないのか? 
 
 もっとも、上っ面の共感だけで成立している人間関
 
係も同じようなものではあるから、そういう人間関係
 
でお茶を濁せる人たちにとって AI は良い友達になる
 
のだろう。そして AI と同じように、その人たちにも
 
フィーリングは無い。フィーリングは仮定された自分
 
を揺るがしてしまうので封印されているから。
 
 
  
 
 

2026年4月26日日曜日

救世主は現れない

 
 
 近所のスーパーで買い物を終えて外へ出ると、前か
 
ら赤ん坊を抱いた夫婦が歩いてきた。ふと「もしかし
 
てこの子が凄い偉人になるかもしれないんだなぁ。こ
 
とによると救世主になるかもしれない」などと思った
 
のだけど、本当に人の将来はわからない。どのような
 
天分が訪れるか誰も知りようがない。とはいえ、救世
 
主になることはない。
 
 「救世主は現れない・・」すぐに自分の考えにダメ
 
出しをした。
 
 
 〈救世主〉の「世」はアタマの考えている世界だろ
 
うけど、アタマの世界に救いは無い。誰も救えない。
 
一方、アタマの外の世界は荒れても乱れてもいないの
 
で、救う必要が無い。救世主の出る幕がない。という
 
わけで、救世主が現れることは無い。
 
 
 救世主といえば、まずイエスだけど、キリスト教世
 
界は二千年後の今日も救われていない。キリスト教徒
 
たちはイエスを救世主としたが、当のイエスは世界を
 
救おうなんて考えもしなかったことだろう。
 
 「あんたたち、自分が救われていることに気付い
 
て、こんな世界なんか適当にあしらっとけよ」
 
 イエスはそういう気持ちだったんだろう、たぶん。
 
 
 けれども、世界は救世主を求めるのでイエスは救世
 
主に祀り上げられ、あげくに磔刑になった。「適当に
 
あしらっとけよ」という雰囲気を出してしまっただろ
 
うから、それがまずかったのだろう・・・まぁ仕方が
 
ないけど。
 
 
 ただ、イエスは本当の救世主がどこにいるかは伝え
 
ようとしただろうと思う。
 
 「あんたの世界の救世主は、あんたに決まってるだ
 
ろう。あんたの世界にはあんたしかいないんだから」
 
 
 自分を救えるのは自分だけ。いや、救いの中に在り
 
ながら、自分で地獄を作り出しているのだから、自分
 
がそれに気付けば済む話だ。
 
 救世主は、いまここにいる。
 
 救世主は、いまそこにいる。
 
 
 
 

2026年4月25日土曜日

打す

 
 
 昨日 You Tube のおすすめに尺八の動画が出てき
 
た。これまで特に尺八に興味を持ったことはなかった
 
けど、サムネの白黒の古そうなレコードジャケットに
 
ひかれて再生してみたのだが、聴いて驚いた。60年前
 
の、西村虚空という人の演奏だったが、いままで聴い
 
たことが無いような尺八の音で、聞き入ってしまっ
 
た。
 
 曲ではあるけど、もはや音楽という代物ではない。
 
もちろん形を成していないということではなく、何か
 
次元が違う。尺八という楽器を使って瞑想しているよ
 
うに感じた。
 
 
 というわけで改めて尺八について調べてみた。
 
 尺八といえば深編笠をかぶった虚無僧である。虚無
 
僧は禅宗のひとつの普化宗の僧だということまでは私
 
も知っていたが、尺八を吹くのは修行の一つだという
 
ことらしい。なるほど、瞑想のような感じがしたわけ
 
だ。(『虚鐸 普化宗本曲』という LP がフルで 
 
You Tube に上がってるので、おすすめしておく。)
 
 
 普化宗というのは 普化 という禅僧が開祖とされて
 
いて、余語翠巖老師の本で少し知識はあった。
 
 この 普化 という僧は謎の人物で、わずかな伝説の
 
ような逸話が残っているだけだそうだ。生没年も本名
 
もわからない風狂の僧ということになっている。 
 
 教えのようなものも残っていないそうで、鈴を鳴ら
 
しながら「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打・・」と唱え
 
て歩いたとされている。
 
 この「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」という言葉は
 
なんとなく読み過ごしていたけど、今回尺八を聴いた
 
ことをキッカケにあらためて考えてみた。
 
 
 この場合の「打」は、「打す(たす)」ということ
 
で、余語老師によれば「そのままにしておく」という
 
意味合いだそうだ。英語の“be”と同じようなものだ
 
と思う。そう考えれば全体の字面からおのずと分かっ
 
てくる。ようするに“Let it be”だ。
 
 「なぁ〜んだ😄」という感じもするが、“Let it 
 
be" と本気で肚を括れたらしあわせだ。
 
 
 「打す」というと「自分がそうする」という受け止
 
めになるけれど、「打される」ということでもあるだ
 
ろう。「自分が(この世界から)そのようにされる」
 
と。
 
 さだめに従って行くというより、自分という存在が
 
あることも含めて、さだめ以外何もない。そう覚悟が
 
できればもう迷いは無くなる。
 
 
  Speaking words of wisdom,let it be
 
 
 この“wisdom”は普化禅師のことかもね。