ベネズエラの地震の被害がとんでもないね。コンク
リート造の大きな建物がいっぱい崩壊しているから、
国際的な大きな協力がなければ、あれを撤去するだけ
でも十年はかかってしまうんじゃないだろうか。被災
者がこれから辿る長い困難を思うと何も言葉が出な
い。冷淡に思わるかもしれないけれど、被災者は耐え
るしかない。自分のさだめは自分が生きるしかないか
ら。
明日、自分をどんなさだめが待っているか誰も知ら
ない。どんなさだめでも、起こることは受け止めてい
くしかない。
受け止め切れないかもしれない・・・それならそれ
で仕方がない。
死んだ方がマシだと思うほどかもしれない・・・そ
れならそれで仕方がない。
さだめを恨んで鬼のような心を持つかもしれな
い・・・それならそれで仕方がない。
自分にどうすることもできないから「さだめ」なん
だ。仕方がない。自分の思惑の出る余地は無い。
アニメの『風の谷のナウシカ』のクライマックス。
小さな女の子がババさまに訊く「みんな死ぬの?」。
ババさまが答える、「さだめならね。従うしかないん
だよ」。
現代人はあきらめを忌む。すぐに、「自分で、自分
たちの力で、困難を克服するんだ」と語る。けれど
私は、大きな困難に遭ったときはあきらめるべきだと
思う。ただし、それは捨鉢に投げ出してしまう意味で
はない。
ババさまの答えのような、「さだめを受け入れ従っ
ていく」という、深い謙虚さを持つということ。
「自分の力で・・・」という、自我が先走る形では
なくて、「さだめの導くことに自分の力を尽くしてい
く」とあきらめること。
こういう考えは消極的だと苦々しく思う人も多いこ
とだろう。でも私は、あきらめの上にこそ、人の坦々
とした強さが現れて来ると思う。地に足のついた行い
が生まれて来ると思う。
その結果、結局困難に打ち負かされてしまうかもし
れない。けれど、もうあきらめはついている・・・。
「自分で・・・」と先走っても、さだめに従って
も、しなければならないことは同じだ。
さだめに従えば、さだめが引っ張ってくれる。自分
が先に立てば、自分がさだめを引っ張らなければなら
ない(実際には無理だが)。どちらが辛いだろうか?
さだめに導かれるままに、坦々とするべきことをす
る方が楽になれるのではないだろうか?
ベネズエラの人にこんな話を届けたいと思っている
わけじゃない。こんなこと言えない。そもそも届かな
い。届いたところで受け入れてもらえない。そんなこ
とは分かっている。私の意識がニュースに反応して、
こんな話を書き出しているだけだ。過酷なさだめにど
う向き合うかを確かめようとして。
地震は信(まこと)に大変に候。野僧
草庵は何事もなく、親類中死人もなく
めでたく存じ候。うちつけに、死なば死なずに
永らえて、かかる憂きめを見るがわびしさ
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候
良寛
(地震で子を亡くした山田杜皐への手紙)
肚を括って、さしあたり生きてみるしかない。
順なる時も、逆なる時も、それしかない・・・。