「時間は存在しない」なんていう話も以前書いてい
るけれど(『〈永遠の生命〉をさしあげます!』
2017/9)、社会的には時間は重要な要素として存在し
ている。時間をムダにしてはいけないと私も思う。効
率良く物事を進めることは良いことだ。けれども、効
率の良さによって確保できる時間が、何に使われるか
ということは問題だ。
現代人は、効率よく物事を進めた結果、手に入れた
時間を時間潰しをすることに使うか、「さらに効率を
上げるためにはどうしたらよいか?」と考えることに
費やしているように見える。これほどの時間のムダは
無いと思うが、違うだろうか?
いったい何がしたいのだろう?
そんなこと考えるまでもない。
したいことなんか無いのだ。
何をしていいかわからないのだ。
何をすべきか知らないのだ。
そのことが不安を生むからとにかく何かをするだけ
だ。
効率を高めると、時間の隙間が埋まる。隙間が埋ま
ると、自分が何をすべきか分かっていないことに意識
が向く余地が無くなるので不安が減る。けれど、効率
を高めると時間が圧縮され、そのぶん時間の余白がで
きるので、そこに不安が滲み出してくる。するとその
余白を埋めるために、仕方がないので何かをして時間
を潰すが、そこに見える隙間を埋めようとまた効率を
上げる。その止むことなき人間の活動が、文化を生
み、都市を作り出した。人類史は壮大な時間のムダ使
いだ。
が、その“時間のムダ使い”の隙間からのぞく、い
わゆる「時間のムダ」とされるところに目を向ける人
たちがいる。「“時間のムダ使い”の隙間に見えるも
のなら、それはムダな時間ではないだろう」と気付く
人たち。
物と事で埋め尽くされる時間から身をかわし、時計
でカウントされるものとは違う時間に身を浸す。刻ま
れていない時間の中に在る世界を眺め、感じ取る人た
ち。そういう人たちは、時間をムダにしようがない。
時間が定量化されていないのだから。
刻まれることなく、定量化されることのない時間を
どう呼んでいいのか? 私には分からない。
言葉は分けられないものを表現できない。しかたが
なく、昔の人は苦し紛れに「空」とか「無」とか呼ん
だ。その言葉にできないものの中にわたしたちの世界
が在り、私たちが生きている。
本当は時間をムダにすることなどできない。「時
間」というもの自体がムダなのだ。社会では通用しな
い話だけれど。