2026年10月20日火曜日

視線を上げて

 
 
 
 久しぶりにゲーテの名言集を見ていたら、こういう
 
言葉があった。

 
 新聞を読まなくなってから、私は心がのびのびし
 
 実に気持ちが良いです。
 
 人々は他人のすることばかり気にかけて、
 
 自分の手近の義務を忘れがちです。

 
 最近は SNS の害が取り沙汰されることが多いけれ
 
ど、この「新聞」という言葉を「SNS」に変えれば現
 
代でも同じことだろう。

 
 メディア(クチコミも含めて)から流れて来る情報
 
のほとんどは妄想だ。事実無根という意味ではなく
 
て、“社会が作る物語”として、意図せずとも多分に
 
脚色されて届けられるものだ。
 
 社会から個人へ、個人から社会へと、フィードバッ
 
クを繰り返しながら妄想は拡大再生産されてゆき、そ
 
こに人は巻き込まれて、自分自身に目が向かなくな
 
る。そして妄想の世界の中に閉じ込められ、命のエネ
 
ルギーをあらぬ事に使わされ、ただ消耗してゆく。
 
 
 ゲーテの言葉は「手近の義務」となっている。その
 
訳が原文に相応しいのかは私には知りようがないけれ
 
ど、「義務」というより、人として暮らす上で当たり
 
前に行うべき用事といったことなのだろうと思う。
 
 
 天気の良い日に、洗濯物を干しながら味わう気分の
 
良さみたいなものは、充分に人をしあわせな気持ちに
 
させ得る。人の幸福・満足などは、そういうもので良
 
いはずなのだけれど、情報はそこに横槍を入れ、水を
 
注す。「なんだ、そんなケチなもの」と思わせてく
 
る。 「もっと凄いものを手に入れろ。動け!努力し
 
ろ!」とけしかける。

 
 それがある一定の期間のことなら、それも良いだろ
 
う、人間的なことだから。けれど、大抵それでは済ま
 
なくなる。一度流れに入ってしまうと、それに逆らう
 
ことはおおごとになる。

 
 ゲーテは新聞を読むのをやめたけれど、SNS にどっ
 
ぷり浸かっている人が、スマホをテーブルに置いて散
 
歩にでも出かけるには努力が必要だ・・・・・ん?
 
 そういうことだと、「なんだ、そんなケチなスマ
 
ホ」と思い「もっと素晴らしいものを手に入れろ。
 
努力しろ!」ってことになりがちだ。対象が変わるだ
 
けで同じ轍を踏むだけになる。
 
 流れから離れるつもりが、違う流れに乗り換えただ
 
けで、いわゆる「情報の洪水」に翻弄されているだけ
 
ではないか?

 
 スマホとかテレビとか新聞とか人のウワサとか、人
 
間のアタマが元になっているものに意識が向いている
 
内は、どうにもならない。「手近の義務」、自分に
 
とって本来的な、単純で素朴なことに目が向かなけれ
 
ば、のびのびすることはないだろう。
 
 
 評価する(される)ことから得られる喜びではなく
 
て、自分が喜びを感じられることを良いことと評価す
 
るためには、感覚に正直でいなければならない。「ア
 
タマはいつも誘導しようとするものだ」と気付いてい
 
なければならない。
 
 
 「感覚に正直に、快楽を求めて薬物に手を出すのは
 
どうなのか?」
 
 そもそも感覚に正直に暮らすことを心がけていれ
 
ば、薬物に手を出したくなるような精神状態にはなら
 
ないだろう。アタマ優先で身体と心を抑圧するから
 
(されるから)、薬物に頼ってまで精神のバランスを
 
保たなければならなくなる。そのカタチは他の依存で
 
も同じこと、SNS も変わりない。外から薬物を身体に
 
入れるか、強い刺激を使って身体の中で薬物を作るか
 
の違いだ。そして、その依存自体もアタマの誘導によ
 
るものなので、事態はさらに悪化するだけ・・・。
 
 
 新聞を読むのをやめる。
 
 SNS を見るのをやめる。
 
 それも手ではあるけれど、メディアも、その中の情
 
報も99.99% アタマの活動の産物で、その元はわたし
 
たちひとりひとりのアタマに有る。一番大事なのは、
 
自分自身のアタマのお話にまともに付き合わないこと
 
だ。
 
 
 アタマの言うことを真に受けなくなってから
 
 私は心がのびのびして実に気持ちが良いです 
 
 ・・・ 
 
 
 現代人がそこまで思えるようになるのは、なかなか
 
難しいだろうけど、自分の毎日にうんざりするような
 
日には、自分のアタマからも他人からも目をそらし
 
て、それ以外に存在しているものに目を向ける。それ
  
以外に存在しているものが、この世界にどれほどある
 
のかを確かめる・・・のびのびすることだろう。ほん
 
の少しかもしれないけどね。
 

 


2026年9月30日水曜日

”優秀な道具” 求む!

 
 
 ニデック(元 日本電産)という会社のことがニュ
 
ースになっていた。私は会社の経営のニュースとかど
 
うでもいいんだけど、9年ほど前に、この会社の当時
 
の社長(CEO)の発言について、ブログに批判を少し
 
書いているので(『タイムリミット』2017/11)ちょっ
 
と興味がある。
 
 
 会計処理の疑義や品質上の不正などいろいろな問題
 
を起こしているそうで、それがいま経営を揺るがして
 
いるという話だ。
 
 当時の社長のことをウィキペディアで調べると、
 
 “2014年10月、日本電産(現ニデック)CEOに就
 
任。11月17日に発刊された『日経ビジネス』誌におい
 
て発表された「社長が選ぶベスト社長」ランキングに
 
おいて第1位を獲得”などとあるが、それがこのてい
 
たらくである。やはり見るべき何かを見ずに来た人な
 
のだろう。
 
 
 2017年当時の発言から、私はこの人物を“経済
 
的効率からしか人を評価しない人間”のように感じ
 
た。「はじめに経済ありき」という発想の人間なのだ
 
ろうなと。
 
 そのような発想は会社の経営に適しているようでも
 
あるけれど、会社というのは“人”が働いて運営され
 
るものだ。機械か道具のように扱われると、人は望

み通りに機械や道具のように振る舞い始めて、人で

はなくなる。それではまともな運営はできまい。
 
 機械や道具になった人は倫理感や真摯さを持たない
 
・・・それが現れたのが、この度のニュースなのでは
 
ないだろうか。
 
 
 今の時代、経済抜きにして社会が動くことは最早不
 
可能だから、経済を重視しなければしようがないけれ
 
ど、効率良く経済に使われる人間になることを社会が
 
求め、それに従う人はしあわせなのか?そして、それ
 
は社会を良くするか?
 
 
 経済に使われてしまわないように「経済のことを知
 
り、経済を利用すれば豊かに楽しく暮らせる」と考え
 
る人間は多いだろうが、果たして首尾よく経済を利用
 
できるだろうか? ほとんどの場合、経済の中に埋も
 
れ、利用しているつもりで利用されてしまうだろう。
 
この度のニデックの不祥事はその一例ではないだろう
 
か? 私は「経済から距離を置き、経済を煙に巻くた
 
めにこそ、経済を知るべきだ」と思う。
 
 人は経済にために生きているのではないし、社会の
 
ために生きているのでもない。その中に入り込んでし
 
まわずに、上手に間合いを取りながら生きて行かなけ
 
れば、機械か道具になってしまう。
 
 
 社会も経済も「良い」「悪い」を知らない。
 
 社会も経済もシステムであって、それ自体は人に何
 
ももたらさない。そのシステムの中で上手くやれば、
 
まぁ面白かったりはするだろうけれど、「電車の乗り
 
継ぎがスムーズにできて気持ちが良い」という感覚と

似たようなものだろう。
 
 
 効率よく、早く、面白く、電車を利用しているだけ
 
じゃなくて、時々電車を降りて、なんなら乗るのもや
 
めて、高架沿いの焼き鳥屋でビールを飲みながら、着
 
いては出てゆく電車を眺めている・・・そんなことの
 
方が人として真っ当だろうと私は思うけど、社会と経
 
済に絡め取られた人間のアタマには、そんなことカ
 
ケラも浮かばないだろうなぁ。
 
 
 
 
 
 
 
 

2026年9月29日火曜日

人も鳴かずば撃たれまい

 
 
 前回のブログを書きながら「余計なことを口走って
 
るなぁ」と思っていた。
 
 
 「雉(キジ)も鳴かずば撃たれまい」ということわ
 
ざがありますよね。雉の鳴き声は、カタカナで「ケー
 
ン!」と表記されるような感じですが、河原や野山の
 
開けたところで、急に大きな鳴き声を上げる。そのた
 
め、自ら居所を教えることになって、人に撃たれてし
 
まうということで、人柱に関わる故事の中に出てくる
 
言葉です。
 
 人も雉に劣らずよく鳴きます。わざわざ口を出して
 
会ったこともない人間たちからボコボコにされるな
 
ど、SNS では日常茶飯事ですけど、職場や学校や家庭
 
や友達関係でも、余計なことを口走って問題を起こす
 
ことは誰でも経験します。
 
 
 雉が鳴くのは縄張りの主張の為なんでしょうが、人
 
はなぜこんなに鳴くのでしょう。
 
 『人は、なぜ喋る?』(2018/3)という回で書きま
 
したけど、わたしたちは社会の中で自分の位置を確認
 
するために喋るというのが、最も大きな理由です。他
 
に「溜まったものを捨てる」「持っているものを与え
 
る」という理由も書きましたが、雉のように鳴くのは
 
少し違うような気がします。
 
 人が鳴く行為は「溜まったものを捨てる」という面
 
もあるでしょうけど、自分にとって不快な状況を修正
 
しようという衝動か、愉快な状況を強化しようという
 
企てによるのでしょう。要するに欲張るんですね。
 
 
 黙っていればいいものを、欲にかられて差し出た口
 
をきいて墓穴を掘ってしまう。私にもいくつもの経験
 
がありますけど、本当に情けない。後で自虐的に笑っ
 
てしまえればいいんだけど、大抵はどうにか自己正当
 
化しようとしてさらに疲れてしまう・・・アタマが悪
 
い。
 
 
 わたしたちのアタマは四六時中、周りをコントロー
 
ルしようと必死です。いまの小さな欲求や、自分にと
 
っての正しさに沿うように周りを変えようとしていま
 
す。そんな努力が実を結ぶことはほとんどありません
 
し、コントロールされる側には圧が掛かるので、それ
 
が後で問題を起こすものです。ところが、コントロー
 
ルしようとすること自体が、ギャンブルのような快楽
 
をもたらすようで、「これに勝てば、大きな見返りが
 
来る」という、無意識の目算に勝てないのだと思いま
 
す。
 
 
 コントロールしようというのは、生きて行こうとす
 
る限り仕方がないことですが、アタマの最大の悪業で
 
もあります。「もっともっと」と欲求にかられて度を
 
越し、苦しみを呼び込んでしまいます。
 
 SNS で一言書き込む。聞かれてもいないのに友達の
 
話に口をはさむ・・・人も鳴かずば撃たれまい。
 
 
(こんなブログで口から出まかせを書き続けながら
 
「人も鳴かずば撃たれまい」と書いているのは滑稽で
 
すけどね)
 
 
 雉が鳴くのは雉の業ですが、自然の摂理によるもの
 
です。しかし人が鳴くのは、ただ人の業です。多くの
 
場合、エゴが出しゃばり、コントロール欲求に動かさ
 
れているだけです。
 
 
 本当に鳴く必要があるのか?
 
 いまここで声を出すことは、自分と世の中にとって
 
良いものをもたらすのか? 
 
 自分という出来損ないに、自分と世の中の何が分
 
かっているというのか? 
 
 そう自問してみれば、そうそう声を出す気にはなれ
 
ないはずなんですけど、自問する前に声が出てしまう
 
のがわたしたちの困ったところで・・・。
 
 
 やはり《沈黙の木には平和の実がなる》のです。 
 
 (『沈黙の木には平和の実がなる』2020/4) 
 
 
 
 

2026年9月28日月曜日

静穏に

 
 
 宇多田ヒカルの『 Wait & See 〜リスク〜』の歌詞
 
に 

 
  変えられないものを受け入れる力

 
  そして受け入れられないものを

 
  変える力をちょうだいよ

 

 

というフレーズがあって、昔から「良い詞だな」と思

 

っていた。ところが、先日アメリカ人の男性がほぼ同

 

じことを言っているのを聞いて、「もしかして聖書に

 

でもある言葉なのかな?」と思って調べてみると、す

 

ぐに元の言葉が見つかった。

 

 神よ、変えることのできないものを
 
 静穏に受け入れる力を与えてください。
 
 変えるべきものを変える勇気を、
 
 そして、変えられないものと変えるべきものを
 
 区別する賢さを与えてください。

 
 
 ラインホルド・ニーバーというアメリカの神学者の
 
言葉で、『ニーバーの祈り』と呼ばれて広く知られて
 
いて、宇多田ヒカルはこれを引用したようだ。
 
 良い言葉だと思う。キリスト教徒であればなおのこ
 
とだろう。特に「区別する賢さ」をまず求めるのでは
 
なかろうか。彼らには最後の審判が待っているから、
 
区別することはとても重要だろう。
 
 
 けれども実際のキリスト教世界は、ニーバーの祈り
 
も叶わず、区別することに厳密過ぎて断絶・分断を生
 
み、逆にそれを正そうとして、一方で区別することを
 
排除し過ぎて混乱を生んでいるようにも見える。「静
 
穏に受け入れる力」をもっと大事にすればいいのに
 
と、日本人の私は思う。
 
 
 こんな評論は大きなお世話だろう。日本にキリスト
 
教徒は1%ぐらいしかいないし、日本のキリスト教は
 
神道と仏教の影響を受けてしまっていて、ご本家のキ
 
リスト教世界とはかなり違う。余計なことを言うと
 
「黙ってろ」と言われそうだ。けれども、キリスト教
 
世界の混乱・断絶は日本にも影響を与える。静穏にし
 
てもらわないと迷惑する。
 
 
 日本人は「静穏に受け入れる」ことが結構得意だ。
 
大きな災害に遭っても、静かにこらえてる。
 
 伊勢神宮に参る時も、願い事は禁じられ、ただ頭を
 
下げる。「南無阿弥陀仏」と唱えて、すべてを阿弥陀
 
仏にまかせてしまう。そういう感覚が自然と染み付い
 
ているのだろう。
 
 とはいえ、これが個人の日常になってくると、なか
 
なか静穏でもない。大きな出来事を前にすれば「仕方
 
がない」とあきらめも付けやすいけれど、個人レベル
 
の小さな出来事になると変えようとする思いが前に出
 
てきやすい。「許せない」「我慢ならん」と戦闘モー
 
ドに入る。
 
 
 小さな事だからこそ「変えよう」と思うのだけれど
 
も、「小さな事なら変えなくても良い」という対応も
 
有りだ。むしろ、小さな事のために戦闘モードに入る
 
のはコスパが悪いのではないのか?
 
 「この程度のことでエネルギーを使うのはもったい
 
ないな」と静穏にしている方が賢いだろう。 
 
 
 もう一度『ニーバーの祈り』を見て見よう。
 
 
 神よ、変えることのできないものを
 
 静穏に受け入れる力を与えてください。
 
 変えるべきものを変える勇気を、
 
 そして、変えられないものと変えるべきものを
 
 区別する賢さを与えてください。
 
 
 やはり「静穏に受け入れる力」と「区別する賢さ」
 
がこの言葉のキモだろう。そこがちゃんとしてれば、
 
「変える勇気」はおのずと現れてきそうだ。
 
 
 まず「静穏に受け入れる」。静穏でなければ賢さは
 
期待できないだろうから。
 
 
 ニーバーがどのような人なのかは知らないけれど、
 
マイスター・エックハルトのように、結構仏教に近い
 
考えの持ち主だったのかもしれない・・・などと思
 
う。 
 
 
 
 
 

2026年9月19日土曜日

意味有りげ

 
 
 人類滅亡が近い(?)ということなのだが、なぜ人
 
は「人類滅亡」という言葉に耳をピクつかせるのだろ
 
う?人類が滅亡しようがしなかろうが、ひとりひとり
 
はせいぜい100年ぐらいで必ず滅亡する。「後のこと
 
はどうでもいい」という発想だって有りで、実際そう
 
考える人間も一定数いるだろう。なのに、なぜ「人類
 
滅亡」はパワーワードなのか?
 
 
 「人類」
 
 「滅亡」
 
 
 どちらも言葉のイメージとして、体積が大きいとで
 
もいうような感じがある。感じるはあるけれど、それ
 
は妄想が形作る先入観であって、言葉は言葉でしか無
 
い。「人類」も「滅亡」も、「ダンゴムシ」や「爆
 
笑」なんかと変わりはしないのに、そこにある“意味
 
有りげな感じ”が人の気持ちに引っかかってくる。
 
 
 井上陽水の『最新伝説』という曲に“ながめてみて
 
見飽きたカレンダー どことなく恐がらせの数字”
 
という歌詞がある。この曲は1998年のアルバム『九
 
段』に収録されているので、この歌詞は「ノストラダ
 
ムスの予言」を踏まえてのことだと思われる。 
 
 この例が示すように、言葉や映像には“意味有り
 
げ・恐がらせ・思わせぶり”なものがいっぱい有る。
 
人というのは、意図的にあるいは気分的にそういう言
 
葉を使いたがる。アタマはそういうのが大好きだけれ
 
ど、“意味有りげな言葉”はそれが示しているように
 
「意味が有る」わけではない。
 
 
 意味有りげな言葉を使うと、物事を深く理解してい
 
るとか、大所高所からものを見ているかのような自己
 
認識が得られるのでアタマは嬉しい。けれど、それは
 
意味有りげなだけで、必ずしも意味が有るとは限らな
 
い。言う側、聞く側が、共に都合よく深読みするだけ
 
でしかないことはよくある。「ノストラダムスの予
 
言」はその代表例だろう。
 
 
 「人類滅亡なんて妄想だ」などということを言おう
 
としているのではない。予言や予測が当たるかどうか
 
なんて、私にはどうでもいい。世界の大きな流れなん
 
て、世界の1/3の人間が変えようとしたって変えられ
 
ないだろうし、ましてや、ひと握りの数の個人が動い
 
たって何も変わらない。ただ“意味有りげ・恐がら
 
せ・思わせぶり”といった表現に気持ちを揺さぶられ
 
ることは、不快でバカバカしいから乗せられたくな
 
い(コロナ騒ぎの時もそうだった)。
 
 
 好むと好まざるとに関わらず、起こることは起こ
 
るし、起こらないことは起こらない。
 
 アタマが“意味有りげ・恐がらせ・思わせぶり”に
 
語ることに、いまこの時の“実”は無い。
 
 たとえ「明日人類が滅びる」という予言が本当に
 
なっても、「そんな・・・」と今日を恐れながら過ご
 
すと今日一日分の損だ。
 
 
 世の中へ向けて意味有りげな事を言う奴は気に入ら
 
ない。「意味の有る事(現実的な事)を言え」と思
 
う。
 
 
 このブログは、意味が有るか?現実的か?
 
 私には分からない。
 
 当人は「無意味であり、実感的」だと思っている。
 
 
 
 

2026年9月16日水曜日

アタマを笑え

 
 
 
 「AI が人類を滅ぼす可能性がある」
 
 一昨日からだったか、ネットでもテレビでもその話
 
題を何度も見る。AI 開発の先頭を走る企業の経営者
 
たちが「規制すべきだ」と言う。
 
 「はぁ?自分たちがやってるんだろう?自分たちで
 
規制すればいいだけだろ」
 
 アタマが良い奴はアホなんだな・・・と思う。
 
 
 自分たちが手を緩めると中国が先に行くから、国際
 
的な規制をすべきだという思惑なんだろうけど、実効
 
性の有る規制などできるわけがない。無責任な連中
 
だ。
 
 『大きな責任を持つ人は、無責任です』(2021/8)
 
という話を書いたこともあるけれど、世の中は無責任
 
な人間によって動いて行く。これはどうにもならない
 
ね。
 
 
 昭和の頃は「米ソ間で核戦争が起きて人類が滅亡す
 
るのではないか」という話がことあるごとに話題に
 
なっていた。今回はそれの AI 版だけれど、昭和の子
 
供である私からすれば、そんな話は1973年の『新造人
 
間キャシャーン』で半世紀前に想定済みだ(『ターミ
 
ネーター』の11年前だよ)。
 
 実際に AI が人類を滅ぼしにかかったとしても、そ
 
れはわたしたち人間のアタマの暴走の結果なので、し
 
ようがないだろう。我がアタマを呪え(笑えというべ
 
きだろうけど)。
 
 
 AI はアタマの機能を外に出したものであり、アタ
 
マのクローンだ。そのクローンの出来が良くなり過ぎ
 
て、「オリジナルの方が消されるかも」と恐くなって
 
抑えようと言う、けれど行きがかり上やめられない
 
・・・ああ〜アホくさ。
 
 
 「人類滅亡?」 
 
  もう滅亡してもいいよ。こんなバカな生き物。改
 
善の傾向は見られない。アタマが悪すぎるでしょ。
 
 
 滅びの時が数年後か、百年後か、そんなこと起きな
 
いのか知らないけど、無責任なアタマでっかちの世の
 
中は放っておいて、世界と別の場所で自分を可愛がっ
 
てやろう。世の中と無関係にしあわせになってしまえ
 
ばいい。アタマの悪い連中のせいで人類が本当に滅び
 
るのなら、右往左往させられずに安らいで過ごしてや
 
りたいものだ。(もしかしたら、その姿勢が人間を滅
 
ぼしにかかった AI のアルゴリズムに影響を与えて、
 
ブレーキを踏ませることになるかもしれないよ)
 
 
 遠慮はいらない。あいつらも無責任なんだから、わ
 
たしたちがこの社会に責任を持つ義務は無いし、わた
 
したちが恐れたところで流れは止められない。
 
 クラッシュするのか、夢の未来が拓けるのか?
 
 ひとりの野次馬になって見ていたい・・・と、私は
 
思うけどね。