久しぶりにゲーテの名言集を見ていたら、こういう
言葉があった。
新聞を読まなくなってから、私は心がのびのびし
実に気持ちが良いです。
人々は他人のすることばかり気にかけて、
自分の手近の義務を忘れがちです。
最近は SNS の害が取り沙汰されることが多いけれ
ど、この「新聞」という言葉を「SNS」に変えれば現
代でも同じことだろう。
メディア(クチコミも含めて)から流れて来る情報
のほとんどは妄想だ。事実無根という意味ではなく
て、“社会が作る物語”として、意図せずとも多分に
脚色されて届けられるものだ。
社会から個人へ、個人から社会へと、フィードバッ
クを繰り返しながら妄想は拡大再生産されてゆき、そ
こに人は巻き込まれて、自分自身に目が向かなくな
る。そして妄想の世界の中に閉じ込められ、命のエネ
ルギーをあらぬ事に使わされ、ただ消耗してゆく。
ゲーテの言葉は「手近の義務」となっている。その
訳が原文に相応しいのかは私には知りようがないけれ
ど、「義務」というより、人として暮らす上で当たり
前に行うべき用事といったことなのだろうと思う。
天気の良い日に、洗濯物を干しながら味わう気分の
良さみたいなものは、充分に人をしあわせな気持ちに
させ得る。人の幸福・満足などは、そういうもので良
いはずなのだけれど、情報はそこに横槍を入れ、水を
注す。「なんだ、そんなケチなもの」と思わせてく
る。 「もっと凄いものを手に入れろ。動け!努力し
ろ!」とけしかける。
それがある一定の期間のことなら、それも良いだろ
う、人間的なことだから。けれど、大抵それでは済ま
なくなる。一度流れに入ってしまうと、それに逆らう
ことはおおごとになる。
ゲーテは新聞を読むのをやめたけれど、SNS にどっ
ぷり浸かっている人が、スマホをテーブルに置いて散
歩にでも出かけるには努力が必要だ・・・・・ん?
そういうことだと、「なんだ、そんなケチなスマ
ホ」と思い「もっと素晴らしいものを手に入れろ。
努力しろ!」ってことになりがちだ。対象が変わるだ
けで同じ轍を踏むだけになる。
流れから離れるつもりが、違う流れに乗り換えただ
けで、いわゆる「情報の洪水」に翻弄されているだけ
ではないか?
スマホとかテレビとか新聞とか人のウワサとか、人
間のアタマが元になっているものに意識が向いている
内は、どうにもならない。「手近の義務」、自分に
とって本来的な、単純で素朴なことに目が向かなけれ
ば、のびのびすることはないだろう。
評価する(される)ことから得られる喜びではなく
て、自分が喜びを感じられることを良いことと評価す
るためには、感覚に正直でいなければならない。「ア
タマはいつも誘導しようとするものだ」と気付いてい
なければならない。
「感覚に正直に、快楽を求めて薬物に手を出すのは
どうなのか?」
そもそも感覚に正直に暮らすことを心がけていれ
ば、薬物に手を出したくなるような精神状態にはなら
ないだろう。アタマ優先で身体と心を抑圧するから
(されるから)、薬物に頼ってまで精神のバランスを
保たなければならなくなる。そのカタチは他の依存で
も同じこと、SNS も変わりない。外から薬物を身体に
入れるか、強い刺激を使って身体の中で薬物を作るか
の違いだ。そして、その依存自体もアタマの誘導によ
るものなので、事態はさらに悪化するだけ・・・。
新聞を読むのをやめる。
SNS を見るのをやめる。
それも手ではあるけれど、メディアも、その中の情
報も99.99% アタマの活動の産物で、その元はわたし
たちひとりひとりのアタマに有る。一番大事なのは、
自分自身のアタマのお話にまともに付き合わないこと
だ。
アタマの言うことを真に受けなくなってから
私は心がのびのびして実に気持ちが良いです
・・・
現代人がそこまで思えるようになるのは、なかなか
難しいだろうけど、自分の毎日にうんざりするような
日には、自分のアタマからも他人からも目をそらし
て、それ以外に存在しているものに目を向ける。それ
以外に存在しているものが、この世界にどれほどある
のかを確かめる・・・のびのびすることだろう。ほん
の少しかもしれないけどね。