2026年8月27日木曜日

無平等

 
 
 
 今日のタイトルはこのブログらしく、あざとくて意
 
地の悪そうな感じがする。
 
 「平等」「不平等」について書こうと思い立ち、手
 
始めに「タイトルをどうしようか」と考えてみるに、
 
「平等も不平等も存在しないなぁ」としか思えないの
 
でこのタイトルになった。そもそも「平等」なんて存
 
在しないですよね?
 
 
 例えば、甥の兄弟にお年玉をあげるとする。 
 
 それぞれに1万円をあげれば平等か?
 
 1万円であることは同じだけれど、兄弟ふたり、そ
 
れぞれにとって1万円の持つ価値は違うだろう。
 
 3万円のゲームを買いたい兄と、9千円のフィギュ
 
アを買いたい弟とであったなら、1万円の影響力はか
 
なり違う。「平等」というのは社会的で便宜的な概念
 
でしかなくて、それは個人の立場からすれば三者三様
 
の「そのものだけ」にならざるを得ない。そう考えた
 
時に「平等」とは何なのか?そんなもの存在するの
 
か?と思うわけです。
 
 
 社会というものは生き物ではない。一つのシステム
 
であり、そのひとつの仕組みとして「平等」という概
 
念が存在している。
 
 家庭の中で、母親が子供たちにおやつを与えるとき
 
に、「平等にね」と言った瞬間に、そこにはひとつの
 
社会が発生している。「お兄ちゃんだから、今日は我
 
慢して弟にチョコレートをあげないさいね」と言った
 
瞬間にも社会が発生している。
 
 「お兄ちゃんだから我慢しなさいね」と言ったと
 
き、お兄ちゃんにとっては「不平等」だけど、母親の
 
アタマの中では、弟を優遇することで「平等」がもた
 
らされると判断している。こういう例だけではなく
 
て、「平等」を行うと、必ず「不平等」を生んでしま
 
う。これはあらゆる局面で発生するけれど、不問に処
 
される。面倒だし、そもそも「平等」は実現不可能な
 
ので、社会はそのことを表沙汰にしたくない。
 
 
 「平等」という概念は、社会に問題を生む。
 
 では「不平等」で良いのか?
 
 どちらが先かは知らないけれど「平等」と「不平
 
等」は対概念なので、片方だけでは成立しない。「平
 
等」が問題であるなら「不平等」など出る幕も無い。
 
 「平等」「不平等」。どちらがではなくて、「平
 
等」という概念を煙に巻いた方が豊かさを生みそうに
 
感じるので、思いつきで書いた「無平等」という言葉
 
を探ってみる。
 
 
 「平等は無い」あるいは「無の平等」。
 
 
 「平等は無い」というのは「不平等」ではない。
 
「比較が無い」ということとして考えよう。
 
 働きかける側も、受け取る側も、 そのことを比較
 
なしに行い、受け取るならば、それはどのような状況
 
や想いを生むだろうか? 
 
 ただ、そのこととして流れて行く・・・そうではな
 
いだろうか?
 
 働きかける側と受け取る側の一対一だけのこととし
 
て流れて行くだろう。そこに社会は発生しない。面倒
 
な副産物を生まないだろう。では「無の平等」とは何
 
か?
 
 
 「無」を働きかけ、「無」を受け取る。あるいは
 
「無」の働きに任せて送り、「無」の働きに任せて受
 
け取る・・・それはなにか?
 
 それはたぶん「社会的な価値」ではなく、「命の示
 
す価値」にいざなわれて行い、受け取るということに
 
なるだろう。
 
 
 「命の示す価値」
 
 それはなんぞや?
 
 
 「そよ風が気持ちいいなぁ・・・」そういうことだ
 
ろう。 
 
 
 
 昨日、ネパールと中国の国境をまたいで、想像を絶
 
する規模の土石流が起きた。数千人が死んでいるだろ
 
う。世界は人間に対して何の配慮もない。
 
 「平等」「不平等」など存在しない。「気の毒」も
 
「不幸」も無い・・・けれど、人はそれを受け止めら
 
れない。「ただそういうものだ」という事実が許せな
 
い。
 
 そりゃそうだ、人間だから・・・私も「そういうも
 
のだと思え」とは言わない。けれど「そういうもの
 
だ」が真実だ。
 
 
 「平等」も「不平等」も存在しない。それはアタマ
 
が描いて、すがろうとするまやかしで、表面上の体裁
 
を繕うことはできても、その裏で面倒を増やしてい
 
る。
 
 
 「平等」「不平等」を煙に巻いたとき、人は社会も
 
煙に巻くことになる。そして世界の実際を感じる。 
 
 
 お兄ちゃんは飴を舐めて「美味しい」と思い、弟は
 
チョコレートを食べて「美味しい」と思う。そこにあ
 
るのは「美味しい」という実際だけだ。
 
 
 「平等」なんて、人間の意識から消えればいい。 
 
 もっとも本能の欲求丸出しは余計に具合が悪いけれ
 
ど・・・。 
 
 
 
 
 
 

2026年8月19日水曜日

嫌なことはしなくていいのか?

 
 
 
 “「嫌なことはしなくていい教育」が社会で通用し
 
ないことが分かってしまう W ”
 
 You Tube のサムネにそんな言葉が有った。
 
 
 内容は察しがつくので動画は観ていないが、この言
 
葉を裏返せば、「嫌なことをしなければ、社会でやっ
 
ていけない」ということだ。社会で通用しないこと
 
が分かってしまう W ”などと笑っていていいのか?
 
 
 人間が狩猟・採集で生きていたときのことを想像す
 
れば、嫌なことでも辛抱してやらなければ生きていけ
 
ないのは当然だとわかる。けれど、人が生きていくた
 
めの基本的な“嫌なこと”と、社会で通用するための
 
“嫌なこと”は違うのではなかろうか? 
 
 
 初代の貴乃花が「人間、辛抱だ」(「人生、辛抱
 
だ」だったかもしれない) と語ったという。それは
 
よくわかる。自分の望むように物事が運ぶわけじゃな
 
い。生きていれば、辛抱しなければならないことはい
 
くらでもある。けれど「嫌なことをしなければ、社会
 
でやっていけない」ということには、常に疑いの目を
 
向けておくべきではないだろうか。
 
 
 「そういうもんだから・・・」と嫌なことを受け入
 
れ、時によれば自ら身を置き、その結果得られるもの
 
が果たして自分にとって・・いや、人にとって本当に
 
良いものなのか?そこのところを不問にしたまま「人
 
間、辛抱だ」をやっていると、苦しいだけで本当は何
 
も得ていないことになりかねない。
 
 
 「嫌なことをしなければ、社会でやっていけない」
 
を続けることが、過労死・過労自殺・鬱病・パワハラ
 
などを生んでいることは間違いないはずだ。
 
 ブラック企業を揶揄するその同じ人物が、“「嫌な
 
ことはしなくていい教育」が社会で通用しないことが
 
分かってしまう W ”と言って笑っているのだろうと
 
私には思える。こういう話題で“ W ”などと言って
 
いる奴は、「するべき辛抱」と「するべきではない辛
 
抱」を見極めようなんてしていないだろう。
 
 
 社会の中の“得るべきもの”のほとんどは、「する
 
べきではない辛抱」の上に成り立っていると見てまち
 
がいないだろう。それらは失われても直接人の命を奪
 
わないものだから。
 
 ところが多くの人が、その“得るべきもの”の為に
 
ストレスを抱え、人間関係に疲弊し、身体や心を壊し
 
たり、命まで失ったりする・・・単に個々の事案だと
 
片付けずに、本質的なところに疑問を持てよと思う。
 
 
 これまで何度も書いてきたけれど、社会は人をしあ
 
わせにしない。社会は社会の為に個人を利用するだけ
 
だ。
 
 もちろん、不幸になるだけなら誰も社会の為に動か
 
なくなるので、嫌なことだけではなく飴も与える。し
 
かし、その飴は対価として見合うものなのか?
 
 本質的なことを確かめようとする人は少ない。ほと
 
んどの人のアタマは社会の統制下にある。
 
 
 「嫌なことはしない」は大事なことだ。
 
 しないことで得られないもの。
 
 しないことで得られるもの。
 
 しないことで失うもの。
 
 しないことで失わずにすむもの。
 
 何が大切なのか?
 
 
 嫌なことを拒否して社会から干される、割を食ら
 
う・・・それは確かにしんどい。私は何度も経験した
 
からよくわかる。けれどそここそが人としての辛抱の
 
しどころじゃないだろうか?
 
 ただの社会的わがままの為じゃなく、人としての本
 
質を大事にする為の辛抱は「嫌なこと」にはならな
 
い。
 
 
 こんなことを言って責任は持てないけれど、社会の
 
お話が何を与えてくれるのかを吟味すれば、誰でもう
 
なずく話じゃないだろうか。
 
 
 「嫌なこと」は嫌だ。
 
 その素直な感覚には、ちゃんと相手をしてあげるべ
 
きだろう。その上で、するのかしないのか?
 
 嫌がっているのはアタマなのか、身体なのか、心な
 
のか?
 
 身体と心を無視したら、たぶん地獄を見るだろう。
  
 
 初代貴乃花はしあわせだっただろうか?
 
 
 
 
 

2026年8月13日木曜日

後悔しない

 
 
 
 私は後悔することがない。もちろん、バカなことを
 
しでかしたら、また同じことをしでかさないように反
 
省はするけど、後悔はしない。ムダでしかないから。
 
 どう考えても後悔はムダなのに、世の中には「ああ
 
だこうだ」と後悔を口にする人が大勢いる。アタマが
 
悪いとしか思えないけれど、何か後悔することにメ
 
リットでもあるのだろうか?  考えてみてもわからな
 
い。
 
 
 「あの時、ああしておけば・・・」
 
 「あの時、あれをしなければ・・・」
 
 その言葉を吐かせるのは「今よりも良い“今”が迎
 
えられていたかもしれない」という思いなのだろう。    
 
 タイムマシーンでも発明すれば?  などと思う。
 
 
 “自分が気に入らない今”がなぜ気に入らないかと
 
いうと、自分が気に入ろうとしていないだけだ。後悔
 
というのは、自分がしたこと・しなかったことに対し
 
て思うものだけど、自分の通った道にケチを付けるの
 
は、自分が可哀想だと思わないのだろうか?自分に失
 
礼だ。
 
 
 自分に失礼な態度をとれるのは、自分が自分じゃな
 
いからではないだろうか。自分が自分なら、可哀想で
 
失礼な態度はとれないだろう。後悔する人は、自分が
 
分離している。より良い判断をできなかった自分を、
 
できることなら他人に仕立て上げて、これまでの自分
 
を肯定したいのではないか? 
 
 望ましくない自分の状況から責任逃れをするため
 
に、過去の自分を否定しようとする・・・いや、過去
 
の自分は実際に生きていた自分なのだから、そちらが
 
実際の自分だろう。今の気分で自分を否定するなよと
 
思う。
 
 
 過去にバカなことをした、過去に賢いことをしな
 
かった・・でもそれは自分なんだから、そのバカさを
 
ちゃんと引き受けて落とし前を付けてやれよと思う。
 
 
 自分のバカさも、今の面倒な状況も、自分のことな
 
んだから受け入れて、カラ元気でもいいから笑ってし
 
まう・・・自分を助けてあげなよと思う。
 
 
 私にも思い出すと苦い気持ちになることがいくつも
 
あるけれど、やってしまったことは仕方がない。後悔
 
はしない。後悔はバカバカし過ぎる。今に対して、自
 
分に対して親切じゃない。
 
 後悔できるのは、さしあたり今生きているからで、
 
それなら後悔しているその出来事は完全にアウトなわ
 
けじゃない。受け入れられる余地がある。後悔できる
 
ということが、後悔しなくても大丈夫だということを
 
証明している。
 
 
 〈後悔先に立たず〉などと言う。「後悔しないよう
 
によく考えて生きなさい」と言いたいのだろう・・・
 
くだらない。
 
 先もへったくれもない。後悔してしまうようなこと
 
をいくつもしでかすのが人間だ。「あれは間違ってい
 
なかった」と、ごまかすのはバカの上塗りだけど、
 
分のバカさも引っくるめて自分を生きていけばいいの
 
だし、そうするしかない。後悔してみせたって、自分
 
を飾ることはできない。
 
 
 〈後悔役に立たず〉 
 
 後悔するヒマがあったら、自分に親切にしてあげて
 
ほしい。
 
 
 
 
 
 

2026年8月12日水曜日

気楽で優しい傍観者

 
 
 
 ベネズエラの地震があり、熊本の地震があり、昨日
 
はコロンビアでも地震があったそうだ。次々に起こる
 
災害のニュースを考えながら、ぼんやりと「四苦八
 
苦」のことを考えていた。
 
 「生」「老」「病」「死」(四苦)
 
 「愛別離苦」
 
 「怨憎会苦」
 
 「求不得苦」
 
 「五蘊盛苦」 
 
 これらをまとめて「四苦八苦」という。 
 
 
 以前「“苦”はすべて“求不得苦”だ」という話を
 
書いたことがある。「人は“苦”に会わないことを求
 
めるけれども、それは無理だから、すべては“求不得
 
”だ」と。「それを裏返すと“拒不逃苦”だな」な
 
どと今日思った。拒んでも逃げられない。
 
 
 嫌なことはいくらでもやってくる。些細なことから
 
耐え難いようなことまで、生きている限りなくならな
 
い。些細なことなら避けることもできるけれど、避け
 
ようとすること自体が、もう既に嫌なことに行動を支
 
配されてしまっていると言える。「嫌だなぁ」と思っ
 
た瞬間に、嫌なことにほとんど主導権を握られてしま
 
う。嫌なことを拒むほど、嫌なことの影響力は大きく
 
なる。
 
 では、拒まなければいいのか?
 
 そういうわけにいかないことは誰にでもわかる。詐
 
欺電話が掛かって来て受け入れていてはバカを見てし
 
まう。ではどうするか?拒まずに拒むのが良かろうと
 
考える。

 
 「はあ?何言ってんの?」

 説明します。

 
 拒むことを拒まない。
 
 あるいは、嫌なことを拒んでいる自分を受け入れ
 
る。
 
 要するに、嫌なことに直接関わらないようにする。
 
 
 「ああ、嫌がってるなぁ」 
 
 「かなり、拒んでるなぁ」 
 
 
 そんな風に、嫌がったり拒んだりしている自分を傍
 
観する。
 
 
 
 私は座禅をしないけれど、澤木興道老師や余語翠巖
 
老師の本を読み続けて、曹洞宗の座禅が「只管打坐」
 
というものだとは知っている。
 
 ただ座る。無になろうとか、悟りを開こうなどとし
 
ない。アタマが様々な妄想をしても、そのままにさせ
 
ておき、ただそれを眺めている。それと同じことを、
 
生活をしながら、暮らしながら行う。“泣いたり笑っ
 
たり怒ったりしている自分”を眺めている自分が在る
 
ことを忘れない。
 
 
 世の中でいろんな事件や災害が起こるけれど、傍観
 
者は気楽なものだ。辛い目に遭っている人を見ると、
 
自分も辛くなったりするけれど、それでも傍観者は当
 
事者とは違うし、むしろ気楽でいるべきだ。
 
 
 OSHO(ラジニーシ)がこんなことを言っている。


 世界はまさに 悲しみの中にある
 
 惨めさの真っただ中にある
 
 人々のハートには計り知れない苦悩がある
 
 だが、あなたがそのことで悲しむ必要はない
 
 理由は簡単だ   
 
 悲しむことによって あなたも彼らの仲間に入り
 
 さらに悲しみをつくり出すだけだからだ
 
 それでは助けにならない
 
 
 それはまるで人の病気を見て
 
 自分も病気になるようなものだ
 
 あなたが病気になっても
 
 病人を健康にすることはできない
 
 
 (中略)
 
 
 あなたはできるかぎり
 
 喜びに満ちていなければならない 
 
 人々を救うのは悲しみではなく喜びだからだ
 
 あなたは明るくなければならない
 
 この悲しい世界にあっても楽しめるということを
 
 人々に知らせる必要がある・・・・
 
 
          『ゴールド・ナゲッツ』より 
 
 
 一人の人間の中でも同じことだ。アタマが怯え、嘆
 
き悲しむ時、ハートも一緒に嘆き悲しんでいては救わ
 
れない。ハートは落ち着いた傍観者で在るべきだ。そ
 
してそれは可能なんだから。
 
 
 かと言って、人が泣いている時にヘラヘラ笑ってい
 
てもいけない。沢木老師はこう言う。
 
 
 仏というものは一切衆生と付き合いをせねばならぬ
 
 人が子供を亡くした時には
 
 オーオーと(泣いて)付き合わねばならぬ
 
 「おれはグループ呆けせん」(おれは悟ってる)と
 
 付き合いをしないのはダメである
 
         ・・・
 
 菩薩というのは悟りながら迷ってやるのである
 
 「ワシは悟っている。凡夫は勝手に迷え」
 
 というのではない
 
 凡夫と一緒に迷うてやるのだから
 
 菩薩行というのは広大無辺である
 
 
               『禅に聞け』より 
 
 
 苦悩する自分のアタマも、悲しむ誰かのアタマも、
 
バカにしてはいけない。それは現に有って、人間らし
 
いものなのだから。けれどそれと一緒になって苦しむ
 
のは賢いことではない。OSHO の言うように、病人が
 
一人増えるだけだから。
 
 
 「おれは悟った。悲しみも喜びも無用だ」
 
 そんな人間はさっさと墓に入ればいいのだ。
 
 生きているのなら、感情があることを尊ばなければ
 
生きてる値打ちがない。
 
 
 悲しい出来事に出逢えば泣く、腹立たしい出来事に
 
は怒る・・・けれど、そうありながらも落ち着いた傍
 
観者が自分の中に在って、目の前で泣いている人の中
 
にもそれが在ることを、気付いていなければいけな
 
い。
 
 
 「あわてる必要はない。泣くのも無理はない。け
 
ど、いつか一緒に笑おうな」と、自分にも人にも心の
 
中で語りかける・・・。気楽で優しい傍観者である自
 
を忘れてはいけない。
 
 
 
 
 

2026年8月9日日曜日

核兵器廃絶は可能か?

 
 
 
 今日は8月9日で、長崎で平和祈念式典が行われて
 
いた。テレビではコメンテーターが核廃絶について意
 
見を言ったりと、毎度おなじみの光景だったけれど、
 
最近は一部の政治家が「日本も抑止力として核を持つ
 
ことを考えるべきだ」という意見を言うようになっ
 
た。タブーが破られてきたなと思う。
 
 核廃絶を唱える側から容認派を見ると「人でなし」
 
なんだろうし、容認派から否定派を見ると「あたまの
 
中お花畑」ということで、両派の間の溝が埋まること
 
はないだろう。けれど私は、両方とも双子の兄弟みた
 
いなものではないかと思う。
 
 
 核廃絶を訴える人は、なぜ核廃絶を望むのか?
 
 殺されるのが怖いからだろう。
 
 それは当然のことだと思う。
 
 
 抑止力として核武装することを訴える人は、なぜ核
 
武装を望むのか? 
 
 やはり殺されるのが怖いからだろう。
 
 それも当然のことだと思う。
 
 
 拒絶する人も容認する人も元は同じであって、その
 
対処方が真逆なだけだ。そしてその真逆も、背中合わ
 
せで紙一重だろう。
 
 
 
 「核兵器は恐ろしい。無い方がいい」 
 
 普通の神経の人なら誰だってそう思う。その素直な
 
感覚は大事だけれど、「核兵器は恐ろしい」という感
 
覚があるがゆえに、核兵器を無くすことは不可能だ。
 
 「奴らは核兵器を持ってる。恐ろしい。我々も持た
 
ねば攻撃されるかもしれない」それも素直な感覚だか
 
ら。
 
 
 現在、核兵器を「持っている」「持っているだろ
 
う」「持とうとしている」というのを合わせて11カ
 
国なんだそうな。仮にそれらの国が核廃絶に合意して
 
「すべて廃棄しました」と表明したところで、お互い
 
に信じるだろうか?アメリカ・ロシア・中国の国土は
 
広い。少しぐらい隠し持っていても分からない・・・
 
そういう疑念が拭えない限り、どの国も核兵器を無く
 
さないだろうし、その疑念を払うことは不可能だ。
 
 
 人を行動させる最も強い動機は「恐れ」だ。そし
 
て、人を恐れさせる大きなものは「疑い」だ。
 
 核兵器廃絶を訴えるのも、核兵器に頼ろうとするの
 
も、人が「恐れ」と「疑い」に揺さぶられる存在であ
 
ることを象徴している。両者がどこかで手を打って合
 
意することは無いだろう。互いに「人でなし」「お花
 
畑」と揶揄し続けるだろう。ただ「恐れ」と「疑い」
 
から生まれた兄弟のような存在だということは、互い
 
に認識しておくべきだろうと思う。具体的には不可能
 
だと思うけれど、人間が核の問題から解放されるとし
 
たら、そこにしか突破口はないはずだ。
 
 
 誰もが、怖がりで、人を信じられなくて、強がりで
 
ある限り、核兵器も戦争もなくならない。
 
 
 「そんなこと言ってるアンタはどう思うの?」
 
 と疑問を持たれるかもしれない。
 
 私は「知らんがな。勝手にやってれば?」思ってい
 
る。私に解決策は思い付かないから。ただ、現実とし
 
て尋ねられれば「日本も持ってていいんじゃない?い
 
まさら、核兵器を無くすなんて不可能としか思えない
 
んだから」と答えるだろう。
 
 
 「原爆」という言葉はとても強い。その強さは、人
 
間がやる他の醜悪な事を陰に隠してしまいがちにな
 
る。原爆より焼夷弾の方が遥かに多くの犠牲者を出し
 
たことは、あまり話題にされない。原爆は一瞬でとて
 
つもない破壊と殺戮を行うけれど、その開発のコスト
 
は大きい。焼夷弾と原爆では、作るときに手間か、使
 
う時に手間か、の違いであって、狂気の道具であるこ
 
とでは同じだ(放射能の問題はあるけれど)。

 
 死を怖れ、免れようとして人は武器を作るけれど、
 
その武器の存在がさらに死を想起させる。堂々巡りは
 
終わらない。終わらせたいのなら、死を捉え直して、
 
怖れを払拭するしか手はないだろうけれど、そんなの
 
ごく一部の人にしか無理だろう。

 
 「核兵器廃絶」
 
 もちろん私もそれを望む。
 
 しかし、人が死を怖れる存在である限り、それは叶
 
わないだろう。核兵器が恐ろしいが故に、核兵器は無
 
くならない。核兵器が意味を持たなくなるような、さ
 
らなる脅威の兵器が生み出されれば核兵器は用なしに
 
なるだろうけれど、その時には「怖れ」どころか「絶
 
望 」がもたらされることになるのだろうな。
 
 アタマが悪い・・・。 
 
 
 
 
 

2026年7月10日金曜日

あきらめなかったから

 
 
 
 10年前に亡くなったシンガーソングライターで村田
 
和人という人がいる。山下達郎らが音楽制作に関わっ
 
ていた人で、80年代にはそこそこ売れていた。当時の
 
ミュージックシーンでは中堅的な立ち位置と言えばい
 
いのだろう。大ブレイクする実力があったと思うけれ
 
ど、売れる売れないはタイミングと運が大きく作用す
 
る。ビッグネームにはなれなかった。
 
 キャッチーな良い音楽を作る人で、私もベスト盤を
 
一枚持っているが、私が村田和人を聴き始めるきっか
 
けになったのが『Stay The Young』という曲で、いま
 
でも年に1〜2回は聴く好きな曲だ。今日も、久しぶり
 
に聴いていて「あきらめる」ということについて思っ
 
たことがあった。
 
 
 曲の中で「涼しい顔してあきらめるのが 上手な生
 
き方には思えない」と歌われる。夢をあきらめること
 
についての歌なんだけれど、よくある「夢を追いかけ
 
ろ」みたな曲とは少し趣が違う感じのする曲だ。
 
 曲の中で歌われる「夢」というのが、社会的な評価
 
を受けることよりも、自分で自分を評価できる生き方
  
に寄っているように感じる。「社会の枠にハマって、
 
自分をあきらめていないか?」と問いかけているよう
 
に思える曲だ。
 
 
 このブログでは、社会的な評価を得ることに拘泥す
 
ることを批判的に書いてきた。それは違わないし、
 
「あきらめる」ということも、誰もがしなければなら
 
ないことだと思っている。なにしろ「生をあきらめ、
 
死をあきらむるは、仏家一大事の因縁なり」だ。人は
 
皆あきらめるべきだ。
 
 
 そんな風な考え方の私が何故この曲を好きなのか?
 
今日、それを考えたのだけれど、答えは先ほど書いた
 
ことの中にある。
 
 “「あきらめる」ということは、誰もがしなければ
 
ならないこと”だから、「あきらめること」をあきら
 
めてはいけないという話です。
 
 若い時から「あきらめること」が私の夢だった。詭
 
弁のように聞こえるかもしれないけれど、本気でそう
 
思っていたのです。
 
 
 「この世の中はおかしい。関わっていると何かを間
 
違える」
 
 そういう感じが消せない私は、世の中で評価される
 
こと(夢)を疑い、そこから離れようとした。
 
(こうして書いてみると、ほとんど仏道修行ですね。
 
こういうのを「在家の出家」という) 
 
 
 作詞は安藤芳彦という人で、本人の作詞の意図はわ
 
からないけれど、私には単純に「夢を追いかけろ」と
 
いうようには聞こえない。でも、この曲を好きな人の
 
ほとんどは「何かを成し遂げる夢をあきらめるな」と
 
受け取っていることだろう。言葉というのは受取る人
 
次第で全然違う意味を持つ。
 
 
 「夢をあきらめることが、夢だ」という、なんとも
 
ひねくれまくった人間に気に入られては、村田和人さ
 
んも苦笑いするしかないだろうけれど、病気によって
 
音楽活動(人生)を終わらざるを得なかった村田さん
 
にとって、最期に夢をあきらめることは、涼しい顔で
 
死を迎えるために必要だったはずだ。
 
 もちろん涼しい顔で死ぬ必要もない。
 
 涼しかろうが苦しかろうが、それが自分の人生なら
 
それでいいのである。それこそが「あきらめること」
 
だ。 
 
 
 『Stay The Young』はとても良い曲です。
 
 興味があれば聴いてみて