ベネズエラの地震があり、熊本の地震があり、昨日
はコロンビアでも地震があったそうだ。次々に起こる
災害のニュースを考えながら、ぼんやりと「四苦八
苦」のことを考えていた。
「生」「老」「病」「死」(四苦)
「愛別離苦」
「怨憎会苦」
「求不得苦」
「五蘊盛苦」
これらをまとめて「四苦八苦」という。
以前「“苦”はすべて“求不得苦”だ」という話を
書いたことがある。「人は“苦”に会わないことを求
めるけれども、それは無理だから、すべては“求不得
苦”だ」と。「それを裏返すと“拒不逃苦”だな」な
どと今日思った。拒んでも逃げられない。
嫌なことはいくらでもやってくる。些細なことから
耐え難いようなことまで、生きている限りなくならな
い。些細なことなら避けることもできるけれど、避け
ようとすること自体が、もう既に嫌なことに行動を支
配されてしまっていると言える。「嫌だなぁ」と思っ
た瞬間に、嫌なことにほとんど主導権を握られてしま
う。嫌なことを拒むほど、嫌なことの影響力は大きく
なる。
では、拒まなければいいのか?
そういうわけにいかないことは誰にでもわかる。詐
欺電話が掛かって来て受け入れていてはバカを見てし
まう。ではどうするか?拒まずに拒むのが良かろうと
考える。
「はあ?何言ってんの?」
説明します。
拒むことを拒まない。
あるいは、嫌なことを拒んでいる自分を受け入れ
る。
要するに、嫌なことに直接関わらないようにする。
「ああ、嫌がってるなぁ」
「かなり、拒んでるなぁ」
そんな風に、嫌がったり拒んだりしている自分を傍
観する。
私は座禅をしないけれど、澤木興道老師や余語翠巖
老師の本を読み続けて、曹洞宗の座禅が「只管打坐」
というものだとは知っている。
ただ座る。無になろうとか、悟りを開こうなどとし
ない。アタマが様々な妄想をしても、そのままにさせ
ておき、ただそれを眺めている。それと同じことを、
生活をしながら、暮らしながら行う。“泣いたり笑っ
たり怒ったりしている自分”を眺めている自分が在る
ことを忘れない。
世の中でいろんな事件や災害が起こるけれど、傍観
者は気楽なものだ。辛い目に遭っている人を見ると、
自分も辛くなったりするけれど、それでも傍観者は当
事者とは違うし、むしろ気楽でいるべきだ。
OSHO(ラジニーシ)がこんなことを言っている。
世界はまさに 悲しみの中にある
惨めさの真っただ中にある
人々のハートには計り知れない苦悩がある
だが、あなたがそのことで悲しむ必要はない
理由は簡単だ
悲しむことによって あなたも彼らの仲間に入り
さらに悲しみをつくり出すだけだからだ
それでは助けにならない
それはまるで人の病気を見て
自分も病気になるようなものだ
あなたが病気になっても
病人を健康にすることはできない
(中略)
あなたはできるかぎり
喜びに満ちていなければならない
人々を救うのは悲しみではなく喜びだからだ
あなたは明るくなければならない
この悲しい世界にあっても楽しめるということを
人々に知らせる必要がある・・・・
『ゴールド・ナゲッツ』より
一人の人間の中でも同じことだ。アタマが怯え、嘆
き悲しむ時、ハートも一緒に嘆き悲しんでいては救わ
れない。ハートは落ち着いた傍観者で在るべきだ。そ
してそれは可能なんだから。
かと言って、人が泣いている時にヘラヘラ笑ってい
てもいけない。沢木老師はこう言う。
仏というものは一切衆生と付き合いをせねばならぬ
人が子供を亡くした時には
オーオーと(泣いて)付き合わねばならぬ
「おれはグループ呆けせん」(おれは悟ってる)と
付き合いをしないのはダメである
・・・
菩薩というのは悟りながら迷ってやるのである
「ワシは悟っている。凡夫は勝手に迷え」
というのではない
凡夫と一緒に迷うてやるのだから
菩薩行というのは広大無辺である
『禅に聞け』より
苦悩する自分のアタマも、悲しむ誰かのアタマも、
バカにしてはいけない。それは現に有って、人間らし
いものなのだから。けれどそれと一緒になって苦しむ
のは賢いことではない。OSHO の言うように、病人が
一人増えるだけだから。
「おれは悟った。悲しみも喜びも無用だ」
そんな人間はさっさと墓に入ればいいのだ。
生きているのなら、感情があることを尊ばなければ
生きてる値打ちがない。
悲しい出来事に出逢えば泣く、腹立たしい出来事に
は怒る・・・けれど、そうありながらも落ち着いた傍
観者が自分の中に在って、目の前で泣いている人の中
にもそれが在ることを、気付いていなければいけな
い。
「あわてる必要はない。泣くのも無理はない。け
ど、いつか一緒に笑おうな」と、自分にも人にも心の
中で語りかける・・・。気楽で優しい傍観者である自
分を忘れてはいけない。