2026年4月25日土曜日

打す

 
 
 昨日 You Tube のおすすめに尺八の動画が出てき
 
た。これまで特に尺八に興味を持ったことはなかった
 
けど、サムネの白黒の古そうなレコードジャケットに
 
ひかれて再生してみたのだが、聴いて驚いた。60年前
 
の、西村虚空という人の演奏だったが、いままで聴い
 
たことが無いような尺八の音で、聞き入ってしまっ
 
た。
 
 曲ではあるけど、もはや音楽という代物ではない。
 
もちろん形を成していないということではなく、何か
 
次元が違う。尺八という楽器を使って瞑想しているよ
 
うに感じた。
 
 
 というわけで改めて尺八について調べてみた。
 
 尺八といえば深編笠をかぶった虚無僧である。虚無
 
僧は禅宗のひとつの普化宗の僧だということまでは私
 
も知っていたが、尺八を吹くのは修行の一つだという
 
ことらしい。なるほど、瞑想のような感じがしたわけ
 
だ。(『虚鐸 普化宗本曲』という LP がフルで 
 
You Tube に上がってるので、おすすめしておく。)
 
 
 普化宗というのは 普化 という禅僧が開祖とされて
 
いて、余語翠巖老師の本で少し知識はあった。
 
 この 普化 という僧は謎の人物で、わずかな伝説の
 
ような逸話が残っているだけだそうだ。生没年も本名
 
もわからない風狂の僧ということになっている。 
 
 教えのようなものも残っていないそうで、鈴を鳴ら
 
しながら「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打・・」と唱え
 
て歩いたとされている。
 
 この「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」という言葉は
 
なんとなく読み過ごしていたけど、今回尺八を聴いた
 
ことをキッカケにあらためて考えてみた。
 
 
 この場合の「打」は、「打す(たす)」ということ
 
で、余語老師によれば「そのままにしておくという意
 
味合いだそうだ。英語の“be”と同じようなものだと
 
思う。そう考えれば全体の字面からおのずと分かって
 
くる。ようするに“Let it be”だ。
 
 「なぁ〜んだ😄」という感じもするが、“Let it 
 
be" と本気で肚を括れたらしあわせだ。
 
 
 「打す」というと「自分がそうする」という受け止
 
めになるけれど、「打される」ということでもあるだ
 
ろう。「自分が(この世界から)そのようにされる」
 
と。
 
 さだめに従って行くというより、自分という存在が
 
あることも含めて、さだめ以外何もない。そう覚悟が
 
できればもう迷いは無くなる。
 
 
  Speaking words of wisdom,let it be
 
 
 この“wisdom”は普化禅師のことかもね。 
 
 
 
 

2026年4月21日火曜日

固まったアバター

 
 
 
 一般的な感覚からすると、私は世の中とはほとんど
 
関わらずに暮らしているけど、当然ながら完全に無関
 
係にはなれない。自分が拒んでも世の中の方から関わ
 
ってくるので、仕方なく付き合う。
 
 
 以前に書いたこともあるけれど、世の中と関わるた
 
めには、エゴが必要だ。エゴイストになるという意味
 
ではなくて、世の中に対して自分の立場というものを
 
形作らなければ、関わりが持てない。泥の上に物を置
 
けば傾いてしまうように、自分というものが定まって
 
いないと、世の中の方がこちらと関われないので自分
 
を固める。その固まってみせたイメージが、ここで
 
言っているエゴで、そのエゴと世の中というエゴの集
 
まりとで、社会的に求められる作業が行われることに
 
なる。
 
 
 私はエゴなど持ち出したくないのだけど、世の中と
 
関わるにはしようがない。生活ができなくなると元も
 
子もないからエゴを立てるが、エゴは区別と否定と防
 
衛が仕事のようなものなので、どうしても気持ちが荒
 
れてくる。ストレスが溜る。
 
 
 「ぬかに釘」「のれんに腕押し」
 
 自分が固まっていなければ、外からの作用が自分を
 
傷付けることはできない。私はできるだけグニャグ
 
ニャでいたいのだが、生きているとそうもいかない。
 
愚痴を言うのは馬鹿らしいので、固まっている自分を
 
いかにして面白がるかに想いを巡らせて、生活のやり
 
くりをする。
 
 
 グニャグニャで決まった形のない存在。それが人間
 
の本質だ。けれど人と人は、関わり合うためにお互い
 
に形を求めるので、わたしたちは自分という形を持
 
つ。エゴを持つ。その結果何が起こるかは、誰でも実
 
体験としてよく知っている。エゴは自分を苦しめる。
 
他者も苦しめる。良いことはあまりないが、無くても
 
困る。
 
 どう見ても困っている部分の方が大きいけれど、人
 
はエゴが自分そのものだと思いこんでいるので、まと
 
もに苦しみ続ける。
 
 
 「ぬかに釘」「のれんに腕押し」「馬耳東風」
 
 こういう言葉は性格の悪さを表すために使われるこ
 
とが多いけれど、私はこういう在り方を上手に現して
 
生きるのは素晴らしいと思う。
 
 エゴを守るためにこういう態度をとると、ただの嫌
 
な奴でしかないが、エゴが仮のものでしかない場合
 
は、自然とこういう在り方になり「ものごしが柔らか
 
い」ということになる。
 
 
 立ち上げたエゴを守ろうとして、カチカチに自分を
 
固めるほど、人は傷付き、他者も傷付けるけれど、人
 
はエゴを守ろうとすることをやめない。エゴが自分だ
 
と思っていてはやめられるはずがない。「自分が壊れ
 
る、無くなってしまう」と感じるから。 
 
 でも、エゴは世の中と関わるための仮のものでしか
 
ない。ネット上のアカウントやアバターのようなもの
 
だ。現実の世の中は「リアル」と表現されるが、現実
 
も「お話し」で出来ているし、そこで活動するエゴも
 
やはりアバターだ。
 
 
 アバターの背後にいる本当の自分。
 
 得体の知れない自分。
 
 エゴから振り返れば、それはなんだかわからない気
 
味の悪いものに感じる。エゴは嫌がるけれど、世の中
 
の自分というアバターに実体を与えたままでは、苦し
 
み続けるだけになる。
 
 
 グニャグニャの柔らかい自分。
 
 「お話し」とは関係のない自分。
 
 自由でとことんお気楽な自分。 
 
 それは、いつどこにいても、ここに存在している。
 
 

 
 
 
 

2026年4月19日日曜日

桜の花が散って

 
 
 
 我が家の横のヤマザクラも近くの公園の桜も、完全
 
に花を散らし、桜の季節はもう終わった。今は若葉が
 
透明感のある葉を大きく広げている。
 
 私は植物が大好きな人間なので、花の後も桜の様子
 
をうかがうけれど、世間一般の人たちは花の終わった
 
桜など見向きもしないようだ。
 
 それは単に植物に興味が無いということではなく
 
て、イベント的に人生を過ごしているからではないの
 
だろうか。
 
 社会に承認されているイベント(ポジティブなもの
 
もネガティブなものも)からイベントへと、スキップ
 
するような日々を過ごしているんじゃないのだろう
 
か?

 
 例えば結婚にしても、多くの男女が“結婚式”を結
 
婚だと思っているのじゃないのか? その後の生活は
 
“結婚の後始末”のように思っているんじゃないのか
 
と、昔から私は訝しんでいる。
 
 本質よりも、そのものに貼られているラベルを重要
 
視しているように思える。誰もがブランド物を欲しが
 
るのもそういうことだろう。
 
 
 “なんでもないようなことがしあわせだったと思
 
う”というのは虎舞竜の『ロード』の歌詞だけど、し
 
あわせかどうかはともかく、なんでもない日々や出来
 
事が生きていることの本質であるのは当然だろう。む
 
しろイベント的な事は、いわばイレギュラーとも言え
 
る。
 
 人が付加価値に多くのお金を払うことが如実に表し
 
ているように、わたしたちは普通の事を軽んじる。そ
 
れは普通の事は普通であるが故にお話しとして立ち上
 
がってこないから。普通の事をお話しとして立ち上げ
 
るには、普通を成立させている不可思議に気付ける才
 
能が必要だからなんだろう。
 
 
 普通の事を成立させている不可思議さに気付くため
 
に、まずは歴史を遡る必要がある。
 
 
 インターネットが登場する前の世界。
 
 自動車が発明される前の世界。
 
 石炭が使われ始める前の世界。 
 
 鉄で物が作れるようになる前の世界。
 
 農耕が始まる前の世界。
 
 人間が言語を使い始める前の世界。
 
 人間という種が誕生する前の世界。
 
 地球が出来る前の世界。
 
 
 そのようにして時代ごとの“普通”の違いを意識し
 
た上で、もう一度いまに戻って確かめる。自分がいま
 
息をしているという、不可思議と言うしかない“普
 
通”。
 
 
 なんでもない一日の中でも、わたしたちは印象に残
 
る事をつなぎ合わせて一日を記憶する。けれど、その
 
印象的な出来事は、記憶に残らない当たり前のことの
 
上に付加される。
 
 なんでもないことこそが命の本質だ。 
 
 いま生きていることが「なんでもない」と思えてし
 
まうということは、途轍もないことではないのか? 
 
 日々を暮らすということ自体がとんでもないイベン
 
トだろう。
 
 
 「運水搬柴是神通」
 
 (水を運び柴を搬ぶことは神通だ) 
 
 という禅の言葉がある。 
 
 当たり前のことが当たり前に起きているということ
 
を突き詰めて考えれば、誰も説明し切れない。この命
 
は思考や価値観の及ばぬ何かによって成立している。
 
 
 一枚の桜の葉が風に揺れていることを誰も説明し切
 
れない。
 
 それを、言葉を飲み込んで見入るしか仕方がない光
 
景だと感じられるのは、幸運なことだろうと思う。
 
 
 
 
 
 

  
 
  
 

2026年4月16日木曜日

無力

 
 
 生きていると誰でも自分の無力さに心が折れそうに
 
なることがあるだろう。もしかしたら途轍もなく有能
 
で「そんなことを思ったことなどない」という人もい
 
るかもしれないが、たぶんその人はサイコパスだと思
 
う。できると踏んでいたことや、不安ながらもやらざ
 
るを得ないことに行き詰まり、挫折することは誰しも
 
が経験する。
 
 
 「自分には力が無い」
 
 
 そのように挫折するとき、自分の無力さを認めて、
 
「無の力」に自分を預ければ楽になる。
 
 「自分がやる」「自分がしなければ」と拳を握りし
 
めるような思いを手放して「無の力」に従う。
 
 
 『無・責任』(2024/4/14)『無心に・・・』
 
(2024/3/25)という話を書いたこともあるけれど、
 
わたしたちは〈無〉に動かされている。わたしたちだ
 
けでなく、この世界のすべてが〈無〉に動かされてい
 
る。人の思考や、そこに形作られる意味には収まらな
 
い働きによって動かされている。思考も意味も無い働
 
きだから〈無〉と呼ぶのがふさわしいような力に。
 
 
 考え、意味付けして、何かを成し遂げようとして行
 
き詰まるなら、考えと意味付けを手放してみるべき
 
だ。そのとき「無の力」が表に出て働き始める。
 
 もちろん、その働きの結果は当初目的にしていたも
 
のにはならない。想像すらしなかった所へたどり着く
 
ことになるかもしれない。けれど、必ず“落ち着き”
 
へと着地するだろう。人を落ち着かせなくするのは、
 
わたしたちの、考え、意味付けだからだ。
 
 
 社会やアタマの求めるもののために、自分の落ち着
 
きを犠牲にするのは良い取り引きではないだろう。
 
 生まれた時から、アタマの右往左往の背後で「無の
 
力」が自分を支えて来た。それは謙虚に振り返れば自
 
明のことだ(そのはずだが・・・)。 
 
 
 自分(アタマ)は無力
 
 無力(無の力)こそが自分
 
 
 
 
 
  

2026年4月12日日曜日

のらりくらり

 
 
 
 前回ブログを書書き終えて、〈公開〉のボタンをポ
 
チッとして画面が切り替わったら、投稿の件数が901
 
になっていた。
 
 へぇ〜〜、と我ながら感心する。よくまあ口から出
 
まかせを900回も書いてきたもんだ。「継続は力な
 
り」という慣用句があるけど、このブログには力など
 
無かろう。「継続はなりゆきなり」というのが実情を
 
表していると思う。ただ、私は“なりゆき”というも
 
のをとても大事に考えているので、ほのかな自慢のよ
 
うな気持ちも無いではない・・・こんな、のらりくら
 
りとした言い回しは嫌われるかもしれないけれど、自
 
分に正直に表現するとこうなってしまう。
 
 
 思うに、“なりゆき”も大事だと思うけど、“のら
 
りくらり”も重要だ。ものごとをハッキリさせずに受
 
け止めたり、受け流したりしていくことは、生き方の
 
根本技法とでもいうものではないだろうか。
 
 世の中というものは、とかく「白黒付けろ!」と圧
 
をかけてくるものだ。◯か✕か二者択一を迫る。しか
 
し物事はそんなに単純じゃないのが当たり前だ。いろ
 
いろと複雑なのが普通だが、複雑なまま抱えていると
 
しんどくて気持ちも悪いものだから、それが嫌なので
 
人は物事を単純に決め付けたがる。答えなんて無いこ
 
とにまで「答えを出せ!」と迫ってきたりもする。世
 
の中と、世の中にどっぷり浸っている人間には、曖昧
 
さをそのままにする精神的体力が欠けている。

 
 そういう世の中で狂わされずに生きていこうとする
 
なら、“のらりくらり”は必須の技法だ。まともに世
 
の中と関わると、◯か✕かの戦いと防衛にエネルギー
 
を費やして疲弊してしまう。下手をすると飲み込まれ
 
て食い物にされてしまう。命が削られないように、上
 
手にかわしながら生きていく方が身のためだ。 
 
 けれど“のらりくらり”は嫌われる。“のらりくら
 
り”の対応は「実は正解なんか無い」と示唆するの
 
で、正解が有ることにしたい連中は怒りだす。
 
 
 「ズルいだろう!」 
 
 “のらりくらり”とする人にはそういう非難も向け
 
られる。しかし、正解の無いことに正解があるかのよ
 
うな態度を取るのは、やはりズルいだろう。ズルいと
 
言うのに語弊があるなのらズボラと言ってもいい。途
 
中で分かったことにして止めてしまうのだから。
 
 正直に、緻密に、世の中や人のことを考えて生きる
 
と、“のらりくらり”とならざるを得ないはずだ。
 
 「こんなに複雑怪奇なのに、何も結論出せないわ」
 
 そう思うはずだ。
 
 
 このブログでは、言い切るということは少ない。あ
 
るとしても、さしあたりそう考えているということで
 
しかない。《 「正しい」とは、そういうことにして
 
おけば気が済むということ 》でしかないと、常に意
 
識している。
 
 できることなら“のらりくらり”から“するりさら
 
り”という感じへ、バージョンアップできればカッコ
 
いいとは思うけれど、まぁそれもケースバイケースな
 
んだろう。 
 
 
 
 
 

2026年4月10日金曜日

底なし穴に落ちる

 
 
 
 以前少し触れたことのあるリック・リンチツさんの
 
『あなたも私もいない』(ナチュラルスピリット社)
 
という本の中にとても気に入ったイラストがあって、
 
以前から紹介したいなと思っていたのだけど、なにぶ
 
ん「イラストを転載するのは問題だろうな」というこ
 
とで止めていた。でも、「あっ、AI で同じようなイ
 
ラストを生成すればいいんだ」と気が付いたので、ご
 
紹介したいと思う。
 
 
 

ジョーが底なし穴に落ちる!

 
 
 
 
 
 
 
                                        

 
三週間後・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 (オリジナルはもっとシャレた可愛いイラストなん
 
だけど、まぁ雰囲気は出てるので良しとする) 
 
 
 このイラストを見たときは面白くて感心した。 
 
 わたしたちは自分の(あるいは社会の見せる)イ
 
メージの中で、落ちることを恐れながら生きている。
 
けれど、その本質はこのイラストのようなことではな
 
いのか? イメージでできている世界には、本当は底
 
は無い。
 
 そりゃぁまぁ、お金が底を突けば食べる物にも困っ
 
て窮地に陥るし、最悪の場合死ぬかもしれない。けれ
 
ど、死は誰にでも訪れるものだ。そこに世の中の教え
 
るイメージを投影しなければ、それは「底」ではな
 
い。この世界はポジティブな意味で「底なし」なん
 
だ。 
 
 
 「放てば手に満てり」とか「南無阿弥陀仏」とか、
 
イエスの野のユリの話とか、このイラストに表現され
 
ていることは、いろいろな言葉で表現されている。
 
 
 「落ちるー!」
 
 「叩きつけられる!」
 
 
 世の中のお話しの中には「底」が有る。そのお話し
 
が成立するためには、お話しの土台(底辺)が要るの
 
で「底」が設定される。そして「底に落ちれば終わり
 
だ・・・」という恐怖に苛まれる。けれども別のお話
 
しもあるし、「最悪でも死ぬだけだな」と肚を括って
 
しまえば、もう「底」は抜ける。
 
 確かに死ぬのは嫌だ。けれど誰でも必ず死ぬのだか
 
ら、あまりにも怯えているのも芸が無い。
 
 ジョーのように気楽に落ちながら、人生の風を受け
 
ているのは、なかなかの芸達者でイケてるんじゃない
 
だろうか。そして、その落ちて行く中で、思いもよら
 
ない光景をいくつも目にするかもしれない。いや、目
 
にするだろう。けれど、怯えていると周りの光景を見
 
ても、心で受け止めることなどできない。ましてや、
 
落ちることを恐れて何かを掴もうとばかりしていて
 
は、掴もうとしているもの以外は目に入らない。それ
 
はとてももったいないことではないのか?
 
 たわごとだろうか?
 
 でも、あの手この手で自分を気楽にさせてやるの
 
は、良いことに違いない。
 
 
 わたしたちが底なし穴に落ちると、そこにはリラッ
 
クスしたジョーがいる。
 
 「あっ、ジヨーだ!」
 
 と思った次の瞬間、自分がそのジョーだったと気付
 
く。わたしたちは生まれた時から底なし穴を落ち続け
 
ている。 
  
 
 
 
 
 
 

2026年4月7日火曜日

AI とアタマの苦手なこと

 
 
 
 You Tube で福岡伸一さんのチャンネルを観ていた
 
ら、「分解」という言葉をキーワードに使われてい
 
て、ふと“この前、AI で生成された音楽のことについ
 
て書いたけれど、AI に「生成」ではなくて「分解」さ
 
せたらどうだろう”と思ったので、いまから考えてみ
 
る。
 
 
 「AI 生成」は、詳細を積み重ねることだと言えるの
 
で、それはある意味無限にできる。けれど「分解」は
 
そういうわけにはいかない。「この画像を分解して」
 
などとと AI に頼むと、即座に分解して「この画像は
 
500メガビットの電気信号です。1ビットは一つの電気
 
パルスに過ぎません」などと答えるのだろう。仮に
 
「酸素を可能な限り分解して定義して」などと尋ねる
 
と、すぐに行き詰まるだろう(実際に Gemini に尋ね
 
てみたら15行で終わってしまった)。 
 
 
 人間が積み上げてきた「文化」というものは、積み
 
上げようと思えばいくらでも続けられるけれど、その
 
根本を辿れば、すぐに底を突いてしまう。その性質を
 
反映して、社会も経済も学問も積み上げる方にばかり
 
動いてしまう。同時に、それは思考というものの性質
 
と限界を表してもいる。思考は「分解」や「後戻り」
 
が嫌なのだ。
 
 
 量子力学とか分子生物学とか、生命や宇宙の起源な
 
どを研究する学問などは、詳細を掘り下げているよう
 
なイメージがあるけれど、実のところすぐに壁にぶち
 
当たるので、横道にそれて“途中のなにがしか”の振
 
る舞いのストーリーを描くことになる。そうしなけれ
 
ば「ここから先はわかりません」と言わざるを得ない
 
ので、他にすることが無い。
 
 現在、AI の開発に狂気と言えるほどの金が注ぎ込ま
 
れ、積み上がっているのも、それが積み上げることを
 
得意とする性質のものであるからだろう。
 
 
 人は古来から、とにかく積み上げて来た。アタマは
 
積み上げるのが大好きだ。
 
 土を積み上げ、石を積み上げ、文字を積み上げ、物
 
を積み上げ、金を積み上げ、権威を積み上げ、見栄を
 
積み上げて来た。そしていま、情報を積み上げたバベ
 
ルの塔のために、メモリーチップと発電機を積み上げ
 
ている・・・「バラす方にもエネルギーと知恵を使え
 
よ」と、社会から外れている私はつぶやく。
 
 
 無限の中に彷徨いだそうというのか?
 
 有限の中をあらゆる方向に行け
 
 
 ゲーテのこの言葉を私が知ったのはもう50年前だ
 
が、いまとなってはこう思う。
 
 《 有限の中に無限を見い出せ 》
 
 
 AI が何をどれだけ積み上げて洗練させようとも、そ
 
れは人の思考の中の既知のパーツの集積でしかない。
 
ことによると、その集積が思考の新たな地平であるか
 
もしれない。けれども、それは思考が辿り着ける範囲
 
を出ることはない。合理性で非合理を捉えることはで
 
きない。