人類滅亡が近い(?)ということなのだが、なぜ人
は「人類滅亡」という言葉に耳をピクつかせるのだろ
う?人類が滅亡しようがしなかろうが、ひとりひとり
はせいぜい100年ぐらいで必ず滅亡する。「後のこと
はどうでもいい」という発想だって有りで、実際そう
考える人間も一定数いるだろう。なのに、なぜ「人類
滅亡」はパワーワードなのか?
「人類」
「滅亡」
どちらも言葉のイメージとして、体積が大きいとで
もいうような感じがある。感じるはあるけれど、それ
は妄想が形作る先入観であって、言葉は言葉でしか無
い。「人類」も「滅亡」も、「ダンゴムシ」や「爆
笑」なんかと変わりはしないのに、そこにある“意味
有りげな感じ”が人の気持ちに引っかかってくる。
井上陽水の『最新伝説』という曲に“ながめてみて
見飽きたカレンダー どことなく恐がらせの数字”
という歌詞がある。この曲は1998年のアルバム『九
段』に収録されているので、この歌詞は「ノストラダ
ムスの予言」を踏まえてのことだと思われる。
この例が示すように、言葉や映像には“意味有り
げ・恐がらせ・思わせぶり”なものがいっぱい有る。
人というのは、意図的にあるいは気分的にそういう言
葉を使いたがる。アタマはそういうのが大好きだけれ
ど、“意味有りげな言葉”はそれが示しているように
「意味が有る」わけではない。
意味有りげな言葉を使うと、物事を深く理解してい
るとか、大所高所からものを見ているかのような自己
認識が得られるのでアタマは嬉しい。けれど、それは
意味有りげなだけで、必ずしも意味が有るとは限らな
い。言う側、聞く側が、共に都合よく深読みするだけ
でしかないことはよくある。「ノストラダムスの予
言」はその代表例だろう。
「人類滅亡なんて妄想だ」などということを言おう
としているのではない。予言や予測が当たるかどうか
なんて、私にはどうでもいい。世界の大きな流れなん
て、世界の1/3の人間が変えようとしたって変えられ
ないだろうし、ましてや、ひと握りの数の個人が動い
たって何も変わらない。ただ“意味有りげ・恐がら
せ・思わせぶり”といった表現に気持ちを揺さぶられ
ることは、不快でバカバカしいから乗せられたくな
い(コロナ騒ぎの時もそうだった)。
好むと好まざるに関わらず、起こることは起こる
し、起こらないことは起こらない。
アタマが“意味有りげ・恐がらせ・思わせぶり”に
語ることに、いまこの時の“実”は無い。
たとえ「明日人類が滅びる」という予言が本当に
なっても、「そんな・・・」と今日を恐れながら過ご
すと今日一日分の損だ。
世の中へ向けて意味有りげな事を言う奴は気に入ら
ない。「意味の有る事(現実的な事)を言え」と思
う。
このブログは、意味が有るか?現実的か?
私には分からない。
当人は「無意味であり、実感的」だと思っている。
