2026年9月19日土曜日

意味有りげ

 
 
 人類滅亡が近い(?)ということなのだが、なぜ人
 
は「人類滅亡」という言葉に耳をピクつかせるのだろ
 
う?人類が滅亡しようがしなかろうが、ひとりひとり
 
はせいぜい100年ぐらいで必ず滅亡する。「後のこと
 
はどうでもいい」という発想だって有りで、実際そう
 
考える人間も一定数いるだろう。なのに、なぜ「人類
 
滅亡」はパワーワードなのか?
 
 
 「人類」
 
 「滅亡」
 
 
 どちらも言葉のイメージとして、体積が大きいとで
 
もいうような感じがある。感じるはあるけれど、それ
 
は妄想が形作る先入観であって、言葉は言葉でしか無
 
い。「人類」も「滅亡」も、「ダンゴムシ」や「爆
 
笑」なんかと変わりはしないのに、そこにある“意味
 
有りげな感じ”が人の気持ちに引っかかってくる。
 
 
 井上陽水の『最新伝説』という曲に“ながめてみて
 
見飽きたカレンダー どことなく恐がらせの数字”
 
という歌詞がある。この曲は1998年のアルバム『九
 
段』に収録されているので、この歌詞は「ノストラダ
 
ムスの予言」を踏まえてのことだと思われる。 
 
 この例が示すように、言葉や映像には“意味有り
 
げ・恐がらせ・思わせぶり”なものがいっぱい有る。
 
人というのは、意図的にあるいは気分的にそういう言
 
葉を使いたがる。アタマはそういうのが大好きだけれ
 
ど、“意味有りげな言葉”はそれが示しているように
 
「意味が有る」わけではない。
 
 
 意味有りげな言葉を使うと、物事を深く理解してい
 
るとか、大所高所からものを見ているかのような自己
 
認識が得られるのでアタマは嬉しい。けれど、それは
 
意味有りげなだけで、必ずしも意味が有るとは限らな
 
い。言う側、聞く側が、共に都合よく深読みするだけ
 
でしかないことはよくある。「ノストラダムスの予
 
言」はその代表例だろう。
 
 
 「人類滅亡なんて妄想だ」などということを言おう
 
としているのではない。予言や予測が当たるかどうか
 
なんて、私にはどうでもいい。世界の大きな流れなん
 
て、世界の1/3の人間が変えようとしたって変えられ
 
ないだろうし、ましてや、ひと握りの数の個人が動い
 
たって何も変わらない。ただ意味有りげ・恐がら
 
せ・思わせぶり”といった表現に気持ちを揺さぶられ
 
ることは、不快でバカバカしいから乗せられたくな
 
い(コロナ騒ぎの時もそうだった)。
 
 
 好むと好まざるに関わらず、起こることは起こる
 
し、起こらないことは起こらない。
 
 アタマが意味有りげ・恐がらせ・思わせぶり”に
 
語ることに、いまこの時の“実”は無い。
 
 たとえ「明日人類が滅びる」という予言が本当に
 
なっても、「そんな・・・」と今日を恐れながら過ご
 
すと今日一日分の損だ。
 
 
 世の中へ向けて意味有りげな事を言う奴は気に入ら
 
ない。「意味の有る事(現実的な事)を言え」と思
 
う。
 
 
 このブログは、意味が有るか?現実的か?
 
 私には分からない。
 
 当人は「無意味であり、実感的」だと思っている。
 
 
 
 

2026年9月16日水曜日

アタマを笑え

 
 
 
 「AI が人類を滅ぼす可能性がある」
 
 一昨日からだったか、ネットでもテレビでもその話
 
題を何度も見る。AI 開発の先頭を走る企業の経営者
 
たちが「規制すべきだ」と言う。
 
 「はぁ?自分たちがやってるんだろう?自分たちで
 
規制すればいいだけだろ」
 
 アタマが良い奴はアホなんだな・・・と思う。
 
 
 自分たちが手を緩めると中国が先に行くから、国際
 
的な規制をすべきだという思惑なんだろうけど、実効
 
性の有る規制などできるわけがない。無責任な連中
 
だ。
 
 『大きな責任を持つ人は、無責任です』(2021/8)
 
という話を書いたこともあるけれど、世の中は無責任
 
な人間によって動いて行く。これはどうにもならない
 
ね。
 
 
 昭和の頃は「米ソ間で核戦争が起きて人類が滅亡す
 
るのではないか」という話がことあるごとに話題に
 
なっていた。今回はそれの AI 版だけれど、昭和の子
 
供である私からすれば、そんな話は1973年の『新造人
 
間キャシャーン』で半世紀前に想定済みだ(『ターミ
 
ネーター』の11年前だよ)。
 
 実際に AI が人類を滅ぼしにかかったとしても、そ
 
れはわたしたち人間のアタマの暴走の結果なので、し
 
ようがないだろう。我がアタマを呪え(笑えというべ
 
きだろうけど)。
 
 
 AI はアタマの機能を外に出したものであり、アタ
 
マのクローンだ。そのクローンの出来が良くなり過ぎ
 
て、「オリジナルの方が消されるかも」と恐くなって
 
抑えようと言う、けれど行きがかり上やめられない
 
・・・ああ〜アホくさ。
 
 
 「人類滅亡?」 
 
  もう滅亡してもいいよ。こんなバカな生き物。改
 
善の傾向は見られない。アタマが悪すぎるでしょ。
 
 
 滅びの時が数年後か、百年後か、そんなこと起きな
 
いのか知らないけど、無責任なアタマでっかちの世の
 
中は放っておいて、世界と別の場所で自分を可愛がっ
 
てやろう。世の中と無関係にしあわせになってしまえ
 
ばいい。アタマの悪い連中のせいで人類が本当に滅び
 
るのなら、右往左往させられずに安らいで過ごしてや
 
りたいものだ。(もしかしたら、その姿勢が人間を滅
 
ぼしにかかった AI のアルゴリズムに影響を与えて、
 
ブレーキを踏ませることになるかもしれないよ)
 
 
 遠慮はいらない。あいつらも無責任なんだから、わ
 
たしたちがこの社会に責任を持つ義務は無いし、わた
 
したちが恐れたところで流れは止められない。
 
 クラッシュするのか、夢の未来が拓けるのか?
 
 ひとりの野次馬になって見ていたい・・・と、私は
 
思うけどね。 
 
 
 
 
 
 
 

2026年9月14日月曜日

治大國若烹小鮮〜大国を治むるには、小鮮を煮るがごとし〜

 
 
 
 テレビでもネットでも家庭や飲み屋でも、政治家や
 
識者だけにとどまらず、一般人もが社会をどうすべき
 
かと口をひらく。眼の前の具体的な問題については、
 
どうにかしなければならないだろうけど、社会全体を
 
どうすべきかなどという「理念」を語るのを聞くと、
 
私は不快になる。
 
 
 私も社会について「こういうところは良くないから
 
少し変えたほうがいいな」などとは思うけれど、「社
 
会全体をこうすべき」という大きな理念などはない。
 
自分が普段考えていることを振り返ると、私は社会主
 
義者なんだろうなと思うけれど、その一方で、実際に
 
は社会主義は成立しないと考えているので、それを口
 
にはしないし、当然求めもしない。
 
 
 社会主義であれ共産主義であれ資本主義であれ、民
 
主主義であれ専制主義であれ、アタマが考えることは
 
当のアタマが邪魔をするので必ず破綻する。なので私
 
は大きな理念など持たない。いや、持てない。私は自
 
分も含めて、人間を高く値踏みできない。(日本は実
 
質的社会主義国としてかなり上手くやってるとは思う
 
けど、この先どうなることやらわかったものではな
 
い)
 
 
 「理念」というのは「理想とする考え」だろうけ
 
ど、「理想」が重んじられ「考え」が強固になるほど
 
身体性と感情と自然は軽んじられて「考え」は暴走し
 
始める。
 
 「理想」がある程度の重さを持ってしまうと、自重
 
で社会の坂道を下って行き、誰も止められない。個人
 
のレベルなら、その暴走を静めることもあり得るけれ
 
ど、社会のレベルになると、重すぎてもうどうしよう
 
もない。先にはクラッシュが待っている。
 
 
 老子に〈「治大國若烹小鮮」〜大国を治めるには小
 
魚を煮るようにしなければならない〜〉という言葉が
 
あるけれど、アタマで考えて社会をいじくると、自然
 
な成り行きを乱してかえってダメになる。2500年前に
 
老子がそう忠告しているのに、いまでもアタマは主導
 
権を持つ。仕方がない・・・社会を作っているのはア
 
タマだから。
 
 
 端っことはいえ私も社会に属しているから、理不尽
 
なことや汚い振る舞いを見てしまうと、私もつい自分
 
にとって理想的なこと言いたくなってしまう・・・け
 
れど、それは何も良いものをもたらさない。ミイラ盗
 
りがミイラになるだけだ。アタマの暴走に多少なりと
 
もエネルギーを与えることになる。
 
 
 口を開かず、手近なことだけを誠実に片付けていれ
 
ばいいのだと思っているのだけれど、私のアタマも悪
 
い。その巧妙さと、飽くことなき自惚れと執着は御し
 
難い・・・。
 
 
 「口を出すな。手を出すな。自分の為、世の中の為
 
に・・・」と、今日も要らんことを口走る自分に苦笑
 
いをする。
 
 
 
 
 

2026年9月5日土曜日

「無印良品」

 
 
 
 今回のタイトルは、別に『無印良品』の商品や会社
 
の話をしようというのではなく、「『無印良品』とい
 
う四文字は立派な仏教用語になるな」と思ったので、
 
それを書いてみようと思った次第です。
 
 
 「無印良品」と書いて、「印(しるし)無きは、良
 
品(りょうぼん)なり」と読んでみる。
 
 「印」=「ラベル」として、「ラベルが無い」とす
 
る。
 
 
 わたしたちはあらゆることにラベルを貼る。
 
 良い・悪い、きれい・汚い、賢い・馬鹿、上手・下
 
手、偉い・偉くない・・・四六時中ラベルを貼る。
 
 信号が青に変わったのに、前の車が発進しない。
 
 「なんだ馬鹿野郎・・・」
 
 一瞬でラベルを貼る。そのラベル貼りが何をもたら
 
すかなんて、まず考えたりしない。
 
 
 次に「良品」とは何か?
 
 「品」は仏教では「ぼん」と読む。
 
 「上品・中品・下品」(じょうぼん・ちゅうぼん・
 
げぼん)と3つある。 
 
 さらにそれぞれの「品」の中で「上生・中生・下
 
生」(じょうしょう・ちゅうしょう・げしょう)と分
 
かれて、9つのランクができる。「上品上生」「下品
 
下生」などとなる。
 
 これは現世での救われ方のランクというようなもの
 
で、「上品上生」なら菩薩のような人で、現世でほぼ
 
救われている。逆に「下品下生」となると、極悪非道
 
な悪人や自分のことしか考えない我利我利亡者という
 
ことになり、地獄へ直行という具合。そこから、世間
 
では救いのない人間を「下品(げひん)」と言う。
 
 
 この9つのランクは「九体阿弥陀」というものに対
 
応していて、どのように救いようのない悪人であろう
 
とも阿弥陀仏はそれぞれに救うという「九体阿弥陀信
 
仰」を形作っている。極悪人でも救われる。
 
 「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人おや」  
 
                (歎異抄) 

 
 とはいうものの「品」が下がるほど現世では苦しむ
 
ので、できれば「品」が高い生き方が望ましい。で、
 
「良品(りょうぼん)」となるためにはどうしたら良
 
いかということで、「ラベル貼りをしない」となる。
 
 
 ラベル貼りをすると、そのラベルにこだわりができ
 
る。自分の考えがラベルごとに固定される。
 
 わたしたちは他人にも自分自身にもラベルを貼るけ
 
れど、貼れば貼るほど、固定されて動かせないものが
 
増えてゆき、身動きが取れなくなって苦しくな
 
る・・・自分がそんなことをしているなどと夢にも思
 
わず、自分が苦しんでいることにさえ気付かなかった
 
りする。自縄自縛になっていることを「安定してい
 
る」とまで思う・・・。
 
 
 なんでもない自分。
 
 なんでもないみんな。
 
 なんでもない世界。
 
 それが本当の世界なのは間違いない。ラベルを貼ら
 
なければ成立しない世の中に生きていると、それが分
 
からない。
 
 
 「印無きは、良品なり」
 
 
 『無印良品』のロゴは日常的に目にする。そのたび
 
にこの言葉を思い出すのは、世の中の縛りから自分を
 
リセットする良いキッカケになるので、結構イイので
 
はないでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 

2026年9月4日金曜日

意識の構造について

 
 
 
 以前、わたしたちの意識の構造について書いたこと
 
があります。〈自意識〉の後ろに〈無意識〉があり、
 
その後ろに意識の活動するベースとしての〈無の意
 
識〉があると。
 
 
 昨日それをまた考えていて、少し加えておかないと
 
いけないことがあると思い、図にしてみることにし
 
た。
 
 
 

 
 
 「外接意識」「内部意識」がいわゆる「自意識」
 
で、わたしたちが考えたり、意識に直接関わってくる
 
感覚・感情の部分を指す。
 
 
 「外接意識」は、わたしたちの意識を取り巻く自然
 
環境・身体感覚・人間社会とやり取りをする部分。
 
 
 「内部意識」は、「外接意識」が働くためのバック
 
アップ倉庫のようなもので、夢を見たり、幻聴・幻覚
 
が現れる時などに、その内容が意識の表面に出てくる
 
だけで、普段は意識下にあって「外接意識」とやり取
 
りをしている。
 
 
 「無意識」は、全く意識の表面に出てくることもな
 
く、言語化・音声化・映像化もされない領域で、「内
 
部意識」とリンクしながら、「自意識」の動きと働き
 
の強さを決定付けている。
 
 
 これら3つの意識領域を内包して、意識活動の場と
 
なっているのが「無の意識」(または「空識」)で、
 
これは何の働きも無い。ただ意識活動全体を見てい
 
 
 
 
 これが私の考える意識の構造で、普段「アタマ」と
 
表現しているのは、概ね「自意識」の部分ということ
 
になりますね。
 
 (「外接意識」「内部意識」「無の意識」「空識」と
 
いうのは、私の造語です。他の人が同じ言葉を使って
 
いたとしても、関係はありません )
 
 
 この意識の構造というのは、これを踏まえた上で世
 
界との関わりを考えると色々と便利なので、そういう
 
ことにしているだけで「これが意識構造の最終解!」
 
などと思っているわけではありません。私にはしっく
 
りくるということです。(他の人の参考にもなるとは
 
思いますが・・・そうでなければ、ここに載せるのは
 
ムダでしかありませんし)
 
 
 で、これを使って世界とどう関わるかなんですが、
 
世界はこの図のどこにあるでしょう?
 
 
 世界はわたしたち一人一人を取り巻いているわけで
 
すから、「無の意識」の外にあるのでしょうか?
 
 
 いいえ。世界は「外接意識」の中にあります。
 
 
 「外接意識」と表現しているので、実際の世界は外
 
にあると言っているようですが、それは説明の為の方
 
便で、私達の意識が世界と見なしているものは、物語
 
化されて「自意識」の中にあります。
 
 
 世界が外にあるのなら、例えばお釈迦さんが悟りを
 
ひらいたところで、世界との関係は本質的に何も変わ
 
りません。「私は悟った」とタコ壺の中で自己暗示に
 
酔っているだけです(よく居ますね。そういう人)。
 
 世界が自意識の中にあるからこそ、悟りをひらいた
 
りすると、世界を俯瞰するようにして、世界との関わ
 
りが生む苦悩から完全に開放されるわけです。
 
 
 わたしたちが普段関わっている「世界」というもの
 
は、自意識の中にある物語であり、生きて行くその
 
時々に関わるのは、その断片でしかありません。
 
 もちろん、その物語の影響で命さえ失うことがあり
 
ますが、「命さえ・・」という価値感自体が物語の中
 
にあります。
 
 
 「命さえ物語でしかない」というと、命や世界とい
 
う物語をムダなものでしかないと言っているようです
 
が、人が生きる限り物語は無視できないので、「ムダ
 
だ」と済ましているわけにもいきません。
 
 けれど「これは物語であって、生きることの本質で
 
はない」と踏まえることができれば、関わりに余裕が
 
生まれます。その上で命と物語を丁寧に扱う  する
 
と、生きることに面白味が出てきます。
 
 
 この考えは一つの方便です。屁理屈です。けれど、
 
生きることに面白味と気楽さをもたらす、一つの手立
 
てになり得る。
 
 
 「気楽に面白がる」
 
 生きることに、それより望ましいことがあるとは、
 
私には思えません。 
 
 
 
 
 
 

 
 

2026年8月27日木曜日

無平等

 
 
 
 今日のタイトルはこのブログらしく、あざとくて意
 
地の悪そうな感じがする。
 
 「平等」「不平等」について書こうと思い立ち、手
 
始めに「タイトルをどうしようか」と考えてみるに、
 
「平等も不平等も存在しないなぁ」としか思えないの
 
でこのタイトルになった。そもそも「平等」なんて存
 
在しないですよね?
 
 
 例えば、甥の兄弟にお年玉をあげるとする。 
 
 それぞれに1万円をあげれば平等か?
 
 1万円であることは同じだけれど、兄弟ふたり、そ
 
れぞれにとって1万円の持つ価値は違うだろう。
 
 3万円のゲームを買いたい兄と、9千円のフィギュ
 
アを買いたい弟とであったなら、1万円の影響力はか
 
なり違う。「平等」というのは社会的で便宜的な概念
 
でしかなくて、それは個人の立場からすれば三者三様
 
の「そのものだけ」にならざるを得ない。そう考えた
 
時に「平等」とは何なのか?そんなもの存在するの
 
か?と思うわけです。
 
 
 社会というものは生き物ではない。一つのシステム
 
であり、そのひとつの仕組みとして「平等」という概
 
念が存在している。
 
 家庭の中で、母親が子供たちにおやつを与えるとき
 
に、「平等にね」と言った瞬間に、そこにはひとつの
 
社会が発生している。「お兄ちゃんだから、今日は我
 
慢して弟にチョコレートをあげないさいね」と言った
 
瞬間にも社会が発生している。
 
 「お兄ちゃんだから我慢しなさいね」と言ったと
 
き、お兄ちゃんにとっては「不平等」だけど、母親の
 
アタマの中では、弟を優遇することで「平等」がもた
 
らされると判断している。こういう例だけではなく
 
て、「平等」を行うと、必ず「不平等」を生んでしま
 
う。これはあらゆる局面で発生するけれど、不問に処
 
される。面倒だし、そもそも「平等」は実現不可能な
 
ので、社会はそのことを表沙汰にしたくない。
 
 
 「平等」という概念は、社会に問題を生む。
 
 では「不平等」で良いのか?
 
 どちらが先かは知らないけれど「平等」と「不平
 
等」は対概念なので、片方だけでは成立しない。「平
 
等」が問題であるなら「不平等」など出る幕も無い。
 
 「平等」「不平等」。どちらがではなくて、「平
 
等」という概念を煙に巻いた方が豊かさを生みそうに
 
感じるので、思いつきで書いた「無平等」という言葉
 
を探ってみる。
 
 
 「平等は無い」あるいは「無の平等」。
 
 
 「平等は無い」というのは「不平等」ではない。
 
「比較が無い」ということとして考えよう。
 
 働きかける側も、受け取る側も、 そのことを比較
 
なしに行い、受け取るならば、それはどのような状況
 
や想いを生むだろうか? 
 
 ただ、そのこととして流れて行く・・・そうではな
 
いだろうか?
 
 働きかける側と受け取る側の一対一だけのこととし
 
て流れて行くだろう。そこに社会は発生しない。面倒
 
な副産物を生まないだろう。では「無の平等」とは何
 
か?
 
 
 「無」を働きかけ、「無」を受け取る。あるいは
 
「無」の働きに任せて送り、「無」の働きに任せて受
 
け取る・・・それはなにか?
 
 それはたぶん「社会的な価値」ではなく、「命の示
 
す価値」にいざなわれて行い、受け取るということに
 
なるだろう。
 
 
 「命の示す価値」
 
 それはなんぞや?
 
 
 「そよ風が気持ちいいなぁ・・・」そういうことだ
 
ろう。 
 
 
 
 昨日、ネパールと中国の国境をまたいで、想像を絶
 
する規模の土石流が起きた。数千人が死んでいるだろ
 
う。世界は人間に対して何の配慮もない。
 
 「平等」「不平等」など存在しない。「気の毒」も
 
「不幸」も無い・・・けれど、人はそれを受け止めら
 
れない。「ただそういうものだ」という事実が許せな
 
い。
 
 そりゃそうだ、人間だから・・・私も「そういうも
 
のだと思え」とは言わない。けれど「そういうもの
 
だ」が真実だ。
 
 
 「平等」も「不平等」も存在しない。それはアタマ
 
が描いて、すがろうとするまやかしで、表面上の体裁
 
を繕うことはできても、その裏で面倒を増やしてい
 
る。
 
 
 「平等」「不平等」を煙に巻いたとき、人は社会も
 
煙に巻くことになる。そして世界の実際を感じる。 
 
 
 お兄ちゃんは飴を舐めて「美味しい」と思い、弟は
 
チョコレートを食べて「美味しい」と思う。そこにあ
 
るのは「美味しい」という実際だけだ。
 
 
 「平等」なんて、人間の意識から消えればいい。 
 
 もっとも本能の欲求丸出しは余計に具合が悪いけれ
 
ど・・・。 
 
 
 
 
 
 

2026年8月19日水曜日

嫌なことはしなくていいのか?

 
 
 
 “「嫌なことはしなくていい教育」が社会で通用し
 
ないことが分かってしまう W ”
 
 You Tube のサムネにそんな言葉が有った。
 
 
 内容は察しがつくので動画は観ていないが、この言
 
葉を裏返せば、「嫌なことをしなければ、社会でやっ
 
ていけない」ということだ。社会で通用しないこと
 
が分かってしまう W ”などと笑っていていいのか?
 
 
 人間が狩猟・採集で生きていたときのことを想像す
 
れば、嫌なことでも辛抱してやらなければ生きていけ
 
ないのは当然だとわかる。けれど、人が生きていくた
 
めの基本的な“嫌なこと”と、社会で通用するための
 
“嫌なこと”は違うのではなかろうか? 
 
 
 初代の貴乃花が「人間、辛抱だ」(「人生、辛抱
 
だ」だったかもしれない) と語ったという。それは
 
よくわかる。自分の望むように物事が運ぶわけじゃな
 
い。生きていれば、辛抱しなければならないことはい
 
くらでもある。けれど「嫌なことをしなければ、社会
 
でやっていけない」ということには、常に疑いの目を
 
向けておくべきではないだろうか。
 
 
 「そういうもんだから・・・」と嫌なことを受け入
 
れ、時によれば自ら身を置き、その結果得られるもの
 
が果たして自分にとって・・いや、人にとって本当に
 
良いものなのか?そこのところを不問にしたまま「人
 
間、辛抱だ」をやっていると、苦しいだけで本当は何
 
も得ていないことになりかねない。
 
 
 「嫌なことをしなければ、社会でやっていけない」
 
を続けることが、過労死・過労自殺・鬱病・パワハラ
 
などを生んでいることは間違いないはずだ。
 
 ブラック企業を揶揄するその同じ人物が、“「嫌な
 
ことはしなくていい教育」が社会で通用しないことが
 
分かってしまう W ”と言って笑っているのだろうと
 
私には思える。こういう話題で“ W ”などと言って
 
いる奴は、「するべき辛抱」と「するべきではない辛
 
抱」を見極めようなんてしていないだろう。
 
 
 社会の中の“得るべきもの”のほとんどは、「する
 
べきではない辛抱」の上に成り立っていると見てまち
 
がいないだろう。それらは失われても直接人の命を奪
 
わないものだから。
 
 ところが多くの人が、その“得るべきもの”の為に
 
ストレスを抱え、人間関係に疲弊し、身体や心を壊し
 
たり、命まで失ったりする・・・単に個々の事案だと
 
片付けずに、本質的なところに疑問を持てよと思う。
 
 
 これまで何度も書いてきたけれど、社会は人をしあ
 
わせにしない。社会は社会の為に個人を利用するだけ
 
だ。
 
 もちろん、不幸になるだけなら誰も社会の為に動か
 
なくなるので、嫌なことだけではなく飴も与える。し
 
かし、その飴は対価として見合うものなのか?
 
 本質的なことを確かめようとする人は少ない。ほと
 
んどの人のアタマは社会の統制下にある。
 
 
 「嫌なことはしない」は大事なことだ。
 
 しないことで得られないもの。
 
 しないことで得られるもの。
 
 しないことで失うもの。
 
 しないことで失わずにすむもの。
 
 何が大切なのか?
 
 
 嫌なことを拒否して社会から干される、割を食ら
 
う・・・それは確かにしんどい。私は何度も経験した
 
からよくわかる。けれどそここそが人としての辛抱の
 
しどころじゃないだろうか?
 
 ただの社会的わがままの為じゃなく、人としての本
 
質を大事にする為の辛抱は「嫌なこと」にはならな
 
い。
 
 
 こんなことを言って責任は持てないけれど、社会の
 
お話が何を与えてくれるのかを吟味すれば、誰でもう
 
なずく話じゃないだろうか。
 
 
 「嫌なこと」は嫌だ。
 
 その素直な感覚には、ちゃんと相手をしてあげるべ
 
きだろう。その上で、するのかしないのか?
 
 嫌がっているのはアタマなのか、身体なのか、心な
 
のか?
 
 身体と心を無視したら、たぶん地獄を見るだろう。
  
 
 初代貴乃花はしあわせだっただろうか?