このブログを書いていると「自分」とか「自然」と
いう言葉をしょっちゅう使うけれど、「自」という字
が何を表しているのかよく分かっていないなと思った
のでまず意味を調べていると、「怡然自得(いぜんじ
とく)」という知らない四文字熟語が出てきた。
「怡」という字も初めて見た。
『列子』にある言葉だということで、意味は、
「心が落ち着いていて、満ち足りていること」
「自分の心を理解し、喜び安らぐこと」
「怡然」は喜び楽しむ様子であり、悩むことなく道理
を理解する様子のことらしい。
「自得」は現在の自分に満足すること。自身の心の内
側を自身で理解すること。
「怡然として自得す」とも読むそうで、「怡」という
字は「喜ぶ・楽しむ・やわらぐ・気持ちが穏やかにな
る」という意味だそうだ。
初めて見る言葉だし、世の中ではまず使われない言
葉だけれど、禅やスピリチュアルの話にはもってこい
の言葉だ。いままで出会っていないのが不思議に思
う。
「怡」という字が、「忄」に「台」となっているの
がおもしろい。「台」は「高く広い土地」で、要する
に「台地」なので、心の中が高く広い土地のように安
定している様なのだろう。
台地は広々としていて、川の流れから離れて見下ろ
している。そして洪水もない・・・なるほど安定して
いる。上手く考えてある字だ。
方丈記の「行く川のながれは絶えずして、しかも本
の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えか
つ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人と
すみかと、またかくの如し」を借りれば、昔の人が
「怡」という字で表わそうとしたものがよくわかる。
ただ、「世の中・人・すみか(暮らし)」が、天か
ら見下ろす様に、下に有るわけではない。わたしたち
の心は「世の中・人・すみか(暮らし)」と共に在
る。
心は元々「怡然」としているもので、「世の中・
人・すみか(暮らし)」と共に在りながら、その流れ
とは関わっていない。なのに、関わりを持ち過ぎるこ
とで流れに巻き込まれてしまう。
わたしたちは自分の居場所を安定させようと、流れ
の中に杭を打つ、そこにとどまろうとする。あるいは
流れの中で自分の望むように進もうと、泳いだり舟を
漕いだりするけれど、その抵抗が苦しみを生む。
そこで「流れに任せて流れて行けば良い」という話
につながることが多いし、このブログでもそういう表
現をしたこともある。それはそれで良い生き方だと思
うけれど、今はこう思っている・・・「心は川底のよう
なものだ」と。流れではなくて、地形の方だと。
さまざまな出来事・さだめが自分を流れていく。
そしていつか、その流れが流れ去って消える時が来
る。流れが消えたそこが、まわりの土地と繋がってい
ることが見て取れる。
「自分はこんなに大きなものだったんだ・・・」
そう気付く。
その気付きは、流れがあるままでも可能で、そう気
付けたら、心が台地の上のような穏やかさとやわらぎ
の場であることがわかる。
自我と身体は流れの中にあるけれど、自分は、本当
は流れの外にいて、流れを見ている。
(書いているうちに、台地の上から川の下へ移ってし
まったけれど、それは単なる表現の都合です)