2026年4月7日火曜日

AI とアタマの苦手なこと

 
 
 
 You Tube で福岡伸一さんのチャンネルを観ていた
 
ら、「分解」という言葉をキーワードに使われてい
 
て、ふと“この前、AI で生成された音楽のことについ
 
て書いたけれど、AI に「生成」ではなくて「分解」さ
 
せたらどうだろう”と思ったので、いまから考えてみ
 
る。
 
 
 「AI 生成」は、詳細を積み重ねることだと言えるの
 
で、それはある意味無限にできる。けれど「分解」は
 
そういうわけにはいかない。「この画像を分解して」
 
などとと AI に頼むと、即座に分解して「この画像は
 
500メガビットの電気信号です。1ビットは一つの電気
 
パルスに過ぎません」などと答えるのだろう。仮に
 
「酸素を可能な限り分解して定義して」などと尋ねる
 
と、すぐに行き詰まるだろう(実際に Gemini に尋ね
 
てみたら15行で終わってしまった)。 
 
 
 人間が積み上げてきた「文化」というものは、積み
 
上げようと思えばいくらでも続けられるけれど、その
 
根本を辿れば、すぐに底を突いてしまう。その性質を
 
反映して、社会も経済も学問も積み上げる方にばかり
 
動いてしまう。同時に、それは思考というものの性質
 
と限界を表してもいる。思考は「分解」や「後戻り」
 
が嫌なのだ。
 
 
 量子力学とか分子生物学とか、生命や宇宙の起源な
 
どを研究する学問などは、詳細を掘り下げているよう
 
なイメージがあるけれど、実のところすぐに壁にぶち
 
当たるので、横道にそれて“途中のなにがしか”の振
 
る舞いのストーリーを描くことになる。そうしなけれ
 
ば「ここから先はわかりません」と言わざるを得ない
 
ので、他にすることが無い。
 
 現在、AI の開発に狂気と言えるほどの金が注ぎ込ま
 
れ、積み上がっているのも、それが積み上げることを
 
得意とする性質のものであるからだろう。
 
 
 人は古来から、とにかく積み上げて来た。アタマは
 
積み上げるのが大好きだ。
 
 土を積み上げ、石を積み上げ、文字を積み上げ、物
 
を積み上げ、金を積み上げ、権威を積み上げ、見栄を
 
積み上げて来た。そしていま、情報を積み上げたバベ
 
ルの塔のために、メモリーチップと発電機を積み上げ
 
ている・・・「バラす方にもエネルギーと知恵を使え
 
よ」と、社会から外れている私はつぶやく。
 
 
 無限の中に彷徨いだそうというのか?
 
 有限の中をあらゆる方向に行け
 
 
 ゲーテのこの言葉を私が知ったのはもう50年前だ
 
が、いまとなってはこう思う。
 
 《 有限の中に無限を見い出せ 》
 
 
 AI が何をどれだけ積み上げて洗練させようとも、そ
 
れは人の思考の中の既知のパーツの集積でしかない。
 
ことによると、その集積が思考の新たな地平であるか
 
もしれない。けれども、それは思考が辿り着ける範囲
 
を出ることはない。合理性で非合理を捉えることはで
 
きない。
 
 
 
 
 

2026年4月6日月曜日

知ってられない

 
 
 
 ネットもテレビも、ここ最近はイランの戦争絡みの
 
ニュースが主体だけど、そんなこと伝えられてもどう
 
しようもない。あんな二千年前から揉め続けてるとこ
 
ろの話なんか構ってられないでしょ。まぁいろいろと
 
迷惑な話だけど、仲良くする気のない人たちだから仕
 
方がない。たぶん千年先でもやってるんでしょうよ。
 
 
 この世界では無数の出来事が常に起こっていて、現
 
代では24時間365日ニュースが伝えられ、人から人へと
 
口コミでも出来事が伝えられる。 その中で人々は
 
「へぇ〜、そう」「怖い」「ムカつく」「凄いな」な
 
どと反応しながら暮らしているけれど、それは自分か
 
誰かが取捨選択したごく少数の出来事についてであっ
 
て、その他の圧倒的に膨大な数の出来事は意識もされ
 
ない。もちろん人間の機能的にすべての出来事に意識
 
を向けることは不可能だけど、少しは無視している出
 
来事たちに意識を向けて見るべきじゃないのか?それ
 
はこの世界で確かに起こっているのだから。

 
 ネットを見て、AI に尋ねて、職場や学校やご近所で
 
話を聞いて、世の中のことを大まかにでも知った気に
 
なってしまうけれど、それはとんでもないことだ。単
 
に人の世の事柄だけをとっても、その数百万倍の事を
 
知らなければ「知った」というべきではないだろう。
 
それに加えて、人の世にはまったくお構いなしに、こ
 
の地球上だけでも無限に出来事が起きている。
 
 
 〔恒河沙〕という数の単位(10000×10⁴⁸)があっ
 
て、ガンジス川の砂の数のように無数という意味だけ
 
ど、「一粒の砂がここに在る」というのも一つの出来
 
事なのだから、この世界の出来事は〔恒河沙²〕ぐらい
 
無限に起きているだろう。要するにわたしたちは何も
 
知り得ない。知ったつもりになれるだけでしかない
 
し、さらに言えば“「知る」という概念”の約束事の
 
中で暮らしているだけだと言える。
 
 
 出来事は無限に在りすぎて、知ってられない。《群
 
盲、象をなでる》という言葉があるけれど、それどこ
 
ろの話じゃない。人が世界を分かろうとするなんて、
 
アリが日本地図を作ろうとするようなものだ。
 
 「何も知りようがない」
 
 そう肚を括るほうが健全だ。
 
 
 各々の暮らしの、手近の物語に丁寧に接していれば
 
それで良いのだと思う。
 
 知ったつもり、分かったつもりで繰り広げる人間の
 
馬鹿騒ぎ・から騒ぎに真面目に付き合う必要なんかな
 
い。
 
 知ったこっちゃない。
 
 知ってられない。
 
 その方が人として健全だろう。まぁ、その健全を気
 
に入らない人間が邪魔してくるんだけどね。 
 
 
 《善い人と正義の人に警戒を怠ってはならない!
 
彼らは、みずからの徳目(個人の平和)を考え出そう
 
とする人々を十字架にかけるからだ・・》 ニーチェ
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2026年4月3日金曜日

フランケンシュタインの怪物

 
 
 この前 You Tube で心地の良い動画を見た。自然の
 
景色に、アコースティックで心地の良い女性ボーカル
 
のプレイリストを合わせてある。Priscilla Ahn に似
 
た感じの癒やされる音楽・・・。「誰が歌っているん
 
だろう」と概要欄などを見るが曲名しか載っていな
 
い。グーグルの音声検索にかけてもヒットしないし、
 
コメント欄にも同様のコメントがされている・・・ど
 
うやら AI 生成らしい。
 
 そうなると、途端に興醒めする。AI 生成の音楽に良
 
い気分になんかさせられたくないという思いがある。
 
けれど、知らなければそれで通ってしまうのだから、
 
こだわる必要もないはずなんだが・・・。 
 
 
 AI というのは、膨大な音声データを組み合わせて音
 
楽を作るが、それはいわば“フランケンシュタインの
 
怪物”のようなものだろう。
 
 AI の作り出すものは、つぎはぎがまったく分から
 
ず、見た目もとても美しくできている・・・けれど
 
も、それは死体のパーツを組み合わせてカミナリのエ
 
ネルギーで命(?)を吹き込んだ“フランケンシュタ
 
インの怪物”と本質的に同じだろう(電気のパルスで
 
命を与えるというところも同じだ)。
 
 
 フランケンシュタインのお話しが、「命とは何
 
か?」「人とは何か?」と問いかけるように、AI が生
 
成するものは、「文化とは何か?」「楽しみとは何
 
か?」とわたしたちに問いかける。
 
 
 今回私が聴いた曲はすべて英語の曲だったので、意
 
味がよく分からないし、英語での作詞で美しい表現が
 
どういうものかもネイティブのようには分からないか
 
ら、気分良く聴いていた。けれど、これが日本語の詞
 
なら「型通りでつまらん」と思ったかもしれない、演
 
歌や J-POP のように。
 
 しかし、とにかく私は「良いな」と思ってしまっ
 
た。そして自分がそう感じてしまったことが気に入ら
 
ない。ペテンに掛かったように感じる。それは『マト
 
リックス』でネオが赤い錠剤を飲む気持ちにつながっ
 
ているだろう。
 
「作り物ではない世界が見たい・・・」
 
 
 そもそも世の中は作り物だけど、音楽というものは
 
踊りと共に文化の中で最もプリミティブなもので、ス
 
トーリーを介さずに、感性に直接訴えかけることもで
 
きるものだ。それがここまで作り物になってしまうの
 
はとても気持ちが悪い。AI 生成の音楽ばかりになって
 
誰もがそれに取り囲まれても、それが普通で何も思わ
 
ないのならば、それは『マトリックス』の世界ではな
 
いか。
 
 
 いまやデジタルの世界には、フランケンシュタイン
 
博士がゴロゴロ居て、彼らの作りだした“美しいフラ
 
ンケンシュタインの怪物”がそこら中で微笑んでいる
 
(暴れてもいる)。

 
 「文化とは?楽しみとは?」
 
 「命とは?人とは?」 
 
 
 考えてみるのか、考えないでいくのか。
 
 青い錠剤を飲むのが間違いとは言えないが・・・。 
 
 
 
 
 
  

2026年3月15日日曜日

「仮説」でめぐる旅

 
 
 《 「正しい」とは、
 
   そういう事にしておけば気が済むということ 》
 
 
 このブログでもう何度となくそう書いてきた。それ
 
は言い換えると《 人が語ることはすべて仮説 》とも
 
言える。
 
 
 わたしたちは言葉を使ってものを考える。言葉は考
 
えを伝えるために有って、ひとりでものを考えて他人
 
に伝えない場合でも、自分の中で自分に伝えるために
 
ものを考えている。そして伝えるためにはお話し   
 
つまり「説」にしなければ伝わらない。
 
 
 例えば誰かに向かって「スイカ」と言ったとしよ
 
う。おそらく「だから何?」と言われてしまう。「ス
 
イカを食べたい」などと言葉をつないでお話しにしな
 
ければ話にならない。つまり、わたしたちは考え、伝
 
えるときに常にお話し  「説」を作る。そしてお互
 
いに「説」をやり取りし、自分のアタマの中でも
 
「説」をやり取りするうちに、その「説」が思考と人
 
間関係の基準になってゆるがせにできないものにな
 
る。「説」が「現実」になってしまう。
 
 
 けれど、「説」はすべてアタマが設定した仮設のも
 
  「仮説」でしかない。言葉は記号であって、指
 
し示すその物・事をそのまま伝えられないのだから常
 
に本当の世界との間に齟齬がある。
 
 ところがアタマは不安を消すために、そこにある齟
 
齬を無視する。「説」は自分のアタマの中のぐるぐる
 
回しか、人と人のアタマ同士のやり取りの中で「現
 
実」として扱われはじめる。そのようにして宗教が生
 
まれ、オカルトが生まれ、陰謀論が生まれ、学問が生
 
まれ、政治が生まれ、科学が生まれ、世の中が形作ら
 
れる。
 
 世の中からトラブルが無くならないのは、トラブル
 
というものは「仮説」と本当の物・事の間にある齟齬
 
が顕在化したものだからだ。そして「仮説」を「現
 
実」と捉える度合いが大きくなるほど、トラブルも大
 
きくなる。生きていることが大ごとになり、「仮説」
 
を生きることになる。
 
 
 わたしたちが考えていることはすべて「仮説」(こ
 
のブログも)。世の中で生きることは「仮説」でめぐ
 
る旅のようなものだ。そのことを忘れ、無視すればす
 
るほど、生きることの面倒さは増えてゆく。
 
 もちろん何も考えずに生きてゆくことは不可能だ。
 
でも、世の中は「仮説」によって形作られ動いている
 
ことをわきまえていないと、世の中のお話しに引きず
 
り回されることになる。
 
 
 途上国などでは、列車の外の手すりにつかまってい
 
る乗客がいる。日本でも昔はそうだった。あんな感じ
 
で世の中に乗っかっていれば、「変だぞ?」「危ない
 
な・・」と感じたときに、「さっ」と降りられる(寒
 
かったり、雨に濡れたりするだろうが・・・)。
 
 そんな風に世の中の「仮説」に乗りながら人生をめ
 
ぐって行くのは、面白いだろうし、人として望ましい
 
姿だろう。
 
 
 
 

2026年3月11日水曜日

未来を描くと

 
 
 ずいぶん前に「一寸先は透明」という言葉を使った
 
ことがある(『一寸先は闇か?』2022/9)。一寸先は透
 
明、未来は透明、意識上の物語を介入させなければ、
 
未来に何も見えはしない。

 
 わたしたちはごく当たり前に未来を思い描く。未来
 
に意識を向けると、自動的に物語を生成してしまう。 
 
ポジティブだったりネガティブだったり、期待したり
 
恐れたり、その都度物語の傾向は違うけれど、その違
 
いは未来に意識を向けた時点での気分に決定付けられ
 
る。今上機嫌ならポジティブな未来像を、今不安なら
 
不安な未来像を生成する。
 
 いずれにしても、その未来像は今の自分の気分が作
 
り出す幻影でしかないけれど、バカげたことに、自分
 
が作り出した幻影に実際の自分の行動が影響を受けて
 
しまう。良くも悪くも無意識に自らが生成した幻影
 
に、自分の未来を方向付けられてしまう。
 
 何の未来像も生成されなかった場合に訪れるはずだ
 
った未来は訪れることはなく、それがどのようなもの
 
なるはずだったかは知る由もない。わたしたちに訪れ
 
る未来のほとんどは、今の気分によって汚されたもの
 
だ。
 
 
 わたしたちは、今の気分に汚されていない未来をど
 
れほど受け取っているだろうか?
 
 期待も不安も無く、欲望や拒否からも自由なままに
 
未来を待つことがどれだけあるだろうか? 
 
 
 透明な未来を受け取ると、それは透明な今になる。
 
そして透明な今には、必然的に透明な未来がやって来
 
る。詩的な表現に過ぎるかもしれないけれど、そうな
 
るはずだ。
 
 
 わたしたちのアタマの介入しない未来を受け取るの
 
はどんな気分だろうか・・・。
 
 
 誰もそんなことを考えたりしないだろうけれど、
 
やってみる価値のあることだと私は思う。 
 
 
 
 

2026年2月28日土曜日

わざわざ眠らなくても・・

 
 
 今日テレビを点けると、睡眠にまつわる話題をやっ
 
ていて、神戸で行われたイベントを紹介していた。
 
 大きな会場で室内オーケストラが人を眠りに誘う演
 
奏をしてくれて、飲み物と少しの食べ物が出され、そ
 
れぞれが用意されたハンモック・ビーズクッション・
 
リクライニングチェアに横になって眠る。料金は80
 
00円から12800円で、数年前から行われていて
 
チケットが取りにくいほど人気だそうだけど「世も末
 
だな」と思う。眠ることがイベントになるほど、現代
 
の日本人はアタマでっかちになっている。
 
 
 とは言いながら、私も山を歩いては気分の良いとこ
 
ろで昼寝をするということを長く楽しんで来たのだか
 
ら、〈目くそ鼻くそを笑う〉ということなのかもしれ
 
ない。まぁ、人に企画してもらったりしてたんじゃな
 
いから、大分違うだろうとは思うけどね。 
 
 
 今の人たちはとてもイベントが好きなようだけど、
 
私はそもそもイベントが好きじゃない。よっぽど興味
 
があることでないとそういう所へ出向かないし、並ば
 
なければならなかったり、同じ気分の共有を求められ
 
そうな場合は、興味があっても行かない。
 
 
 「こういうの良いでしょ?」
 
 「これが必要じゃありませんか?」
 
 「多くの人が楽しんでますよ!」
 
 
 そういう誘いの言葉が目の前に浮かんでくるような
 
ことは、生理的に受け付けない。“仲良しこよしはな
 
んだか怪しい”(©井上陽水)。退屈でも家で寝てる方
 
がいい。お金も要らないし。 
 
 
 随分前に『くつろぐ』(2023/4)という話を書いた
 
こともあるけれど、現代人は誰かにくつろぎを用意し
 
てもらったり、くつろぎ方を教えてもらったりしなく
 
てはならないほど、自分の感覚と意識の繋がりが切れ
 
ているらしい。
 
 どれだけ眠れているかをアプリで数値化して、睡眠
 
を管理しようとする。そんな自分に疑問を持たない様
 
子を見て、私なんぞは驚いてしまう。「いや、眠く
 
なったら眠ればいいし、眠りたいだけ眠ればいいや
 
ん」と。

 
 「仕事があるから眠りたいだけ眠ったりできない」
 
とか言う。
 
 「ホントに身体を壊しそうなぐらいなら、仕事を辞
 
めたら?死んじゃうよ」「続けていられるのなら、ま
 
だ大丈夫なんでしょうよ」と思う。 
 
 
 「わたしは不眠症なんだ」とか言う。
 
 「眠れないなら起きていればいいじゃないか」と思
 
う。 
 
 
 アタマ優位が過ぎて、身体に任せられない様になっ
 
ているだけでしょう(ごく一部には、何か病的な原因
 
もあるでしょうが)。
 
 私もとても眠りが浅いし、よく目が覚めてしまうの
 
で睡眠時間も短い。けど、自分はそういうタイプで、
 
それで一応暮らして行けてるし、本当に疲れた時は起
 
きていたくても起きていられない。何もしなくても
 
グッスリ眠ってしまう。そこは身体におまかせしてい
 
れば済むことだと思っている。
 
 
 アタマに主導権を渡すと、眠れない、くつろげな
 
い。身体が「眠ろう」「くつろごう」と訴えても、ア
 
タマという管理者がせせら笑う「オレが都合の良いよ
 
うにしてやるよ」。
 
 
 不眠症の人は、アタマのスケジュールで眠ろうとす
 
るから苦しむんですよ。私も昔はそうだったけど、そ
 
れに気が付いただけで随分楽になった。「アタマは
 
“眠らなきゃ”と言ってるけど、身体がそう感じてい
 
ないようだから起きてりゃいいか。そのうち限界が来
 
たら自然に眠るだろう」と思うようになった。
 
 アタマが「明日も仕事だぞ!眠れ!眠れ!」と言っ
 
たところで、眠れないものは仕方がない。「静かにし
 
てな。余計に疲れる」とアタマに言い返す。そうやっ
 
て20年ほど過ごしたけど、別に健康を害したりしな
 
かった。
 
 
 アタマはすぐに身体の方針に口出しする。その声が
 
ある程度社会にアップロードされると、イベントの告
 
知に姿を変えたりする。
 
 「ご用意しました!眠りましょう!くつろぎましょ
 
う!楽しみましょう!」 
 
 需要と供給が生まれ、社会が動くことができる(商
 
売になる)けれど、そんなこと身体には関係ない。
 
 
 一事が万事、アタマが口出ししてきても、社会が誘
 
い文句を言ってきても、身体や気分の内情に合わなけ
 
れば私は真に受けない。けど、無視もしない。
 
 「言いたいことは分かった。検討しておくよ」
 
 アタマも身の内、無礙にするのも可哀想だから。
 
 
  
 
  

2026年2月23日月曜日

ユートピアが生まれないわけ

 
 
 三週間ほど前から、You Tube で日本のライブカメラ
 
をリレーしてゆくチャンネルをよく観る。海外の人の
 
チャンネルだけど、日本国内の60箇所ぐらいのカメ
 
ラをループしてゆくもので、けっこう質の良いジャズ
 
と合わせているので楽しめる。人間が出てきて喋った
 
りしないので、鬱陶しくなることがないのが良い。
 
 
 毎日観ているけど、昨日築地のカメラで映した夜景
 
を「本当にSF映画のようだ」と思いながら観てい
 
て、気付いたことが有った。 
 
 SF映画で描かれる未来は、荒廃した世界か高度に
 
管理された社会で、いずれにしてもディストピアとし
 
て描かれる。たぶん、SF以外も含めたこれまでのど
 
んな映画でもユートピアが描かれたことはないだろ
 
う。描かれていても、それは人が個性や人間らしさを
 
失ったディストピアとして描かれてきたはずだ。しか
 
し、なぜ真のユートピアは描かれないのか。 
 
 
 答えはすぐに見つかった。ユートピアではお話が作
 
れないのだ。平和で満ち足りた世界に語るべきお話が
 
生まれるわけがない。お話が生まれ、進行するにはト
 
ラブルが必要だから。
 
 それに気付いたときに、現実の社会がユートピアに
 
ならない理由も分かった。わたしたちのアタマはお話
 
の中でしか存在できないので、社会のトラブルが無く
 
なるとお話もなくなり、アタマは存在できなくなって
 
しまう。アタマはユートピアを恐れているのだ。
 
 
 科学技術がこれほど発達した現在なら、ある程度の
 
問題を容認するなら、社会は安定し平和になるはず
 
だ。けれども人は、精神的にも物理的にも新しいもの
 
を求め、次のフロンティアを目指す。その理由はさら
 
なる発展の為というように言われるが、本当の理由は
 
違うだろう。新しいことを始め、未知なる世界へ赴け
 
ば、そこには必ずトラブルが待っている。そして、ア
 
タマが存在価値を持てる新たなお話が生まれる。アタ
 
マはトラブルを欲している。
 
 
 アタマはユートピアを求めていない。何も問題のな
 
い場所や時間は忌むべきものなのだ。わたしたちが退
 
屈をとても嫌うのは、アタマが存在意義を失うから
 
だ。
 
 
 ライブカメラに映る東京や大阪の夜景はまったくサ
 
イバーパンクで、『アキラ』や『ブレードランナー』
 
の時代設定をもう過ぎている。けれど、幸いなことに
 
現実はまだディストピアにはなっていない。日本は平
 
和だ。今後も当分はディストピアにはならないだろ
 
う。しかしユートピアになることもない。上手くいっ
 
ても、程々の不安と不快感は維持される。アタマが
 
ユートピアを嫌う限り・・・。つまり、社会は永遠に
 
ユートピアを生まない。ユートピアはアタマの支配の
 
外にしかない。