2026年2月28日土曜日

わざわざ眠らなくても・・

 
 
 今日テレビを点けると、睡眠にまつわる話題をやっ
 
ていて、神戸で行われたイベントを紹介していた。
 
 大きな会場で室内オーケストラが人を眠りに誘う演
 
奏をしてくれて、飲み物と少しの食べ物が出され、そ
 
れぞれが用意されたハンモック・ビーズクッション・
 
リクライニングチェアに横になって眠る。料金は80
 
00円から12800円で、数年前から行われていて
 
チケットが取りにくいほど人気だそうだけど「世も末
 
だな」と思う。眠ることがイベントになるほど、現代
 
の日本人はアタマでっかちになっている。
 
 
 とは言いながら、私も山を歩いては気分の良いとこ
 
ろで昼寝をするということを長く楽しんで来たのだか
 
ら、〈目くそ鼻くそを笑う〉ということなのかもしれ
 
ない。まぁ、人に企画してもらったりしてたんじゃな
 
いから、大分違うだろうとは思うけどね。 
 
 
 今の人たちはとてもイベントが好きなようだけど、
 
私はそもそもイベントが好きじゃない。よっぽど興味
 
があることでないとそういう所へ出向かないし、並ば
 
なければならなかったり、同じ気分の共有を求められ
 
そうな場合は、興味があっても行かない。
 
 
 「こういうの良いでしょ?」
 
 「これが必要じゃありませんか?」
 
 「多くの人が楽しんでますよ!」
 
 
 そういう誘いの言葉が目の前に浮かんでくるような
 
ことは、生理的に受け付けない。“仲良しこよしはな
 
んだか怪しい”(©井上陽水)。退屈でも家で寝てる方
 
がいい。お金も要らないし。 
 
 
 随分前に『くつろぐ』(2023/4)という話を書いた
 
こともあるけれど、現代人は誰かにくつろぎを用意し
 
てもらったり、くつろぎ方を教えてもらったりしなく
 
てはならないほど、自分の感覚と意識の繋がりが切れ
 
ているらしい。
 
 どれだけ眠れているかをアプリで数値化して、睡眠
 
を管理しようとする。そんな自分に疑問を持たない様
 
子を見て、私なんぞは驚いてしまう。「いや、眠く
 
なったら眠ればいいし、眠りたいだけ眠ればいいや
 
ん」と。

 
 「仕事があるから眠りたいだけ眠ったりできない」
 
とか言う。
 
 「ホントに身体を壊しそうなぐらいなら、仕事を辞
 
めたら?死んじゃうよ」「続けていられるのなら、ま
 
だ大丈夫なんでしょうよ」と思う。 
 
 
 「わたしは不眠症なんだ」とか言う。
 
 「眠れないなら起きていればいいじゃないか」と思
 
う。 
 
 
 アタマ優位が過ぎて、身体に任せられない様になっ
 
ているだけでしょう(ごく一部には、何か病的な原因
 
もあるでしょうが)。
 
 私もとても眠りが浅いし、よく目が覚めてしまうの
 
で睡眠時間も短い。けど、自分はそういうタイプで、
 
それで一応暮らして行けてるし、本当に疲れた時は起
 
きていたくても起きていられない。何もしなくても
 
グッスリ眠ってしまう。そこは身体におまかせしてい
 
れば済むことだと思っている。
 
 
 アタマに主導権を渡すと、眠れない、くつろげな
 
い。身体が「眠ろう」「くつろごう」と訴えても、ア
 
タマという管理者がせせら笑う「オレが都合の良いよ
 
うにしてやるよ」。
 
 
 不眠症の人は、アタマのスケジュールで眠ろうとす
 
るから苦しむんですよ。私も昔はそうだったけど、そ
 
れに気が付いただけで随分楽になった。「アタマは
 
“眠らなきゃ”と言ってるけど、身体がそう感じてい
 
ないようだから起きてりゃいいか。そのうち限界が来
 
たら自然に眠るだろう」と思うようになった。
 
 アタマが「明日も仕事だぞ!眠れ!眠れ!」と言っ
 
たところで、眠れないものは仕方がない。「静かにし
 
てな。余計に疲れる」とアタマに言い返す。そうやっ
 
て20年ほど過ごしたけど、別に健康を害したりしな
 
かった。
 
 
 アタマはすぐに身体の方針に口出しする。その声が
 
ある程度社会にアップロードされると、イベントの告
 
知に姿を変えたりする。
 
 「ご用意しました!眠りましょう!くつろぎましょ
 
う!楽しみましょう!」 
 
 需要と供給が生まれ、社会が動くことができる(商
 
売になる)けれど、そんなこと身体には関係ない。
 
 
 一事が万事、アタマが口出ししてきても、社会が誘
 
い文句を言ってきても、身体や気分の内情に合わなけ
 
れば私は真に受けない。けど、無視もしない。
 
 「言いたいことは分かった。検討しておくよ」
 
 アタマも身の内、無礙にするのも可哀想だから。
 
 
  
 
  

2026年2月23日月曜日

ユートピアが生まれないわけ

 
 
 三週間ほど前から、You Tube で日本のライブカメラ
 
をリレーしてゆくチャンネルをよく観る。海外の人の
 
チャンネルだけど、日本国内の60箇所ぐらいのカメ
 
ラをループしてゆくもので、けっこう質の良いジャズ
 
と合わせているので楽しめる。人間が出てきて喋った
 
りしないので、鬱陶しくなることがないのが良い。
 
 
 毎日観ているけど、昨日築地のカメラで映した夜景
 
を「本当にSF映画のようだ」と思いながら観てい
 
て、気付いたことが有った。 
 
 SF映画で描かれる未来は、荒廃した世界か高度に
 
管理された社会で、いずれにしてもディストピアとし
 
て描かれる。たぶん、SF以外も含めたこれまでのど
 
んな映画でもユートピアが描かれたことはないだろ
 
う。描かれていても、それは人が個性や人間らしさを
 
失ったディストピアとして描かれてきたはずだ。しか
 
し、なぜ真のユートピアは描かれないのか。 
 
 
 答えはすぐに見つかった。ユートピアではお話が作
 
れないのだ。平和で満ち足りた世界に語るべきお話が
 
生まれるわけがない。お話が生まれ、進行するにはト
 
ラブルが必要だから。
 
 それに気付いたときに、現実の社会がユートピアに
 
ならない理由も分かった。わたしたちのアタマはお話
 
の中でしか存在できないので、社会のトラブルが無く
 
なるとお話もなくなり、アタマは存在できなくなって
 
しまう。アタマはユートピアを恐れているのだ。
 
 
 科学技術がこれほど発達した現在なら、ある程度の
 
問題を容認するなら、社会は安定し平和になるはず
 
だ。けれども人は、精神的にも物理的にも新しいもの
 
を求め、次のフロンティアを目指す。その理由はさら
 
なる発展の為というように言われるが、本当の理由は
 
違うだろう。新しいことを始め、未知なる世界へ赴け
 
ば、そこには必ずトラブルが待っている。そして、ア
 
タマが存在価値を持てる新たなお話が生まれる。アタ
 
マはトラブルを欲している。
 
 
 アタマはユートピアを求めていない。何も問題のな
 
い場所や時間は忌むべきものなのだ。わたしたちが退
 
屈をとても嫌うのは、アタマが存在意義を失うから
 
だ。
 
 
 ライブカメラに映る東京や大阪の夜景はまったくサ
 
イバーパンクで、『アキラ』や『ブレードランナー』
 
の時代設定をもう過ぎている。けれど、幸いなことに
 
現実はまだディストピアにはなっていない。日本は平
 
和だ。今後も当分はディストピアにはならないだろ
 
う。しかしユートピアになることもない。上手くいっ
 
ても、程々の不安と不快感は維持される。アタマが
 
ユートピアを嫌う限り・・・。つまり、社会は永遠に
 
ユートピアを生まない。ユートピアはアタマの支配の
 
外にしかない。
 
 

 
 
 
 

2026年2月21日土曜日

時間と共に

 
 
 この前「時間のムダ」ということでブログを書いた
 
けど、あんなブログを読むことなんか、それこそ時間
 
のムダだと大半の人が思うだろう。時間は有効に使わ
 
なくちゃいけないと・・。しかし、どういうのが時間
 
を有効に使うことなんだろうか?
 
 まぁ仕事をしている最中なら効率が求められるし、
 
スケジュールもあるから、何が有効かという判断はつ
 
けられる。でもそれ以外ではどんなことが時間を有効
 
に使うことになるのか?
 
 
 私は毎日することが無い。していることは、家事と
 
家の手入れ、花の世話、それだけ・・・、残りの時間
 
は暇なだけで、なんとなくそのときに気が向くことを
 
している。こういうのは時間を有効に使っていないの
 
だろうか?
 
 
 時間を有効に使う・・・、時間というものは「使う
 
もの」だろうか? 使えるものだろうか?
 
 時間を使っているつもりで、時間に脅迫され、時間
 
に使われているんじゃないだろうか? 

 
 「さぁ、タイムリミットが近付いてますよ。何かし
 
なくちゃいけないんじゃないですか?」
 
 時計やカレンダーにそういう圧をかけられて、本当
 
はする必要がないことを多くの人がしているんじゃな
 
いでしょうか? 
  
 
 時間を有効に使おうと考える人は、生きてることを
 
仕事にしてしまっているんでしょう。プライベートで
 
もさまざまな予定がカレンダーを埋めていたりして、
 
常に何かをして時間を無為に過ごさないようにするの
 
でしょう。そして、別に時間を有効になんて考えてい
 
ない人でも、無意識に時間を埋めようとしてしまうこ
 
とが多いでしょう。
 
 
 「空いてる時間の、“空いてる感じ”を味わってみ
 
よう」なんてことを考える人はいないんでしょうけ
 
ど、なんだか面白そうだと思いませんか?
 
 時間を使うのでも、時間に使われるのでもなく、た
 
だ時間と共に過ごしてみる・・・。
 
 きっと、時間の本来の姿が見えてくるように思いま
 
す。
 
 
 
 
 

2026年2月16日月曜日

待たない

 
 
 わたしたちはいつも何かを待っている。
 
 人を待つ、電車を待つ、頼んだ荷物を待つ、試験の
 
結果を待つ、給料日を待つ、お湯が沸くのを待つ···。
 
様々なものを待つけれど、不快なことや苦しいことを
 
待つことはない。待っているのは、常に肯定的なこと
 
です。
 
 
 待てど暮せど来ぬ人を 
 
 宵待草のやるせなさ
 
 今宵は月も 出ぬそうな    
 
                 『宵待草』
 
 
 待っているものは来ない。月さえ出ない。愛想の無
 
い詞を書いたのは竹久夢二ですけど、いくら待っても
 
来ないものには、いずれこちらの愛想も尽きる。・・
 
もういいわ・・・。でも、またすぐに何かを待つ。
 
 
 待たないようにするというのはどんなもんだろう?
 
 なるべく待つことのないように暮らしてゆくのはど
 
んな感じだろう?
 
 
 待つということは、人や事に何かをゆだねること
 
で、暮らしている限りそれは避けられない。けれど可
 
能な限り、待つ気持ちを持たずに、ゆだねたら後はお
 
まかせで自分の都合は無しにする・・・。そうすると
 
何が起こるでしょうか? きっと開放される。
 
 
 世の中にはちゃらんぽらんな人もいるもので、そう
 
いう人は待ったり待たせたりに気を使わない。関わる
 
人は困らされるが、当人は気楽なものです。ですが、
 
そういう人もある面ではこだわりが強くてイライラし
 
たりするものです。すべてにちゃらんぽらんな人は、
 
まずいません。そういう人は社会に淘汰されてしまい
 
ますからね。
 
 しかし、そういう人の在り方は学ぶべきところがあ
 
ると思います。
 
 
 待つことは未来に縛られることです。待つことで今
 
に規制が掛かりますが、誰かとの契約・約束でなけれ
 
ば、その規制は自分自身が生み出しています。自分が
 
気にしなければ縛られることはない。
 
 わたしたちは、必要以上に待つことを増やして自分
 
を縛っているでしょう。待つことで、心の何割かを未
 
来に持ち出しているでしょう。
 
 その結果手に入るもの、それはワクワクかもしれま
 
せんし、ヤキモキかもしれません。結構な確率でイラ
 
イラでもあるでしょう。いずれにせよ、その分の今は
 
欠けてしまう。そして、また次の何かを待つ・・・。
 
 今が欠けたままの時間が続いてゆくことになりま
 
す。
 
 
 一日の中で、自分がどれ程「待つ」という意識でい
 
るかを考えてみると、「自分はこんなにあれやこれや
 
と四六時中何かを待っているのか・・・」と驚くこと
 
でしょう。果たしてそれは妥当なことなのか?必要な
 
ことなのか?
 
 
 「ちょっと、待たないでいてみよう」
 
 そう意識して、ほんの10分ほど待たないようにして
 
みるだけで、これまで感じたことが無いような感覚が
 
あると思います。
 
 
 「え?なんだか自由な気がするぞ🤔」 
 
 きっと、そういう感じがあるでしょう。
 
 やってみる値打ちのある実験だと思いますよ。
 
 
 
 
 
 
  
  

2026年2月12日木曜日

時間のムダ

 
 
 「時間は存在しない」なんていう話も以前書いてい
 
るけれど(『〈永遠の生命〉をさしあげます!』
 
2017/9)、社会的には時間は重要な要素として存在し
 
ている。時間をムダにしてはいけないと私も思う。効
 
率良く物事を進めることは良いことだ。けれども、効
 
率の良さによって確保できる時間が、何に使われるか
 
ということは問題だ。
 
 
 現代人は、効率よく物事を進めた結果、手に入れた
 
時間を時間潰しをすることに使うか、「さらに効率を
 
上げるためにはどうしたらよいか?」と考えることに
 
費やしているように見える。これほどの時間のムダは
 
無いと思うが、違うだろうか?
 
 
 いったい何がしたいのだろう?
 
 
 そんなこと考えるまでもない。
 
 したいことなんか無いのだ。
 
 何をしていいかわからないのだ。
 
 何をすべきか知らないのだ。
 
 そのことが不安を生むからとにかく何かをするだけ
 
だ。 
 
 
 効率を高めると、時間の隙間が埋まる。隙間が埋ま
 
ると、自分が何をすべきか分かっていないことに意識
 
が向く余地が無くなるので不安が減る。けれど、効率
 
を高めると時間が圧縮され、そのぶん時間の余白がで
 
きるので、そこに不安が滲み出してくる。するとその
 
余白を埋めるために、仕方がないので何かをして時間
 
を潰すが、そこに見える隙間を埋めようとまた効率を
 
上げる。その止むことなき人間の活動が、文化を生
 
み、都市を作り出した。人類史は壮大な時間のムダ使
 
いだ。
 
 
 が、その“時間のムダ使い”の隙間からのぞく、い
 
わゆる「時間のムダ」とされるところに目を向ける人
 
たちがいる。「“時間のムダ使い”の隙間に見えるも
 
のなら、それはムダな時間ではないだろう」と気付く
 
人たち。
 
 物と事で埋め尽くされる時間から身をかわし、時計
 
でカウントされるものとは違う時間に身を浸す。刻ま
 
れていない時間の中に在る世界を眺め、感じ取る人た
 
ち。そういう人たちは、時間をムダにしようがない。
 
時間が定量化されていないのだから。
 
 
 刻まれることなく、定量化されることのない時間を
 
どう呼んでいいのか? 私には分からない。
 
 言葉は分けられないものを表現できない。しかたが
 
なく、昔の人は苦し紛れに「空」とか「無」とか呼ん
 
だ。その言葉にできないものの中にわたしたちの世界
 
が在り、私たちが生きている。
 
 本当は時間をムダにすることなどできない。「時
 
間」というもの自体がムダなのだ。社会では通用しな
 
い話だけれど。
 
 
 
 
 
  

2026年2月11日水曜日

報われないのは誰か?

 
 
 「真面目にやっているのに報われない」
 
 「努力しているのに報われない」
 
 
 誰かのことをそう評して、気の毒だと言ったりす
 
る。自分のことを振り返って理不尽だと思ったりす
 
る・・・。よくある話で、実際気の毒な人もいる。け
 
れど、世の中は世の中の力学や必然性によって動くの
 
で、個人の望みは世の中の流れに嵌まらなければ成就
 
しない。
 
 気の毒ではある。が、私は報われない人にはもちろ
 
ん、報われた人にも尋ねたいことがある。
 
 「自分には報いたでしょうか? 」
 
 「自分に報いるために何かしたでしょうか?」
 
 
 アタマは自分の望みを叶えようと活動する。その対
 
価として外(世の中)から報いがあると期待する。そ
 
の視線は外を向いている。けれど、アタマの背後には
 
忘れ去られた自分がいる。振り向いてもらえない自分
 
がいる。その自分に報いなくていいのでしょうか?
 
 
 アタマは自分の一部なのに、世の中の端末としてば
 
かり機能して自分を顧みない。アタマが働いて報われ
 
ても、報われなかっても、どちらにしろ自分は報われ
 
ない。放ったらかしのままにされる。それがわたした
 
ちが満足して落ち着くことなく、不安を払拭しきれな
 
いまま生きている原因です。
 
 アタマが世の中で報われようとしているあいだ、そ
 
の後ろで自分は黙ったまま立ち尽くしている。お預け
 
を食らったまま待っている。声にできない期待を抱え
 
たまま。
 
 
 自分は何を望んでいるのか?
 
 実は大したことは望んでいない。
 
 
 ただ、振り返ってほしい。
 
 後ろにいるということを分かっておいてほしい。
 
 分かっていてくれるなら、それでいい。
 
 それだけで、自分は報われる。
 
 
 それだけでいいのに、自分に報いている人は驚くほ
 
ど少ないと見受けられる。








 
 

2026年2月2日月曜日

表現にまつわるさだめ

 
 
 もうブログを始めて丸9年になる。なにもわからず
 
に発作的に始めたので、9年なんてウソみたいな感じ
 
がする。書く内容も5年ほど前から同じようなことば
 
かりになっているので、恥さらしな感じもするけれ
 
ど、物を書き続けるとか何かを作り続けるというのは
 
そういうものなので、まぁいいんじゃないかと思う。
 
 
 「寄せては返す波の音」
 
 山本夏彦さんは自身の著作活動をそう評した。同じ
 
ことばかり書いてると。けれども、それは山本さんに
 
限ったことでもない。なにかを表現する人は、その人
 
の視点・感覚でしかものを捉えられないし、表現の手
 
法もその人のスタイルから出ることはできないので、
 
長く続けるほどに、同じことの繰り返しになってしま
 
う。もしそこが変わるのなら、そもそも上っ面の表現
 
をしていたのであって、その表現には“その人”が存
 
在していない。血が通っていない。
 
 
 そういうことではなくて、表現のスタイル・内容が
 
大きく変化することもあるが、それは何か本質的な変
 
化がその人に起きた場合だ。何らかの大きな出来事に
 
会って、従来の価値観がぶち壊されたとき人は大きく
 
変わる。 
 
 あるいは、それまでのスタイルを維持することに疲
 
れてしまって、楽な方へシフトするときも変わるけれ
 
ど、こちらの方はあまり良い結果にならない。
 
 
 こういうことを書いていると桑田圭佑の顔が浮か
 
ぶ。サザンのデビュー以来「天才だ!」と思って桑田
 
の曲を聞き続けていたけど、『白い恋人達』以降は聴
 
かなくなった。毒を吐かなくなったからだ。さらにメ
 
ロディーも手練手管で作るようになったと感じて、私
 
は急激に冷めてしまった。いまだに残念に思っている
 
が、同じことはあらゆる表現者に起きるし、仕方がな
 
いことだ。 
 
 桑田の場合は、これまでに無い表現を生み出すこと
 
時代的に不可能になったというタイミングも大きい
 
だろうけど、毒を吐かなくなったのはなぜなのかと不
 
思議だ。何か個人的に大きなことがあったのだろうな
 
と思っている。
 
 
 長く表現を続ける人には、そういう撤退やマンネリ
 
のどちらかが起こる。どちらもが起こることもある。
 
が、そういうことは当人の能力や責任とは別の話だ。
 
それは遅かれ早かれ起こる。必然であって避けられな
 
いのだ。
 
 けれど、撤退はともかく、マンネリはものともせず
 
に続けるのが望ましい。表現しようという意欲が無理
 
なく出てくるのなら、むしろその表現はされるべきだ
 
ろう。
 
 
 私には30年以上、幾度となく読み返している本が
 
いくつも有る。それらの本の持つムードのようなもの
 
に浸ることで、自分の感覚が安定する(下手をすれ
 
ば、自己暗示のタコツボにはまり込む危険があるけ
 
ど)。すでに暗記してしまっている文章を読んで、あ
 
らたな発見もあったりする。血が通ったものは古くな
 
らない。
 
 
 確かゲーテが言っている。
 
 「充分に読め。が、沢山読むな」
 
 
 誰の言葉か忘れたけれど、こういうのも有る。
 
 「多くの女を愛した男より、ひとりの女を愛し続け
 
た男の方が、より深く女というものを知っている」
 
 
 本であれ何事であれそうだろう。
 
 
 だから表現する者はあれこれ考えずに“自分なり”
 
にまかせてゆけばいいのだろう。その方が、そこに血
 
が通う。
 
 
 自分が掘った深さだけ、その表現は誰かの深いとこ
 
ろに触れるだろうけれど、自分の深いところに触れた
 
くない人は、深く掘られた表現を避ける。そして浅い
 
人生を生きる。
 
 いつまでかは知らないけれど、まだしばらく、私は
 
世の中のお話を掘り返してゆくのだろう。そこを覗き
 
込みたい人は必ずいるはずだから。
 
 私がしていることは、表現というより解体作業だろ
 
うと思うが、人は工事現場に通りかかると、覗き込み
 
たくなるものだから。