2026年9月5日土曜日

「無印良品」

 
 
 
 今回のタイトルは、別に『無印良品』の商品や会社
 
の話をしようというのではなく、「『無印良品』とい
 
う四文字は立派な仏教用語になるな」と思ったので、
 
それを書いてみようと思った次第です。
 
 
 「無印良品」と書いて、「印(しるし)無きは、良
 
品(りょうぼん)なり」と読んでみる。
 
 「印」=「ラベル」として、「ラベルが無い」とす
 
る。
 
 
 わたしたちはあらゆることにラベルを貼る。
 
 良い・悪い、きれい・汚い、賢い・馬鹿、上手・下
 
手、偉い・偉くない・・・四六時中ラベルを貼る。
 
 信号が青に変わったのに、前の車が発進しない。
 
 「なんだ馬鹿野郎・・・」
 
 一瞬でラベルを貼る。そのラベル貼りが何をもたら
 
すかなんて、まず考えたりしない。
 
 
 次に「良品」とは何か?
 
 「品」は仏教では「ぼん」と読む。
 
 「上品・中品・下品」(じょうぼん・ちゅうぼん・
 
げぼん)と3つある。 
 
 さらにそれぞれの「品」の中で「上生・中生・下
 
生」(じょうしょう・ちゅうしょう・げしょう)と分
 
かれて、9つのランクができる。「上品上生」「下品
 
下生」などとなる。
 
 これは現世での救われ方のランクというようなもの
 
で、「上品上生」なら菩薩のような人で、現世でほぼ
 
救われている。逆に「下品下生」となると、極悪非道
 
な悪人や自分のことしか考えない我利我利亡者という
 
ことになり、地獄へ直行という具合。そこから、世間
 
では救いのない人間を「下品(げひん)」と言う。
 
 
 この9つのランクは「九体阿弥陀」というものに対
 
応していて、どのように救いようのない悪人であろう
 
とも阿弥陀仏はそれぞれに救うという「九体阿弥陀信
 
仰」を形作っている。極悪人でも救われる。
 
 「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人おや」  
 
                (歎異抄) 

 
 とはいうものの「品」が下がるほど現世では苦しむ
 
ので、できれば「品」が高い生き方が望ましい。で、
 
「良品(りょうぼん)」となるためにはどうしたら良
 
いかということで、「ラベル貼りをしない」となる。
 
 
 ラベル貼りをすると、そのラベルにこだわりができ
 
る。自分の考えがラベルごとに固定される。
 
 わたしたちは他人にも自分自身にもラベルを貼るけ
 
れど、貼れば貼るほど、固定されて動かせないものが
 
増えてゆき、身動きが取れなくなって苦しくな
 
る・・・自分がそんなことをしているなどと夢にも思
 
わず、自分が苦しんでいることにさえ気付かなかった
 
りする。自縄自縛になっていることを「安定してい
 
る」とまで思う・・・。
 
 
 なんでもない自分。
 
 なんでもないみんな。
 
 なんでもない世界。
 
 それが本当の世界なのは間違いない。ラベルを貼ら
 
なければ成立しない世の中に生きていると、それが分
 
からない。
 
 
 「印無きは、良品なり」
 
 
 『無印良品』のロゴは日常的に目にする。そのたび
 
にこの言葉を思い出すのは、世の中の縛りから自分を
 
リセットする良いキッカケになるので、結構イイので
 
はないでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 

2026年9月4日金曜日

意識の構造について

 
 
 
 以前、わたしたちの意識の構造について書いたこと
 
があります。〈自意識〉の後ろに〈無意識〉があり、
 
その後ろに意識の活動するベースとしての〈無の意
 
識〉があると。
 
 
 昨日それをまた考えていて、少し加えておかないと
 
いけないことがあると思い、図にしてみることにし
 
た。
 
 
 

 
 
 「外接意識」「内部意識」がいわゆる「自意識」
 
で、わたしたちが考えたり、意識に直接関わってくる
 
感覚・感情の部分を指す。
 
 
 「外接意識」は、わたしたちの意識を取り巻く自然
 
環境・身体感覚・人間社会とやり取りをする部分。
 
 
 「内部意識」は、「外接意識」が働くためのバック
 
アップ倉庫のようなもので、夢を見たり、幻聴・幻覚
 
が現れる時などに、その内容が意識の表面に出てくる
 
だけで、普段は意識下にあって「外接意識」とやり取
 
りをしている。
 
 
 「無意識」は、全く意識の表面に出てくることもな
 
く、言語化・音声化・映像化もされない領域で、「内
 
部意識」とリンクしながら、「自意識」の動きと働き
 
の強さを決定付けている。
 
 
 これら3つの意識領域を内包して、意識活動の場と
 
なっているのが「無の意識」(または「空識」)で、
 
これは何の働きも無い。ただ意識活動全体を見てい
 
 
 
 
 これが私の考える意識の構造で、普段「アタマ」と
 
表現しているのは、概ね「自意識」の部分ということ
 
になりますね。
 
 (「外接意識」「内部意識」「無の意識」「空識」と
 
いうのは、私の造語です。他の人が同じ言葉を使って
 
いたとしても、関係はありません )
 
 
 この意識の構造というのは、これを踏まえた上で世
 
界との関わりを考えると色々と便利なので、そういう
 
ことにしているだけで「これが意識構造の最終解!」
 
などと思っているわけではありません。私にはしっく
 
りくるということです。(他の人の参考にもなるとは
 
思いますが・・・そうでなければ、ここに載せるのは
 
ムダでしかありませんし)
 
 
 で、これを使って世界とどう関わるかなんですが、
 
世界はこの図のどこにあるでしょう?
 
 
 世界はわたしたち一人一人を取り巻いているわけで
 
すから、「無の意識」の外にあるのでしょうか?
 
 
 いいえ。世界は「外接意識」の中にあります。
 
 
 「外接意識」と表現しているので、実際の世界は外
 
にあると言っているようですが、それは説明の為の方
 
便で、私達の意識が世界と見なしているものは、物語
 
化されて「自意識」の中にあります。
 
 
 世界が外にあるのなら、例えばお釈迦さんが悟りを
 
ひらいたところで、世界との関係は本質的に何も変わ
 
りません。「私は悟った」とタコ壺の中で自己暗示に
 
酔っているだけです(よく居ますね。そういう人)。
 
 世界が自意識の中にあるからこそ、悟りをひらいた
 
りすると、世界を俯瞰するようにして、世界との関わ
 
りが生む苦悩から完全に開放されるわけです。
 
 
 わたしたちが普段関わっている「世界」というもの
 
は、自意識の中にある物語であり、生きて行くその
 
時々に関わるのは、その断片でしかありません。
 
 もちろん、その物語の影響で命さえ失うことがあり
 
ますが、「命さえ・・」という価値感自体が物語の中
 
にあります。
 
 
 「命さえ物語でしかない」というと、命や世界とい
 
う物語をムダなものでしかないと言っているようです
 
が、人が生きる限り物語は無視できないので、「ムダ
 
だ」と済ましているわけにもいきません。
 
 けれど「これは物語であって、生きることの本質で
 
はない」と踏まえることができれば、関わりに余裕が
 
生まれます。その上で命と物語を丁寧に扱う  する
 
と、生きることに面白味が出てきます。
 
 
 この考えは一つの方便です。屁理屈です。けれど、
 
生きることに面白味と気楽さをもたらす、一つの手立
 
てになり得る。
 
 
 「気楽に面白がる」
 
 生きることに、それより望ましいことがあるとは、
 
私には思えません。 
 
 
 
 
 
 

 
 

2026年8月27日木曜日

無平等

 
 
 
 今日のタイトルはこのブログらしく、あざとくて意
 
地の悪そうな感じがする。
 
 「平等」「不平等」について書こうと思い立ち、手
 
始めに「タイトルをどうしようか」と考えてみるに、
 
「平等も不平等も存在しないなぁ」としか思えないの
 
でこのタイトルになった。そもそも「平等」なんて存
 
在しないですよね?
 
 
 例えば、甥の兄弟にお年玉をあげるとする。 
 
 それぞれに1万円をあげれば平等か?
 
 1万円であることは同じだけれど、兄弟ふたり、そ
 
れぞれにとって1万円の持つ価値は違うだろう。
 
 3万円のゲームを買いたい兄と、9千円のフィギュ
 
アを買いたい弟とであったなら、1万円の影響力はか
 
なり違う。「平等」というのは社会的で便宜的な概念
 
でしかなくて、それは個人の立場からすれば三者三様
 
の「そのものだけ」にならざるを得ない。そう考えた
 
時に「平等」とは何なのか?そんなもの存在するの
 
か?と思うわけです。
 
 
 社会というものは生き物ではない。一つのシステム
 
であり、そのひとつの仕組みとして「平等」という概
 
念が存在している。
 
 家庭の中で、母親が子供たちにおやつを与えるとき
 
に、「平等にね」と言った瞬間に、そこにはひとつの
 
社会が発生している。「お兄ちゃんだから、今日は我
 
慢して弟にチョコレートをあげないさいね」と言った
 
瞬間にも社会が発生している。
 
 「お兄ちゃんだから我慢しなさいね」と言ったと
 
き、お兄ちゃんにとっては「不平等」だけど、母親の
 
アタマの中では、弟を優遇することで「平等」がもた
 
らされると判断している。こういう例だけではなく
 
て、「平等」を行うと、必ず「不平等」を生んでしま
 
う。これはあらゆる局面で発生するけれど、不問に処
 
される。面倒だし、そもそも「平等」は実現不可能な
 
ので、社会はそのことを表沙汰にしたくない。
 
 
 「平等」という概念は、社会に問題を生む。
 
 では「不平等」で良いのか?
 
 どちらが先かは知らないけれど「平等」と「不平
 
等」は対概念なので、片方だけでは成立しない。「平
 
等」が問題であるなら「不平等」など出る幕も無い。
 
 「平等」「不平等」。どちらがではなくて、「平
 
等」という概念を煙に巻いた方が豊かさを生みそうに
 
感じるので、思いつきで書いた「無平等」という言葉
 
を探ってみる。
 
 
 「平等は無い」あるいは「無の平等」。
 
 
 「平等は無い」というのは「不平等」ではない。
 
「比較が無い」ということとして考えよう。
 
 働きかける側も、受け取る側も、 そのことを比較
 
なしに行い、受け取るならば、それはどのような状況
 
や想いを生むだろうか? 
 
 ただ、そのこととして流れて行く・・・そうではな
 
いだろうか?
 
 働きかける側と受け取る側の一対一だけのこととし
 
て流れて行くだろう。そこに社会は発生しない。面倒
 
な副産物を生まないだろう。では「無の平等」とは何
 
か?
 
 
 「無」を働きかけ、「無」を受け取る。あるいは
 
「無」の働きに任せて送り、「無」の働きに任せて受
 
け取る・・・それはなにか?
 
 それはたぶん「社会的な価値」ではなく、「命の示
 
す価値」にいざなわれて行い、受け取るということに
 
なるだろう。
 
 
 「命の示す価値」
 
 それはなんぞや?
 
 
 「そよ風が気持ちいいなぁ・・・」そういうことだ
 
ろう。 
 
 
 
 昨日、ネパールと中国の国境をまたいで、想像を絶
 
する規模の土石流が起きた。数千人が死んでいるだろ
 
う。世界は人間に対して何の配慮もない。
 
 「平等」「不平等」など存在しない。「気の毒」も
 
「不幸」も無い・・・けれど、人はそれを受け止めら
 
れない。「ただそういうものだ」という事実が許せな
 
い。
 
 そりゃそうだ、人間だから・・・私も「そういうも
 
のだと思え」とは言わない。けれど「そういうもの
 
だ」が真実だ。
 
 
 「平等」も「不平等」も存在しない。それはアタマ
 
が描いて、すがろうとするまやかしで、表面上の体裁
 
を繕うことはできても、その裏で面倒を増やしてい
 
る。
 
 
 「平等」「不平等」を煙に巻いたとき、人は社会も
 
煙に巻くことになる。そして世界の実際を感じる。 
 
 
 お兄ちゃんは飴を舐めて「美味しい」と思い、弟は
 
チョコレートを食べて「美味しい」と思う。そこにあ
 
るのは「美味しい」という実際だけだ。
 
 
 「平等」なんて、人間の意識から消えればいい。 
 
 もっとも本能の欲求丸出しは余計に具合が悪いけれ
 
ど・・・。 
 
 
 
 
 
 

2026年8月19日水曜日

嫌なことはしなくていいのか?

 
 
 
 “「嫌なことはしなくていい教育」が社会で通用し
 
ないことが分かってしまう W ”
 
 You Tube のサムネにそんな言葉が有った。
 
 
 内容は察しがつくので動画は観ていないが、この言
 
葉を裏返せば、「嫌なことをしなければ、社会でやっ
 
ていけない」ということだ。社会で通用しないこと
 
が分かってしまう W ”などと笑っていていいのか?
 
 
 人間が狩猟・採集で生きていたときのことを想像す
 
れば、嫌なことでも辛抱してやらなければ生きていけ
 
ないのは当然だとわかる。けれど、人が生きていくた
 
めの基本的な“嫌なこと”と、社会で通用するための
 
“嫌なこと”は違うのではなかろうか? 
 
 
 初代の貴乃花が「人間、辛抱だ」(「人生、辛抱
 
だ」だったかもしれない) と語ったという。それは
 
よくわかる。自分の望むように物事が運ぶわけじゃな
 
い。生きていれば、辛抱しなければならないことはい
 
くらでもある。けれど「嫌なことをしなければ、社会
 
でやっていけない」ということには、常に疑いの目を
 
向けておくべきではないだろうか。
 
 
 「そういうもんだから・・・」と嫌なことを受け入
 
れ、時によれば自ら身を置き、その結果得られるもの
 
が果たして自分にとって・・いや、人にとって本当に
 
良いものなのか?そこのところを不問にしたまま「人
 
間、辛抱だ」をやっていると、苦しいだけで本当は何
 
も得ていないことになりかねない。
 
 
 「嫌なことをしなければ、社会でやっていけない」
 
を続けることが、過労死・過労自殺・鬱病・パワハラ
 
などを生んでいることは間違いないはずだ。
 
 ブラック企業を揶揄するその同じ人物が、“「嫌な
 
ことはしなくていい教育」が社会で通用しないことが
 
分かってしまう W ”と言って笑っているのだろうと
 
私には思える。こういう話題で“ W ”などと言って
 
いる奴は、「するべき辛抱」と「するべきではない辛
 
抱」を見極めようなんてしていないだろう。
 
 
 社会の中の“得るべきもの”のほとんどは、「する
 
べきではない辛抱」の上に成り立っていると見てまち
 
がいないだろう。それらは失われても直接人の命を奪
 
わないものだから。
 
 ところが多くの人が、その“得るべきもの”の為に
 
ストレスを抱え、人間関係に疲弊し、身体や心を壊し
 
たり、命まで失ったりする・・・単に個々の事案だと
 
片付けずに、本質的なところに疑問を持てよと思う。
 
 
 これまで何度も書いてきたけれど、社会は人をしあ
 
わせにしない。社会は社会の為に個人を利用するだけ
 
だ。
 
 もちろん、不幸になるだけなら誰も社会の為に動か
 
なくなるので、嫌なことだけではなく飴も与える。し
 
かし、その飴は対価として見合うものなのか?
 
 本質的なことを確かめようとする人は少ない。ほと
 
んどの人のアタマは社会の統制下にある。
 
 
 「嫌なことはしない」は大事なことだ。
 
 しないことで得られないもの。
 
 しないことで得られるもの。
 
 しないことで失うもの。
 
 しないことで失わずにすむもの。
 
 何が大切なのか?
 
 
 嫌なことを拒否して社会から干される、割を食ら
 
う・・・それは確かにしんどい。私は何度も経験した
 
からよくわかる。けれどそここそが人としての辛抱の
 
しどころじゃないだろうか?
 
 ただの社会的わがままの為じゃなく、人としての本
 
質を大事にする為の辛抱は「嫌なこと」にはならな
 
い。
 
 
 こんなことを言って責任は持てないけれど、社会の
 
お話が何を与えてくれるのかを吟味すれば、誰でもう
 
なずく話じゃないだろうか。
 
 
 「嫌なこと」は嫌だ。
 
 その素直な感覚には、ちゃんと相手をしてあげるべ
 
きだろう。その上で、するのかしないのか?
 
 嫌がっているのはアタマなのか、身体なのか、心な
 
のか?
 
 身体と心を無視したら、たぶん地獄を見るだろう。
  
 
 初代貴乃花はしあわせだっただろうか?
 
 
 
 
 

2026年8月13日木曜日

後悔しない

 
 
 
 私は後悔することがない。もちろん、バカなことを
 
しでかしたら、また同じことをしでかさないように反
 
省はするけど、後悔はしない。ムダでしかないから。
 
 どう考えても後悔はムダなのに、世の中には「ああ
 
だこうだ」と後悔を口にする人が大勢いる。アタマが
 
悪いとしか思えないけれど、何か後悔することにメ
 
リットでもあるのだろうか?  考えてみてもわからな
 
い。
 
 
 「あの時、ああしておけば・・・」
 
 「あの時、あれをしなければ・・・」
 
 その言葉を吐かせるのは「今よりも良い“今”が迎
 
えられていたかもしれない」という思いなのだろう。    
 
 タイムマシーンでも発明すれば?  などと思う。
 
 
 “自分が気に入らない今”がなぜ気に入らないかと
 
いうと、自分が気に入ろうとしていないだけだ。後悔
 
というのは、自分がしたこと・しなかったことに対し
 
て思うものだけど、自分の通った道にケチを付けるの
 
は、自分が可哀想だと思わないのだろうか?自分に失
 
礼だ。
 
 
 自分に失礼な態度をとれるのは、自分が自分じゃな
 
いからではないだろうか。自分が自分なら、可哀想で
 
失礼な態度はとれないだろう。後悔する人は、自分が
 
分離している。より良い判断をできなかった自分を、
 
できることなら他人に仕立て上げて、これまでの自分
 
を肯定したいのではないか? 
 
 望ましくない自分の状況から責任逃れをするため
 
に、過去の自分を否定しようとする・・・いや、過去
 
の自分は実際に生きていた自分なのだから、そちらが
 
実際の自分だろう。今の気分で自分を否定するなよと
 
思う。
 
 
 過去にバカなことをした、過去に賢いことをしな
 
かった・・でもそれは自分なんだから、そのバカさを
 
ちゃんと引き受けて落とし前を付けてやれよと思う。
 
 
 自分のバカさも、今の面倒な状況も、自分のことな
 
んだから受け入れて、カラ元気でもいいから笑ってし
 
まう・・・自分を助けてあげなよと思う。
 
 
 私にも思い出すと苦い気持ちになることがいくつも
 
あるけれど、やってしまったことは仕方がない。後悔
 
はしない。後悔はバカバカし過ぎる。今に対して、自
 
分に対して親切じゃない。
 
 後悔できるのは、さしあたり今生きているからで、
 
それなら後悔しているその出来事は完全にアウトなわ
 
けじゃない。受け入れられる余地がある。後悔できる
 
ということが、後悔しなくても大丈夫だということを
 
証明している。
 
 
 〈後悔先に立たず〉などと言う。「後悔しないよう
 
によく考えて生きなさい」と言いたいのだろう・・・
 
くだらない。
 
 先もへったくれもない。後悔してしまうようなこと
 
をいくつもしでかすのが人間だ。「あれは間違ってい
 
なかった」と、ごまかすのはバカの上塗りだけど、
 
分のバカさも引っくるめて自分を生きていけばいいの
 
だし、そうするしかない。後悔してみせたって、自分
 
を飾ることはできない。
 
 
 〈後悔役に立たず〉 
 
 後悔するヒマがあったら、自分に親切にしてあげて
 
ほしい。
 
 
 
 
 
 

2026年8月12日水曜日

気楽で優しい傍観者

 
 
 
 ベネズエラの地震があり、熊本の地震があり、昨日
 
はコロンビアでも地震があったそうだ。次々に起こる
 
災害のニュースを考えながら、ぼんやりと「四苦八
 
苦」のことを考えていた。
 
 「生」「老」「病」「死」(四苦)
 
 「愛別離苦」
 
 「怨憎会苦」
 
 「求不得苦」
 
 「五蘊盛苦」 
 
 これらをまとめて「四苦八苦」という。 
 
 
 以前「“苦”はすべて“求不得苦”だ」という話を
 
書いたことがある。「人は“苦”に会わないことを求
 
めるけれども、それは無理だから、すべては“求不得
 
”だ」と。「それを裏返すと“拒不逃苦”だな」な
 
どと今日思った。拒んでも逃げられない。
 
 
 嫌なことはいくらでもやってくる。些細なことから
 
耐え難いようなことまで、生きている限りなくならな
 
い。些細なことなら避けることもできるけれど、避け
 
ようとすること自体が、もう既に嫌なことに行動を支
 
配されてしまっていると言える。「嫌だなぁ」と思っ
 
た瞬間に、嫌なことにほとんど主導権を握られてしま
 
う。嫌なことを拒むほど、嫌なことの影響力は大きく
 
なる。
 
 では、拒まなければいいのか?
 
 そういうわけにいかないことは誰にでもわかる。詐
 
欺電話が掛かって来て受け入れていてはバカを見てし
 
まう。ではどうするか?拒まずに拒むのが良かろうと
 
考える。

 
 「はあ?何言ってんの?」

 説明します。

 
 拒むことを拒まない。
 
 あるいは、嫌なことを拒んでいる自分を受け入れ
 
る。
 
 要するに、嫌なことに直接関わらないようにする。
 
 
 「ああ、嫌がってるなぁ」 
 
 「かなり、拒んでるなぁ」 
 
 
 そんな風に、嫌がったり拒んだりしている自分を傍
 
観する。
 
 
 
 私は座禅をしないけれど、澤木興道老師や余語翠巖
 
老師の本を読み続けて、曹洞宗の座禅が「只管打坐」
 
というものだとは知っている。
 
 ただ座る。無になろうとか、悟りを開こうなどとし
 
ない。アタマが様々な妄想をしても、そのままにさせ
 
ておき、ただそれを眺めている。それと同じことを、
 
生活をしながら、暮らしながら行う。“泣いたり笑っ
 
たり怒ったりしている自分”を眺めている自分が在る
 
ことを忘れない。
 
 
 世の中でいろんな事件や災害が起こるけれど、傍観
 
者は気楽なものだ。辛い目に遭っている人を見ると、
 
自分も辛くなったりするけれど、それでも傍観者は当
 
事者とは違うし、むしろ気楽でいるべきだ。
 
 
 OSHO(ラジニーシ)がこんなことを言っている。


 世界はまさに 悲しみの中にある
 
 惨めさの真っただ中にある
 
 人々のハートには計り知れない苦悩がある
 
 だが、あなたがそのことで悲しむ必要はない
 
 理由は簡単だ   
 
 悲しむことによって あなたも彼らの仲間に入り
 
 さらに悲しみをつくり出すだけだからだ
 
 それでは助けにならない
 
 
 それはまるで人の病気を見て
 
 自分も病気になるようなものだ
 
 あなたが病気になっても
 
 病人を健康にすることはできない
 
 
 (中略)
 
 
 あなたはできるかぎり
 
 喜びに満ちていなければならない 
 
 人々を救うのは悲しみではなく喜びだからだ
 
 あなたは明るくなければならない
 
 この悲しい世界にあっても楽しめるということを
 
 人々に知らせる必要がある・・・・
 
 
          『ゴールド・ナゲッツ』より 
 
 
 一人の人間の中でも同じことだ。アタマが怯え、嘆
 
き悲しむ時、ハートも一緒に嘆き悲しんでいては救わ
 
れない。ハートは落ち着いた傍観者で在るべきだ。そ
 
してそれは可能なんだから。
 
 
 かと言って、人が泣いている時にヘラヘラ笑ってい
 
てもいけない。沢木老師はこう言う。
 
 
 仏というものは一切衆生と付き合いをせねばならぬ
 
 人が子供を亡くした時には
 
 オーオーと(泣いて)付き合わねばならぬ
 
 「おれはグループ呆けせん」(おれは悟ってる)と
 
 付き合いをしないのはダメである
 
         ・・・
 
 菩薩というのは悟りながら迷ってやるのである
 
 「ワシは悟っている。凡夫は勝手に迷え」
 
 というのではない
 
 凡夫と一緒に迷うてやるのだから
 
 菩薩行というのは広大無辺である
 
 
               『禅に聞け』より 
 
 
 苦悩する自分のアタマも、悲しむ誰かのアタマも、
 
バカにしてはいけない。それは現に有って、人間らし
 
いものなのだから。けれどそれと一緒になって苦しむ
 
のは賢いことではない。OSHO の言うように、病人が
 
一人増えるだけだから。
 
 
 「おれは悟った。悲しみも喜びも無用だ」
 
 そんな人間はさっさと墓に入ればいいのだ。
 
 生きているのなら、感情があることを尊ばなければ
 
生きてる値打ちがない。
 
 
 悲しい出来事に出逢えば泣く、腹立たしい出来事に
 
は怒る・・・けれど、そうありながらも落ち着いた傍
 
観者が自分の中に在って、目の前で泣いている人の中
 
にもそれが在ることを、気付いていなければいけな
 
い。
 
 
 「あわてる必要はない。泣くのも無理はない。け
 
ど、いつか一緒に笑おうな」と、自分にも人にも心の
 
中で語りかける・・・。気楽で優しい傍観者である自
 
を忘れてはいけない。