2026年6月22日月曜日

怡然自得

 
 
 
 このブログを書いていると「自分」とか「自然」と
 
いう言葉をしょっちゅう使うけれど、「自」という字
 
が何を表しているのかよく分かっていないなと思った
 
のでまず意味を調べていると、「怡然自得(いぜんじ
 
とく)」という知らない四文字熟語が出てきた。
 
「怡」という字も初めて見た。
 
 
 
『列子』にある言葉だということで、意味は、 
 
 
「心が落ち着いていて、満ち足りていること」
 
「自分の心を理解し、喜び安らぐこと」
 
 
「怡然」は喜び楽しむ様子であり、悩むことなく道理
 
を理解する様子のことらしい。
 
 
「自得」は現在の自分に満足すること。自身の心の内
 
側を自身で理解すること。
 
 
「怡然として自得す」とも読むそうで、「怡」という
 
字は「喜ぶ・楽しむ・やわらぐ・気持ちが穏やかにな
 
る」という意味だそうだ。
 
 
 
 初めて見る言葉だし、世の中ではまず使われない言
 
葉だけれど、禅やスピリチュアルの話にはもってこい
 
の言葉だ。いままで出会っていないのが不思議に思
 
う。
 
 
 「怡」という字が、「忄」に「台」となっているの
 
がおもしろい。「台」は「高く広い土地」で、要する
 
に「台地」なので、心の中が高く広い土地のように安
 
定している様なのだろう。
 
 
 台地は広々としていて、川の流れから離れて見下ろ
 
している。そして洪水もない・・・なるほど安定して
 
いる。上手く考えてある字だ。
 
 
 方丈記の行く川のながれは絶えずして、しかも本
 
の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えか
 
つ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人と
 
すみかと、またかくの如し」を借りれば、昔の人が
 
「怡」という字で表わそうとしたものがよくわかる。
 
 
 ただ、「世の中・人・すみか(暮らし)」が、天か
 
ら見下ろす様に、下に有るわけではない。わたしたち
 
の心は「世の中・人・すみか(暮らし)」と共に
 
る。
 
 心は元々「怡然」としているもので、「世の中・
 
人・すみか(暮らし)」と共に在りながら、その流れ
 
とは関わっていない。なのに、関わりを持ち過ぎるこ
 
とで流れに巻き込まれてしまう。
 
 
 わたしたちは自分の居場所を安定させようと、流れ
 
の中に杭を打つ、そこにとどまろうとする。あるいは
 
流れの中で自分の望むように進もうと、泳いだり舟を
 
漕いだりするけれど、その抵抗が苦しみを生む。
 
 そこで「流れに任せて流れて行けば良い」という話
 
につながることが多いし、このブログでもそういう表
 
現をしたこともある。それはそれで良い生き方だと思
 
うけれど、今はこう思っている・・・「心は川底のよう
 
なものだ」と。流れではなくて、地形の方だと。
 
 
 さまざまな出来事・さだめが自分を流れていく。
 
 そしていつか、その流れが流れ去って消える時が来
 
る。流れが消えたそこが、まわりの土地と繋がってい
 
ることが見て取れる。
 
 「自分はこんなに大きなものだったんだ・・・」
 
 そう気付く。
 
 
 その気付きは、流れがあるままでも可能で、そう気
 
付けたら、心が台地の上のような穏やかさとやわらぎ
 
の場であることがわかる。
 

 自我と身体は流れの中にあるけれど、自分は、本当
 
は流れの外にいて、流れを見ている。 
 
 
(書いているうちに、台地の上から川の下へ移ってし
 
 まったけれど、それは単なる表現の都合です)
 
 
 
 
 
 

2026年6月20日土曜日

なんだか知らないままに

 
 
 
 歳を取ると日々があっという間に過ぎる。人生がど
 
んどん過ぎてゆく。
 
 「なんだろうなぁ」
 
 日々を過ごしながらそんなことを思う。
 
 
 なんだか知らないけど、とにかく人生は過ぎてゆ
 
く。
 
 過ぎてゆくものは仕方がない。何かの意味や価値を
 
こじつける必要もないので、過ぎるままで不足はな
 
い。
 
 
 前に「人生は過ぎさせるもの」と書いたことがある
  
(『時間の散歩』2025/5)。 けれど世の中では「人生
 
は歩んで行くもの」という捉え方が主流だろう。

 
 「自分が人生を展開させてゆく」という意識と、
 
「自分の前で人生が展開してゆく」という意識とでは
 
まったく違う。
 
 あらゆる生き物も、無生物であっても、すべての存
 
在は受動的なものだと私は思っている。何を見てもそ
 
う思わざるを得ない。能動的なものが無いというよ
 
り、能動性あるいは自発性というものが存在しない。
 
世界の動きに中心は無い。
 
 
 中心の無い世界の中で、すべてが関わり合いながら
 
世界が展開していく。自分の周りで世界が展開し、そ
 
れに連れて自分も展開していく。それは当然、能動的
 
ではないし、受動し合う動きは、最早受動的とも言え
 
ないだろう。 
 
 
 二宮尊徳がこういう言葉を遺しているそうだ。
 
 
 風呂の中で自分の方にもっとお湯が欲しいとお湯
 
 をかき寄せても、そのそばからお湯は向こうへ行
 
 ってしまう。反対に、向こうにいる人にお湯をあ
 
 げようとしても、お湯はこちらに回ってくる
 
 
 これは人の世の有様を表わすと共に、世界の有様も
 
語っているのだろう。受け手も贈り手もない。自分の
 
視点から見るしかないので、勘違いするだけだ。
 
 
 個人の視点やタイムラインからすれば、物事は行っ
 
たり来たり留まったりするように見える。けれど自分
 
も含めた全体は展開し続けている。自分だけが自発的
 
に動くことはできない。
 
 
 こういう話を読んで頷くか、バカにするか・・・。
 
 それさえも自分では決められない。 
 
 
 「見させられ、聞かせられ、生きさせられている」
 
と思えるのなら、それは幸運な展開なのだと私は思
 
う。
 
 そんなのは、自分の足で歩きたいとこだわる人には
 
許されない話だろうけれど、それもそういう展開だと
 
いうだけだ。もう少し気楽にした方が良いだろうに。
 
 
  寝ていても 運ばれてゆく 夜汽車かな
 
                  作者不詳 
 
 
 
 
 
 

2026年6月8日月曜日

好印象な自分

 
 
 
 前回の話は何度も書いては消してをしながら、よう
 
やく書き終えた。「何度も推敲を重ね・・」というよ
 
うな高尚なものではないけれど、何度も「これはゴリ
 
押ししてるな」という感じになって、「もうボツにす
 
るか」と思いつつ、どうにか「まぁいいんじゃな
 
い?」というところまでたどり着いた。
 
 読むとぎこちない感じがするけれど、口からでまか
 
せだから、それなりに体裁が取れればいい。
 
 
 何度も書き換えたのは、口からでまかせじゃなく
 
て、でっち上げようとしているのを自分で感じていた
 
から。 
 
 自分では“でっち上げ”と“口からでまかせ”は全
 
然違うと思っている。
 
 “でっち上げ”は手練手管で体裁を繕うだけだけ
 
ど、“口からでまかせ”は体裁は悪くても、深層心理
 
のひらめきから、思いがけず面白いものや有用なもの
 
が出てくる可能性がある。
 
 「実のあるデタラメ」と「整った空疎」なら、私は
 
前者に軍配を上げる。
 
 
 こういう性分は子供の頃からで、若くて生意気なと
 
きには、一緒に働いている人の身内が亡くなって香典
 
を集めるとなったときに、(口には出さないが)「故
 
人の名前さえ知らない人間から、慣習だというだけで
 
香典を集めるなんて、自分の身に置き換えれば、かえ
 
ってその人に失礼だ」と、香典を出さなかったりし
 
た。おかげで「あいつは香典さえ出し渋るドケチだ」
 
と陰口を叩かれたりしていた。少し年齢が上がってか
 
らは、「ムキにならずに合わせとけばいいか」と普通
 
に応じるようになったけれど、べつに後悔などしてい
 
ない。あれはあれで自分らしくて良かったと思ってい
 
る。
 
 
 バーノン・ハワードの言葉にこういうのがある。 
 
 
 よい印象を与えなかったというのはどこが悪いの
 
 でしょう?(中略)他人に自分をよく見せかけな
 
 いではいられない欲求  世界の災厄の半ばはこ
 
 れが原因です。(中略) リアルでありなさい。
 
 よく見せようとすることはやめなさい。
 
 
        『なぜあなたは我慢するのか』より      
 
 
 世の中というのは表面上それなりに落ち着いてい
 
て、そこで生きる人たちは、それで良いことにして面
 
倒な事は考えないようにしている。それはかなり強固
 
な構造で、わざわざ波風を立てたところで何も変えら
 
れないばかりか、それなりに落ち着いている人たちを
 
脅かすのは人が悪い・・・三十代でそういう配慮がで
 
きるようになり、私は世の中をたしなむようになっ
 
た。

 
 それはよい印象を与えようとしてのことではなく、
 
あくまで思いやりからだけれど、真の意味での思いや
 
りではない。世の中に合わせた思いやりでしかない冷
 
淡なものだ。だけど仕方がない。私のせいではない。
 
 
 「表面上の落ち着き」がなんらかの事情で崩れる
 
時、それは表面であるがゆえに、そこにすがっていた
 
人たちは落ちて行く、沈んで行く。
 
 
 世の中の好印象の物事は、往々にして印象に留まっ
 
ていて、確かな基盤を持っていない。実が無い。
 
 私はそんなものに関わるのは気持ちが悪い。落ち着
 
かない。なので、自分の印象が悪くても関わらない。
 
 
 好印象  他人を通さず、自分が好印象を持てる自
 
でありたい。 
 
 
 
 今回は、口からでまかせですんなり短時間で書き終
 
えた。こういうのが望ましいなぁ
 
 
 
 
 
  

2026年6月7日日曜日

それは違う!

 
 
 
 今回のタイトルは、心の中で私やあなたが毎日何度
 
もつぶやいている言葉です。
 
 職場や学校で、テレビや You Tube や X を見て、
 
家族と話して、スーパーの通路で邪魔な挙動をするオ
 
バサンを見て、「それは違うやろ!」と心の中で無意
 
識につぶやいている。誰も彼もがつぶやいている。時
 
には口に出して威嚇する。「それは違うやろ!」。
 
 
 私自身、一日に何度そうつぶやいているかわからな
 
い。直接でも間接でも、人と関わる限りわたしたちは
 
これをつぶやき続けることになる・・・ああ、疲れ
 
る・・・。
 
 
 こんなブログを書いている人間なので、このつぶや
 
きを止めたいと意識はしている。けれど止められな
 
い。どうあがいても、人と関わり、社会の中にいる限
 
り、止めることができない。思考の本質として、差異
 
(違い)を捉えなければ物事を扱えないから。
 
 そして、人との関わりの中で見つける差異は、その
 
人の思考から出てくると認識しているので、そこに問
 
題を感じると、その人の管理責任を問いたくなってし
 
まう。「それは違う!」「そんなもん出すな!引っ込
 
めろ!」と・・・ああ、疲れる・・・。 
 
 
 自分のアタマが「それは違う!」と言うのを止めら
 
れれば、どれほど心が安らぐだろうか。
 
 わたしたちのアタマは狂ってる。良いことを生み出
 
すことなどほとんどないのに、ことあるごとに「それ
 
は違う!」「それは違う!」と・・・ああ、疲れ
 
る・・。
 
 
 〈みんな違って、みんないい〉
 
 ダメだ。それを通して行けるほど、世の中は善良
 
じゃない。
 
 〈みんな違う。それだけ〉
 
 いや、まだ何か重たい・・・。
 
 これはどうだろう。
 
 〈わたしとは違う〉 
 
 
 「違う」という視線を自分の方にも向けてみる。
 
 自分と相手が違っていることに変わりはないが、批
 
判的な気分はかなり薄らぐだろう。
 
 「自分はコイツと違うんだ」という高慢さが顔を出
 
しそうにも思うけれど、「そんなのダサいぞ」という
 
意識を持っていれば、大人しくさせていられそうに思
 
う。わたしたちは格好つけたがるものだから。
 
 
 〈わたしとは違う〉
 
 淡々とそうつぶやけば、バカバカしい徒労からそこ
 
そこ解放されそうに思えるが・・・。
 

 
 あれは違う、それは違う、これは違う・・・。
 
 そうやって気付けば一人で区別の檻の中に自分で
 
入っているわたし。
 
 そもそも同じ人間は二人と居ない。始めっから違う
 
のに、わざわざ「違う」と腹を立てるわたし。

 
 「いや、自分と一緒の仲間がいる」
 
 「けど、あいつらとは違う」 
 
 仲間と一緒に檻に入っているわたし。
 
 その檻の中でも〈わたしとは違う〉を始めるわた
 
し。
 
 結局一人の檻の中にいるわたし・・・。
 
 
 「孤立はよくない」という話をしているわけじゃな
 
い。「違う!」とつぶやいてみたところで、「違う!」
 
と責めたところで、「違い」がなくなることはほとん
 
ど期待できない。首尾よく「同じ」を生み出せても、
 
周りをみるとさっきまで格闘していたのと同じ「違
 
い」がまたそこに有る・・・。
 
 わたしたちは果てしない徒労を続けていることを意
 
識していない。それどころかサディスティックな使命
 
感と達成感に酔いさえする。
 
 
 そんなわたしたちを、神や仏が見ている。
 
 「あんたたち同じだね」
 
 わたしたちはお互いに、救い難いということではな
 
にも変わらない。
 
 
 思慮の足りなさに出会ったとき、 
 
 「お互いバカだよね」
 
 そうつぶやけたなら、その視点は神や仏に限りなく
 
近いはずだ。 






 
 

2026年6月5日金曜日

残らない言葉

 
 
 
 一年ぐらい前に、『アシュターヴァクラ・ギー
 
ター』という本があるのを知った。本というより書物
 
という方が相応しいインドの古典です。You Tube の
 
おすすめにこの本の朗読が出てきて、その内容が素晴
 
らしいので本を買った。
 
 
 「ギーター」というのは「詩」のことで、『バガ
 
ヴァッド・ギーター』が有名で、いろいろ研究がされ
 
て解説書なども沢山あるけれど、この『アシュター
 
ヴァクラ・ギーター』について検索しても、私が買っ
 
た本の紹介以外ほとんど何も出てこない。たぶん歴史
 
の中に埋もれていたものが、近年になってスピリチュ
 
アル系の人たちに掘り起こされ、知られるようになっ
 
たんじゃないだろうか。
 
 
 「アシュターバクラという聖者が書いた詩」という
 
意味のタイトルらしいけれど、本当の著者も書かれた
 
頃も不明だそうで、そのあたりの事情と本の内容も
 
『老子』に似ている。老子も、その人物が実在したの
 
かどうかよく分かっていない。内容の本質も変わらな
 
いだろうけど、その語り口となるとかなり違う。
 
 『老子』がかなり社会性を踏まえた上で語られてい
 
るのに対して、『アシュターヴァクラ・ギーター』は
 
完全に個人的な感覚を語っている。何の配慮もなく、
 
直截に、自分の知り得たことを吐露している。
 
 それは仏教のテキストとも、他のさまざまな聖典と
 
も、スピリチュアル系の多くの本とも違う特殊なもの
 
だ(もちろん私の知っている範囲でのことだけど)。
 
 
 その個人的で直截な語りのせいだろうけど、この本
 
の言葉はとても印象的で心に響くのに、読んだあとに
  
印象だけが残って、言葉が残らない。読んでしばらく
 
すると「えーと、なんて書いてあったかな・・」とい
 
う感じで、言葉が思い出せない。こんな不思議な本は
 
ない。自分が特殊なのか、単に物覚えが悪くなっただ
 
けなのかもしれないが、こういうことはいままでに無
 
い。
 
 
 前回書いた澤木興道老師の言葉のように、印象深い
 
言葉はその言葉自体もおのずと覚えてしまうものだけ
 
ど、この本は何か違う。これはどういうことか?
 
 
 これまでこのブログでも何度か書いているけれど、
 
言葉というものは伝えたこいとを指し示すものであっ
 
て、そのものではない。だから、伝えられたら言葉自
 
体は用済みだと言える。この『アシュターヴァクラ・
 
ギーター』は、見事にそのものを直接指し示し切って
 
いるのではないか?だから言葉は用済みになって残ら
 
ないのではないのか?印象だけが残るのは、言葉が完
 
璧にその機能を果たしているからではないのか?
 
 
 このブログを始めたときから、印象に残る言葉を残
 
したいと思ってきたけれど、それはとんでもなく筋違
 
いなことだったのかもしれない。
 
 ものを書いたり話したりするのなら、印象が残る言
 
を述べるのが最善なのだ。
 
 
 『アシュターヴァクラ・ギーター』は、この種の書
 
物として最高のものだろう。が、誰が読んでも印象だ
 
けが残るというようなことはないだろうし、そこに示
 
されているものを受け取れるわけではない。それなり
 
の素養が要る・・・いや、素養というより馴染みと言
 
う方が良いかも知れない。 『アシュターヴァクラ・
 
ギーター』が指し示すものを、わずかでも意識した経
 
験が要るだろう。もっとも、それは誰でも自分の中に
 
持っているので、それに馴染んでいけばいい。
 
 
 『アシュターヴァクラ・ギーター』を、そこから受
 
取る印象に意識を向けながら何度でも何度でも読んで
 
いると、やがて「なるほど、その通りだ」と感じる時
 
が来て、得も言われぬ清々しさのようなものに満たさ
 
れるだろうと思う。
 
 
 言葉が残らず、印象だけが残る。
 
 それは言葉(思考)から開放されるということ。
 
 アシュターヴァクラは、徹頭徹尾言葉の外を指し示
 
している。
 
 
 
 
 

 

 

2026年6月3日水曜日

口の使い方

 
 
 
 誰の言葉だったか忘れてしまったけど、こういう言
 
葉があります。
 
 
 余は弁じたるために後悔したことはあっても
 
 沈黙して後悔したことはない
 
 
 こんなブログを長く書いている立場としては、この
 
言葉を思い出すと耳が痛い。そして澤木興道老師もこ
 
う言っている。
 
 
 人間、口を開けば迷いの披露でしかない
 
 
 苦笑するしかありませんが、一方で澤木老師はこう
 
も言っています。
 
 
 口はしゃべるためにある
 
 
 矛盾しているようですが、私は納得してしまう。
 
 別に澤木老師を盲目的に信じて、なんでもかんでも
 
肯定しているわけではないのです。言葉の上では矛盾
 
しているけれど、感覚的に「そうだ」と思うのです。
 
 
 話すというのは、とりも直さず社会的な行為です。
 
社会は無数のエゴが思考の縄張り争いを繰り広げてい
 
る所なので、そこで自分のエゴに口を開かせれば、衝
 
突や批判や嘲笑を誘発してしまう可能性が高い。だか
 
ら黙っていればいいかといえば、それはそれで好き勝
 
手に毀誉褒貶されてしまう。どちらかといえば、身の
 
安全のためには黙っている方が有利でしょうけどね。
 
 では澤木老師が〈口はしゃべるためにある〉という
 
のは何故か?たぶん黙っているだけでは親切じゃない
 
からでしょう。
 
 
 人として生きていて、好むと好まざるとに関わらず
 
社会の中にいるのなら、智慧を働かせて自分の口に
 
“親切なこと”をしゃべらせるように心掛けるべきだ
 
ということでしょう。
 
 自身のエゴ(迷い)を披露するのではなく、互いの
  
沈黙へ誘うような言葉を探して使う・・・実際にそう
 
できなくても、そういう意識を持って話すだけでも、
 
何かが違うはずです。
 
 
 もっとも聞く耳を持たない人もよくいるわけで、そ
 
ういう人を相手にしゃべるのは徒労でしかないし、往
 
々にして事態を悪化させるだけ。そういう時は沈黙す
 
るしかないけれど、その時は感情も沈黙させるべきで
 
す。しぶしぶにとか不快そうに黙るのではなく、思考
 
も感情も OFF にして黙る。そうすると、手応えをな
 
くした相手は、自分が迷っていることを無意識にでも
 
自覚して萎えてしまう・・・そしてそれと同じことは
 
一人の人間の中でも起こる。
 
 自分のアタマが「ああだこうだ」と騒ぎ立てている
 
時は、沈黙してアタマにしゃべらせておくと、アタマ
 
は迷いの披露をしていることを自覚して大人しくなっ
 
てゆく。
 
 
 口はしゃべるためにある・・・口を活かすのは一筋
 
縄ではないけれど、せっかく備わってるものだし、社
 
会の中にいるのなら、上手く使えれば自分の為にも誰
 
かの為にもなる。
 
 私自身を振り返ると、しゃべるのはいまの五分の一
 
ぐらいにした方がよさそうだけど・・・。やっぱり耳
 
が痛いなぁ。
 
 
 
 
 

2026年6月2日火曜日

自分が邪魔をする

 
 
 
 日々、人の言葉や何かの出来事に接して、わたしち
 
は何かを思うけれど、それは「思った」のか、「思わ
 
されてしまった」のか・・・、私は「思わされてしま
 
った」という立場をとる。わたしたちの思考は常に後
 
付けだ。自由意志など無い。
 
 
 生きていることは過去の後始末のようなもので、真
 
に「自発的」と言えるような思考も行為も無い。どの
 
ように飾ろうと繕ってみようと、わたしたちは過去や
 
その時々の状況に動かされているのであって、自ら動
 
いているのではない。
 
 やむにやまれず何かを考え、何かをして生きてい
 
る。自分というものは、その動かされている“動き”
 
のイメージであって、確固としたものは無い。
 
 
 そう思わざるを得ないので、私はそう思って(思わ
 
されて)いるけれど、自分の意思があると思う人は、
 
私のような者を見ると、虚しいし面倒だと思うだろ
 
う。しかし、当の本人は「思わされている」方が楽
 
だ。「南無阿弥陀仏」と同じで、自分は無責任でいら
 
れるし、自分に思わせる“何か”に任せておけばいい
 
ので気楽なものだ。もとよりそういう風に思わされて
 
しまっているのだから仕方がない。それに抵抗しよう
 
と思ったとしても、その抵抗さえ思わされてのこと
 
だ・・・手も足も出ない。
 
 
 浄土真宗の僧侶の藤原正遠さんは「我に手のなし」
 
(打つ手は無い)と仰ってらしたけど、自分の力・意
 
思は幻想だ。アタマが自身の存在意義を示したくて、
 
自分の力・意思があると都合の良い解釈をするだけ
 
だ。
 
 正遠さんは「(程度の酷い)煩悩がでてきたらこま
 
りますよねぇ」という問いに対して、「下さる煩悩し
 
か出んもの(だから安心していればいい)」と答えて
 
いる。その徹底的に無責任とも言える自己否定は、逆
 
説的に破滅的な煩悩が力を持つのを抑える。“気楽
 
さ”からは、煩悩へ送り込まれるエネルギーが出てこ
 
ないから。そして気楽にしていると、軽くなった自分
 
を押しのけて、“何か”の力が現れやすくなる。良か
 
れと思って邪魔をしていた自分が力を抜くと、“何
 
か”の働きがスムーズになり、自分という動かされて
 
いる“動き”もスムーズになる。気楽さが、さらなる
 
気楽さを生んでいく。
 
 
 この話全体が、私のアタマが都合の良い解釈をして
 
いるだけかもしれないけれど、それもそう思わされて
 
のこと・・・我に手のなし・・・気楽なものだなぁ。