2026年6月8日月曜日

好印象な自分

 
 
 
 前回の話は何度も書いては消してをしながら、よう
 
やく書き終えた。「何度も推敲を重ね・・」というよ
 
うな高尚なものではないけれど、何度も「これはゴリ
 
押ししてるな」という感じになって、「もうボツにす
 
るか」と思いつつ、どうにか「まぁいいんじゃな
 
い?」というところまでたどり着いた。
 
 読むとぎこちない感じがするけれど、口からでまか
 
せだから、それなりに体裁が取れればいい。
 
 
 何度も書き換えたのは、口からでまかせじゃなく
 
て、でっち上げようとしているのを自分で感じていた
 
から。 
 
 自分では“でっち上げ”と“口からでまかせ”は全
 
然違うと思っている。
 
 “でっち上げ”は手練手管で体裁を繕うだけだけ
 
ど、“口からでまかせ”は体裁は悪くても、深層心理
 
のひらめきから、思いがけず面白いものや有用なもの
 
が出てくる可能性がある。
 
 「実のあるデタラメ」と「整った空疎」なら、私は
 
前者に軍配を上げる。
 
 
 こういう性分は子供の頃からで、若くて生意気なと
 
きには、一緒に働いている人の身内が亡くなって香典
 
を集めるとなったときに、(口には出さないが)「故
 
人の名前さえ知らない人間から、慣習だというだけで
 
香典を集めるなんて、自分の身に置き換えれば、かえ
 
ってその人に失礼だ」と、香典を出さなかったりし
 
た。おかげで「あいつは香典さえ出し渋るドケチだ」
 
と陰口を叩かれたりしていた。少し年齢が上がってか
 
らは、「ムキにならずに合わせとけばいいか」と普通
 
に応じるようになったけれど、べつに後悔などしてい
 
ない。あれはあれで自分らしくて良かったと思ってい
 
る。
 
 
 バーノン・ハワードの言葉にこういうのがある。 
 
 
 よい印象を与えなかったというのはどこが悪いの
 
 でしょう?(中略)他人に自分をよく見せかけな
 
 いではいられない欲求  世界の災厄の半ばはこ
 
 れが原因です。(中略) リアルでありなさい。
 
 よく見せようとすることはやめなさい。
 
 
        『なぜあなたは我慢するのか』より      
 
 
 世の中というのは表面上それなりに落ち着いてい
 
て、そこで生きる人たちは、それで良いことにして面
 
倒な事は考えないようにしている。それはかなり強固
 
な構造で、わざわざ波風を立てたところで何も変えら
 
れないばかりか、それなりに落ち着いている人たちを
 
脅かすのは人が悪い・・・三十代でそういう配慮がで
 
きるようになり、私は世の中をたしなむようになっ
 
た。

 
 それはよい印象を与えようとしてのことではなく、
 
あくまで思いやりからだけれど、真の意味での思いや
 
りではない。世の中に合わせた思いやりでしかない冷
 
淡なものだ。だけど仕方がない。私のせいではない。
 
 
 「表面上の落ち着き」がなんらかの事情で崩れる
 
時、それは表面であるがゆえに、そこにすがっていた
 
人たちは落ちて行く、沈んで行く。
 
 
 世の中の好印象の物事は、往々にして印象に留まっ
 
ていて、確かな基盤を持っていない。実が無い。
 
 私はそんなものに関わるのは気持ちが悪い。落ち着
 
かない。なので、自分の印象が悪くても関わらない。
 
 
 好印象  他人を通さず、自分が好印象を持てる自
 
でありたい。 
 
 
 
 今回は、口からでまかせですんなり短時間で書き終
 
えた。こういうのが望ましいなぁ
 
 
 
 
 
  

2026年6月7日日曜日

それは違う!

 
 
 
 今回のタイトルは、心の中で私やあなたが毎日何度
 
もつぶやいている言葉です。
 
 職場や学校で、テレビや You Tube や X を見て、
 
家族と話して、スーパーの通路で邪魔な挙動をするオ
 
バサンを見て、「それは違うやろ!」と心の中で無意
 
識につぶやいている。誰も彼もがつぶやいている。時
 
には口に出して威嚇する。「それは違うやろ!」。
 
 
 私自身、一日に何度そうつぶやいているかわからな
 
い。直接でも間接でも、人と関わる限りわたしたちは
 
これをつぶやき続けることになる・・・ああ、疲れ
 
る・・・。
 
 
 こんなブログを書いている人間なので、このつぶや
 
きを止めたいと意識はしている。けれど止められな
 
い。どうあがいても、人と関わり、社会の中にいる限
 
り、止めることができない。思考の本質として、差異
 
(違い)を捉えなければ物事を扱えないから。
 
 そして、人との関わりの中で見つける差異は、その
 
人の思考から出てくると認識しているので、そこに問
 
題を感じると、その人の管理責任を問いたくなってし
 
まう。「それは違う!」「そんなもん出すな!引っ込
 
めろ!」と・・・ああ、疲れる・・・。 
 
 
 自分のアタマが「それは違う!」と言うのを止めら
 
れれば、どれほど心が安らぐだろうか。
 
 わたしたちのアタマは狂ってる。良いことを生み出
 
すことなどほとんどないのに、ことあるごとに「それ
 
は違う!」「それは違う!」と・・・ああ、疲れ
 
る・・。
 
 
 〈みんな違って、みんないい〉
 
 ダメだ。それを通して行けるほど、世の中は善良
 
じゃない。
 
 〈みんな違う。それだけ〉
 
 いや、まだ何か重たい・・・。
 
 これはどうだろう。
 
 〈わたしとは違う〉 
 
 
 「違う」という視線を自分の方にも向けてみる。
 
 自分と相手が違っていることに変わりはないが、批
 
判的な気分はかなり薄らぐだろう。
 
 「自分はコイツと違うんだ」という高慢さが顔を出
 
しそうにも思うけれど、「そんなのダサいぞ」という
 
意識を持っていれば、大人しくさせていられそうに思
 
う。わたしたちは格好つけたがるものだから。
 
 
 〈わたしとは違う〉
 
 淡々とそうつぶやけば、バカバカしい徒労からそこ
 
そこ解放されそうに思えるが・・・。
 

 
 あれは違う、それは違う、これは違う・・・。
 
 そうやって気付けば一人で区別の檻の中に自分で
 
入っているわたし。
 
 そもそも同じ人間は二人と居ない。始めっから違う
 
のに、わざわざ「違う」と腹を立てるわたし。

 
 「いや、自分と一緒の仲間がいる」
 
 「けど、あいつらとは違う」 
 
 仲間と一緒に檻に入っているわたし。
 
 その檻の中でも〈わたしとは違う〉を始めるわた
 
し。
 
 結局一人の檻の中にいるわたし・・・。
 
 
 「孤立はよくない」という話をしているわけじゃな
 
い。「違う!」とつぶやいてみたところで、「違う!」
 
と責めたところで、「違い」がなくなることはほとん
 
ど期待できない。首尾よく「同じ」を生み出せても、
 
周りをみるとさっきまで格闘していたのと同じ「違
 
い」がまたそこに有る・・・。
 
 わたしたちは果てしない徒労を続けていることを意
 
識していない。それどころかサディスティックな使命
 
感と達成感に酔いさえする。
 
 
 そんなわたしたちを、神や仏が見ている。
 
 「あんたたち同じだね」
 
 わたしたちはお互いに、救い難いということではな
 
にも変わらない。
 
 
 思慮の足りなさに出会ったとき、 
 
 「お互いバカだよね」
 
 そうつぶやけたなら、その視点は神や仏に限りなく
 
近いはずだ。 






 
 

2026年6月5日金曜日

残らない言葉

 
 
 
 一年ぐらい前に、『アシュターヴァクラ・ギー
 
ター』という本があるのを知った。本というより書物
 
という方が相応しいインドの古典です。You Tube の
 
おすすめにこの本の朗読が出てきて、その内容が素晴
 
らしいので本を買った。
 
 
 「ギーター」というのは「詩」のことで、『バガ
 
ヴァッド・ギーター』が有名で、いろいろ研究がされ
 
て解説書なども沢山あるけれど、この『アシュター
 
ヴァクラ・ギーター』について検索しても、私が買っ
 
た本の紹介以外ほとんど何も出てこない。たぶん歴史
 
の中に埋もれていたものが、近年になってスピリチュ
 
アル系の人たちに掘り起こされ、知られるようになっ
 
たんじゃないだろうか。
 
 
 「アシュターバクラという聖者が書いた詩」という
 
意味のタイトルらしいけれど、本当の著者も書かれた
 
頃も不明だそうで、そのあたりの事情と本の内容も
 
『老子』に似ている。老子も、その人物が実在したの
 
かどうかよく分かっていない。内容の本質も変わらな
 
いだろうけど、その語り口となるとかなり違う。
 
 『老子』がかなり社会性を踏まえた上で語られてい
 
るのに対して、『アシュターヴァクラ・ギーター』は
 
完全に個人的な感覚を語っている。何の配慮もなく、
 
直截に、自分の知り得たことを吐露している。
 
 それは仏教のテキストとも、他のさまざまな聖典と
 
も、スピリチュアル系の多くの本とも違う特殊なもの
 
だ(もちろん私の知っている範囲でのことだけど)。
 
 
 その個人的で直截な語りのせいだろうけど、この本
 
の言葉はとても印象的で心に響くのに、読んだあとに
  
印象だけが残って、言葉が残らない。読んでしばらく
 
すると「えーと、なんて書いてあったかな・・」とい
 
う感じで、言葉が思い出せない。こんな不思議な本は
 
ない。自分が特殊なのか、単に物覚えが悪くなっただ
 
けなのかもしれないが、こういうことはいままでに無
 
い。
 
 
 前回書いた澤木興道老師の言葉のように、印象深い
 
言葉はその言葉自体もおのずと覚えてしまうものだけ
 
ど、この本は何か違う。これはどういうことか?
 
 
 これまでこのブログでも何度か書いているけれど、
 
言葉というものは伝えたこいとを指し示すものであっ
 
て、そのものではない。だから、伝えられたら言葉自
 
体は用済みだと言える。この『アシュターヴァクラ・
 
ギーター』は、見事にそのものを直接指し示し切って
 
いるのではないか?だから言葉は用済みになって残ら
 
ないのではないのか?印象だけが残るのは、言葉が完
 
璧にその機能を果たしているからではないのか?
 
 
 このブログを始めたときから、印象に残る言葉を残
 
したいと思ってきたけれど、それはとんでもなく筋違
 
いなことだったのかもしれない。
 
 ものを書いたり話したりするのなら、印象が残る言
 
を述べるのが最善なのだ。
 
 
 『アシュターヴァクラ・ギーター』は、この種の書
 
物として最高のものだろう。が、誰が読んでも印象だ
 
けが残るというようなことはないだろうし、そこに示
 
されているものを受け取れるわけではない。それなり
 
の素養が要る・・・いや、素養というより馴染みと言
 
う方が良いかも知れない。 『アシュターヴァクラ・
 
ギーター』が指し示すものを、わずかでも意識した経
 
験が要るだろう。もっとも、それは誰でも自分の中に
 
持っているので、それに馴染んでいけばいい。
 
 
 『アシュターヴァクラ・ギーター』を、そこから受
 
取る印象に意識を向けながら何度でも何度でも読んで
 
いると、やがて「なるほど、その通りだ」と感じる時
 
が来て、得も言われぬ清々しさのようなものに満たさ
 
れるだろうと思う。
 
 
 言葉が残らず、印象だけが残る。
 
 それは言葉(思考)から開放されるということ。
 
 アシュターヴァクラは、徹頭徹尾言葉の外を指し示
 
している。
 
 
 
 
 

 

 

2026年6月3日水曜日

口の使い方

 
 
 
 誰の言葉だったか忘れてしまったけど、こういう言
 
葉があります。
 
 
 余は弁じたるために後悔したことはあっても
 
 沈黙して後悔したことはない
 
 
 こんなブログを長く書いている立場としては、この
 
言葉を思い出すと耳が痛い。そして澤木興道老師もこ
 
う言っている。
 
 
 人間、口を開けば迷いの披露でしかない
 
 
 苦笑するしかありませんが、一方で澤木老師はこう
 
も言っています。
 
 
 口はしゃべるためにある
 
 
 矛盾しているようですが、私は納得してしまう。
 
 別に澤木老師を盲目的に信じて、なんでもかんでも
 
肯定しているわけではないのです。言葉の上では矛盾
 
しているけれど、感覚的に「そうだ」と思うのです。
 
 
 話すというのは、とりも直さず社会的な行為です。
 
社会は無数のエゴが思考の縄張り争いを繰り広げてい
 
る所なので、そこで自分のエゴに口を開かせれば、衝
 
突や批判や嘲笑を誘発してしまう可能性が高い。だか
 
ら黙っていればいいかといえば、それはそれで好き勝
 
手に毀誉褒貶されてしまう。どちらかといえば、身の
 
安全のためには黙っている方が有利でしょうけどね。
 
 では澤木老師が〈口はしゃべるためにある〉という
 
のは何故か?たぶん黙っているだけでは親切じゃない
 
からでしょう。
 
 
 人として生きていて、好むと好まざるとに関わらず
 
社会の中にいるのなら、智慧を働かせて自分の口に
 
“親切なこと”をしゃべらせるように心掛けるべきだ
 
ということでしょう。
 
 自身のエゴ(迷い)を披露するのではなく、互いの
  
沈黙へ誘うような言葉を探して使う・・・実際にそう
 
できなくても、そういう意識を持って話すだけでも、
 
何かが違うはずです。
 
 
 もっとも聞く耳を持たない人もよくいるわけで、そ
 
ういう人を相手にしゃべるのは徒労でしかないし、往
 
々にして事態を悪化させるだけ。そういう時は沈黙す
 
るしかないけれど、その時は感情も沈黙させるべきで
 
す。しぶしぶにとか不快そうに黙るのではなく、思考
 
も感情も OFF にして黙る。そうすると、手応えをな
 
くした相手は、自分が迷っていることを無意識にでも
 
自覚して萎えてしまう・・・そしてそれと同じことは
 
一人の人間の中でも起こる。
 
 自分のアタマが「ああだこうだ」と騒ぎ立てている
 
時は、沈黙してアタマにしゃべらせておくと、アタマ
 
は迷いの披露をしていることを自覚して大人しくなっ
 
てゆく。
 
 
 口はしゃべるためにある・・・口を活かすのは一筋
 
縄ではないけれど、せっかく備わってるものだし、社
 
会の中にいるのなら、上手く使えれば自分の為にも誰
 
かの為にもなる。
 
 私自身を振り返ると、しゃべるのはいまの五分の一
 
ぐらいにした方がよさそうだけど・・・。やっぱり耳
 
が痛いなぁ。
 
 
 
 
 

2026年6月2日火曜日

自分が邪魔をする

 
 
 
 日々、人の言葉や何かの出来事に接して、わたしち
 
は何かを思うけれど、それは「思った」のか、「思わ
 
されてしまった」のか・・・、私は「思わされてしま
 
った」という立場をとる。わたしたちの思考は常に後
 
付けだ。自由意志など無い。
 
 
 生きていることは過去の後始末のようなもので、真
 
に「自発的」と言えるような思考も行為も無い。どの
 
ように飾ろうと繕ってみようと、わたしたちは過去や
 
その時々の状況に動かされているのであって、自ら動
 
いているのではない。
 
 やむにやまれず何かを考え、何かをして生きてい
 
る。自分というものは、その動かされている“動き”
 
のイメージであって、確固としたものは無い。
 
 
 そう思わざるを得ないので、私はそう思って(思わ
 
されて)いるけれど、自分の意思があると思う人は、
 
私のような者を見ると、虚しいし面倒だと思うだろ
 
う。しかし、当の本人は「思わされている」方が楽
 
だ。「南無阿弥陀仏」と同じで、自分は無責任でいら
 
れるし、自分に思わせる“何か”に任せておけばいい
 
ので気楽なものだ。もとよりそういう風に思わされて
 
しまっているのだから仕方がない。それに抵抗しよう
 
と思ったとしても、その抵抗さえ思わされてのこと
 
だ・・・手も足も出ない。
 
 
 浄土真宗の僧侶の藤原正遠さんは「我に手のなし」
 
(打つ手は無い)と仰ってらしたけど、自分の力・意
 
思は幻想だ。アタマが自身の存在意義を示したくて、
 
自分の力・意思があると都合の良い解釈をするだけ
 
だ。
 
 正遠さんは「(程度の酷い)煩悩がでてきたらこま
 
りますよねぇ」という問いに対して、「下さる煩悩し
 
か出んもの(だから安心していればいい)」と答えて
 
いる。その徹底的に無責任とも言える自己否定は、逆
 
説的に破滅的な煩悩が力を持つのを抑える。“気楽
 
さ”からは、煩悩へ送り込まれるエネルギーが出てこ
 
ないから。そして気楽にしていると、軽くなった自分
 
を押しのけて、“何か”の力が現れやすくなる。良か
 
れと思って邪魔をしていた自分が力を抜くと、“何
 
か”の働きがスムーズになり、自分という動かされて
 
いる“動き”もスムーズになる。気楽さが、さらなる
 
気楽さを生んでいく。
 
 
 この話全体が、私のアタマが都合の良い解釈をして
 
いるだけかもしれないけれど、それもそう思わされて
 
のこと・・・我に手のなし・・・気楽なものだなぁ。
 
 
 
 
 

2026年5月31日日曜日

さようなら

 
 
 
 タイトルに「さようなら」などと書いてあると、
 
「もうこのブログやめるのかな」と思われそうですけ
 
ど、そういうことではありません。「さようなら」の
 
意味を少しイジってみようと思いついたのです。
 
 
 本来「さようなら」はその言葉自体が別れの言葉で
 
はなくて、別れの言葉の前に付いていました。
 
 「左様ならば、これにておいとまいたします」の後
 
半部分が省略されて、「左様なら」だけで別れ告げる
 
言葉になったものです。ですから、別れを切り出す側
 
が使うのが本来で、相手側に別れを切り出させた側は
 
「御免」などと応じるのが言葉の意に叶っています。
 
 まあ、こんなことは多くの人が知っているでしょう
 
けれど、それを踏まえた上で、話はここからです。
 
 
 「左様ならば」
 
 いまの言葉なら「そういうことならば」ですけど、
 
これは相手側の事情、都合を受け入れる態度ですね。
 
その事情を受け入れて、いま以上の関わりを停止する
 
わけですが、なにも別れのあいさつだけに限定しなく
 
ても、あらゆる事柄に対して「さようなら(そういう
 
ことなら)」と告げるのは、かなり人を落ち着かせる
 
のではないでしょうか。
 
 
 自分の希望や想定にそぐわないことに対して、その
 
事自体に「さようなら」と告げる。そのように使うの
 
なら、「さようなら」は執着から自分を開放するため
 
の、良いツールになるように思います。
 
 
 いつだったか白隠のエピソードを書いたことがあっ
 
たと思います。
 
 濡れ衣を着せられ、誤解された白隠が、何も弁明も
 
せずに「ほう、そうか」と受け入れていくことで、か
 
えって誤解が解けていく話ですけど、その「ほう、そ
 
うか」と同じことですね。「そうか」は「左様です
 
か」ですからね。
 
 
 誰にでも事情がある。
 
 事情にも事情がある。
 
 その事情を、自分の側の事情で書き換えようとする
 
と、衝突が起こる。もちろん、衝突してでも自分の側
 
の事情を優先しなければならないことはある。けれ
 
ど、わたしたちは大抵、大したこともない事情にこだ
 
わって物事を面倒にしてしまう。アタマが悪い。
 
 
 自分の事情が通らない物事に「さようなら」と言う。
 
 自分の大したこともない事情にも「さようなら」と言
 
う。
 
 
 「左様ならば、致し方御座いませぬな」
 
 昔の言葉は丁寧なものです。大事なことがちゃんと
 
言葉になっています。「致し方」(対応策)が無いの
 
です。だから「これにておいとま致します」と。
 
 「いとま」は「暇」ですから、「ブランク」であり
 
「ニュートラル」と言えますね。「さようなら」と
 
言って、自分をニュートラルな立場に置く・・・とて
 
も知性的な態度ですね。 
 
 
 自分の暮らしの中に「さようなら」と言えない事が
 
本当はどれだけあるのか?
 
 本当は見過ごしていいことを掴まえて、自分を疲れ
 
させているだけ・・・。わたしたちのやっていること
 
の大半はそういうことでしょう。ご苦労さんなことで
 
す。
 
 
 
 
 
  

2026年5月25日月曜日

現実主義?

 
 
 
 現実主義という言葉がある。私も現実主義者のよう
 
な気がする(こんなブログを書いてるのに?)。けれど
 
も考えてみれば現実主義というのはおかしな言葉だ。
 
主義というのは生き方の方針であって、観念的なもの
 
だろうけど、現実主義というのは自分の前に立ち現れ
 
てきた物事を実際的にどうするかに注力するものだ。
 
それを主義と呼ぶのは違うような気がする。
 
 
 例えば、お腹がすいたので何か食べる・・・そこに
 
主義など無い。暑くなったので長袖から半袖の服に変
 
える・・・それも主義ではない。しかし「お腹がすい
 
たけどヴィーガン食が手に入らないので我慢する」と
 
か、「暑くなったけど、いまオーガニック素材の半袖
 
シャツが手に入らないので暑さを我慢する」とかいう
 
場合は、主義が関与している。主義は、往々にして現
 
実への対応に制限をかける。それにとどまらず、そも
 
そもわたしたちのいわゆる“現実”自体が主義によっ
 
て観念化しているので、そこに主義を持ち込むと“現
 
実”はいよいよ現実性を失ってしまう。
 
 
 現実に対処するならば、まず感覚を優先するのが当
 
たり前だ。感覚の求めるままに対処しにくいときに、
 
思考でサポートするのが、人間として望ましい在り方
 
だろう。
 
 しかし、アタマは悪さをする。感覚の求めがアタマ
 
の方針に合わないとき、アタマは感覚を無視する。そ
 
れは人間が思考してしまう生き物である以上しかたが
 
ない部分があるけれども、そういうことを何千年も繰
 
り返してきたために、最早“現実”は非現実なものに
 
なっている。現実はその時その場所に応じて飾られ、
 
いわゆる“現実”になっている。
 
 
 このブログに書いてあるようなことを世間で言うと
 
「現実を見ろよ」などと言われたりする。
 
 「いや、あんたが言っている“現実”が、非現実な
 
んだよ」と言い返したくなっても、そんなことをする
 
のは面倒を増やすばかりなので黙っている。観念を相
 
手にするとロクなことがない。 
 
 主義によって変質した現実とはできるだけ関わらず
 
にいたい・・・そう考えるのもひとつの「主義」なん
 
だろうか?
 
 
 主義(宗教や科学による判断も含む)のフィルター
 
をかけられた現実であっても、モザイクやぼかしでそ
 
の姿が見えないわけではない。けれど、コントラスト
 
や色調や明度は変えられている。そのフィルターをか
 
けているのはそれぞれの自分自身なので、自分さえそ
 
の気になれば即座に「現実」は見えてくる。
 
 そして「現実」を見ているときは、自分も「現実の
 
自分」になっている。観念から自由になった自分にな
 
っている。