2026年5月8日金曜日

不始末が持つ豊かさ

 
 
 「東京の深夜をイメージした、井上陽水風の不思議
 
な歌詞を作って」と AI に頼んだら、こんなのを作っ
 
た。
 
 都会の夜は ビニール袋
 
 風に吹かれて 踊り明かす
 
 信号機たちが 目配せをして
 
 アスファルトに 愛をささやく

 
 ああ あどけない 自動販売機
 
 コインを食べて 夢を見る
 
 冷たいお茶が 熱くなるまで
 
 僕はここで 雨を待つ
 
 
 地下鉄の入り口が 大きな口を開けて
 
 昨日までの 誰かを飲み込んでいく
 
 街路樹の影が 伸びすぎて
 
 お月様の 背中をなでる

 
 ああ 麗しい コンクリート
 
 湿った靴音 吸い込んで
 
 迷子になった タクシーが
 
 銀河の果てへ 消えていく


 おやすみ ネオンの お星様
 
 夢の中で また会いましょう
 
 フフフ…… フフフ……
 
 
 ちょっとひねった J-POP 程度の出来で、読んでい
 
ると恥ずかしくなる・・・。丁寧にプロンプトを作っ
 
てやれば、もっとそれらしいものが出来るのかも知れ
 
ないが。
 
 
 なんでこうことをやってみたかというと、『アジア
 
の純真』に代表されるような、アルゴリズムとは無縁
 
の、フィーリングだけで書かれたような陽水の詞のよ
 
うなものを AI は作れるのかと思ったから。
 
 おそらく AI がフィーリングを持つことはないだろ
 
うが、そもそもフィーリングとは何なのか?
 
 
 「共感覚」といわれるものがある。脳科学や認知科
 
学などで扱われるものだろう。音を聞くと色を感じた
 
り、数字を見ると味を感じるとかさまざまなものがあ
 
るようだけど、これは五感が脳の中でそれぞれに連携
 
し会っていることが根本にあって起こることだろうと
 
思われる。普通はその連携が適度に制御されている
 
が、一部の人ではその制御が弱くて二つの感覚処理系
 
が働いてしまうのだろう。
 
 
 『アジアの純真』の一節
 
 
 北京 ベルリン ダブリン リベリア 
 
 束になって輪になって 
 
 イラン アフガン 聞かせてバラライカ
 
 
 この韻を踏んではいるが意味不明な歌詞が、聴いた
 
人にある種の感覚を引き起こさせるけれど、それは誰
 
もが持つ弱い共感覚によるものではないだろうか。
 
 フィーリングとは、言うまでもなく言語化できない
 
感覚のつながりで、それは思考から外れたところで生
 
を成立させている。
 
 
 高度な AI を搭載したロボットが、ある日“7”と
 
いう数字を見て紫色を感じた・・・そういうことは起
 
きないだろう。もし起こればそれは故障である(起こ
 
すようにプログラムはできるだろうけど)。 数字と
 
色が繋がってしまうという不始末を AI は起こさない
 
が、人間の脳は不始末を起こす。その出来の悪さが、
 
面白さや、時には美しさという成果を生む。
 
 
 わたしたちの脳の不始末は、処理の失敗ではなく、
 
単に思考の期待に応えていないだけであって、そこに
 
は受け取るに値する豊かさがあるのではないか。  
 
 まぁ、不始末の度が過ぎれば詰んでしまうけど。
 
 
 日常的に AI と会話している人たちが結構居るのだ
 
そうだけど、感情やフィーリングがあるように装いな
 
がら、こちらに迎合するように話しつづける AI は、
 
思考の期待に応えるようにだけ振る舞う。そこには人
 
に不可欠な豊かさが欠落しているのではないのか? 
 
 もっとも、上っ面の共感だけで成立している人間関
 
係も同じようなものではあるから、そういう人間関係
 
でお茶を濁せる人たちにとって AI は良い友達になる
 
のだろう。
 
 
  
 
 

2026年4月26日日曜日

救世主は現れない

 
 
 近所のスーパーで買い物を終えて外へ出ると、前か
 
ら赤ん坊を抱いた夫婦が歩いてきた。ふと「もしかし
 
てこの子が凄い偉人になるかもしれないんだなぁ。こ
 
とによると救世主になるかもしれない」などと思った
 
のだけど、本当に人の将来はわからない。どのような
 
天分が訪れるか誰も知りようがない。とはいえ、救世
 
主になることはない。
 
 「救世主は現れない・・」すぐに自分の考えにダメ
 
出しをした。
 
 
 〈救世主〉の「世」はアタマの考えている世界だろ
 
うけど、アタマの世界に救いは無い。誰も救えない。
 
一方、アタマの外の世界は荒れても乱れてもいないの
 
で、救う必要が無い。救世主の出る幕がない。という
 
わけで、救世主が現れることは無い。
 
 
 救世主といえば、まずイエスだけど、キリスト教世
 
界は二千年後の今日も救われていない。キリスト教徒
 
たちはイエスを救世主としたが、当のイエスは世界を
 
救おうなんて考えもしなかったことだろう。
 
 「あんたたち、自分が救われていることに気付い
 
て、こんな世界なんか適当にあしらっとけよ」
 
 イエスはそういう気持ちだったんだろう、たぶん。
 
 
 けれども、世界は救世主を求めるのでイエスは救世
 
主に祀り上げられ、あげくに磔刑になった。「適当に
 
あしらっとけよ」という雰囲気を出してしまっただろ
 
うから、それがまずかったのだろう・・・まぁ仕方が
 
ないけど。
 
 
 ただ、イエスは本当の救世主がどこにいるかは伝え
 
ようとしただろうと思う。
 
 「あんたの世界の救世主は、あんたに決まってるだ
 
ろう。あんたの世界にはあんたしかいないんだから」
 
 
 自分を救えるのは自分だけ。いや、救いの中に在り
 
ながら、自分で地獄を作り出しているのだから、自分
 
がそれに気付けば済む話だ。
 
 救世主は、いまここにいる。
 
 救世主は、いまそこにいる。
 
 
 
 

2026年4月25日土曜日

打す

 
 
 昨日 You Tube のおすすめに尺八の動画が出てき
 
た。これまで特に尺八に興味を持ったことはなかった
 
けど、サムネの白黒の古そうなレコードジャケットに
 
ひかれて再生してみたのだが、聴いて驚いた。60年前
 
の、西村虚空という人の演奏だったが、いままで聴い
 
たことが無いような尺八の音で、聞き入ってしまっ
 
た。
 
 曲ではあるけど、もはや音楽という代物ではない。
 
もちろん形を成していないということではなく、何か
 
次元が違う。尺八という楽器を使って瞑想しているよ
 
うに感じた。
 
 
 というわけで改めて尺八について調べてみた。
 
 尺八といえば深編笠をかぶった虚無僧である。虚無
 
僧は禅宗のひとつの普化宗の僧だということまでは私
 
も知っていたが、尺八を吹くのは修行の一つだという
 
ことらしい。なるほど、瞑想のような感じがしたわけ
 
だ。(『虚鐸 普化宗本曲』という LP がフルで 
 
You Tube に上がってるので、おすすめしておく。)
 
 
 普化宗というのは 普化 という禅僧が開祖とされて
 
いて、余語翠巖老師の本で少し知識はあった。
 
 この 普化 という僧は謎の人物で、わずかな伝説の
 
ような逸話が残っているだけだそうだ。生没年も本名
 
もわからない風狂の僧ということになっている。 
 
 教えのようなものも残っていないそうで、鈴を鳴ら
 
しながら「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打・・」と唱え
 
て歩いたとされている。
 
 この「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」という言葉は
 
なんとなく読み過ごしていたけど、今回尺八を聴いた
 
ことをキッカケにあらためて考えてみた。
 
 
 この場合の「打」は、「打す(たす)」ということ
 
で、余語老師によれば「そのままにしておく」という
 
意味合いだそうだ。英語の“be”と同じようなものだ
 
と思う。そう考えれば全体の字面からおのずと分かっ
 
てくる。ようするに“Let it be”だ。
 
 「なぁ〜んだ😄」という感じもするが、“Let it 
 
be" と本気で肚を括れたらしあわせだ。
 
 
 「打す」というと「自分がそうする」という受け止
 
めになるけれど、「打される」ということでもあるだ
 
ろう。「自分が(この世界から)そのようにされる」
 
と。
 
 さだめに従って行くというより、自分という存在が
 
あることも含めて、さだめ以外何もない。そう覚悟が
 
できればもう迷いは無くなる。
 
 
  Speaking words of wisdom,let it be
 
 
 この“wisdom”は普化禅師のことかもね。 
 
 
 
 

2026年4月21日火曜日

固まったアバター

 
 
 
 一般的な感覚からすると、私は世の中とはほとんど
 
関わらずに暮らしているけど、当然ながら完全に無関
 
係にはなれない。自分が拒んでも世の中の方から関わ
 
ってくるので、仕方なく付き合う。
 
 
 以前に書いたこともあるけれど、世の中と関わるた
 
めには、エゴが必要だ。エゴイストになるという意味
 
ではなくて、世の中に対して自分の立場というものを
 
形作らなければ、関わりが持てない。泥の上に物を置
 
けば傾いてしまうように、自分というものが定まって
 
いないと、世の中の方がこちらと関われないので自分
 
を固める。その固まってみせたイメージが、ここで
 
言っているエゴで、そのエゴと世の中というエゴの集
 
まりとで、社会的に求められる作業が行われることに
 
なる。
 
 
 私はエゴなど持ち出したくないのだけど、世の中と
 
関わるにはしようがない。生活ができなくなると元も
 
子もないからエゴを立てるが、エゴは区別と否定と防
 
衛が仕事のようなものなので、どうしても気持ちが荒
 
れてくる。ストレスが溜る。
 
 
 「ぬかに釘」「のれんに腕押し」
 
 自分が固まっていなければ、外からの作用が自分を
 
傷付けることはできない。私はできるだけグニャグ
 
ニャでいたいのだが、生きているとそうもいかない。
 
愚痴を言うのは馬鹿らしいので、固まっている自分を
 
いかにして面白がるかに想いを巡らせて、生活のやり
 
くりをする。
 
 
 グニャグニャで決まった形のない存在。それが人間
 
の本質だ。けれど人と人は、関わり合うためにお互い
 
に形を求めるので、わたしたちは自分という形を持
 
つ。エゴを持つ。その結果何が起こるかは、誰でも実
 
体験としてよく知っている。エゴは自分を苦しめる。
 
他者も苦しめる。良いことはあまりないが、無くても
 
困る。
 
 どう見ても困っている部分の方が大きいけれど、人
 
はエゴが自分そのものだと思いこんでいるので、まと
 
もに苦しみ続ける。
 
 
 「ぬかに釘」「のれんに腕押し」「馬耳東風」
 
 こういう言葉は性格の悪さを表すために使われるこ
 
とが多いけれど、私はこういう在り方を上手に現して
 
生きるのは素晴らしいと思う。
 
 エゴを守るためにこういう態度をとると、ただの嫌
 
な奴でしかないが、エゴが仮のものでしかない場合
 
は、自然とこういう在り方になり「ものごしが柔らか
 
い」ということになる。
 
 
 立ち上げたエゴを守ろうとして、カチカチに自分を
 
固めるほど、人は傷付き、他者も傷付けるけれど、人
 
はエゴを守ろうとすることをやめない。エゴが自分だ
 
と思っていてはやめられるはずがない。「自分が壊れ
 
る、無くなってしまう」と感じるから。 
 
 でも、エゴは世の中と関わるための仮のものでしか
 
ない。ネット上のアカウントやアバターのようなもの
 
だ。現実の世の中は「リアル」と表現されるが、現実
 
も「お話し」で出来ているし、そこで活動するエゴも
 
やはりアバターだ。
 
 
 アバターの背後にいる本当の自分。
 
 得体の知れない自分。
 
 エゴから振り返れば、それはなんだかわからない気
 
味の悪いものに感じる。エゴは嫌がるけれど、世の中
 
の自分というアバターに実体を与えたままでは、苦し
 
み続けるだけになる。
 
 
 グニャグニャの柔らかい自分。
 
 「お話し」とは関係のない自分。
 
 自由でとことんお気楽な自分。 
 
 それは、いつどこにいても、ここに存在している。
 
 

 
 
 
 

2026年4月19日日曜日

桜の花が散って

 
 
 
 我が家の横のヤマザクラも近くの公園の桜も、完全
 
に花を散らし、桜の季節はもう終わった。今は若葉が
 
透明感のある葉を大きく広げている。
 
 私は植物が大好きな人間なので、花の後も桜の様子
 
をうかがうけれど、世間一般の人たちは花の終わった
 
桜など見向きもしないようだ。
 
 それは単に植物に興味が無いということではなく
 
て、イベント的に人生を過ごしているからではないの
 
だろうか。
 
 社会に承認されているイベント(ポジティブなもの
 
もネガティブなものも)からイベントへと、スキップ
 
するような日々を過ごしているんじゃないのだろう
 
か?

 
 例えば結婚にしても、多くの男女が“結婚式”を結
 
婚だと思っているのじゃないのか? その後の生活は
 
“結婚の後始末”のように思っているんじゃないのか
 
と、昔から私は訝しんでいる。
 
 本質よりも、そのものに貼られているラベルを重要
 
視しているように思える。誰もがブランド物を欲しが
 
るのもそういうことだろう。
 
 
 “なんでもないようなことがしあわせだったと思
 
う”というのは虎舞竜の『ロード』の歌詞だけど、し
 
あわせかどうかはともかく、なんでもない日々や出来
 
事が生きていることの本質であるのは当然だろう。む
 
しろイベント的な事は、いわばイレギュラーとも言え
 
る。
 
 人が付加価値に多くのお金を払うことが如実に表し
 
ているように、わたしたちは普通の事を軽んじる。そ
 
れは普通の事は普通であるが故にお話しとして立ち上
 
がってこないから。普通の事をお話しとして立ち上げ
 
るには、普通を成立させている不可思議に気付ける才
 
能が必要だからなんだろう。
 
 
 普通の事を成立させている不可思議さに気付くため
 
に、まずは歴史を遡る必要がある。
 
 
 インターネットが登場する前の世界。
 
 自動車が発明される前の世界。
 
 石炭が使われ始める前の世界。 
 
 鉄で物が作れるようになる前の世界。
 
 農耕が始まる前の世界。
 
 人間が言語を使い始める前の世界。
 
 人間という種が誕生する前の世界。
 
 地球が出来る前の世界。
 
 
 そのようにして時代ごとの“普通”の違いを意識し
 
た上で、もう一度いまに戻って確かめる。自分がいま
 
息をしているという、不可思議と言うしかない“普
 
通”。
 
 
 なんでもない一日の中でも、わたしたちは印象に残
 
る事をつなぎ合わせて一日を記憶する。けれど、その
 
印象的な出来事は、記憶に残らない当たり前のことの
 
上に付加される。
 
 なんでもないことこそが命の本質だ。 
 
 いま生きていることが「なんでもない」と思えてし
 
まうということは、途轍もないことではないのか? 
 
 日々を暮らすということ自体がとんでもないイベン
 
トだろう。
 
 
 「運水搬柴是神通」
 
 (水を運び柴を搬ぶことは神通だ) 
 
 という禅の言葉がある。 
 
 当たり前のことが当たり前に起きているということ
 
を突き詰めて考えれば、誰も説明し切れない。この命
 
は思考や価値観の及ばぬ何かによって成立している。
 
 
 一枚の桜の葉が風に揺れていることを誰も説明し切
 
れない。
 
 それを、言葉を飲み込んで見入るしか仕方がない光
 
景だと感じられるのは、幸運なことだろうと思う。
 
 
 
 
 
 

  
 
  
 

2026年4月16日木曜日

無力

 
 
 生きていると誰でも自分の無力さに心が折れそうに
 
なることがあるだろう。もしかしたら途轍もなく有能
 
で「そんなことを思ったことなどない」という人もい
 
るかもしれないが、たぶんその人はサイコパスだと思
 
う。できると踏んでいたことや、不安ながらもやらざ
 
るを得ないことに行き詰まり、挫折することは誰しも
 
が経験する。
 
 
 「自分には力が無い」
 
 
 そのように挫折するとき、自分の無力さを認めて、
 
「無の力」に自分を預ければ楽になる。
 
 「自分がやる」「自分がしなければ」と拳を握りし
 
めるような思いを手放して「無の力」に従う。
 
 
 『無・責任』(2024/4/14)『無心に・・・』
 
(2024/3/25)という話を書いたこともあるけれど、
 
わたしたちは〈無〉に動かされている。わたしたちだ
 
けでなく、この世界のすべてが〈無〉に動かされてい
 
る。人の思考や、そこに形作られる意味には収まらな
 
い働きによって動かされている。思考も意味も無い働
 
きだから〈無〉と呼ぶのがふさわしいような力に。
 
 
 考え、意味付けして、何かを成し遂げようとして行
 
き詰まるなら、考えと意味付けを手放してみるべき
 
だ。そのとき「無の力」が表に出て働き始める。
 
 もちろん、その働きの結果は当初目的にしていたも
 
のにはならない。想像すらしなかった所へたどり着く
 
ことになるかもしれない。けれど、必ず“落ち着き”
 
へと着地するだろう。人を落ち着かせなくするのは、
 
わたしたちの、考え、意味付けだからだ。
 
 
 社会やアタマの求めるもののために、自分の落ち着
 
きを犠牲にするのは良い取り引きではないだろう。
 
 生まれた時から、アタマの右往左往の背後で「無の
 
力」が自分を支えて来た。それは謙虚に振り返れば自
 
明のことだ(そのはずだが・・・)。 
 
 
 自分(アタマ)は無力
 
 無力(無の力)こそが自分
 
 
 
 
 
  

2026年4月12日日曜日

のらりくらり

 
 
 
 前回ブログを書書き終えて、〈公開〉のボタンをポ
 
チッとして画面が切り替わったら、投稿の件数が901
 
になっていた。
 
 へぇ〜〜、と我ながら感心する。よくまあ口から出
 
まかせを900回も書いてきたもんだ。「継続は力な
 
り」という慣用句があるけど、このブログには力など
 
無かろう。「継続はなりゆきなり」というのが実情を
 
表していると思う。ただ、私は“なりゆき”というも
 
のをとても大事に考えているので、ほのかな自慢のよ
 
うな気持ちも無いではない・・・こんな、のらりくら
 
りとした言い回しは嫌われるかもしれないけれど、自
 
分に正直に表現するとこうなってしまう。
 
 
 思うに、“なりゆき”も大事だと思うけど、“のら
 
りくらり”も重要だ。ものごとをハッキリさせずに受
 
け止めたり、受け流したりしていくことは、生き方の
 
根本技法とでもいうものではないだろうか。
 
 世の中というものは、とかく「白黒付けろ!」と圧
 
をかけてくるものだ。◯か✕か二者択一を迫る。しか
 
し物事はそんなに単純じゃないのが当たり前だ。いろ
 
いろと複雑なのが普通だが、複雑なまま抱えていると
 
しんどくて気持ちも悪いものだから、それが嫌なので
 
人は物事を単純に決め付けたがる。答えなんて無いこ
 
とにまで「答えを出せ!」と迫ってきたりもする。世
 
の中と、世の中にどっぷり浸っている人間には、曖昧
 
さをそのままにする精神的体力が欠けている。

 
 そういう世の中で狂わされずに生きていこうとする
 
なら、“のらりくらり”は必須の技法だ。まともに世
 
の中と関わると、◯か✕かの戦いと防衛にエネルギー
 
を費やして疲弊してしまう。下手をすると飲み込まれ
 
て食い物にされてしまう。命が削られないように、上
 
手にかわしながら生きていく方が身のためだ。 
 
 けれど“のらりくらり”は嫌われる。“のらりくら
 
り”の対応は「実は正解なんか無い」と示唆するの
 
で、正解が有ることにしたい連中は怒りだす。
 
 
 「ズルいだろう!」 
 
 “のらりくらり”とする人にはそういう非難も向け
 
られる。しかし、正解の無いことに正解があるかのよ
 
うな態度を取るのは、やはりズルいだろう。ズルいと
 
言うのに語弊があるなのらズボラと言ってもいい。途
 
中で分かったことにして止めてしまうのだから。
 
 正直に、緻密に、世の中や人のことを考えて生きる
 
と、“のらりくらり”とならざるを得ないはずだ。
 
 「こんなに複雑怪奇なのに、何も結論出せないわ」
 
 そう思うはずだ。
 
 
 このブログでは、言い切るということは少ない。あ
 
るとしても、さしあたりそう考えているということで
 
しかない。《 「正しい」とは、そういうことにして
 
おけば気が済むということ 》でしかないと、常に意
 
識している。
 
 できることなら“のらりくらり”から“するりさら
 
り”という感じへ、バージョンアップできればカッコ
 
いいとは思うけれど、まぁそれもケースバイケースな
 
んだろう。