今日のタイトルはこのブログらしく、あざとくて意
地の悪そうな感じがする。
「平等」「不平等」について書こうと思い立ち、手
始めに「タイトルをどうしようか」と考えてみるに、
「平等も不平等も存在しないなぁ」としか思えないの
でこのタイトルになった。そもそも「平等」なんて存
在しないですよね?
例えば、甥の兄弟にお年玉をあげるとする。
それぞれに1万円をあげれば平等か?
1万円であることは同じだけれど、兄弟ふたり、そ
れぞれにとって1万円の持つ価値は違うだろう。
3万円のゲームを買いたい兄と、9千円のフィギュ
アを買いたい弟とであったなら、1万円の影響力はか
なり違う。「平等」というのは社会的で便宜的な概念
でしかなくて、それは個人の立場からすれば三者三様
の「そのものだけ」にならざるを得ない。そう考えた
時に「平等」とは何なのか?そんなもの存在するの
か?と思うわけです。
社会というものは生き物ではない。一つのシステム
であり、そのひとつの仕組みとして「平等」という概
念が存在している。
家庭の中で、母親が子供たちにおやつを与えるとき
に、「平等にね」と言った瞬間に、そこにはひとつの
社会が発生している。「お兄ちゃんだから、今日は我
慢して弟にチョコレートをあげないさいね」と言った
瞬間にも社会が発生している。
「お兄ちゃんだから我慢しなさいね」と言ったと
き、お兄ちゃんにとっては「不平等」だけど、母親の
アタマの中では、弟を優遇することで「平等」がもた
らされると判断している。こういう例だけではなく
て、「平等」を行うと、必ず「不平等」を生んでしま
う。これはあらゆる局面で発生するけれど、不問に処
される。面倒だし、そもそも「平等」は実現不可能な
ので、社会はそのことを表沙汰にしたくない。
「平等」という概念は、社会に問題を生む。
では「不平等」で良いのか?
どちらが先かは知らないけれど「平等」と「不平
等」は対概念なので、片方だけでは成立しない。「平
等」が問題であるなら「不平等」など出る幕も無い。
「平等」「不平等」。どちらがではなくて、「平
等」という概念を煙に巻いた方が豊かさを生みそうに
感じるので、思いつきで書いた「無平等」という言葉
を探ってみる。
「平等は無い」あるいは「無の平等」。
「平等は無い」というのは「不平等」ではない。
「比較が無い」ということとして考えよう。
働きかける側も、受け取る側も、 そのことを比較
なしに行い、受け取るならば、それはどのような状況
や想いを生むだろうか?
ただ、そのこととして流れて行く・・・そうではな
いだろうか?
働きかける側と受け取る側の一対一だけのこととし
て流れて行くだろう。そこに社会は発生しない。面倒
な副産物を生まないだろう。では「無の平等」とは何
か?
「無」を働きかけ、「無」を受け取る。あるいは
「無」の働きに任せて送り、「無」の働きに任せて受
け取る・・・それはなにか?
それはたぶん「社会的な価値」ではなく、「命の示
す価値」にいざなわれて行い、受け取るということに
なるだろう。
「命の示す価値」
それはなんぞや?
「そよ風が気持ちいいなぁ・・・」そういうことだ
ろう。
昨日、ネパールと中国の国境をまたいで、想像を絶
する規模の土石流が起きた。数千人が死んでいるだろ
う。世界は人間に対して何の配慮もない。
「平等」「不平等」など存在しない。「気の毒」も
「不幸」も無い・・・けれど、人はそれを受け止めら
れない。「ただそういうものだ」という事実が許せな
い。
そりゃそうだ、人間だから・・・私も「そういうも
のだと思え」とは言わない。けれど「そういうもの
だ」が真実だ。
「平等」も「不平等」も存在しない。それはアタマ
が描いて、すがろうとするまやかしで、表面上の体裁
を繕うことはできても、その裏で面倒を増やしてい
る。
「平等」「不平等」を煙に巻いたとき、人は社会も
煙に巻くことになる。そして世界の実際を感じる。
お兄ちゃんは飴を舐めて「美味しい」と思い、弟は
チョコレートを食べて「美味しい」と思う。そこにあ
るのは「美味しい」という実際だけだ。
「平等」なんて、人間の意識から消えればいい。
もっとも本能の欲求丸出しは余計に具合が悪いけれ
ど・・・。