2026年9月29日火曜日

人も鳴かずば撃たれまい

 
 
 前回のブログを書きながら「余計なことを口走って
 
るなぁ」と思っていた。
 
 
 「雉(キジ)も鳴かずば撃たれまい」ということわ
 
ざがありますよね。雉の鳴き声は、カタカナで「ケー
 
ン!」と表記されるような感じですが、河原や野山の
 
開けたところで、急に大きな鳴き声を上げる。そのた
 
め、自ら居所を教えることになって、人に撃たれてし
 
まうということで、人柱に関わる故事の中に出てくる
 
言葉です。
 
 人も雉に劣らずよく鳴きます。わざわざ口を出して
 
会ったこともない人間たちからボコボコにされるな
 
ど、SNS では日常茶飯事ですけど、職場や学校や家庭
 
や友達関係でも、余計なことを口走って問題を起こす
 
ことは誰でも経験します。
 
 
 雉が鳴くのは縄張りの主張の為なんでしょうが、人
 
はなぜこんなに鳴くのでしょう。
 
 『人は、なぜ喋る?』(2018/3)という回で書きま
 
したけど、わたしたちは社会の中で自分の位置を確認
 
するために喋るというのが、最も大きな理由です。他
 
に「溜まったものを捨てる」「持っているものを与え
 
る」という理由も書きましたが、雉のように鳴くのは
 
少し違うような気がします。
 
 人が鳴く行為は「溜まったものを捨てる」という面
 
もあるでしょうけど、自分にとって不快な状況を修正
 
しようという衝動か、愉快な状況を強化しようという
 
企てによるのでしょう。要するに欲張るんですね。
 
 
 黙っていればいいものを、欲にかられて差し出た口
 
をきいて墓穴を掘ってしまう。私にもいくつもの経験
 
がありますけど、本当に情けない。後で自虐的に笑っ
 
てしまえればいいんだけど、大抵はどうにか自己正当
 
化しようとしてさらに疲れてしまう・・・アタマが悪
 
い。
 
 
 わたしたちのアタマは四六時中、周りをコントロー
 
ルしようと必死です。いまの小さな欲求や、自分にと
 
っての正しさに沿うように周りを変えようとしていま
 
す。そんな努力が実を結ぶことはほとんどありません
 
し、コントロールされる側には圧が掛かるので、それ
 
が後で問題を起こすものです。ところが、コントロー
 
ルしようとすること自体が、ギャンブルのような快楽
 
をもたらすようで、「これに勝てば、大きな見返りが
 
来る」という、無意識の目算に勝てないのだと思いま
 
す。
 
 
 コントロールしようというのは、生きて行こうとす
 
る限り仕方がないことですが、アタマの最大の悪業で
 
もあります。「もっともっと」と欲求にかられて度を
 
越し、苦しみを呼び込んでしまいます。
 
 SNS で一言書き込む。聞かれてもいないのに友達の
 
話に口をはさむ・・・人も鳴かずば撃たれまい。
 
 
(こんなブログで口から出まかせを書き続けながら
 
「人も鳴かずば撃たれまい」と書いているのは滑稽で
 
すけどね)
 
 
 雉が鳴くのは雉の業ですが、自然の摂理によるもの
 
です。しかし人が鳴くのは、ただ人の業です。多くの
 
場合、エゴが出しゃばり、コントロール欲求に動かさ
 
れているだけです。
 
 
 本当に鳴く必要があるのか?
 
 いまここで声を出すことは、自分と世の中にとって
 
良いものをもたらすのか? 
 
 自分という出来損ないに、自分と世の中の何が分
 
かっているというのか? 
 
 そう自問してみれば、そうそう声を出す気にはなれ
 
ないはずなんですけど、自問する前に声が出てしまう
 
のがわたしたちの困ったところで・・・。
 
 
 やはり《沈黙の木には平和の実がなる》のです。 
 
 (『沈黙の木には平和の実がなる』2020/4) 
 
 
 
 

2026年9月28日月曜日

静穏に

 
 
 宇多田ヒカルの『 Wait & See 〜リスク〜』の歌詞
 
に 

 
  変えられないものを受け入れる力

 
  そして受け入れられないものを

 
  変える力をちょうだいよ

 

 

というフレーズがあって、昔から「良い詞だな」と思

 

っていた。ところが、先日アメリカ人の男性がほぼ同

 

じことを言っているのを聞いて、「もしかして聖書に

 

でもある言葉なのかな?」と思って調べてみると、す

 

ぐに元の言葉が見つかった。

 

 神よ、変えることのできないものを
 
 静穏に受け入れる力を与えてください。
 
 変えるべきものを変える勇気を、
 
 そして、変えられないものと変えるべきものを
 
 区別する賢さを与えてください。

 
 
 ラインホルド・ニーバーというアメリカの神学者の
 
言葉で、『ニーバーの祈り』と呼ばれて広く知られて
 
いて、宇多田ヒカルはこれを引用したようだ。
 
 良い言葉だと思う。キリスト教徒であればなおのこ
 
とだろう。特に「区別する賢さ」をまず求めるのでは
 
なかろうか。彼らには最後の審判が待っているから、
 
区別することはとても重要だろう。
 
 
 けれども実際のキリスト教世界は、ニーバーの祈り
 
も叶わず、区別することに厳密過ぎて断絶・分断を生
 
み、逆にそれを正そうとして、一方で区別することを
 
排除し過ぎて混乱を生んでいるようにも見える。「静
 
穏に受け入れる力」をもっと大事にすればいいのに
 
と、日本人の私は思う。
 
 
 こんな評論は大きなお世話だろう。日本にキリスト
 
教徒は1%ぐらいしかいないし、日本のキリスト教は
 
神道と仏教の影響を受けてしまっていて、ご本家のキ
 
リスト教世界とはかなり違う。余計なことを言うと
 
「黙ってろ」と言われそうだ。けれども、キリスト教
 
世界の混乱・断絶は日本にも影響を与える。静穏にし
 
てもらわないと迷惑する。
 
 
 日本人は「静穏に受け入れる」ことが結構得意だ。
 
大きな災害に遭っても、静かにこらえてる。
 
 伊勢神宮に参る時も、願い事は禁じられ、ただ頭を
 
下げる。「南無阿弥陀仏」と唱えて、すべてを阿弥陀
 
仏にまかせてしまう。そういう感覚が自然と染み付い
 
ているのだろう。
 
 とはいえ、これが個人の日常になってくると、なか
 
なか静穏でもない。大きな出来事を前にすれば「仕方
 
がない」とあきらめも付けやすいけれど、個人レベル
 
の小さな出来事になると変えようとする思いが前に出
 
てきやすい。「許せない」「我慢ならん」と戦闘モー
 
ドに入る。
 
 
 小さな事だからこそ「変えよう」と思うのだけれど
 
も、「小さな事なら変えなくても良い」という対応も
 
有りだ。むしろ、小さな事のために戦闘モードに入る
 
のはコスパが悪いのではないのか?
 
 「この程度のことでエネルギーを使うのはもったい
 
ないな」と静穏にしている方が賢いだろう。 
 
 
 もう一度『ニーバーの祈り』を見て見よう。
 
 
 神よ、変えることのできないものを
 
 静穏に受け入れる力を与えてください。
 
 変えるべきものを変える勇気を、
 
 そして、変えられないものと変えるべきものを
 
 区別する賢さを与えてください。
 
 
 やはり「静穏に受け入れる力」と「区別する賢さ」
 
がこの言葉のキモだろう。そこがちゃんとしてれば、
 
「変える勇気」はおのずと現れてきそうだ。
 
 
 まず「静穏に受け入れる」。静穏でなければ賢さは
 
期待できないだろうから。
 
 
 ニーバーがどのような人なのかは知らないけれど、
 
マイスター・エックハルトのように、結構仏教に近い
 
考えの持ち主だったのかもしれない・・・などと思
 
う。 
 
 
 
 
 

2026年9月19日土曜日

意味有りげ

 
 
 人類滅亡が近い(?)ということなのだが、なぜ人
 
は「人類滅亡」という言葉に耳をピクつかせるのだろ
 
う?人類が滅亡しようがしなかろうが、ひとりひとり
 
はせいぜい100年ぐらいで必ず滅亡する。「後のこと
 
はどうでもいい」という発想だって有りで、実際そう
 
考える人間も一定数いるだろう。なのに、なぜ「人類
 
滅亡」はパワーワードなのか?
 
 
 「人類」
 
 「滅亡」
 
 
 どちらも言葉のイメージとして、体積が大きいとで
 
もいうような感じがある。感じるはあるけれど、それ
 
は妄想が形作る先入観であって、言葉は言葉でしか無
 
い。「人類」も「滅亡」も、「ダンゴムシ」や「爆
 
笑」なんかと変わりはしないのに、そこにある“意味
 
有りげな感じ”が人の気持ちに引っかかってくる。
 
 
 井上陽水の『最新伝説』という曲に“ながめてみて
 
見飽きたカレンダー どことなく恐がらせの数字”
 
という歌詞がある。この曲は1998年のアルバム『九
 
段』に収録されているので、この歌詞は「ノストラダ
 
ムスの予言」を踏まえてのことだと思われる。 
 
 この例が示すように、言葉や映像には“意味有り
 
げ・恐がらせ・思わせぶり”なものがいっぱい有る。
 
人というのは、意図的にあるいは気分的にそういう言
 
葉を使いたがる。アタマはそういうのが大好きだけれ
 
ど、“意味有りげな言葉”はそれが示しているように
 
「意味が有る」わけではない。
 
 
 意味有りげな言葉を使うと、物事を深く理解してい
 
るとか、大所高所からものを見ているかのような自己
 
認識が得られるのでアタマは嬉しい。けれど、それは
 
意味有りげなだけで、必ずしも意味が有るとは限らな
 
い。言う側、聞く側が、共に都合よく深読みするだけ
 
でしかないことはよくある。「ノストラダムスの予
 
言」はその代表例だろう。
 
 
 「人類滅亡なんて妄想だ」などということを言おう
 
としているのではない。予言や予測が当たるかどうか
 
なんて、私にはどうでもいい。世界の大きな流れなん
 
て、世界の1/3の人間が変えようとしたって変えられ
 
ないだろうし、ましてや、ひと握りの数の個人が動い
 
たって何も変わらない。ただ“意味有りげ・恐がら
 
せ・思わせぶり”といった表現に気持ちを揺さぶられ
 
ることは、不快でバカバカしいから乗せられたくな
 
い(コロナ騒ぎの時もそうだった)。
 
 
 好むと好まざるに関わらず、起こることは起こる
 
し、起こらないことは起こらない。
 
 アタマが“意味有りげ・恐がらせ・思わせぶり”に
 
語ることに、いまこの時の“実”は無い。
 
 たとえ「明日人類が滅びる」という予言が本当に
 
なっても、「そんな・・・」と今日を恐れながら過ご
 
すと今日一日分の損だ。
 
 
 世の中へ向けて意味有りげな事を言う奴は気に入ら
 
ない。「意味の有る事(現実的な事)を言え」と思
 
う。
 
 
 このブログは、意味が有るか?現実的か?
 
 私には分からない。
 
 当人は「無意味であり、実感的」だと思っている。
 
 
 
 

2026年9月16日水曜日

アタマを笑え

 
 
 
 「AI が人類を滅ぼす可能性がある」
 
 一昨日からだったか、ネットでもテレビでもその話
 
題を何度も見る。AI 開発の先頭を走る企業の経営者
 
たちが「規制すべきだ」と言う。
 
 「はぁ?自分たちがやってるんだろう?自分たちで
 
規制すればいいだけだろ」
 
 アタマが良い奴はアホなんだな・・・と思う。
 
 
 自分たちが手を緩めると中国が先に行くから、国際
 
的な規制をすべきだという思惑なんだろうけど、実効
 
性の有る規制などできるわけがない。無責任な連中
 
だ。
 
 『大きな責任を持つ人は、無責任です』(2021/8)
 
という話を書いたこともあるけれど、世の中は無責任
 
な人間によって動いて行く。これはどうにもならない
 
ね。
 
 
 昭和の頃は「米ソ間で核戦争が起きて人類が滅亡す
 
るのではないか」という話がことあるごとに話題に
 
なっていた。今回はそれの AI 版だけれど、昭和の子
 
供である私からすれば、そんな話は1973年の『新造人
 
間キャシャーン』で半世紀前に想定済みだ(『ターミ
 
ネーター』の11年前だよ)。
 
 実際に AI が人類を滅ぼしにかかったとしても、そ
 
れはわたしたち人間のアタマの暴走の結果なので、し
 
ようがないだろう。我がアタマを呪え(笑えというべ
 
きだろうけど)。
 
 
 AI はアタマの機能を外に出したものであり、アタ
 
マのクローンだ。そのクローンの出来が良くなり過ぎ
 
て、「オリジナルの方が消されるかも」と恐くなって
 
抑えようと言う、けれど行きがかり上やめられない
 
・・・ああ〜アホくさ。
 
 
 「人類滅亡?」 
 
  もう滅亡してもいいよ。こんなバカな生き物。改
 
善の傾向は見られない。アタマが悪すぎるでしょ。
 
 
 滅びの時が数年後か、百年後か、そんなこと起きな
 
いのか知らないけど、無責任なアタマでっかちの世の
 
中は放っておいて、世界と別の場所で自分を可愛がっ
 
てやろう。世の中と無関係にしあわせになってしまえ
 
ばいい。アタマの悪い連中のせいで人類が本当に滅び
 
るのなら、右往左往させられずに安らいで過ごしてや
 
りたいものだ。(もしかしたら、その姿勢が人間を滅
 
ぼしにかかった AI のアルゴリズムに影響を与えて、
 
ブレーキを踏ませることになるかもしれないよ)
 
 
 遠慮はいらない。あいつらも無責任なんだから、わ
 
たしたちがこの社会に責任を持つ義務は無いし、わた
 
したちが恐れたところで流れは止められない。
 
 クラッシュするのか、夢の未来が拓けるのか?
 
 ひとりの野次馬になって見ていたい・・・と、私は
 
思うけどね。 
 
 
 
 
 
 
 

2026年9月14日月曜日

治大國若烹小鮮〜大国を治むるには、小鮮を煮るがごとし〜

 
 
 
 テレビでもネットでも家庭や飲み屋でも、政治家や
 
識者だけにとどまらず、一般人もが社会をどうすべき
 
かと口をひらく。眼の前の具体的な問題については、
 
どうにかしなければならないだろうけど、社会全体を
 
どうすべきかなどという「理念」を語るのを聞くと、
 
私は不快になる。
 
 
 私も社会について「こういうところは良くないから
 
少し変えたほうがいいな」などとは思うけれど、「社
 
会全体をこうすべき」という大きな理念などはない。
 
自分が普段考えていることを振り返ると、私は社会主
 
義者なんだろうなと思うけれど、その一方で、実際に
 
は社会主義は成立しないと考えているので、それを口
 
にはしないし、当然求めもしない。
 
 
 社会主義であれ共産主義であれ資本主義であれ、民
 
主主義であれ専制主義であれ、アタマが考えることは
 
当のアタマが邪魔をするので必ず破綻する。なので私
 
は大きな理念など持たない。いや、持てない。私は自
 
分も含めて、人間を高く値踏みできない。(日本は実
 
質的社会主義国としてかなり上手くやってるとは思う
 
けど、この先どうなることやらわかったものではな
 
い)
 
 
 「理念」というのは「理想とする考え」だろうけ
 
ど、「理想」が重んじられ「考え」が強固になるほど
 
身体性と感情と自然は軽んじられて「考え」は暴走し
 
始める。
 
 「理想」がある程度の重さを持ってしまうと、自重
 
で社会の坂道を下って行き、誰も止められない。個人
 
のレベルなら、その暴走を静めることもあり得るけれ
 
ど、社会のレベルになると、重すぎてもうどうしよう
 
もない。先にはクラッシュが待っている。
 
 
 老子に〈「治大國若烹小鮮」〜大国を治めるには小
 
魚を煮るようにしなければならない〜〉という言葉が
 
あるけれど、アタマで考えて社会をいじくると、自然
 
な成り行きを乱してかえってダメになる。2500年前に
 
老子がそう忠告しているのに、いまでもアタマは主導
 
権を持つ。仕方がない・・・社会を作っているのはア
 
タマだから。
 
 
 端っことはいえ私も社会に属しているから、理不尽
 
なことや汚い振る舞いを見てしまうと、私もつい自分
 
にとって理想的なこと言いたくなってしまう・・・け
 
れど、それは何も良いものをもたらさない。ミイラ盗
 
りがミイラになるだけだ。アタマの暴走に多少なりと
 
もエネルギーを与えることになる。
 
 
 口を開かず、手近なことだけを誠実に片付けていれ
 
ばいいのだと思っているのだけれど、私のアタマも悪
 
い。その巧妙さと、飽くことなき自惚れと執着は御し
 
難い・・・。
 
 
 「口を出すな。手を出すな。自分の為、世の中の為
 
に・・・」と、今日も要らんことを口走る自分に苦笑
 
いをする。
 
 
 
 
 

2026年9月5日土曜日

「無印良品」

 
 
 
 今回のタイトルは、別に『無印良品』の商品や会社
 
の話をしようというのではなく、「『無印良品』とい
 
う四文字は立派な仏教用語になるな」と思ったので、
 
それを書いてみようと思った次第です。
 
 
 「無印良品」と書いて、「印(しるし)無きは、良
 
品(りょうぼん)なり」と読んでみる。
 
 「印」=「ラベル」として、「ラベルが無い」とす
 
る。
 
 
 わたしたちはあらゆることにラベルを貼る。
 
 良い・悪い、きれい・汚い、賢い・馬鹿、上手・下
 
手、偉い・偉くない・・・四六時中ラベルを貼る。
 
 信号が青に変わったのに、前の車が発進しない。
 
 「なんだ馬鹿野郎・・・」
 
 一瞬でラベルを貼る。そのラベル貼りが何をもたら
 
すかなんて、まず考えたりしない。
 
 
 次に「良品」とは何か?
 
 「品」は仏教では「ぼん」と読む。
 
 「上品・中品・下品」(じょうぼん・ちゅうぼん・
 
げぼん)と3つある。 
 
 さらにそれぞれの「品」の中で「上生・中生・下
 
生」(じょうしょう・ちゅうしょう・げしょう)と分
 
かれて、9つのランクができる。「上品上生」「下品
 
下生」などとなる。
 
 これは現世での救われ方のランクというようなもの
 
で、「上品上生」なら菩薩のような人で、現世でほぼ
 
救われている。逆に「下品下生」となると、極悪非道
 
な悪人や自分のことしか考えない我利我利亡者という
 
ことになり、地獄へ直行という具合。そこから、世間
 
では救いのない人間を「下品(げひん)」と言う。
 
 
 この9つのランクは「九体阿弥陀」というものに対
 
応していて、どのように救いようのない悪人であろう
 
とも阿弥陀仏はそれぞれに救うという「九体阿弥陀信
 
仰」を形作っている。極悪人でも救われる。
 
 「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人おや」  
 
                (歎異抄) 

 
 とはいうものの「品」が下がるほど現世では苦しむ
 
ので、できれば「品」が高い生き方が望ましい。で、
 
「良品(りょうぼん)」となるためにはどうしたら良
 
いかということで、「ラベル貼りをしない」となる。
 
 
 ラベル貼りをすると、そのラベルにこだわりができ
 
る。自分の考えがラベルごとに固定される。
 
 わたしたちは他人にも自分自身にもラベルを貼るけ
 
れど、貼れば貼るほど、固定されて動かせないものが
 
増えてゆき、身動きが取れなくなって苦しくな
 
る・・・自分がそんなことをしているなどと夢にも思
 
わず、自分が苦しんでいることにさえ気付かなかった
 
りする。自縄自縛になっていることを「安定してい
 
る」とまで思う・・・。
 
 
 なんでもない自分。
 
 なんでもないみんな。
 
 なんでもない世界。
 
 それが本当の世界なのは間違いない。ラベルを貼ら
 
なければ成立しない世の中に生きていると、それが分
 
からない。
 
 
 「印無きは、良品なり」
 
 
 『無印良品』のロゴは日常的に目にする。そのたび
 
にこの言葉を思い出すのは、世の中の縛りから自分を
 
リセットする良いキッカケになるので、結構イイので
 
はないでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 

2026年9月4日金曜日

意識の構造について

 
 
 
 以前、わたしたちの意識の構造について書いたこと
 
があります。〈自意識〉の後ろに〈無意識〉があり、
 
その後ろに意識の活動するベースとしての〈無の意
 
識〉があると。
 
 
 昨日それをまた考えていて、少し加えておかないと
 
いけないことがあると思い、図にしてみることにし
 
た。
 
 
 

 
 
 「外接意識」と「内部意識」がいわゆる「自意識」
 
で、わたしたちが考えたり、意識に直接関わってくる
 
感覚・感情の部分を指す。
 
 
 「外接意識」は、わたしたちの意識を取り巻く自然
 
環境・身体感覚・人間社会とやり取りをする部分。
 
 
 「内部意識」は、「外接意識」が働くためのバック
 
アップ倉庫のようなもので、夢を見たり、幻聴・幻覚
 
が現れる時などに、その内容が意識の表面に出てくる
 
だけで、普段は意識下にあって「外接意識」とやり取
 
りをしている。
 
 
 「無意識」は、全く意識の表面に出てくることもな
 
く、言語化・音声化・映像化もされない領域で、「内
 
部意識」とリンクしながら、「自意識」の動きと働き
 
の強さを決定付けている。
 
 
 これら3つの意識領域を内包して、意識活動の場と
 
なっているのが「無の意識」(または「空識」)で、
 
これは何の働きも無い。ただ意識活動全体を見てい
 
る。
 
 
 
 これが私の考える意識の構造で、普段「アタマ」と
 
表現しているのは、概ね「自意識」の部分ということ
 
になりますね。
 
 (「外接意識」「内部意識」「無の意識」「空識」と
 
いうのは、私の造語です。他の人が同じ言葉を使って
 
いたとしても、関係はありません )
 
 
 この意識の構造というのは、これを踏まえた上で世
 
界との関わりを考えると色々と便利なので、そういう
 
ことにしているだけで「これが意識構造の最終解!」
 
などと思っているわけではありません。私にはしっく
 
りくるということです。(他の人の参考にもなるとは
 
思いますが・・・そうでなければ、ここに載せるのは
 
ムダでしかありませんし)
 
 
 で、これを使って世界とどう関わるかなんですが、
 
世界はこの図のどこにあるでしょう?
 
 
 世界はわたしたち一人一人を取り巻いているわけで
 
すから、「無の意識」の外にあるのでしょうか?
 
 
 いいえ。世界は「外接意識」の中にあります。
 
 
 「外接意識」と表現しているので、実際の世界は外
 
にあると言っているようですが、それは説明の為の方
 
便で、私達の意識が世界と見なしているものは、物語
 
化されて「自意識」の中にあります。
 
 
 世界が外にあるのなら、例えばお釈迦さんが悟りを
 
ひらいたところで、世界との関係は本質的に何も変わ
 
りません。「私は悟った」とタコ壺の中で自己暗示に
 
酔っているだけです(よく居ますね。そういう人)。
 
 世界が自意識の中にあるからこそ、悟りをひらいた
 
りすると、世界を俯瞰するようにして、世界との関わ
 
りが生む苦悩から完全に開放されるわけです。
 
 
 わたしたちが普段関わっている「世界」というもの
 
は、自意識の中にある物語であり、生きて行くその
 
時々に関わるのは、その断片でしかありません。
 
 もちろん、その物語の影響で命さえ失うことがあり
 
ますが、「命さえ・・」という価値感自体が物語の中
 
にあります。
 
 
 「命さえ物語でしかない」というと、命や世界とい
 
う物語をムダなものでしかないと言っているようです
 
が、人が生きる限り物語は無視できないので、「ムダ
 
だ」と済ましているわけにもいきません。
 
 けれど「これは物語であって、生きることの本質で
 
はない」と踏まえることができれば、関わりに余裕が
 
生まれます。その上で命と物語を丁寧に扱う  する
 
と、生きることに面白味が出てきます。
 
 
 この考えは一つの方便です。屁理屈です。けれど、
 
生きることに面白味と気楽さをもたらす、一つの手立
 
てになり得る。
 
 
 「気楽に面白がる」
 
 生きることに、それより望ましいことがあるとは、
 
私には思えません。