《 「正しい」とは、
そういう事にしておけば気が済むということ 》
このブログでもう何度となくそう書いてきた。それ
は言い換えると《 人が語ることはすべて仮説 》とも
言える。
わたしたちは言葉を使ってものを考える。言葉は考
えを伝えるために有って、ひとりでものを考えて他人
に伝えない場合でも、自分の中で自分に伝えるために
ものを考えている。そして伝えるためにはお話し
つまり「説」にしなければ伝わらない。
例えば誰かに向かって「スイカ」と言ったとしよ
う。おそらく「だから何?」と言われてしまう。「ス
イカを食べたい」などと言葉をつないでお話しにしな
ければ話にならない。つまり、わたしたちは考え、伝
えるときに常にお話し 「説」を作る。そしてお互
いに「説」をやり取りし、自分のアタマの中でも
「説」をやり取りするうちに、その「説」が思考と人
間関係の基準になってゆるがせにできないものにな
る。「説」が「現実」になってしまう。
けれど、「説」はすべてアタマが設定した仮設のも
の 「仮説」でしかない。言葉は記号であって、指
し示すその物・事をそのまま伝えられないのだから常
に本当の世界との間に齟齬がある。
ところがアタマは不安を消すために、そこにある齟
齬を無視する。「説」は自分のアタマの中のぐるぐる
回しか、人と人のアタマ同士のやり取りの中で「現
実」として扱われはじめる。そのようにして宗教が生
まれ、オカルトが生まれ、陰謀論が生まれ、学問が生
まれ、政治が生まれ、科学が生まれ、世の中が形作ら
れる。
世の中からトラブルが無くならないのは、トラブル
というものは「仮説」と本当の物・事の間にある齟齬
が顕在化したものだからだ。そして「仮説」を「現
実」と捉える度合いが大きくなるほど、トラブルも大
きくなる。生きていることが大ごとになり、「仮説」
を生きることになる。
わたしたちが考えていることはすべて「仮説」(こ
のブログも)。世の中で生きることは「仮説」でめぐ
る旅のようなものだ。そのことを忘れ、無視すればす
るほど、生きることの面倒さは増えてゆく。
もちろん何も考えずに生きてゆくことは不可能だ。
でも、世の中は「仮説」によって形作られ動いている
ことをわきまえていないと、世の中のお話しに引きず
り回されることになる。
途上国などでは、列車の外の手すりにつかまってい
る乗客がいる。日本でも昔はそうだった。あんな感じ
で世の中に乗っかっていれば、「変だぞ?」「危ない
な・・」と感じたときに、「さっ」と降りられる(寒
かったり、雨に濡れたりするだろうが・・・)。
そんな風に世の中の「仮説」に乗りながら人生をめ
ぐって行くのは、面白いだろうし、人として望ましい
姿だろう。
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