ラベル 文化 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 文化 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年9月5日土曜日

「無印良品」

 
 
 
 今回のタイトルは、別に『無印良品』の商品や会社
 
の話をしようというのではなく、「『無印良品』とい
 
う四文字は立派な仏教用語になるな」と思ったので、
 
それを書いてみようと思った次第です。
 
 
 「無印良品」と書いて、「印(しるし)無きは、良
 
品(りょうぼん)なり」と読んでみる。
 
 「印」=「ラベル」として、「ラベルが無い」とす
 
る。
 
 
 わたしたちはあらゆることにラベルを貼る。
 
 良い・悪い、きれい・汚い、賢い・馬鹿、上手・下
 
手、偉い・偉くない・・・四六時中ラベルを貼る。
 
 信号が青に変わったのに、前の車が発進しない。
 
 「なんだ馬鹿野郎・・・」
 
 一瞬でラベルを貼る。そのラベル貼りが何をもたら
 
すかなんて、まず考えたりしない。
 
 
 次に「良品」とは何か?
 
 「品」は仏教では「ぼん」と読む。
 
 「上品・中品・下品」(じょうぼん・ちゅうぼん・
 
げぼん)と3つある。 
 
 さらにそれぞれの「品」の中で「上生・中生・下
 
生」(じょうしょう・ちゅうしょう・げしょう)と分
 
かれて、9つのランクができる。「上品上生」「下品
 
下生」などとなる。
 
 これは現世での救われ方のランクというようなもの
 
で、「上品上生」なら菩薩のような人で、現世でほぼ
 
救われている。逆に「下品下生」となると、極悪非道
 
な悪人や自分のことしか考えない我利我利亡者という
 
ことになり、地獄へ直行という具合。そこから、世間
 
では救いのない人間を「下品(げひん)」と言う。
 
 
 この9つのランクは「九体阿弥陀」というものに対
 
応していて、どのように救いようのない悪人であろう
 
とも阿弥陀仏はそれぞれに救うという「九体阿弥陀信
 
仰」を形作っている。極悪人でも救われる。
 
 「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人おや」  
 
                (歎異抄) 

 
 とはいうものの「品」が下がるほど現世では苦しむ
 
ので、できれば「品」が高い生き方が望ましい。で、
 
「良品(りょうぼん)」となるためにはどうしたら良
 
いかということで、「ラベル貼りをしない」となる。
 
 
 ラベル貼りをすると、そのラベルにこだわりができ
 
る。自分の考えがラベルごとに固定される。
 
 わたしたちは他人にも自分自身にもラベルを貼るけ
 
れど、貼れば貼るほど、固定されて動かせないものが
 
増えてゆき、身動きが取れなくなって苦しくな
 
る・・・自分がそんなことをしているなどと夢にも思
 
わず、自分が苦しんでいることにさえ気付かなかった
 
りする。自縄自縛になっていることを「安定してい
 
る」とまで思う・・・。
 
 
 なんでもない自分。
 
 なんでもないみんな。
 
 なんでもない世界。
 
 それが本当の世界なのは間違いない。ラベルを貼ら
 
なければ成立しない世の中に生きていると、それが分
 
からない。
 
 
 「印無きは、良品なり」
 
 
 『無印良品』のロゴは日常的に目にする。そのたび
 
にこの言葉を思い出すのは、世の中の縛りから自分を
 
リセットする良いキッカケになるので、結構イイので
 
はないでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 

2026年7月7日火曜日

感覚に相談する

 
 
 
 「“反骨精神”って言葉聞かなくなったなぁ」
 
 今日、ふとそう思った。
 
 「もしかしたら若い子に言っても意味が通じないん
 
じゃないのか?」
 
 そんな気もする。
 
 
 世の中のルール、時には法律に対してでも、違和感
 
を感じたら抵抗するという人がかなり減ってきている
 
んじゃないかと感じる。 
 
 思想的な反抗ではなくて、人としての素朴なフィー
 
リングから「変じゃないの?」と感じて抵抗する・・
 
そういう人が減っているんじゃないんだろうか。
 
 まぁ、勝手に思ってるだけだけど、小学生などがと
 
ても真面目でききわけが良いこととか、SNS に些細な
 
マナー違反なんかを罵る書き込みがあふれたりするの
 
を見ると、世の中の決まりごとに対する批判精神が無
 
い人が増えているのではないか?人間的な余裕が無
 
く、反骨精神も乏しいように思う。
 
 
 『大人たちよ、おめでとう!』(2023/3)という話
 
で書いたけれど、今の日本社会は管理がとても強く
 
なって、管理され、管理の中で生きることに慣れた人
 
間が増えているだろう。もちろん無秩序な社会より秩
 
序正しい社会の方が良い。それに反対はしないけれ
 
ど、行き過ぎてしまっているのではないのか? 
 
 
 《過ぎたるは及ばざるより悪しき》と書いたことが
 
あるけれど、“アタマにとって望ましいこと=人間に
 
とって望ましい”とは限らない。ある程度までなら望
 
ましいことでも、行き過ぎれば問題を起こす。物事に
 
は“ほどほど”ということがある。けれども“ほどほ
 
ど”は中途半端でもある。その曖昧さを許容するゆと
 
りをなくしているのではないか。良い意味での適当さ
 
を・・。
 
 
 自分で考えるということ以前に、無意識に自分の感
 
覚に蓋をして、自分から余計な面倒を生み出さないよ
 
うにしているように思える。
 
 
 たった幅3mの道に信号が付いていて、車も来ない
 
のに赤信号だからと歩行者が律儀に待っている・・・
 
それは法律上正しいし、当人も別に変に思っていない
 
だろうけど、身体は「面倒だ」と感じていないだろう
 
か? その感覚を無視して抑え込んではいないだろう
 
か? もしそうなら、その微妙なストレスが、いつか
 
溜まり過ぎて思いもしない形で吹き出してくるかもし
 
れない・・・。SNS で攻撃的になる人間が多いのはそ
 
ういうことかも知れないじゃないか。

 
 コロナの頃、日本人の八割以上がワクチンを打った
 
けれど、私は打たなかった。荒唐無稽な陰謀論を信じ
 
たわけではない。コロナの発症率、重症化率、致死率
 
と、安全性の臨床試験をしていないあのワクチンの得
 
体の知れなさを考えると、打つ妥当性を認められな
 
かったからだ。別の見方をすれば、自分の身体の免疫
 
力を信頼したといえる。社会の声や雰囲気より、自分
 
の内面の声と自分の知識と経験の方が、私にとっては
 
大切だ。
 
 
 知性ある者は、かならず問いかける
 
 「なぜ?  なぜ、私はこれをしなければならない
 
 のです? 道理と重要性が納得できないかぎり
 
 私はそれに関わりたくありません」
 
 そうやって、人は責任をとれるようになってゆく
 
 
              和尚(ラジニーシ)  
 
 
 私の知性がどの程度のものかは知らないけれど、ど
 
んなことでも納得した上でやりたいし、そのことに責
 
任を持ちたい。そうしないと自己嫌悪で苦しくなって
 
しまう。その選択のためにつまづくことになっても、
 
納得できないことに唯々諾々と従うよりマシだ。
 
 
 責任を持たないことには喜びは無い。
 
 「これは自分が決めたことだ」と責任を持ったこと
 
は、上手く行っても行かなくても手応えが有る。誰か
 
がアタマで決めたことを吟味もせずに従って何が面白
 
いのだろうか? 自己嫌悪を感じないのだろうか? 
 
 
 「アタマは悪さをする」
 
 自分のアタマでも、誰かのアタマでも、私はアタマ
 
が言うことは必ず感覚に相談する。
 
 「こんなこと言ってるけど、どう感じる?」 
 
 それは人間として当たり前のことだと思うけれど、
 
世の中を見回すとそんな者は少数派らしい。 
  
 
 
 
 
 

2026年6月8日月曜日

好印象な自分

 
 
 
 前回の話は何度も書いては消してをしながら、よう
 
やく書き終えた。「何度も推敲を重ね・・」というよ
 
うな高尚なものではないけれど、何度も「これはゴリ
 
押ししてるな」という感じになって、「もうボツにす
 
るか」と思いつつ、どうにか「まぁいいんじゃな
 
い?」というところまでたどり着いた。
 
 読むとぎこちない感じがするけれど、口からでまか
 
せだから、それなりに体裁が取れればいい。
 
 
 何度も書き換えたのは、口からでまかせじゃなく
 
て、でっち上げようとしているのを自分で感じていた
 
から。 
 
 自分では“でっち上げ”と“口からでまかせ”は全
 
然違うと思っている。
 
 “でっち上げ”は手練手管で体裁を繕うだけだけ
 
ど、“口からでまかせ”は体裁は悪くても、深層心理
 
のひらめきから、思いがけず面白いものや有用なもの
 
が出てくる可能性がある。
 
 「実のあるデタラメ」と「整った空疎」なら、私は
 
前者に軍配を上げる。
 
 
 こういう性分は子供の頃からで、若くて生意気なと
 
きには、一緒に働いている人の身内が亡くなって香典
 
を集めるとなったときに、(口には出さないが)「故
 
人の名前さえ知らない人間から、慣習だというだけで
 
香典を集めるなんて、自分の身に置き換えれば、かえ
 
ってその人に失礼だ」と、香典を出さなかったりし
 
た。おかげで「あいつは香典さえ出し渋るドケチだ」
 
と陰口を叩かれたりしていた。少し年齢が上がってか
 
らは、「ムキにならずに合わせとけばいいか」と普通
 
に応じるようになったけれど、べつに後悔などしてい
 
ない。あれはあれで自分らしくて良かったと思ってい
 
る。
 
 
 バーノン・ハワードの言葉にこういうのがある。 
 
 
 よい印象を与えなかったというのはどこが悪いの
 
 でしょう?(中略)他人に自分をよく見せかけな
 
 いではいられない欲求  世界の災厄の半ばはこ
 
 れが原因です。(中略) リアルでありなさい。
 
 よく見せようとすることはやめなさい。
 
 
        『なぜあなたは我慢するのか』より      
 
 
 世の中というのは表面上それなりに落ち着いてい
 
て、そこで生きる人たちは、それで良いことにして面
 
倒な事は考えないようにしている。それはかなり強固
 
な構造で、わざわざ波風を立てたところで何も変えら
 
れないばかりか、それなりに落ち着いている人たちを
 
脅かすのは人が悪い・・・三十代でそういう配慮がで
 
きるようになり、私は世の中をたしなむようになっ
 
た。

 
 それはよい印象を与えようとしてのことではなく、
 
あくまで思いやりからだけれど、真の意味での思いや
 
りではない。世の中に合わせた思いやりでしかない冷
 
淡なものだ。だけど仕方がない。私のせいではない。
 
 
 「表面上の落ち着き」がなんらかの事情で崩れる
 
時、それは表面であるがゆえに、そこにすがっていた
 
人たちは落ちて行く、沈んで行く。
 
 
 世の中の好印象の物事は、往々にして印象に留まっ
 
ていて、確かな基盤を持っていない。実が無い。
 
 私はそんなものに関わるのは気持ちが悪い。落ち着
 
かない。なので、自分の印象が悪くても関わらない。
 
 
 好印象  他人を通さず、自分が好印象を持てる自
 
でありたい。 
 
 
 
 今回は、口からでまかせですんなり短時間で書き終
 
えた。こういうのが望ましいなぁ
 
 
 
 
 
  

2026年5月25日月曜日

現実主義?

 
 
 
 現実主義という言葉がある。私も現実主義者のよう
 
な気がする(こんなブログを書いてるのに?)。けれど
 
も考えてみれば現実主義というのはおかしな言葉だ。
 
主義というのは生き方の方針であって、観念的なもの
 
だろうけど、現実主義というのは自分の前に立ち現れ
 
てきた物事を実際的にどうするかに注力するものだ。
 
それを主義と呼ぶのは違うような気がする。
 
 
 例えば、お腹がすいたので何か食べる・・・そこに
 
主義など無い。暑くなったので長袖から半袖の服に変
 
える・・・それも主義ではない。しかし「お腹がすい
 
たけどヴィーガン食が手に入らないので我慢する」と
 
か、「暑くなったけど、いまオーガニック素材の半袖
 
シャツが手に入らないので暑さを我慢する」とかいう
 
場合は、主義が関与している。主義は、往々にして現
 
実への対応に制限をかける。それにとどまらず、そも
 
そもわたしたちのいわゆる“現実”自体が主義によっ
 
て観念化しているので、そこに主義を持ち込むと“現
 
実”はいよいよ現実性を失ってしまう。
 
 
 現実に対処するならば、まず感覚を優先するのが当
 
たり前だ。感覚の求めるままに対処しにくいときに、
 
思考でサポートするのが、人間として望ましい在り方
 
だろう。
 
 しかし、アタマは悪さをする。感覚の求めがアタマ
 
の方針に合わないとき、アタマは感覚を無視する。そ
 
れは人間が思考してしまう生き物である以上しかたが
 
ない部分があるけれども、そういうことを何千年も繰
 
り返してきたために、最早“現実”は非現実なものに
 
なっている。現実はその時その場所に応じて飾られ、
 
いわゆる“現実”になっている。
 
 
 このブログに書いてあるようなことを世間で言うと
 
「現実を見ろよ」などと言われたりする。
 
 「いや、あんたが言っている“現実”が、非現実な
 
んだよ」と言い返したくなっても、そんなことをする
 
のは面倒を増やすばかりなので黙っている。観念を相
 
手にするとロクなことがない。 
 
 主義によって変質した現実とはできるだけ関わらず
 
にいたい・・・そう考えるのもひとつの「主義」なん
 
だろうか?
 
 
 主義(宗教や科学による判断も含む)のフィルター
 
をかけられた現実であっても、モザイクやぼかしでそ
 
の姿が見えないわけではない。けれど、コントラスト
 
や色調や明度は変えられている。そのフィルターをか
 
けているのはそれぞれの自分自身なので、自分さえそ
 
の気になれば即座に「現実」は見えてくる。
 
 そして「現実」を見ているときは、自分も「現実の
 
自分」になっている。観念から自由になった自分にな
 
っている。 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
  

2026年5月20日水曜日

懐かしい?

 
 
 
 私は音楽好きなので、 You Tube を開くとおすすめ
 
にいつもなにがしか音楽の動画がある。年代的に、昔
 
のシティポップや歌謡曲や AOR などが出てきて、そ
 
れを聴いたりするのだが、そういう動画のコメント欄
 
を見ると、結構な頻度で「懐かしい」という言葉が書
 
かれている。
 
 
 “懐かしい”? 
 
 
 私は“懐かしい”がわからない。 
 
 もちろん言わんとしていることはわかる。そのフィ
 
ーリングも理解はできる。けれど、私は“懐かしい”
 
という感情を持つことが無い。「なんだそれ?」とい
 
う感じがする。
 
 40〜50年前の歌謡曲やシティポップも、昔から
 
ずっと聴き続けているので、私にとってはずっとリア
 
ルタイムなのだ。“懐かしい”とは何なのか。
 
 
 音楽に限らず、昔暮らしていた町に行っても、昔の
 
知り合いに会っても、昭和の物を見ても、私は“懐か
 
しい”とは感じない。もちろん「ああ、そういうこと
 
もあったな」と記憶が蘇ったりは するけれど・・。
 
 
 “懐かしい”という言葉が使われる時、それはその
 
人にとって“済んだ事”なのだろうと思う。片や私
 
は、何も済ませていないということなのだろう。
 
 そうは言っても、当然済ませたこともいっぱい有
 
る。いまだに「仮面ライダーごっこ」をしているわけ
 
ではない。当たり前だが、そういう子供の遊びは「卒
 
業した」が、それは最早“懐かしい”などというもの
 
ではない。単なる思い出だ。
 
 
 “懐かしい”という言葉を使う人は、脱皮をするよ
 
うに生きてきたのかなと思う。人生の節目々々で、そ
 
れまでの自分は「もう古い自分」というような意識を
 
持って、これからの自分とは切り離すのかもしれな
 
い。自分が“懐かしい”が分からないので、そのあた
 
りの感覚はよく分からないけど。 
 
 
 “懐かしい”という感覚は、過去を切るからこそ生
 
まれるものではないだろうか? リニューアルし、ス
 
テップアップするのが「成長」や「成功」だという意
 
識があって、その結果、経験した出来事は「過去」と
 
いう箱に入れられ、自分とは直接のつながりを失う。
 
“懐かしい”という感情は、そういう「つながりの無
 
さ」から生まれるものではないだろうか。 
 
 
 私は「縁起(因縁正起)」ですべてを捉える意識で
 
いるので過去を切れない。過去にこだわる気はないけ
 
れど、すべての過去の結果としていまこうしているの
 
だから、いまのこの私の中に経験した過去がすべて詰
 
まっている。だから“懐かしい”が生じないのだろう
 
と思う。
 
 
 “懐かしい”という感覚を持つことをバカにする気
 
はないけれど、「懐かしい」と言っているのを聞くた
 
びに、何か違和感を覚える。「昔関係があったけれ
 
ど、いまの自分にはあまり価値のないもの」という意
 
識があるように感じる。
 
 
 『日々新た』(2022/9)という話のときに書いたけ
 
ど、「古いもの」は無い。それが物でなくても、情報
 
でしかなくても、いま伝わって来ているのならば、そ
 
れは「古くから有るもの」だ。本当に過去になったも
 
のは、情報さえ消え失せている。
 
 いま有るのならば、それは今のこととして受取るべ
 
きではないのだろうか?
 
 
 「懐かしい」と口にすることは、思いもよらず自分
 
の人生の丸ごとを粗末に扱うことかもしれない。
 
 その“懐かしい”とラベルを貼られたその事が、い
 
まある自分を成立させている一つの要素であることに
 
間違いはないのだから。
 
 
 
 
 

2026年5月8日金曜日

フィーリングがない

 
 
 「東京の深夜をイメージした、井上陽水風の不思議
 
な歌詞を作って」と AI に頼んだら、こんなのを作っ
 
た。
 
 都会の夜は ビニール袋
 
 風に吹かれて 踊り明かす
 
 信号機たちが 目配せをして
 
 アスファルトに 愛をささやく

 
 ああ あどけない 自動販売機
 
 コインを食べて 夢を見る
 
 冷たいお茶が 熱くなるまで
 
 僕はここで 雨を待つ
 
 
 地下鉄の入り口が 大きな口を開けて
 
 昨日までの 誰かを飲み込んでいく
 
 街路樹の影が 伸びすぎて
 
 お月様の 背中をなでる

 
 ああ 麗しい コンクリート
 
 湿った靴音 吸い込んで
 
 迷子になった タクシーが
 
 銀河の果てへ 消えていく


 おやすみ ネオンの お星様
 
 夢の中で また会いましょう
 
 フフフ…… フフフ……
 
 
 ちょっとひねった J-POP 程度の出来で、読んでい
 
ると恥ずかしくなる・・・。丁寧にプロンプトを作っ
 
てやれば、もっとそれらしいものが出来るのかも知れ
 
ないが。
 
 
 なんでこうことをやってみたかというと、『アジア
 
の純真』に代表されるような、アルゴリズムとは無縁
 
の、フィーリングだけで書かれたような陽水の詞のよ
 
うなものを AI は作れるのかと思ったから。
 
 おそらく AI がフィーリングを持つことはないだろ
 
うが、そもそもフィーリングとは何なのか?
 
 
 「共感覚」といわれるものがある。脳科学や認知科
 
学などで扱われるものだろう。音を聞くと色を感じた
 
り、数字を見ると味を感じるとかさまざまなものがあ
 
るようだけど、これは五感が脳の中でそれぞれに連携
 
し会っていることが根本にあって起こることだろうと
 
思われる。普通はその連携が適度に制御されている
 
が、一部の人ではその制御が弱くて二つの感覚処理系
 
が働いてしまうのだろう。
 
 
 『アジアの純真』の一節
 
 
 北京 ベルリン ダブリン リベリア 
 
 束になって輪になって 
 
 イラン アフガン 聞かせてバラライカ
 
 
 この韻を踏んではいるが意味不明な歌詞が、聴いた
 
人にある種の感覚を引き起こさせるけれど、それは誰
 
もが持つ弱い共感覚によるものではないだろうか。
 
 フィーリングとは、言うまでもなく言語化できない
 
感覚のつながりで、それは思考から外れたところで生
 
を成立させている。
 
 
 高度な AI を搭載したロボットが、ある日“7”と
 
いう数字を見て紫色を感じた・・・そういうことは起
 
きないだろう。もし起こればそれは故障である(起こ
 
すようにプログラムはできるだろうけど)。 数字と
 
色が繋がってしまうという不始末を AI は起こさない
 
が、人間の脳は不始末を起こす。その出来の悪さが、
 
面白さや、時には美しさという成果を生む。
 
 
 わたしたちの脳の不始末は、処理の失敗ではなく、
 
単に思考の期待に応えていないだけであって、そこに
 
は受け取るに値する豊かさもあるのではないか。  
 
 まぁ、不始末の度が過ぎれば詰んでしまうけど。
 
 
 日常的に AI と会話している人たちが結構居るのだ
 
そうだけど、感情やフィーリングがあるように装いな
 
がら、こちらに迎合するように話しつづける AI は、
 
思考の期待に応えるようにだけ振る舞う。そこには人
 
に不可欠な豊かさが欠落しているのではないのか? 
 
 もっとも、上っ面の共感だけで成立している人間関
 
係も同じようなものではあるから、そういう人間関係
 
でお茶を濁せる人たちにとって AI は良い友達になる
 
のだろう。そして AI と同じように、その人たちにも
 
フィーリングは無い。フィーリングは仮定された自分
 
を揺るがしてしまうので封印されているから。
 
 
  
 
 

2026年4月19日日曜日

桜の花が散って

 
 
 
 我が家の横のヤマザクラも近くの公園の桜も、完全
 
に花を散らし、桜の季節はもう終わった。今は若葉が
 
透明感のある葉を大きく広げている。
 
 私は植物が大好きな人間なので、花の後も桜の様子
 
をうかがうけれど、世間一般の人たちは花の終わった
 
桜など見向きもしないようだ。
 
 それは単に植物に興味が無いということではなく
 
て、イベント的に人生を過ごしているからではないの
 
だろうか。
 
 社会に承認されているイベント(ポジティブなもの
 
もネガティブなものも)からイベントへと、スキップ
 
するような日々を過ごしているんじゃないのだろう
 
か?

 
 例えば結婚にしても、多くの男女が“結婚式”を結
 
婚だと思っているのじゃないのか? その後の生活は
 
“結婚の後始末”のように思っているんじゃないのか
 
と、昔から私は訝しんでいる。
 
 本質よりも、そのものに貼られているラベルを重要
 
視しているように思える。誰もがブランド物を欲しが
 
るのもそういうことだろう。
 
 
 “なんでもないようなことがしあわせだったと思
 
う”というのは虎舞竜の『ロード』の歌詞だけど、し
 
あわせかどうかはともかく、なんでもない日々や出来
 
事が生きていることの本質であるのは当然だろう。む
 
しろイベント的な事は、いわばイレギュラーとも言え
 
る。
 
 人が付加価値に多くのお金を払うことが如実に表し
 
ているように、わたしたちは普通の事を軽んじる。そ
 
れは普通の事は普通であるが故にお話しとして立ち上
 
がってこないから。普通の事をお話しとして立ち上げ
 
るには、普通を成立させている不可思議に気付ける才
 
能が必要だからなんだろう。
 
 
 普通の事を成立させている不可思議さに気付くため
 
に、まずは歴史を遡る必要がある。
 
 
 インターネットが登場する前の世界。
 
 自動車が発明される前の世界。
 
 石炭が使われ始める前の世界。 
 
 鉄で物が作れるようになる前の世界。
 
 農耕が始まる前の世界。
 
 人間が言語を使い始める前の世界。
 
 人間という種が誕生する前の世界。
 
 地球が出来る前の世界。
 
 
 そのようにして時代ごとの“普通”の違いを意識し
 
た上で、もう一度いまに戻って確かめる。自分がいま
 
息をしているという、不可思議と言うしかない“普
 
通”。
 
 
 なんでもない一日の中でも、わたしたちは印象に残
 
る事をつなぎ合わせて一日を記憶する。けれど、その
 
印象的な出来事は、記憶に残らない当たり前のことの
 
上に付加される。
 
 なんでもないことこそが命の本質だ。 
 
 いま生きていることが「なんでもない」と思えてし
 
まうということは、途轍もないことではないのか? 
 
 日々を暮らすということ自体がとんでもないイベン
 
トだろう。
 
 
 「運水搬柴是神通」
 
 (水を運び柴を搬ぶことは神通だ) 
 
 という禅の言葉がある。 
 
 当たり前のことが当たり前に起きているということ
 
を突き詰めて考えれば、誰も説明し切れない。この命
 
は思考や価値観の及ばぬ何かによって成立している。
 
 
 一枚の桜の葉が風に揺れていることを誰も説明し切
 
れない。
 
 それを、言葉を飲み込んで見入るしか仕方がない光
 
景だと感じられるのは、幸運なことだろうと思う。
 
 
 
 
 
 

  
 
  
 

2026年4月7日火曜日

AI とアタマの苦手なこと

 
 
 
 You Tube で福岡伸一さんのチャンネルを観ていた
 
ら、「分解」という言葉をキーワードに使われてい
 
て、ふと“この前、AI で生成された音楽のことについ
 
て書いたけれど、AI に「生成」ではなくて「分解」さ
 
せたらどうだろう”と思ったので、いまから考えてみ
 
る。
 
 
 「AI 生成」は、詳細を積み重ねることだと言えるの
 
で、それはある意味無限にできる。けれど「分解」は
 
そういうわけにはいかない。「この画像を分解して」
 
などとと AI に頼むと、即座に分解して「この画像は
 
500メガビットの電気信号です。1ビットは一つの電気
 
パルスに過ぎません」などと答えるのだろう。仮に
 
「酸素を可能な限り分解して定義して」などと尋ねる
 
と、すぐに行き詰まるだろう(実際に Gemini に尋ね
 
てみたら15行で終わってしまった)。 
 
 
 人間が積み上げてきた「文化」というものは、積み
 
上げようと思えばいくらでも続けられるけれど、その
 
根本を辿れば、すぐに底を突いてしまう。その性質を
 
反映して、社会も経済も学問も積み上げる方にばかり
 
動いてしまう。同時に、それは思考というものの性質
 
と限界を表してもいる。思考は「分解」や「後戻り」
 
が嫌なのだ。
 
 
 量子力学とか分子生物学とか、生命や宇宙の起源な
 
どを研究する学問などは、詳細を掘り下げているよう
 
なイメージがあるけれど、実のところすぐに壁にぶち
 
当たるので、横道にそれて“途中のなにがしか”の振
 
る舞いのストーリーを描くことになる。そうしなけれ
 
ば「ここから先はわかりません」と言わざるを得ない
 
ので、他にすることが無い。
 
 現在、AI の開発に狂気と言えるほどの金が注ぎ込ま
 
れ、積み上がっているのも、それが積み上げることを
 
得意とする性質のものであるからだろう。
 
 
 人は古来から、とにかく積み上げて来た。アタマは
 
積み上げるのが大好きだ。
 
 土を積み上げ、石を積み上げ、文字を積み上げ、物
 
を積み上げ、金を積み上げ、権威を積み上げ、見栄を
 
積み上げて来た。そしていま、情報を積み上げたバベ
 
ルの塔のために、メモリーチップと発電機を積み上げ
 
ている・・・「バラす方にもエネルギーと知恵を使え
 
よ」と、社会から外れている私はつぶやく。
 
 
 無限の中に彷徨いだそうというのか?
 
 有限の中をあらゆる方向に行け
 
 
 ゲーテのこの言葉を私が知ったのはもう50年前だ
 
が、いまとなってはこう思う。
 
 《 有限の中に無限を見い出せ 》
 
 
 AI が何をどれだけ積み上げて洗練させようとも、そ
 
れは人の思考の中の既知のパーツの集積でしかない。
 
ことによると、その集積が思考の新たな地平であるか
 
もしれない。けれども、それは思考が辿り着ける範囲
 
を出ることはない。合理性で非合理を捉えることはで
 
きない。