我が家の横のヤマザクラも近くの公園の桜も、完全
に花を散らし、桜の季節はもう終わった。今は若葉が
透明感のある葉を大きく広げている。
私は植物が大好きな人間なので、花の後も桜の様子
をうかがうけれど、世間一般の人たちは花の終わった
桜など見向きもしないようだ。
それは単に植物に興味が無いということではなく
て、イベント的に人生を過ごしているからではないの
だろうか。
社会に承認されているイベント(ポジティブなもの
もネガティブなものも)からイベントへと、スキップ
するような日々を過ごしているんじゃないのだろう
か?
例えば結婚にしても、多くの男女が“結婚式”を結
婚だと思っているのじゃないのか? その後の生活は
“結婚の後始末”のように思っているんじゃないのか
と、昔から私は訝しんでいる。
本質よりも、そのものに貼られているラベルを重要
視しているように思える。誰もがブランド物を欲しが
るのもそういうことだろう。
“なんでもないようなことがしあわせだったと思
う”というのは虎舞竜の『ロード』の歌詞だけど、し
あわせかどうかはともかく、なんでもない日々や出来
事が生きていることの本質であるのは当然だろう。む
しろイベント的な事は、いわばイレギュラーとも言え
る。
人が付加価値に多くのお金を払うことが如実に表し
ているように、わたしたちは普通の事を軽んじる。そ
れは普通の事は普通であるが故にお話しとして立ち上
がってこないから。普通の事をお話しとして立ち上げ
るには、普通を成立させている不可思議に気付ける才
能が必要だからなんだろう。
普通の事を成立させている不可思議さに気付くため
に、まずは歴史を遡る必要がある。
インターネットが登場する前の世界。
自動車が発明される前の世界。
石炭が使われ始める前の世界。
鉄で物が作れるようになる前の世界。
農耕が始まる前の世界。
人間が言語を使い始める前の世界。
人間という種が誕生する前の世界。
地球が出来る前の世界。
そのようにして時代ごとの“普通”の違いを意識し
た上で、もう一度いまに戻って確かめる。自分がいま
息をしているという、不可思議と言うしかない“普
通”。
なんでもない一日の中でも、わたしたちは印象に残
る事をつなぎ合わせて一日を記憶する。けれど、その
印象的な出来事は、記憶に残らない当たり前のことの
上に付加される。
なんでもないことこそが命の本質だ。
いま生きていることが「なんでもない」と思えてし
まうということは、途轍もないことではないのか?
日々を暮らすということ自体がとんでもないイベン
トだろう。
「運水搬柴是神通」
(水を運び柴を搬ぶことは神通だ)
という禅の言葉がある。
当たり前のことが当たり前に起きているということ
を突き詰めて考えれば、誰も説明し切れない。この命
は思考や価値観の及ばぬ何かによって成立している。
一枚の桜の葉が風に揺れていることを誰も説明し切
れない。
それを、言葉を飲み込んで見入るしか仕方がない光
景だと感じられるのは、幸運なことだろうと思う。
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