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2026年5月8日金曜日

フィーリングがない

 
 
 「東京の深夜をイメージした、井上陽水風の不思議
 
な歌詞を作って」と AI に頼んだら、こんなのを作っ
 
た。
 
 都会の夜は ビニール袋
 
 風に吹かれて 踊り明かす
 
 信号機たちが 目配せをして
 
 アスファルトに 愛をささやく

 
 ああ あどけない 自動販売機
 
 コインを食べて 夢を見る
 
 冷たいお茶が 熱くなるまで
 
 僕はここで 雨を待つ
 
 
 地下鉄の入り口が 大きな口を開けて
 
 昨日までの 誰かを飲み込んでいく
 
 街路樹の影が 伸びすぎて
 
 お月様の 背中をなでる

 
 ああ 麗しい コンクリート
 
 湿った靴音 吸い込んで
 
 迷子になった タクシーが
 
 銀河の果てへ 消えていく


 おやすみ ネオンの お星様
 
 夢の中で また会いましょう
 
 フフフ…… フフフ……
 
 
 ちょっとひねった J-POP 程度の出来で、読んでい
 
ると恥ずかしくなる・・・。丁寧にプロンプトを作っ
 
てやれば、もっとそれらしいものが出来るのかも知れ
 
ないが。
 
 
 なんでこうことをやってみたかというと、『アジア
 
の純真』に代表されるような、アルゴリズムとは無縁
 
の、フィーリングだけで書かれたような陽水の詞のよ
 
うなものを AI は作れるのかと思ったから。
 
 おそらく AI がフィーリングを持つことはないだろ
 
うが、そもそもフィーリングとは何なのか?
 
 
 「共感覚」といわれるものがある。脳科学や認知科
 
学などで扱われるものだろう。音を聞くと色を感じた
 
り、数字を見ると味を感じるとかさまざまなものがあ
 
るようだけど、これは五感が脳の中でそれぞれに連携
 
し会っていることが根本にあって起こることだろうと
 
思われる。普通はその連携が適度に制御されている
 
が、一部の人ではその制御が弱くて二つの感覚処理系
 
が働いてしまうのだろう。
 
 
 『アジアの純真』の一節
 
 
 北京 ベルリン ダブリン リベリア 
 
 束になって輪になって 
 
 イラン アフガン 聞かせてバラライカ
 
 
 この韻を踏んではいるが意味不明な歌詞が、聴いた
 
人にある種の感覚を引き起こさせるけれど、それは誰
 
もが持つ弱い共感覚によるものではないだろうか。
 
 フィーリングとは、言うまでもなく言語化できない
 
感覚のつながりで、それは思考から外れたところで生
 
を成立させている。
 
 
 高度な AI を搭載したロボットが、ある日“7”と
 
いう数字を見て紫色を感じた・・・そういうことは起
 
きないだろう。もし起こればそれは故障である(起こ
 
すようにプログラムはできるだろうけど)。 数字と
 
色が繋がってしまうという不始末を AI は起こさない
 
が、人間の脳は不始末を起こす。その出来の悪さが、
 
面白さや、時には美しさという成果を生む。
 
 
 わたしたちの脳の不始末は、処理の失敗ではなく、
 
単に思考の期待に応えていないだけであって、そこに
 
は受け取るに値する豊かさもあるのではないか。  
 
 まぁ、不始末の度が過ぎれば詰んでしまうけど。
 
 
 日常的に AI と会話している人たちが結構居るのだ
 
そうだけど、感情やフィーリングがあるように装いな
 
がら、こちらに迎合するように話しつづける AI は、
 
思考の期待に応えるようにだけ振る舞う。そこには人
 
に不可欠な豊かさが欠落しているのではないのか? 
 
 もっとも、上っ面の共感だけで成立している人間関
 
係も同じようなものではあるから、そういう人間関係
 
でお茶を濁せる人たちにとって AI は良い友達になる
 
のだろう。そして AI と同じように、その人たちにも
 
フィーリングは無い。フィーリングは仮定された自分
 
を揺るがしてしまうので封印されているから。
 
 
  
 
 

2026年4月25日土曜日

打す

 
 
 昨日 You Tube のおすすめに尺八の動画が出てき
 
た。これまで特に尺八に興味を持ったことはなかった
 
けど、サムネの白黒の古そうなレコードジャケットに
 
ひかれて再生してみたのだが、聴いて驚いた。60年前
 
の、西村虚空という人の演奏だったが、いままで聴い
 
たことが無いような尺八の音で、聞き入ってしまっ
 
た。
 
 曲ではあるけど、もはや音楽という代物ではない。
 
もちろん形を成していないということではなく、何か
 
次元が違う。尺八という楽器を使って瞑想しているよ
 
うに感じた。
 
 
 というわけで改めて尺八について調べてみた。
 
 尺八といえば深編笠をかぶった虚無僧である。虚無
 
僧は禅宗のひとつの普化宗の僧だということまでは私
 
も知っていたが、尺八を吹くのは修行の一つだという
 
ことらしい。なるほど、瞑想のような感じがしたわけ
 
だ。(『虚鐸 普化宗本曲』という LP がフルで 
 
You Tube に上がってるので、おすすめしておく。)
 
 
 普化宗というのは 普化 という禅僧が開祖とされて
 
いて、余語翠巖老師の本で少し知識はあった。
 
 この 普化 という僧は謎の人物で、わずかな伝説の
 
ような逸話が残っているだけだそうだ。生没年も本名
 
もわからない風狂の僧ということになっている。 
 
 教えのようなものも残っていないそうで、鈴を鳴ら
 
しながら「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打・・」と唱え
 
て歩いたとされている。
 
 この「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」という言葉は
 
なんとなく読み過ごしていたけど、今回尺八を聴いた
 
ことをキッカケにあらためて考えてみた。
 
 
 この場合の「打」は、「打す(たす)」ということ
 
で、余語老師によれば「そのままにしておく」という
 
意味合いだそうだ。英語の“be”と同じようなものだ
 
と思う。そう考えれば全体の字面からおのずと分かっ
 
てくる。ようするに“Let it be”だ。
 
 「なぁ〜んだ😄」という感じもするが、“Let it 
 
be" と本気で肚を括れたらしあわせだ。
 
 
 「打す」というと「自分がそうする」という受け止
 
めになるけれど、「打される」ということでもあるだ
 
ろう。「自分が(この世界から)そのようにされる」
 
と。
 
 さだめに従って行くというより、自分という存在が
 
あることも含めて、さだめ以外何もない。そう覚悟が
 
できればもう迷いは無くなる。
 
 
  Speaking words of wisdom,let it be
 
 
 この“wisdom”は普化禅師のことかもね。 
 
 
 
 

2026年4月3日金曜日

フランケンシュタインの怪物

 
 
 この前 You Tube で心地の良い動画を見た。自然の
 
景色に、アコースティックで心地の良い女性ボーカル
 
のプレイリストを合わせてある。Priscilla Ahn に似
 
た感じの癒やされる音楽・・・。「誰が歌っているん
 
だろう」と概要欄などを見るが曲名しか載っていな
 
い。グーグルの音声検索にかけてもヒットしないし、
 
コメント欄にも同様のコメントがされている・・・ど
 
うやら AI 生成らしい。
 
 そうなると、途端に興醒めする。AI 生成の音楽に良
 
い気分になんかさせられたくないという思いがある。
 
けれど、知らなければそれで通ってしまうのだから、
 
こだわる必要もないはずなんだが・・・。 
 
 
 AI というのは、膨大な音声データを組み合わせて音
 
楽を作るが、それはいわば“フランケンシュタインの
 
怪物”のようなものだろう。
 
 AI の作り出すものは、つぎはぎがまったく分から
 
ず、見た目もとても美しくできている・・・けれど
 
も、それは死体のパーツを組み合わせてカミナリのエ
 
ネルギーで命(?)を吹き込んだ“フランケンシュタ
 
インの怪物”と本質的に同じだろう(電気のパルスで
 
命を与えるというところも同じだ)。
 
 
 フランケンシュタインのお話しが、「命とは何
 
か?」「人とは何か?」と問いかけるように、AI が生
 
成するものは、「文化とは何か?」「楽しみとは何
 
か?」とわたしたちに問いかける。
 
 
 今回私が聴いた曲はすべて英語の曲だったので、意
 
味がよく分からないし、英語での作詞で美しい表現が
 
どういうものかもネイティブのようには分からないか
 
ら、気分良く聴いていた。けれど、これが日本語の詞
 
なら「型通りでつまらん」と思ったかもしれない、演
 
歌や J-POP のように。
 
 しかし、とにかく私は「良いな」と思ってしまっ
 
た。そして自分がそう感じてしまったことが気に入ら
 
ない。ペテンに掛かったように感じる。それは『マト
 
リックス』でネオが赤い錠剤を飲む気持ちにつながっ
 
ているだろう。
 
「作り物ではない世界が見たい・・・」
 
 
 そもそも世の中は作り物だけど、音楽というものは
 
踊りと共に文化の中で最もプリミティブなもので、ス
 
トーリーを介さずに、感性に直接訴えかけることもで
 
きるものだ。それがここまで作り物になってしまうの
 
はとても気持ちが悪い。AI 生成の音楽ばかりになって
 
誰もがそれに取り囲まれても、それが普通で何も思わ
 
ないのならば、それは『マトリックス』の世界ではな
 
いか。
 
 
 いまやデジタルの世界には、フランケンシュタイン
 
博士がゴロゴロ居て、彼らの作りだした“美しいフラ
 
ンケンシュタインの怪物”がそこら中で微笑んでいる
 
(暴れてもいる)。

 
 「文化とは?楽しみとは?」
 
 「命とは?人とは?」 
 
 
 考えてみるのか、考えないでいくのか。
 
 青い錠剤を飲むのが間違いとは言えないが・・・。 
 
 
 
 
 
  

2025年1月13日月曜日

昨日を探す

 
 
 加川 良さんの50年以上前のアルバム『やぁ。』の冒頭の曲
 
「大晦日」のサビの部分が時折あたまをよぎる。
 
 
  いつかきっと 船に乗って ボクの昨日を探しあてて 
 
  いつかきっと 船に乗って ボクの昨日を住み処とするさ
 
 
 なぜかこの歌詞が好きだったけれど、今日もふとあたまに浮
 
かんで来てはたと気付いた。
 
 「昨日」を探しあてると、その「昨日」にも「昨日」がある
 
わけで、そうやって「昨日」を探し続けると赤ん坊の時に戻
 
り、さらに母親のおなかの中へ戻り、そして生まれる前に戻
 
る。
 
 「この歌は、世の中に惑わされ、害される前の自分に戻りた
 
いという想いを歌っていたんだ。だからずっと心に引っかかっ
 
ていたんだな」と。
 
 
 加川 良さんがそこまで意識した上で詞を書いたのではないだ
 
ろうと思う。けれど、そういう言葉にはなっていない想いから
 
生まれた歌詞なんだろう。
 
 
 別に、現状が嫌だから昨日に逃げ帰りたいということではな
 
くて、誰しもが「何かが違う」という感覚を持ちながら暮らし
 
ていて、「自分は世の中に迷い出てしまった・・・」と心のど
 
こかで知っているのだろう。その気持ちを、加川さんは〈昨日
 
を探しあてて 昨日を住み処とする〉と言葉にした。「何か違う
 
から、昨日に戻ってみよう」と。

 
 現実には昨日に戻れない。戻ろうとしても〈昨日に戻ろうと
 
した今日〉が来るだけ。
 
 けれども、今日を生きて、明日を迎えながら、そこに迷い込
 
まないで、遠い遠い昨日の本来の自分を迷子にさせないように
 
することは、自分を大切にすることだろう。
 
 と、書いていて「これ詞になるなぁ」と思った。
 
 
 きょうを生きて
 
 あしたを迎えながら
 
 そこには迷い込まないようにね
 
 
 遠い遠い 昨日の自分を
 
 迷子にさせないようにね
 
 
 書きながら加川 良 風のメロディが浮かんだ。
 
 久しぶりに『やぁ。』のレコードを出して聴いてみることに
 
する。

 
 
 

2024年7月5日金曜日

不可解な空白~『ビルの最上階』という曲のこと~



 井上陽水の曲に『ビルの最上階』というのがあります。そ

の曲は “楽観的にみても悲観的にも 不可解な空白が青空に

浮かんだまま” という歌詞で締めくくられるのですが、その

「不可解な空白」が十五階建てのビルの最上階に在って、そ

の下の各階では、人間たちがそれぞれに、その場だけのお話

しの中で時間と人生を消費しているといった曲です。


 わたしたちのアタマは「不可解な空白」がとても嫌いで

す。身の毛がよだつほど恐れていると言ってもいいでしょ

う。なので、空白があれば物理的かつ心理的にすぐ埋めよう

とします。そこには合理性のようなものがしつらえられます

が、そもそもが恐怖からの行動ですから、本当は合理性など

ありません。不条理な行動に合理性や正当性のようなものが

後付けされるだけです。ちょっと客観的に見れば、「アタマ

大丈夫かい?」というようなことが展開しています。

 曲の中でも「アタマ大丈夫かい?」という視点の、陽水の

シニカルな歌詞が続いてゆきます。(興味があれば聴いてく

ださい)


 私たちは常日頃、空白を埋めようと動き回っています。か

らだが動けなくてもアタマは動き続けて、思考の空白を埋め

続けます。

 断捨離などすると、空白を作っているように思えますが、

アタマの中は「自分は断捨離をしている🩷」という満足感で

埋まってゆきます。なので、断捨離し切ってしまって、満足

感が追加されなくなると、なんとも居心地の悪いことになる

はずです。アタマの中の空白を埋めるものが欲しくなるので

す。よほどの “宗教的達観” のようなものを身に付けている人

でなければ、きっとね。


 ビルの各階ではその場だけの不毛なお話しが繰り広げられ

ているのですが、それはそれぞれの階がそもそも空白であれ

ばこそ展開することができるのであって、“不可解な空白” は

最上階に限ったことではない。お話しの背後にはどこにでも

“不可解な空白” が広がっている。だから埋めて無いことにし

ようとしないで、在る(?)ものには目を向けた方が良い。

「不可解」ではあるけれど、それは「解く必要がない」とい

うことでもある。


 わたしたちの考えや行動になんら影響されずに、そこにあ

り続ける不変なもの、“空白” 。

 それを “楽観的” に見るか “悲観的” に見るかで、生きるこ

との感触は大きく違う。


 在るものを無いことにすれば、それは必ず問題を生むに決

まっているのだから、“楽観的” に見るのにしくはない。

 お話しはわたしたちを裏切るが、“空白” は決してわたした

ちを裏切ることはない。





 

2023年9月18日月曜日

ステキなタイミング!



 いつも口から出まかせを書いてはいるけど、このブログは

不特定多数の目に触れる前提のものだし(現実として、不特

定少数だけど😅)、書かれている内容は、たまたま読んだ人

の人生を大きく変える可能性の高いものだと意識しながら書

いている。

 どう変えるかは私には分からない。安らぎへか、混乱へ

か・・・、いずれにしてもタイミング次第だろう。別の言い

方をするなら、縁次第だろう。私なりに気遣いはしているけ

ど、結果に責任は持てない。


 昔、坂本九さんの歌で『ステキなタイミング』というもの

が有って、サビの部分で〈 この世で一番肝心なのは ステキな

タイミング 〉と歌われる。

 アメリカの曲のカバーで 漣 健児 という方が訳詞されてい

て、どのような想いで詞を書かれたのかは分からないけど、

間違いなく〈この世で一番肝心なのは ステキなタイミング〉

だ。

 ただし、同様に〈この世で一番逃げ出したいのは 最悪なタ

イミング〉ということもある。良いと思えることも、悪いと

思うことも、タイミング次第で決まってしまう。

 多くの人がその事を理解しているので、何かをする時に、

誰もがタイミングを計る。それが出来ない者は「空気が読め

ない」などと言われたりもする。タイミングはとても大事

だ。

 けれども、それは人の都合に合うかどうかのタイミングで

あって、そのタイミングさえ支配している、宇宙のタイミン

グともいえるものがある。
 

 例えば、ふとしたきっかけで仲良くなったカップルが、そ

のまま二人でしあわせな人生を過ごしたとする。それは「ふ

とした」タイミングが有ればこそだけど、その「ふとした」

はそれぞれの人生の、無数の「ふとした」ことの連なりの末

のものなので、無数のタイミングの中の一つでしかない。二

人にとって、特別な出来事に思えても、それは人生の始まり

から終わりまでのあらゆることとの無数の出会いの一つでし

かない。それ以外の無数の「ふとした」の一つでも欠けてい

れば、二人の人生はまったく違ったものになる。

 そのすべてが欠けるか、欠けないかも、やはりタイミング

の問題だ。


 しかし、私は必然論者で、この宇宙のどのようなタイミン

グも、そうなるべくしてなっていると思っているので、極論

を言えばタイミングなんて無い。

 〈ステキなタイミング〉は確かに「ステキ」で、私もそん

なタイミングを望むけれど、「なるようにしかならないし、

なるべくしてなる」と思っている。

 〈ステキなタイミング〉が訪れても、〈ヒドいタイミン

グ〉で何かが起こっても、「さて、これはどう展開して行く

のだろう?」なんて思っている。


 「面倒くさい、つまんねえ人間だなぁ・・」と思われるか

もしれないけど、いま起きていることは「結果」ではなく

て、すべては「経過」でしかない、と思ってしまう。

 けれど、同時に、瞬間々々起きていることは、瞬間々々で

完結しているとも思う。矛盾して見えるけれど、要するに出

来事を小さなストーリーに納めないようにしているというこ

とらしい。

 実際には、出来事はわたしたちの考える物語に納まらず、

時間的にも空間的にも無限に続く。それと同時に、わたした

ちが出来事に物語を投影しなければ、出来事は瞬間ごとに消

えて行く。

 物語を設定しなければ、物語の流れというものもない。

 流れがなければ、タイミングも何もあったものではない。

 わたしたちの描く物語もろともに、世界はそうなるべくし

て、そうなる。


 私の世界観からすれば、タイミングというものは必然によ

るものだけど、世間の常識からすれば偶然だろうし、自分で

計れるものでもあるだろう。けど、それはエゴの願望に過ぎ

ない。わたしたちも世界を支配するタイミングによって動か

されて行くだけなのだ。


 ひとりひとりが生きるも死ぬも、笑うも泣くも、世界の動

きのタイミング次第。

 「なにがどうなろうが知ったこっちゃないなぁ」

 そう受け取れば気楽なものだ。


 と、こんなブログを読んでしまう今のあなたのタイミング

は、あなたに歓迎されるものなのだろうか

 「ちっ!」と舌打ちされているのかもしれない。けれど、

深掘りすれば、きっとステキなタイミングだろうと思います

よ。





2022年10月16日日曜日

店じまい



 ふと、田淵義雄さんのことを思い出して「いま何歳だろう

か?」と検索してみたら、一昨年の一月に亡くなられてい

た。1944年生まれだから、享年75~76歳ということ

なんだろう。

 このブログを始めた年に『「バックパッキング教書」とい

う本のこと』(2017/12)という話を書いているけど、また

一人、私に影響を与えた方が去った。私が生きた時代が幕を

閉じようとしているのだなぁ。


 加山雄三は今年で人前で歌うことを辞めるということだ

し、吉田拓郎も今年で音楽活動を辞めるという。井上陽水

も、2011年の『魔力』を最後にオリジナルアルバムは作

っていないし、年齢的に、今後表立った活動は無いことだろ

う。

 加川良、河島英五、忌野清志郎、小坂忠、中野督夫(セン

チメンタル・シティ・ロマンス)・・・といった人たちはも

う故人だし、私を引き付けた作家や学者、役者や芸人の多く

も故人になり、現役の人たちも衰えは隠せない。もうすぐ表

舞台から降りるだろう。


 「時代なんだな」そう思う。こういう感じは歳をとらない

とわからないことだとは思うけれど、もしかするとこれまで

の時代やこの後の時代とは少し違うのかもしれない。それは

何故かというと、この半世紀ほどの間で、世界の文化・文明

のほとんどは〈誕生・拡大・爛熟・限界〉を一気に通りすぎ

ただろうから。そして、私たちの世代はそのただ中を生きて

来た。面白いものを見せてもらったなと思う。感謝感激雨あ

られ・・・。


 20世紀後半の文化が店じまいをしようとしているのだろ

う。そして数年後には、私は上映を終えた映画館の観客のよ

うに、白いスクリーンを前にしていることになるだろう。そ

の時、私は何も映らないスクリーンを見ながら、静かに笑え

る人でありたいと願う。


 ・・・と、そんなことを ルーシー・トーマス を聴きながら

書いている。

 彼女の歌声などを聴いていると、文化は “生まれ・作られ

るもの” から、“確かめ・味わうもの” になって行くように思

う。そしてその先は・・・、知る由も無い・・・。


 すべての人が、それぞれに、それぞれの文化の中で生きて

一生を終える。

 そこでどのような実りを得るかは、それぞれの縁次第とい

うことだけれど、その文化に導かれ、そして文化を越えた実

にまでたどり着くことができたら、それ以上の果報はない

だろう。


 店じまいは少し淋しいが、その味わいのひとかけらぐらい

は、このブログの中にもあるだろう。さしあたりはね





 

2022年4月17日日曜日

満月と薄雲と羊文学



 昨夜、「寝よう」と思って枕もとのスタンドを消したら、

窓の外がやけに明るい。

 街灯の光のような感じはないので外を見てみると、ちょう

ど0時頃なので、天頂に満月が煌々と輝いている。さらに薄

雲がかかって、障子に陽がさしているように乱反射し、面発

光のような効果を生みだしていた。


 面発光というのは、光が広い面で乱反射して回り込み、強

い影を消してしまうことで全体的に明るく感じる現象のこと

を言う。

 薄雲のせいで光と影のコントラストが弱まり、 満月の直射

があれば暗くて見えない部分も見える。その分、明るい部分

のディテールはややぼやけるものの、全体的にはよく見える

ようになっていて、とても明るく見える。満月の夜は明るい

ものだが、こういう明るさは記憶に無い。なんだか不思議な

ものを見ている気になった。そして思う。光が強すぎると、

影の部分は見えない。弱い光がまんべんなく広がる方が、物

事の全体像が見える。

 わたしたちの物の見方も同じだろう。ある視点からの見方

が強くなるほど、裏側の部分はより見えなくなり、物の見え

方は一面的になる。そして、全体を見失い、愚かさは度合い

を増す。


 三週間ほど前に、“羊文学” というバンドを知って、結構ハ

マっている。

 まだ二十代前半の女二人、男一人のスリーピースバンドだ

が、いい音楽を演っている。ユニークだけど、キャッチーな

曲作りのツボを心得ていて、聴いていて気分がいいし、ハー

トに来る。で、なぜここで “羊文学” が出てくるのかという

と、彼らの曲に “あいまいでいいよ” という曲があるからだ。


 曲のサビの部分で「あいまいでいいよ・・ 本当のことは 

後回し」と歌われるのだけれど、それは、世の中や人間関係

に本当のことは無いということを彼らが感じているからでは

ないのだろうか?

 昨夜の満月の光のように、あいまいにしていることで、か

えって全体像がなんとなく見えて、穏やかさと落ち着きが訪

れるのだと・・。


 人や世の中に本当のことを求めたところで、それを知りつ

くすことはできないし、それにこだわることでかえってギク

シャクする。仮に本当のことを知ったところで、それが何な

のか? そんなことは後回しで、気分良く、仲良く過ごせばそ

れでいいんじゃないか?

 「あいまいでいいよ」という歌声は、《 正しいことがある

とすれば、仲良くすることだろう 》という私のハートには、

そういう風に響く。


 本当のことなどあるのだろうか?

 無いだろうね。


 何が本当で、何が偽りで、何が正しくて、何が誤り

で・・・、そんなことはわたしたちのアタマが自分の都合で

決めているに過ぎない。

 前に書いたことがあるけれど、「1+1=2」というの

も、“「1+1=2」ということにする” という約束の上での話

だ。その「約束」にがんじがらめになって、押しつぶされそ

うで、苦しんだり傷付け合ったりしているのが人間というも

のなのだから、本当のことや正しいことはあいまいにしてい

る方が賢明だ。


 「本当のことは 後回し」
 

 じゃぁ何を先にするか?

 「本当の “本当のこと”」だろう。

 それは何か?

 わたしたちは「気分のイイことがイイ」ということ。
 

 本当のことも、正しいことも後回し。いや、それは所詮、

お話し。

 しあわせになるのに理由はいらない。

 気分良くなるのに理由はいらない。

 いま気分良くすればいい。

 いましあわせになればいい。


 世の中のこと、アタマのお話しは、後回し。

 もしもみんながそうすれば、後回しどころか、世の中のこ

とは生きることの雑事になる。


 薄雲を透る月明かりのように、あいまいの方がイイ。
  
 「本当のことは後回し・・・」

 この世が終わってからでもイイんじゃないだろうか。

 いや、その時はじめて分かるのでは?



2021年12月24日金曜日

サイレント・ナイト、ホーリー・ナイト



 今日はクリスマス・イブ。神戸では、クリスマス・イブの

夜更け過ぎに雨が雪へと変わることなどまず無い。それで

も、「サイレント・ナイト」が「ホーリー・ナイト」である

ことは確かだろう。本当に “サイレント” であればだけど。


 サイレントはホーリーだ。サイレントこそがホーリーだ。

サイレントでなければホーリーではない。

 ただ、サイレントといっても、「音が無い」というサイレ

ントではない。「沈黙」という意味のサイレント。それも

「思考が沈黙している」という意味のサイレントであるなら

ば、ホーリーなのだ。


 『ジングルベル』が鳴り響いていても、“きっと君は来な

い・・・” と、グッと来る歌声が流れて来て、なにやら心に

暖かで気高いものが湧いて来たとしても、それはホーリーと

はまた違う話だ(それはそれで素敵なんだが・・・)。ホー

リーは、それらの背後に広がっている「沈黙」の方だ。それ

はクリスマスに限らず、いつでもどこにでも在るものだが、

わたしたちは普段そんなことは考えもせずに生きている。


 せっかくのクリスマス・イブだ、気分の良い音楽でも少し

味わったら、外へ出て夜空でも見上げてみよう。そこにはサ

イレントでホーリーな空が広がっている。サイレントでホー

リーな夜風も吹いているだろう。サイレントな雪が降り始め

ているかもしれない・・・。そして「沈黙」に耳を傾け、

「沈黙」に目を凝らすならば・・・。


 一人きりのクリスマス・イブに、心深く秘められた場所

へ・・・・


 サイレント・ナイト、ホーリー・ナイト・・・・・・