今日は8月9日で、長崎で平和祈念式典が行われて
いた。テレビではコメンテーターが核廃絶について意
見を言ったりと、毎度おなじみの光景だったけれど、
最近は一部の政治家が「日本も抑止力として核を持つ
ことを考えるべきだ」という意見を言うようになっ
た。タブーが破られてきたなと思う。
核廃絶を唱える側から容認派を見ると「人でなし」
なんだろうし、容認派から否定派を見ると「あたまの
中お花畑」ということで、両派の間の溝が埋まること
はないだろう。けれど私は、両方とも双子の兄弟みた
いなものではないかと思う。
核廃絶を訴える人は、なぜ核廃絶を望むのか?
殺されるのが怖いからだろう。
それは当然のことだと思う。
抑止力として核武装することを訴える人は、なぜ核
武装を望むのか?
やはり殺されるのが怖いからだろう。
それも当然のことだと思う。
拒絶する人も容認する人も元は同じであって、その
対処方が真逆なだけだ。そしてその真逆も、背中合わ
せで紙一重だろう。
「核兵器は恐ろしい。無い方がいい」
普通の神経の人なら誰だってそう思う。その素直な
感覚は大事だけれど、「核兵器は恐ろしい」という感
覚があるがゆえに、核兵器を無くすことは不可能だ。
「奴らは核兵器を持ってる。恐ろしい。我々も持た
ねば攻撃されるかもしれない」それも素直な感覚だか
ら。
現在、核兵器を「持っている」「持っているだろ
う」「持とうとしている」というのを合わせて11カ
国なんだそうな。仮にそれらの国が核廃絶に合意して
「すべて廃棄しました」と表明したところで、お互い
に信じるだろうか?アメリカ・ロシア・中国の国土は
広い。少しぐらい隠し持っていても分からない・・・
そういう疑念が拭えない限り、どの国も核兵器を無く
さないだろうし、その疑念を払うことは不可能だ。
人を行動させる最も強い動機は「恐れ」だ。そし
て、人を恐れさせる大きなものは「疑い」だ。
核兵器廃絶を訴えるのも、核兵器に頼ろうとするの
も、人が「恐れ」と「疑い」に揺さぶられる存在であ
ることを象徴している。両者がどこかで手を打って合
意することは無いだろう。互いに「人でなし」「お花
畑」と揶揄し続けるだろう。ただ「恐れ」と「疑い」
から生まれた兄弟のような存在だということは、互い
に認識しておくべきだろうと思う。具体的には不可能
だと思うけれど、人間が核の問題から解放されるとし
たら、そこにしか突破口はないはずだ。
誰もが、怖がりで、人を信じられなくて、強がりで
ある限り、核兵器も戦争もなくならない。
「そんなこと言ってるアンタはどう思うの?」
と疑問を持たれるかもしれない。
私は「知らんがな。勝手にやってれば?」思ってい
る。私に解決策は思い付かないから。ただ、現実とし
て尋ねられれば「日本も持ってていいんじゃない?い
まさら、核兵器を無くすなんて不可能としか思えない
んだから」と答えるだろう。
「原爆」という言葉はとても強い。その強さは、人
間がやる他の醜悪な事を陰に隠してしまいがちにな
る。原爆より焼夷弾の方が遥かに多くの犠牲者を出し
たことは、あまり話題にされない。原爆は一瞬でとて
つもない破壊と殺戮を行うけれど、その開発のコスト
は大きい。焼夷弾と原爆では、作るときに手間か、使
う時に手間か、の違いであって、狂気の道具であるこ
とでは同じだ(放射能の問題はあるけれど)。
死を怖れ、免れようとして人は武器を作るけれど、
その武器の存在がさらに死を想起させる。堂々巡りは
終わらない。終わらせたいのなら、死を捉え直して、
怖れを払拭するしか手はないだろうけれど、そんなの
ごく一部の人にしか無理だろう。
「核兵器廃絶」
もちろん私もそれを望む。
しかし、人が死を怖れる存在である限り、それは叶
わないだろう。核兵器が恐ろしいが故に、核兵器は無
くならない。核兵器が意味を持たなくなるような、さ
らなる脅威の兵器が生み出せれれば核兵器は用なしに
なるだろうけれど、その時には「怖れ」どころか「絶
望 」がもたらされることになるのだろうな。
アタマが悪い・・・。