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2026年9月14日月曜日

治大國若烹小鮮〜大国を治むるには、小鮮を煮るがごとし〜

 
 
 
 テレビでもネットでも家庭や飲み屋でも、政治家や
 
識者だけにとどまらず、一般人もが社会をどうすべき
 
かと口をひらく。眼の前の具体的な問題については、
 
どうにかしなければならないだろうけど、社会全体を
 
どうすべきかなどという「理念」を語るのを聞くと、
 
私は不快になる。
 
 
 私も社会について「こういうところは良くないから
 
少し変えたほうがいいな」などとは思うけれど、「社
 
会全体をこうすべき」という大きな理念などはない。
 
自分が普段考えていることを振り返ると、私は社会主
 
義者なんだろうなと思うけれど、その一方で、実際に
 
は社会主義は成立しないと考えているので、それを口
 
にはしないし、当然求めもしない。
 
 
 社会主義であれ共産主義であれ資本主義であれ、民
 
主主義であれ専制主義であれ、アタマが考えることは
 
当のアタマが邪魔をするので必ず破綻する。なので私
 
は大きな理念など持たない。いや、持てない。私は自
 
分も含めて、人間を高く値踏みできない。(日本は実
 
質的社会主義国としてかなり上手くやってるとは思う
 
けど、この先どうなることやらわかったものではな
 
い)
 
 
 「理念」というのは「理想とする考え」だろうけ
 
ど、「理想」が重んじられ「考え」が強固になるほど
 
身体性と感情と自然は軽んじられて「考え」は暴走し
 
始める。
 
 「理想」がある程度の重さを持ってしまうと、自重
 
で社会の坂道を下って行き、誰も止められない。個人
 
のレベルなら、その暴走を静めることもあり得るけれ
 
ど、社会のレベルになると、重すぎてもうどうしよう
 
もない。先にはクラッシュが待っている。
 
 
 老子に〈「治大國若烹小鮮」〜大国を治めるには小
 
魚を煮るようにしなければならない〜〉という言葉が
 
あるけれど、アタマで考えて社会をいじくると、自然
 
な成り行きを乱してかえってダメになる。2500年前に
 
老子がそう忠告しているのに、いまでもアタマは主導
 
権を持つ。仕方がない・・・社会を作っているのはア
 
タマだから。
 
 
 端っことはいえ私も社会に属しているから、理不尽
 
なことや汚い振る舞いを見てしまうと、私もつい自分
 
にとって理想的なこと言いたくなってしまう・・・け
 
れど、それは何も良いものをもたらさない。ミイラ盗
 
りがミイラになるだけだ。アタマの暴走に多少なりと
 
もエネルギーを与えることになる。
 
 
 口を開かず、手近なことだけを誠実に片付けていれ
 
ばいいのだと思っているのだけれど、私のアタマも悪
 
い。その巧妙さと、飽くことなき自惚れと執着は御し
 
難い・・・。
 
 
 「口を出すな。手を出すな。自分の為、世の中の為
 
に・・・」と、今日も要らんことを口走る自分に苦笑
 
いをする。
 
 
 
 
 

2026年4月19日日曜日

桜の花が散って

 
 
 
 我が家の横のヤマザクラも近くの公園の桜も、完全
 
に花を散らし、桜の季節はもう終わった。今は若葉が
 
透明感のある葉を大きく広げている。
 
 私は植物が大好きな人間なので、花の後も桜の様子
 
をうかがうけれど、世間一般の人たちは花の終わった
 
桜など見向きもしないようだ。
 
 それは単に植物に興味が無いということではなく
 
て、イベント的に人生を過ごしているからではないの
 
だろうか。
 
 社会に承認されているイベント(ポジティブなもの
 
もネガティブなものも)からイベントへと、スキップ
 
するような日々を過ごしているんじゃないのだろう
 
か?

 
 例えば結婚にしても、多くの男女が“結婚式”を結
 
婚だと思っているのじゃないのか? その後の生活は
 
“結婚の後始末”のように思っているんじゃないのか
 
と、昔から私は訝しんでいる。
 
 本質よりも、そのものに貼られているラベルを重要
 
視しているように思える。誰もがブランド物を欲しが
 
るのもそういうことだろう。
 
 
 “なんでもないようなことがしあわせだったと思
 
う”というのは虎舞竜の『ロード』の歌詞だけど、し
 
あわせかどうかはともかく、なんでもない日々や出来
 
事が生きていることの本質であるのは当然だろう。む
 
しろイベント的な事は、いわばイレギュラーとも言え
 
る。
 
 人が付加価値に多くのお金を払うことが如実に表し
 
ているように、わたしたちは普通の事を軽んじる。そ
 
れは普通の事は普通であるが故にお話しとして立ち上
 
がってこないから。普通の事をお話しとして立ち上げ
 
るには、普通を成立させている不可思議に気付ける才
 
能が必要だからなんだろう。
 
 
 普通の事を成立させている不可思議さに気付くため
 
に、まずは歴史を遡る必要がある。
 
 
 インターネットが登場する前の世界。
 
 自動車が発明される前の世界。
 
 石炭が使われ始める前の世界。 
 
 鉄で物が作れるようになる前の世界。
 
 農耕が始まる前の世界。
 
 人間が言語を使い始める前の世界。
 
 人間という種が誕生する前の世界。
 
 地球が出来る前の世界。
 
 
 そのようにして時代ごとの“普通”の違いを意識し
 
た上で、もう一度いまに戻って確かめる。自分がいま
 
息をしているという、不可思議と言うしかない“普
 
通”。
 
 
 なんでもない一日の中でも、わたしたちは印象に残
 
る事をつなぎ合わせて一日を記憶する。けれど、その
 
印象的な出来事は、記憶に残らない当たり前のことの
 
上に付加される。
 
 なんでもないことこそが命の本質だ。 
 
 いま生きていることが「なんでもない」と思えてし
 
まうということは、途轍もないことではないのか? 
 
 日々を暮らすということ自体がとんでもないイベン
 
トだろう。
 
 
 「運水搬柴是神通」
 
 (水を運び柴を搬ぶことは神通だ) 
 
 という禅の言葉がある。 
 
 当たり前のことが当たり前に起きているということ
 
を突き詰めて考えれば、誰も説明し切れない。この命
 
は思考や価値観の及ばぬ何かによって成立している。
 
 
 一枚の桜の葉が風に揺れていることを誰も説明し切
 
れない。
 
 それを、言葉を飲み込んで見入るしか仕方がない光
 
景だと感じられるのは、幸運なことだろうと思う。
 
 
 
 
 
 

  
 
  
 

2026年4月16日木曜日

無力

 
 
 生きていると誰でも自分の無力さに心が折れそうに
 
なることがあるだろう。もしかしたら途轍もなく有能
 
で「そんなことを思ったことなどない」という人もい
 
るかもしれないが、たぶんその人はサイコパスだと思
 
う。できると踏んでいたことや、不安ながらもやらざ
 
るを得ないことに行き詰まり、挫折することは誰しも
 
が経験する。
 
 
 「自分には力が無い」
 
 
 そのように挫折するとき、自分の無力さを認めて、
 
「無の力」に自分を預ければ楽になる。
 
 「自分がやる」「自分がしなければ」と拳を握りし
 
めるような思いを手放して「無の力」に従う。
 
 
 『無・責任』(2024/4/14)『無心に・・・』
 
(2024/3/25)という話を書いたこともあるけれど、
 
わたしたちは〈無〉に動かされている。わたしたちだ
 
けでなく、この世界のすべてが〈無〉に動かされてい
 
る。人の思考や、そこに形作られる意味には収まらな
 
い働きによって動かされている。思考も意味も無い働
 
きだから〈無〉と呼ぶのがふさわしいような力に。
 
 
 考え、意味付けして、何かを成し遂げようとして行
 
き詰まるなら、考えと意味付けを手放してみるべき
 
だ。そのとき「無の力」が表に出て働き始める。
 
 もちろん、その働きの結果は当初目的にしていたも
 
のにはならない。想像すらしなかった所へたどり着く
 
ことになるかもしれない。けれど、必ず“落ち着き”
 
へと着地するだろう。人を落ち着かせなくするのは、
 
わたしたちの、考え、意味付けだからだ。
 
 
 社会やアタマの求めるもののために、自分の落ち着
 
きを犠牲にするのは良い取り引きではないだろう。
 
 生まれた時から、アタマの右往左往の背後で「無の
 
力」が自分を支えて来た。それは謙虚に振り返れば自
 
明のことだ(そのはずだが・・・)。 
 
 
 自分(アタマ)は無力
 
 「無の力」こそが自分
 
 
 
 
 
  

2026年2月28日土曜日

わざわざ眠らなくても・・

 
 
 今日テレビを点けると、睡眠にまつわる話題をやっ
 
ていて、神戸で行われたイベントを紹介していた。
 
 大きな会場で室内オーケストラが人を眠りに誘う演
 
奏をしてくれて、飲み物と少しの食べ物が出され、そ
 
れぞれが用意されたハンモック・ビーズクッション・
 
リクライニングチェアに横になって眠る。料金は80
 
00円から12800円で、数年前から行われていて
 
チケットが取りにくいほど人気だそうだけど「世も末
 
だな」と思う。眠ることがイベントになるほど、現代
 
の日本人はアタマでっかちになっている。
 
 
 とは言いながら、私も山を歩いては気分の良いとこ
 
ろで昼寝をするということを長く楽しんで来たのだか
 
ら、〈目くそ鼻くそを笑う〉ということなのかもしれ
 
ない。まぁ、人に企画してもらったりしてたんじゃな
 
いから、大分違うだろうとは思うけどね。 
 
 
 今の人たちはとてもイベントが好きなようだけど、
 
私はそもそもイベントが好きじゃない。よっぽど興味
 
があることでないとそういう所へ出向かないし、並ば
 
なければならなかったり、同じ気分の共有を求められ
 
そうな場合は、興味があっても行かない。
 
 
 「こういうの良いでしょ?」
 
 「これが必要じゃありませんか?」
 
 「多くの人が楽しんでますよ!」
 
 
 そういう誘いの言葉が目の前に浮かんでくるような
 
ことは、生理的に受け付けない。“仲良しこよしはな
 
んだか怪しい”(©井上陽水)。退屈でも家で寝てる方
 
がいい。お金も要らないし。 
 
 
 随分前に『くつろぐ』(2023/4)という話を書いた
 
こともあるけれど、現代人は誰かにくつろぎを用意し
 
てもらったり、くつろぎ方を教えてもらったりしなく
 
てはならないほど、自分の感覚と意識の繋がりが切れ
 
ているらしい。
 
 どれだけ眠れているかをアプリで数値化して、睡眠
 
を管理しようとする。そんな自分に疑問を持たない様
 
子を見て、私なんぞは驚いてしまう。「いや、眠く
 
なったら眠ればいいし、眠りたいだけ眠ればいいや
 
ん」と。

 
 「仕事があるから眠りたいだけ眠ったりできない」
 
とか言う。
 
 「ホントに身体を壊しそうなぐらいなら、仕事を辞
 
めたら?死んじゃうよ」「続けていられるのなら、ま
 
だ大丈夫なんでしょうよ」と思う。 
 
 
 「わたしは不眠症なんだ」とか言う。
 
 「眠れないなら起きていればいいじゃないか」と思
 
う。 
 
 
 アタマ優位が過ぎて、身体に任せられない様になっ
 
ているだけでしょう(ごく一部には、何か病的な原因
 
もあるでしょうが)。
 
 私もとても眠りが浅いし、よく目が覚めてしまうの
 
で睡眠時間も短い。けど、自分はそういうタイプで、
 
それで一応暮らして行けてるし、本当に疲れた時は起
 
きていたくても起きていられない。何もしなくても
 
グッスリ眠ってしまう。そこは身体におまかせしてい
 
れば済むことだと思っている。
 
 
 アタマに主導権を渡すと、眠れない、くつろげな
 
い。身体が「眠ろう」「くつろごう」と訴えても、ア
 
タマという管理者がせせら笑う「オレが都合の良いよ
 
うにしてやるよ」。
 
 
 不眠症の人は、アタマのスケジュールで眠ろうとす
 
るから苦しむんですよ。私も昔はそうだったけど、そ
 
れに気が付いただけで随分楽になった。「アタマは
 
“眠らなきゃ”と言ってるけど、身体がそう感じてい
 
ないようだから起きてりゃいいか。そのうち限界が来
 
たら自然に眠るだろう」と思うようになった。
 
 アタマが「明日も仕事だぞ!眠れ!眠れ!」と言っ
 
たところで、眠れないものは仕方がない。「静かにし
 
てな。余計に疲れる」とアタマに言い返す。そうやっ
 
て20年ほど過ごしたけど、別に健康を害したりしな
 
かった。
 
 
 アタマはすぐに身体の方針に口出しする。その声が
 
ある程度社会にアップロードされると、イベントの告
 
知に姿を変えたりする。
 
 「ご用意しました!眠りましょう!くつろぎましょ
 
う!楽しみましょう!」 
 
 需要と供給が生まれ、社会が動くことができる(商
 
売になる)けれど、そんなこと身体には関係ない。
 
 
 一事が万事、アタマが口出ししてきても、社会が誘
 
い文句を言ってきても、身体や気分の内情に合わなけ
 
れば私は真に受けない。けど、無視もしない。
 
 「言いたいことは分かった。検討しておくよ」
 
 アタマも身の内、無礙にするのも可哀想だから。
 
 
  
 
  

2026年2月1日日曜日

成功の秘訣

 
 
 このブログには似つかわしくないタイトルですが、
 
世の中の人は意外と〈成功の秘訣〉を知らないような
 
ので書いてみようと思います。
 
 
 〈成功の秘訣〉は単純です。
 
 「本気でやること」
 
 それに尽きます。
 
 
 ダイエットに何度も失敗する人がいますね。あと禁
 
煙とか禁酒とかいろいろありますが、ああいう失敗の
 
原因は決まってます。本気じゃないからです。もちろ
 
ん仕事などでもそうです。 
 
 人というものは、本気になるとそのことにのめり込
 
みます。他のことなんかそっちのけでそれに注力し、
 
それが生活の中心になってしまうものです。
 
 「◯◯ダイエットで上手くいかなかった・・」
 
 本気の人はそんな戯言など口にしません。それがダ
 
メなら次の手を打ち、目的を達成するまでやり続けま
 
す。本気とはそういうことです。
 
 
 「依存症になっている人もいて、そういう人はまた
 
違う」という意見もあるのでしょうが、依存症が考え
 
られるなら、そういう方面の専門家を訪ねて指導を仰
 
ぐというアプローチもするでしょう。本気とはそうい
 
うことで、とにかく目標を達成するまで引き下がりは
 
しません。
 
 「〇〇したい」というのが、意識の表面のつじつま
 
合わせでしかない人に成功はありません。そういう人
 
は、自分の本当の望みが分かっていないか、なんらか
 
の深層心理の働きで、自分の本当の望みから目をそら
 
す為に、気乗りのしない目的を掲げてお茶を濁して
 
いるのです。
 
 
 では本気になれることをどうやって見つけるか?
 
 やりたいことに本気になるにはどうすればいいか?
 
 
 その方法はありません。
 
 本気になれることに出会うとか、何かに本気になれ
 
るかどうかは運です。自分でどうこうできることでは
 
ありません。また自分が本気になれることが、必ずし
 
も自分にとって良いこととは限りません。破滅の道を
 
突っ走ることになるかもしれません(破滅も一種の成
 
功かもしれませんね)。本気になれることを探そうと
 
する人は、社会に化かされてるんですよ。
 
 
 このブログらしくなってきましたね。
 
 ホントに成功する人は、目標を持ち、成功しような
 
どと思いません。おのずと何かをやり続けてしまうも
 
のです。自分が「本気」であることにも気付きません
 
し、「成功」なんて言葉が出る幕はありません。その
 
おかげで「失敗」もありません。ただやっているだけ
 
なので、何が起きても「失敗」にならない。上手くい
 
かなくても、単に「停滞」や「つまづき」でしかあり
 
ません。
 
 
 本当に「成功」と言えることは、「気が付いたら面
 
白いことになっていた」ということでしょう。
 
 たとえ自分の「本気」が“徹底的にぐうたらでいる
 
こと”であったとしても、そこにそこはかとなく面白
 
い気分が漂っているのなら、それは「成功」と言える
 
かもしれません。
 
 
 「成功? 何それ?」
 
 そんな意識で生きられるなら、その人生は成功で
 
しょう。
 
 〈成功の秘訣〉は「成功なんて知ったこっちゃな
 
い」という無頓着さを持つことでもあるでしょうけ
 
ど、それを持てるかも運ですしね。
 
 
 この一文が誰かにとっての“そういう運”になるの
 
なら、このブログとしては成功でしょうね。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2025年12月5日金曜日

求めよ、さらば与えられん?

 
 
 
 「求めよ、さらば与えられん」
 
 クリスチャンじゃなくても聞いたことがあるであろ
 
う有名な言葉ですが、異論も多いであろう言葉です。
 
誰だって「求めたって与えてもらえねぇよ」という経
 
験をいっぱいしているでしょうからね。それに求めて
 
いないのに与えられることもありますしね。
 
 この言葉は、熱心に求めれば必ず与えられるという
 
意味合いとされているようです。「夢をあきらめない
 
で」みたいな感じでしょうか。
 
 
 これはイエスの言葉ですが、イエスがそんな俗なこ
 
とを言うでしょうか?たぶん大事なことが欠けたまま
 
伝えられたのだと思います。ここでイエスが「求め
 
よ」と言っているのは、人のさまざまな望みに対して
 
ではなく、〈神の恩寵〉〈神の許し〉ということに対
 
してであって、それ以外の望みについては、逆に「求
 
めるな」とイエスは言うでしょう。
 
 「神の恩寵、神の許し以外のものは何も求めるな。
 
その上で神の恩寵、神の許しを求めよ、さらば与えら
 
れん」
 
 それが本当に語られた内容だろうと思います。イエ
 
スの他の言葉から推測するならばね。
 
 
 「野のユリを見よ」という言葉は、ユリのように神
 
にすべてを委ねて、思い煩うなという文脈で語られま
 
す。
 
 「子ども(赤ん坊)のようにならなければ、天の国
 
に入ることはできない」という言葉も、何も考えるな
 
ということでしょう。
 
 「望むべきは〈神の恩寵〉〈神の許し〉だけでいい
 
のだ」イエスはそう言っているのだと思います。
 
 「そうできれば、必ず与えられる」と、でも本当に
 
そうでしょうか?
 
 
 私は少し間違っていると思います。イエスが間違っ
 
ているのか、伝えた者が間違ったの知りませんが、表
 
現に少し不備が有ると思います。この言葉はこうある
 
べきです。
 
 
 「神の恩寵、神の許しだけを求め、それ以外のこと
 
は何も求めるな。さらば、すでに与えられていること
 
に気付くだろう」
 
 一言で言えば
 
 「求めるな、もう与えられている」
 
 
 いま自分がここに在る。
 
 それが〈神の恩寵〉であり〈神の許し〉です。その
 
他の自分が思い煩うことは〈人のお話〉です。「そう
 
いうことは二の次なんだよ」とイエスは言っていま
 
す。
 
 
 野のユリとあなたと何が違う?
 
 共に、いまここに在るではないか
 
 青い空に太陽が在るではないか
 
 雲が広がり雨が降るではないか
 
 身を横たえる大地が在るではないか
 
 生が与えられ、死が与えられているではないか
 
 その中で、生かされるままに生きてゆけ
 
 生かされるままに生きるしか手立てはないのだ
 
 そこに神のよろこびがある
 
 
 それがイエスの語りたいことのすべてでしょう。
 
 
 
 求めるな、もう与えられている
 
 求めれば見失うであろう 
  
 
 イエスに確認を取りたいところですが・・。
 
 
 
 
  
  
 

2025年10月17日金曜日

清々しいとは何なのか

 
 
 
 一昨日の朝、家の外に出るととても澄み切った青空が広
 
がっていた。前夜に雨が降ったことと、秋らしくなってきた
 
ことが合わさって、なかなか感じられないような清々しい空
 
だった。
 
 しばらく空を見上げながら「気持ちがいいなぁ」と思いつ
 
つ、「人間はなぜ澄んだものが好きなんだろう」と考えた。
 
 
 出雲に「日本最初の宮」とされる須賀神社があって、その 
 
「須賀(すが)」という名前の由来が、須佐之男命がこの地
 
が清々しいからここに宮を作ったということなのだそうだ
 
が、そのような言い伝えが残るほど、清々しいこと、澄んで
 
いることは重要なことなのだろう。それが人すべてなのか、
 
特に日本人がそうなのかまでは知らないけれど。
 
 
 〈澄んでいる〉
 
 わざわざ言うほどでもなく「余計なものがなくありのまま
 
が見通せる」ということだろうけど、人がそれを求め、それ
 
を嬉しく感じるということは、「余計なもののせいで、あり
 
のままが見通せない」というのが普通だとわたしたちが感じ
 
ているせいだろう。そして「これは本来の状態ではない」と
 
感じているからこそ、澄んだ青空や澄んだ川や海を見て気分
 
が良くなるのだろう。
 
 
 その感覚は、わたしたちが普段濁ったものに囲まれて生き
 
ているということを象徴的に示している。意識は本来澄んで
 
いるものだからこそ、外の世界に見える「澄んだもの」と親
 
和するのではないのか。
 
 
 一昨日、澄んだ空を見上げながら、私は意識が空に蒸散し
 
てしまうかの様な感じがしたけれど、そういう感覚を「清々
 
しい」と言うのではないのだろうか。
 
 自分の外の澄明さと自分の中の澄明さの間で、意識の表面
 
にある思考や感情が解けてゆくことで、心の重さ・濁りが払
 
われる。
 
 
 心の重荷・こだわりが解ける時、人は「清々した」と言う
 
けれど、それは本来の心の状態に戻れたということだろう。
 
わたしたちの心は、本来澄んでいるのだ。
 
 
 余分なものを持ち込まなければ、わたしたちの心は、雨上
 
がりの秋空のようにどこまでも見通せる広々として何の負担
 
もないもの・・・。たとえ余分なものが視線の先に有って
 
も、それはひとかたまりの雲のようなもの。少し視線をずら
 
せば、そこに青空がある。
 
 詩的に過ぎると思われるかもしれないけれど、澄んだ空を
 
見て「心の中に清々しさが広がる」などと表現するではない
 
か。やはり、心の中には澄んだ空があるのだ。それが本来の
 
心の在り方なのだ。
 
 
 
 
 
 

2025年10月12日日曜日

前を見ている

 
 
 今朝「あっ、そうか」と気がついたことがあって、これを
 
書き始めた。
 
 
 「前向きに」という言葉を誰もがよく口にする。辛いこと
 
に遭ってそれに囚われてしまっている人に、あるいはそのよ
 
うな自分自身に対してそう言う。「後ろばかり振り返ってい
 
てはいけない」と。
 
 けれど、考えてみればわたしたちの目は前に付いている。
 
いや、目が付いている方が前であり、自分が見ている方が常
 
に前なのだ。わたしたちは前しか見ていない。いついかなる
 
ときも。
 
 
 小さな不快感であれ、トラウマになってしまったようなお
 
ぞましい体験であれ、そこから目をそらすことができずに、
 
それを引きずり、それに引きずられてしまう。
 
 「こんなことは記憶から消えて無くなって欲しい・・」
 
 そんな願いも叶わず、過去に囚われて苦しんでしまう。
 
 そんな人に、そんな自分に対して「過去ばかり見てないで
 
前を向いたほうがいい」と言う・・・いや、その過去こそ
 
が、見るべき「前」なのだ。見るべきだからこそ、見なくて
 
は済まされないからこそ、意識はその過去を見せている。後
 
ろを見ているようだけれども、見ているものが「前」だ。
 
 
 その出来事の辛さから、見ることを拒んでしまう意識に対
 
して、拒まれた部分の意識が言う。「いや、これは見なく
 
ちゃいけないんだ。見ないでは済まされないんだ」と。だか
 
らこそ、拒んでも拒んでもそれは目の前に現れて来る。
 
 見なくては済まされない。
 
 見て、ケリを付けなければならない。
 
 
 辛いことそのものを真正面から見なければというのではな
 
い。そのことの陰に隠れてしまったもの、その周りに有った
 
のに見落としてしまったもの・・・。それを見てほしくて、
 
拒まれた意識は何度も何度もそれを見せるのだろう。そこ
 
に、その人が穏やかに、気楽に生きるためのヒントが有るは
 
ずだ。
 
 
 グズグズと、ウジウジと過去ばかりに囚われている人は後
 
ろを見ているのではない。その人も前を見ている。それが、
 
その人が見るべきものなのだ。
 
 
 人はみな、前を見ている。
 
 ただ、その見えてくるものの中に、本当に見なければなら
 
ないものを見つけることが出来なければ、生きていることは
 
徒労でしかなくなってしまう。
 
 たとえ未来に目を向けていても、見なければならないこと
 
を見ないのなら徒労だろう。では、何を見たらいいのか?
 
 拒まれた過去の傍に、そのヒントがあるだろう。
 
 
 気を取り直して過去という前を見ていると、いつかおのず
 
と見なくなる時が来て、目の前から過去が消え去る。
 
 その時、目の前には開けた景色が広がっているはずだ。
 
 見られることを待ち望んでいた景色があるはずだ。
 
 わたしたちはいつも前を見ている。
 
 
 
  
 
 

2025年9月5日金曜日

仲間はずれ

 
 
 
 もう何十年も前に近鉄電車に乗って奈良へ行ったとき、生
 
駒の高台に差し掛かったところで大阪方面を見たら、霞の彼
 
方まで建物が密集していて「うわぁ・・」と思ったことがあ
 
る。
 
 人間の所業に恐怖を感じて、「この光景が気味悪いと感じ
 
る自分は、人間の仲間ではないのかな・・」とか思ったけれ
 
ど、いまにして思えば、やはり自分は人間の仲間ではないの
 
だろう。
 
 
 ことさらに人を避けているわけではないが、人付き合いは
 
ほとんど無く、世の中で当たり前に通っている常識に違和感
 
を感じる事が多いのだから、仲間でないと判断する方が自然
 
だ。
 
 
 なぜ仲間になれないか?
 
 私が肌感覚のようなものを優先する人間だからだろう。
 
 ほとんどの人が、人の肌感覚的なものをないがしろにして
 
でも、世の中のお話しを進めて行こうとすることに合わせら
 
れない。「なんで、それで平気なの? なんで気持ち悪くな
 
いの?」と感じてしまうことが世の中に多すぎる。
 
 
 こういうことを言うと当然ながら世の中の側からは「お前
 
がおかしいんだよ」と言われるだろうけれど、こちらは元か
 
ら「自分は人間の仲間ではないな」と思っているわけだか
 
ら、自分がおかしいことを問題だと思わない。そもそも「お
 
かしい」とはどういうことか?
 
 
 なんらかの標準から外れると「おかしい」というラベルが
 
貼られるけれど、〈標準=正しい〉というわけではない。標
 
準はたんに数が多いだけだ。けれども世の中では〈標準=正
 
しい〉という理解だろう。
 
 「数が多いだけで〈正しい〉と思っている人たちと付き
 
合ってると、おかしなことに関わってしまいそうだ」と感じ
 
て距離を置くというのは、自然な成り行きではなかろうか?
 
 
 おかしなこと(お話し)に関わってしまうぐらいなら、私
 
はおかしな奴のまま仲間外れで居る方が安心だ。
 
 私は世の中のために生きているのではない。私は、私を生
 
きるべく生まれてきたはずだし、みんながそうだろう。そう
 
じゃなければ、ひとりひとり誰もが違うということに意味が
 
ない。
 
 
 あの生駒の高台から街を眺めたように、ひとりの人間とし
 
て、世の中で繰り広げられる迷走や暴走を眺めていればいい
 
と思う。関わったところで、霞の彼方まで広がる世の中をど
 
うしようもない。「どうぞ存分に・・・」と思う。
 
 ただ、高台の上で自分と同じように世の中を眺めている人
 
が見つかるならば、その人と仲間のようなものになるのは悪
 
くはないね。