2025年9月5日金曜日

仲間はずれ

 
 
 
 もう何十年も前に近鉄電車に乗って奈良へ行ったとき、生
 
駒の高台に差し掛かったところで大阪方面を見たら、霞の彼
 
方まで建物が密集していて「うわぁ・・」と思ったことがあ
 
る。
 
 人間の所業に恐怖を感じて、「この光景が気味悪いと感じ
 
る自分は、人間の仲間ではないのかな・・」とか思ったけれ
 
ど、いまにして思えば、やはり自分は人間の仲間ではないの
 
だろう。
 
 
 ことさらに人を避けているわけではないが、人付き合いは
 
ほとんど無く、世の中で当たり前に通っている常識に違和感
 
を感じる事が多いのだから、仲間でないと判断する方が自然
 
だ。
 
 
 なぜ仲間になれないか?
 
 私が肌感覚のようなものを優先する人間だからだろう。
 
 ほとんどの人が、人の肌感覚的なものをないがしろにして
 
でも、世の中のお話しを進めて行こうとすることに合わせら
 
れない。「なんで、それで平気なの? なんで気持ち悪くな
 
いの?」と感じてしまうことが世の中に多すぎる。
 
 
 こういうことを言うと当然ながら世の中の側からは「お前
 
がおかしいんだよ」と言われるだろうけれど、こちらは元か
 
ら「自分は人間の仲間ではないな」と思っているわけだか
 
ら、自分がおかしいことを問題だと思わない。そもそも「お
 
かしい」とはどういうことか?
 
 
 なんらかの標準から外れると「おかしい」というラベルが
 
貼られるけれど、〈標準=正しい〉というわけではない。標
 
準はたんに数が多いだけだ。けれども世の中では〈標準=正
 
しい〉という理解だろう。
 
 「数が多いだけで〈正しい〉と思っている人たちと付き
 
合ってると、おかしなことに関わってしまいそうだ」と感じ
 
て距離を置くというのは、自然な成り行きではなかろうか?
 
 
 おかしなこと(お話し)に関わってしまうぐらいなら、私
 
はおかしな奴のまま仲間外れで居る方が安心だ。
 
 私は世の中のために生きているのではない。私は、私を生
 
きるべく生まれてきたはずだし、みんながそうだろう。そう
 
じゃなければ、ひとりひとり誰もが違うということに意味が
 
ない。
 
 
 あの生駒の高台から街を眺めたように、ひとりの人間とし
 
て、世の中で繰り広げられる迷走や暴走を眺めていればいい
 
と思う。関わったところで、霞の彼方まで広がる世の中をど
 
うしようもない。「どうぞ存分に・・・」と思う。
 
 ただ、高台の上で自分と同じように世の中を眺めている人
 
が見つかるならば、その人と仲間のようなものになるのは悪
 
くはないね。 
 
 
 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿