もう何十年も前に近鉄電車に乗って奈良へ行ったとき、生
駒の高台に差し掛かったところで大阪方面を見たら、霞の彼
方まで建物が密集していて「うわぁ・・」と思ったことがあ
る。
人間の所業に恐怖を感じて、「この光景が気味悪いと感じ
る自分は、人間の仲間ではないのかな・・」とか思ったけれ
ど、いまにして思えば、やはり自分は人間の仲間ではないの
だろう。
ことさらに人を避けているわけではないが、人付き合いは
ほとんど無く、世の中で当たり前に通っている常識に違和感
を感じる事が多いのだから、仲間でないと判断する方が自然
だ。
なぜ仲間になれないか?
私が肌感覚のようなものを優先する人間だからだろう。
ほとんどの人が、人の肌感覚的なものをないがしろにして
でも、世の中のお話しを進めて行こうとすることに合わせら
れない。「なんで、それで平気なの? なんで気持ち悪くな
いの?」と感じてしまうことが世の中に多すぎる。
こういうことを言うと当然ながら世の中の側からは「お前
がおかしいんだよ」と言われるだろうけれど、こちらは元か
ら「自分は人間の仲間ではないな」と思っているわけだか
ら、自分がおかしいことを問題だと思わない。そもそも「お
かしい」とはどういうことか?
なんらかの標準から外れると「おかしい」というラベルが
貼られるけれど、〈標準=正しい〉というわけではない。標
準はたんに数が多いだけだ。けれども世の中では〈標準=正
しい〉という理解だろう。
「数が多いだけで〈正しい〉と思っている人たちと付き
合ってると、おかしなことに関わってしまいそうだ」と感じ
て距離を置くというのは、自然な成り行きではなかろうか?
おかしなこと(お話し)に関わってしまうぐらいなら、私
はおかしな奴のまま仲間外れで居る方が安心だ。
私は世の中のために生きているのではない。私は、私を生
きるべく生まれてきたはずだし、みんながそうだろう。そう
じゃなければ、ひとりひとり誰もが違うということに意味が
ない。
あの生駒の高台から街を眺めたように、ひとりの人間とし
て、世の中で繰り広げられる迷走や暴走を眺めていればいい
と思う。関わったところで、霞の彼方まで広がる世の中をど
うしようもない。「どうぞ存分に・・・」と思う。
ただ、高台の上で自分と同じように世の中を眺めている人
が見つかるならば、その人と仲間のようなものになるのは悪
くはないね。
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