3ヶ月前に『遊び心』という話を書いたけれど、今日「遊
ぶ」という言葉のことをふと考えていて続きのようなものを
書こうと思った。
遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとやうまれけん
これは平安時代の歌だそうだが、「人が生まれてくるのは
遊ぶため」と歌いたくなるのは、実際の人生が遊べないもの
だと思えるからこそだろう。
思い通りにならないどころか、望みもしないさだめにもみ
くちゃにされたりしてしまって、とてもじゃないが遊び心な
んて持てないと思ってしまう。こんな人生をどうやって遊べ
というのか・・・。
確かに人生を遊べるのなら結構なことだろう。けれど、人
生は遊ぶべきものだろうか?
遊びを“する”のか?
戯れを“する”のか?
いや、人生は遊ぶのもではなくて、遊ばせるものだろう。
「遊ぶ」と言う言葉には、「自由にさせておく」という意
味がある。例えば“遊水地”は河川から溢れた水を遊ばせて
おく土地のことだけど、洪水を防ぐための緩衝地帯としてそ
こを利用しないで空けてある。水が入ってきても、流れ、波
立ち、渦巻くままにまかせておく。空いている土地だから水
の自由にさせておける。
わたしたちは心の中に思考の構造物を建ててしまい、それ
を守ろうと懸命になる。心の中で何かの活動を続けようと必
死になる。
それが遊びであれ、真面目なものであれ、そこに入り込ん
で“人生をしよう”としてしまうけれど、物事は思い通りに
ならない。運命の流れで翻弄されてしまう。まぁ首尾よく運
ぶこともあるだろうが。
「自分を放し飼いにしておく」という話も書いたけど
(『自分を飼う』2024/10)、同じことを違う表現に直せば
「人生を遊ばせておく」ということでもあるだろう。
わたしたちの心の土地は本当は広い空き地だ。そこに入り
込んでくる出来事の流れや、波立ち、渦巻く感情をそのまま
に遊ばせておけるはずの場所なのだ。ところがわたしたちの
自意識は手応え・刺激が欲しくてその流れに入り込みたが
る。そしてもみくちゃになってしまう。
上手く行くこともあるだろう。それは楽しい事だろう。そ
れでいい人はそうすれば良いし、そうせざるを得ないだろう
けれど、私は人生の本質はそこには無いと思っている。
人生は遊ぶものではなく、遊ばせておくものだろう。
広い自分の懐の中で、人生も世の中の出来事も遊ばせてお
けるなら、こんなにゆったりとして大きな遊びもないのでは
ないだろうか。
遊びをせんとや生まれけむ
この歌の真意は、それではないだろうか。
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