2025年9月19日金曜日

迷い

 
 
  何年か前から、生きていてことさら楽しいこともない
 
が、生きていてことさら面倒くさいこともない。けれど生き
 
ているのはけっこう面白いとしみじみ思ったりする。
 
 この前、玄関の階段に腰を掛けて、ぼーっと外を眺めてい
 
た。アゲハチョウやアシナガバチなんかが行き交う姿や、少
 
し離れたところにある木が風に揺れる様などを見ていたら、
 
いつの間にか小一時間が経っていた。世界が生きている様子
  
は、なかなか面白い。

 
 チョウやハチは蜜や獲物を求めて、炎天下の中もなんの迷
 
いもなく飛び回ってる。木は風にまかせて、なぶられるまま
 
に揺れている。その生き方、在り方は迷いや選り好みとは無
 
縁だ。それに引き換え、人というものはなんだかんだと常に
 
迷ってる。
 
 
 最善の選択はどれか?
 
 少しでも満足度が高いのはどちらか? 
 
 人の満足の指標・基準には、アタマが本能以上の影響を与
 
えていて、他の生き物のように本能優先で定まっていないか
 
ら、なにかにつけて揺れ動いてしまう。「生きることは迷う
 
こと」とでもいうぐらいに、人は迷う。
 
 
 人の本能は不完全だから、本能に任せていると数日でほぼ
 
100%命を落とすだろう。それゆえアタマのサポートはなく
 
てはならないけれど、アタマは自身がサポート役であること
 
に気付かない。「わたしに任せておきなさい!」とでも言わ
 
んばかりに、あらゆる局面で決裁権を発動しようとする。
 
 ところが、その実情は「ああだ、こうだ」と迷っている
 
か、バイアスの係った決め付けをゴリ押しすることがほとん
 
どで、アタマは「どうすべきか」なんて本当は知りはしな
 
い。人はアタマに主導権を持たせることで迷ってばかりいる
 
し、後で後悔することが頻繁にある。
 
 
 映画『踊る大捜査線』の有名なセリフ、「事件は会議室で
 
起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」というのは、
 
組織の管理者が自己満足のために、机上の空論で実際の問題
 
解決をぐちゃぐちゃにすることを揶揄したものですけど、私
 
からすれば、これはそのまま、個人のアタマと心身の関係に
 
置き換えられるわけです。社会でも一個人でも、アタマが強
 
権を発動すると、人が死んだりもするわけですね。
 
 
 「人というものは、本当は迷っているのに“迷ってない”
 
と思い込みたくて、すぐに分かったつもりのゴリ押しをす
 
る」
 
 そんな風な自己認識があれば、人生も社会も少しはゴタゴ
 
タが減ることだろうけど、アタマは自己肯定欲求の権化なの
 
で、おとなしくさせるのは一筋縄ではない。
 
 というわけで「“分かった”と結論づけるのは、愚か者の
 
することだよ」と、アタマでアタマに言い聞かせてマインド
 
コントロールするという面倒な手を使うしかない。
 
 
 自分で自分をマインドコントロールするなんてバカみたい
 
な気もするが、改めて考えると、人はいつでも自分で自分を
 
マインドコントロールしている。自分が「正しい」「有利」
 
と思える価値観や考え方を肯定して、懸命に自分を社会の中
 
に安定させようとしているのだから。
 
 
 そうして誰も彼もが自分をマインドコントロールし、それ
 
で社会と関わるものだから、あっちでこっちで他人とぶつか
 
り、すれ違う。そして迷う。どうせ自分をマインドコントロ
 
ールするのなら、迷わないようにする方が利口だろう。 
 
 
 「わたしは人生の目的も方法も分からない」 
 
 そう自分に言い聞かせることができたら、もう迷うことは
 
ない。自分から動かないのだから。
 
 動かされるままに動いて行けばいい・・・こんなに気楽で
 
安心なこともないだろう。 
 
 
 
 
 
 

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