「あの人はわたしを誤解している」
「わたしはあの人を誤解していた」
人はよくそんなことを言うが、人が誤解しているのは「誤
解」という言葉の方だ。「誤解」なんて存在しないのだか
ら。そもそも「理解」というものが存在しないのに「誤解」
などしようがない。
私は人を誤解することがない。理解するなんて不可能だと
思っているので、人に対して便宜的にキャラクター付けする
ことしかしない。「この人はこういう人」といった決めつけ
をしないので、誤解にまで至らない。
逆に私が人から誤解されることもない。たとえ相手が「あ
なたのことを誤解していた」と私に告げても、それは相手が
一人で勝手に「誤解した」と思うだけで私には関係のないこ
とだ。自分で自分のことも理解できないのに、他の人が私を
理解できるはずがないから、他の人の思惑なんてどうでもよ
いことだ。
普通一般に使われる「誤解」という言葉の正体は、良い意
味でも悪い意味でも「当てが外れた」ということだろう。一
時的に自分が納得しやすい枠の中に相手をはめ込んでいた
が、それがズレていると気付いたので「誤解」していたと思
う。ではそれで目出度く「理解」したのかといえば、せいぜ
い少しはマシな枠付けになっただけのこと。分かった気に
なっただけ。
人のことなんて分かるわけがない。むしろ、できるだけ分
かろうとしない方が良いだろう。
分からないまま、ニュートラルでオープンに人と関わっ
て、その時々に目の前に現わされているその人と無理せずに
やり取りをする。いま現わされていないその人(の部分)な
んて関係ない。いまのその人の在り方と、いまの自分の在り
方の親和性がある部分を探って、そこでやり取りするだけの
こと。それが人付き合いというものだろう。
もし、そこに親和性が見つからなかったら?
相手をする必要はない。相手のしようがない。無理に付き
合ってもお互いに何も良いことはない。そこから立ち去るだ
け。
誰にでも経験があるだろうけど、街で道を尋ねられたり、
旅先で見知らぬ人とちょっと話す機会があったりしたときの
方が、気安く、気分良く話せたりするものだ。それは、お互
いに利害関係がないし、お互いに相手のバックグラウンドや
バックボーンなどを知らないからニュートラルに関われるか
らだ。
“その人”を分かろうなんてムリなことだし、変なバイア
スを持つだけになりかねない。
自分を分かろうとするのも同じことだ。自分を分かろうと
するせいで、多くの人が自分を「誤解」する。
自分であれ他人であれ、悪意がなくても、人を枠にはめよ
うととすればロクなことがない。
自分のことも、他人のことも、分からないままで良いでは
ないか、さしあたり生きていけそうならば。
もしも生きてゆくのが難しそうならば、それは自分や誰か
を分かったつもりになっているせいかもしれない。
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