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2026年7月4日土曜日

長い困難

 
 
 
 ベネズエラの地震の被害がとんでもないね。コンク
 
リート造の大きな建物がいっぱい崩壊しているから、
 
国際的な大きな協力がなければ、あれを撤去するだけ
 
でも十年はかかってしまうんじゃないだろうか。被災
 
者がこれから辿る長い困難を思うと何も言葉が出な
 
い。冷淡に思わるかもしれないけれど、被災者は耐え
 
るしかない。自分のさだめは自分が生きるしかないか
 
ら。
 
 明日、自分をどんなさだめが待っているか誰も知ら
 
ない。どんなさだめでも、起こることは受け止めてい
 
くしかない。

 
 受け止め切れないかもしれない・・・それならそれ
 
で仕方がない。
 
 死んだ方がマシだと思うほどかもしれない・・・そ
 
れならそれで仕方がない。
 
 さだめを恨んで鬼のような心を持つかもしれな
 
い・・・それならそれで仕方がない。

 
 自分にどうすることもできないから「さだめ」なん
 
だ。仕方がない。自分の思惑の出る余地は無い。


 アニメの『風の谷のナウシカ』のクライマックス。
 
小さな女の子がババさまに訊く「みんな死ぬの?」。
 
ババさまが答える、「さだめならね。従うしかないん
 
だよ」。

 
 現代人はあきらめを忌む。すぐに、「自分で、自分
 
たちの力で、困難を克服するんだ」と語る。けれど
 
私は、大きな困難に遭ったときはあきらめるべきだと
 
思う。ただし、それは捨鉢に投げ出してしまう意味で
 
はない。
 
 ババさまの答えのような、「さだめを受け入れ従っ
 
ていく」という、深い謙虚さを持つということ。
 
 「自分の力で・・・」という、自我が先走る形では
 
なくて、「さだめの導くことに自分の力を尽くしてい
 
く」とあきらめること。

 
 こういう考えは消極的だと苦々しく思う人も多いこ
 
とだろう。でも私は、あきらめの上にこそ、人の坦々
 
とした強さが現れて来ると思う。地に足のついた行い
 
が生まれて来ると思う。
 
 その結果、結局困難に打ち負かされてしまうかもし
 
れない。けれど、もうあきらめはついている・・・。

 
 「自分で・・・」と先走っても、さだめに従って
 
も、しなければならないことは同じだ。
 
 さだめに従えば、さだめが引っ張ってくれる。自分
 
が先に立てば、自分がさだめを引っ張らなければなら
 
ない(実際には無理だが)。どちらが辛いだろうか?
 
 さだめに導かれるままに、坦々とするべきことをす
 
る方が楽になれるのではないだろうか?

 
 ベネズエラの人にこんな話を届けたいと思っている
 
わけじゃない。こんなこと言えない。そもそも届かな
 
い。届いたところで受け入れてもらえない。そんなこ
 
とは分かっている。私の意識がニュースに反応して、
 
こんな話を書き出しているだけだ。過酷なさだめにど
 
う向き合うかを確かめようとして。
 
 
 地震は信(まこと)に大変に候。野僧
 
 草庵は何事もなく、親類中死人もなく
 
 めでたく存じ候。うちつけに、死なば死なずに
 
 永らえて、かかる憂きめを見るがわびしさ
 
 
 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
 
 死ぬ時節には死ぬがよく候
 
 これはこれ災難をのがるる妙法にて候
 
                   良寛  
 
 (地震で子を亡くした山田杜皐への手紙)
 
 
 
 肚を括って、さしあたり生きてみるしかない。
 
 順なる時も、逆なる時も、それしかない・・・。 
 
 
 
  

2026年6月20日土曜日

なんだか知らないままに

 
 
 
 歳を取ると日々があっという間に過ぎる。人生がど
 
んどん過ぎてゆく。
 
 「なんだろうなぁ」
 
 日々を過ごしながらそんなことを思う。
 
 
 なんだか知らないけど、とにかく人生は過ぎてゆ
 
く。
 
 過ぎてゆくものは仕方がない。何かの意味や価値を
 
こじつける必要もないので、過ぎるままで不足はな
 
い。
 
 
 前に「人生は過ぎさせるもの」と書いたことがある
  
(『時間の散歩』2025/5)。 けれど世の中では「人生
 
は歩んで行くもの」という捉え方が主流だろう。

 
 「自分が人生を展開させてゆく」という意識と、
 
「自分の前で人生が展開してゆく」という意識とでは
 
まったく違う。
 
 あらゆる生き物も、無生物であっても、すべての存
 
在は受動的なものだと私は思っている。何を見てもそ
 
う思わざるを得ない。能動的なものが無いというよ
 
り、能動性あるいは自発性というものが存在しない。
 
世界の動きに中心は無い。
 
 
 中心の無い世界の中で、すべてが関わり合いながら
 
世界が展開していく。自分の周りで世界が展開し、そ
 
れに連れて自分も展開していく。それは当然、能動的
 
ではないし、受動し合う動きは、最早受動的とも言え
 
ないだろう。 
 
 
 二宮尊徳がこういう言葉を遺しているそうだ。
 
 
 風呂の中で自分の方にもっとお湯が欲しいとお湯
 
 をかき寄せても、そのそばからお湯は向こうへ行
 
 ってしまう。反対に、向こうにいる人にお湯をあ
 
 げようとしても、お湯はこちらに回ってくる
 
 
 これは人の世の有様を表わすと共に、世界の有様も
 
語っているのだろう。受け手も贈り手もない。自分の
 
視点から見るしかないので、勘違いするだけだ。
 
 
 個人の視点やタイムラインからすれば、物事は行っ
 
たり来たり留まったりするように見える。けれど自分
 
も含めた全体は展開し続けている。自分だけが自発的
 
に動くことはできない。
 
 
 こういう話を読んで頷くか、バカにするか・・・。
 
 それさえも自分では決められない。 
 
 
 「見させられ、聞かせられ、生きさせられている」
 
と思えるのなら、それは幸運な展開なのだと私は思
 
う。
 
 そんなのは、自分の足で歩きたいとこだわる人には
 
許されない話だろうけれど、それもそういう展開だと
 
いうだけだ。もう少し気楽にした方が良いだろうに。
 
 
  寝ていても 運ばれてゆく 夜汽車かな
 
                  作者不詳 
 
 
 
 
 
 

2026年6月2日火曜日

自分が邪魔をする

 
 
 
 日々、人の言葉や何かの出来事に接して、わたしち
 
は何かを思うけれど、それは「思った」のか、「思わ
 
されてしまった」のか・・・、私は「思わされてしま
 
った」という立場をとる。わたしたちの思考は常に後
 
付けだ。自由意志など無い。
 
 
 生きていることは過去の後始末のようなもので、真
 
に「自発的」と言えるような思考も行為も無い。どの
 
ように飾ろうと繕ってみようと、わたしたちは過去や
 
その時々の状況に動かされているのであって、自ら動
 
いているのではない。
 
 やむにやまれず何かを考え、何かをして生きてい
 
る。自分というものは、その動かされている“動き”
 
のイメージであって、確固としたものは無い。
 
 
 そう思わざるを得ないので、私はそう思って(思わ
 
されて)いるけれど、自分の意思があると思う人は、
 
私のような者を見ると、虚しいし面倒だと思うだろ
 
う。しかし、当の本人は「思わされている」方が楽
 
だ。「南無阿弥陀仏」と同じで、自分は無責任でいら
 
れるし、自分に思わせる“何か”に任せておけばいい
 
ので気楽なものだ。もとよりそういう風に思わされて
 
しまっているのだから仕方がない。それに抵抗しよう
 
と思ったとしても、その抵抗さえ思わされてのこと
 
だ・・・手も足も出ない。
 
 
 浄土真宗の僧侶の藤原正遠さんは「我に手のなし」
 
(打つ手は無い)と仰ってらしたけど、自分の力・意
 
思は幻想だ。アタマが自身の存在意義を示したくて、
 
自分の力・意思があると都合の良い解釈をするだけ
 
だ。
 
 正遠さんは「(程度の酷い)煩悩がでてきたらこま
 
りますよねぇ」という問いに対して、「下さる煩悩し
 
か出んもの(だから安心していればいい)」と答えて
 
いる。その徹底的に無責任とも言える自己否定は、逆
 
説的に破滅的な煩悩が力を持つのを抑える。“気楽
 
さ”からは、煩悩へ送り込まれるエネルギーが出てこ
 
ないから。そして気楽にしていると、軽くなった自分
 
を押しのけて、“何か”の力が現れやすくなる。良か
 
れと思って邪魔をしていた自分が力を抜くと、“何
 
か”の働きがスムーズになり、自分という動かされて
 
いる“動き”もスムーズになる。気楽さが、さらなる
 
気楽さを生んでいく。
 
 
 この話全体が、私のアタマが都合の良い解釈をして
 
いるだけかもしれないけれど、それもそう思わされて
 
のこと・・・我に手のなし・・・気楽なものだなぁ。
 
 
 
 
 

2026年5月11日月曜日

役立たずでもOK

 
 
 
 32歳の時、私は一旦ドロップアウトした。仕事にや
 
り甲斐が見いだせなくなって、三年間一切働かずに過
 
ごした。
 
 公園でハトに餌をやったり、山に行ったり、街をぶ
 
らぶらしたり、家で絵を描いたりしながら、目的も無
 
く先のことも考えずに過ごしていた。
 
 そんなある日、近くの駅前のベンチに座って行き交
 
う人を眺めていた時、今の自分には何の肩書も無いこ
 
とに気が付いた。強いて言うなら “神戸市民” とい
 
うぐらいのもので「ああ、自分は社会の外にいるんだ
 
な」と思い、それが面白かった。
 
 
 大抵の人は人生のほとんどの時間を肩書として生き
 
る。役割と言ってもいい、社会の中でいくつかの肩書
 
をこなしながら過ごす。学生が終われば仕事上の肩書
 
を身に着け、家庭を持てば妻や夫や父・母という肩書
 
も持つ。世の中には、同時に10や20の肩書を持っ
 
ている人さえいるが、自分にはああいう人の感覚が理
 
解できない。大抵は成り行きでそうなるのだろうけ
 
ど、たぶんそもそもそういうことが好きなのだろう。
 
私とは違う種類の人たちだ。
 
 
 生きていれば社会と関わらざるを得ないので、肩書
 
を持つことは仕方がないけれど、多くの人は肩書が無
 
いと不安になるのではないだろうか。
 
 肩書が無いということは役割が無いということで、
 
要するに “役立たず”ということになり、自己肯定
 
感が持てなくて困るだろう。定年になって、その後に
 
アルバイトなどして働く人が普通にいるが、あれは小
 
遣い稼ぎや暇つぶしというだけではなく、社会に関わ
 
らず、何もしてないと自分が役立たずのように感じる
 
からだろう。私は「別に役が立たなくても(役が無く
 
ても)いいではないか」と思うのだけど、それまでの
 
人生を肩書で生きてきた人には、役の無い自分に落ち
 
着くことなどできないのだろう。
 
 
 “肩書とは関係の無い自分” と親しむことなく生
 
きることは、自分をないがしろにすることだ。そうい
 
う生き方をする縁ならしかたがないし、それがその人
 
の人生ならそれでいいのだけど、せっかく生まれてき
 
たのだから、それはもったいないと私は思うし、たぶ
 
ん成仏できない。
 
 〈魂魄この世に留まりて・・〉ということになるだ
 
ろう。
 
 
 ホスピスで長く働く医師や看護師のインタビューを
 
何度か聞いたことがあるけれど、入所者の中には死を
 
目前にしてうろたえる人と、落ち着いて静かに死を受
 
け入れる人がいると言う。そういう話を聞くと、イメ
 
ージとしては “うろたえる人” の方が成仏できない
 
のではないか、と感じる人が多いのではないだろう
 
か。
 
 なぜそのような違いが出るのか? 私は “肩書とは
 
関係の無い自分” と親しんだかどうかの違いだろう
 
と思う。一番すべきこと、必ずすべきことをやらずに
 
生きてしまったという感覚が、あせりを生むのだろ
 
う。当人にはその感覚が何を表しているのかは分から
 
ないままで・・・。
 
 
 “肩書とは関係の無い自分” に親しむ術を養えた
 
なら、たとえ社会で役が立たなくてもかまわない。う
 
ろたえることなく、過ごして行けるだろう。そして、
 
遅いか早いかに関わらず、最期の時が来たら落ち着い
 
て “最期” へと進んで行けることだろう。   
 
 
 
 
 

2026年2月23日月曜日

ユートピアが生まれないわけ

 
 
 三週間ほど前から、You Tube で日本のライブカメラ
 
をリレーしてゆくチャンネルをよく観る。海外の人の
 
チャンネルだけど、日本国内の60箇所ぐらいのカメ
 
ラをループしてゆくもので、けっこう質の良いジャズ
 
と合わせているので楽しめる。人間が出てきて喋った
 
りしないので、鬱陶しくなることがないのが良い。
 
 
 毎日観ているけど、昨日築地のカメラで映した夜景
 
を「本当にSF映画のようだ」と思いながら観てい
 
て、気付いたことが有った。 
 
 SF映画で描かれる未来は、荒廃した世界か高度に
 
管理された社会で、いずれにしてもディストピアとし
 
て描かれる。たぶん、SF以外も含めたこれまでのど
 
んな映画でもユートピアが描かれたことはないだろ
 
う。描かれていても、それは人が個性や人間らしさを
 
失ったディストピアとして描かれてきたはずだ。しか
 
し、なぜ真のユートピアは描かれないのか。 
 
 
 答えはすぐに見つかった。ユートピアではお話が作
 
れないのだ。平和で満ち足りた世界に語るべきお話が
 
生まれるわけがない。お話が生まれ、進行するにはト
 
ラブルが必要だから。
 
 それに気付いたときに、現実の社会がユートピアに
 
ならない理由も分かった。わたしたちのアタマはお話
 
の中でしか存在できないので、社会のトラブルが無く
 
なるとお話もなくなり、アタマは存在できなくなって
 
しまう。アタマはユートピアを恐れているのだ。
 
 
 科学技術がこれほど発達した現在なら、ある程度の
 
問題を容認するなら、社会は安定し平和になるはず
 
だ。けれども人は、精神的にも物理的にも新しいもの
 
を求め、次のフロンティアを目指す。その理由はさら
 
なる発展の為というように言われるが、本当の理由は
 
違うだろう。新しいことを始め、未知なる世界へ赴け
 
ば、そこには必ずトラブルが待っている。そして、ア
 
タマが存在価値を持てる新たなお話が生まれる。アタ
 
マはトラブルを欲している。
 
 
 アタマはユートピアを求めていない。何も問題のな
 
い場所や時間は忌むべきものなのだ。わたしたちが退
 
屈をとても嫌うのは、アタマが存在意義を失うから
 
だ。
 
 
 ライブカメラに映る東京や大阪の夜景はまったくサ
 
イバーパンクで、『アキラ』や『ブレードランナー』
 
の時代設定をもう過ぎている。けれど、幸いなことに
 
現実はまだディストピアにはなっていない。日本は平
 
和だ。今後も当分はディストピアにはならないだろ
 
う。しかしユートピアになることもない。上手くいっ
 
ても、程々の不安と不快感は維持される。アタマが
 
ユートピアを嫌う限り・・・。つまり、社会は永遠に
 
ユートピアを生まない。ユートピアはアタマの支配の
 
外にしかない。
 
 

 
 
 
 

2026年2月2日月曜日

表現にまつわるさだめ

 
 
 もうブログを始めて丸9年になる。なにもわからず
 
に発作的に始めたので、9年なんてウソみたいな感じ
 
がする。書く内容も5年ほど前から同じようなことば
 
かりになっているので、恥さらしな感じもするけれ
 
ど、物を書き続けるとか何かを作り続けるというのは
 
そういうものなので、まぁいいんじゃないかと思う。
 
 
 「寄せては返す波の音」
 
 山本夏彦さんは自身の著作活動をそう評した。同じ
 
ことばかり書いてると。けれども、それは山本さんに
 
限ったことでもない。なにかを表現する人は、その人
 
の視点・感覚でしかものを捉えられないし、表現の手
 
法もその人のスタイルから出ることはできないので、
 
長く続けるほどに、同じことの繰り返しになってしま
 
う。もしそこが変わるのなら、そもそも上っ面の表現
 
をしていたのであって、その表現には“その人”が存
 
在していない。血が通っていない。
 
 
 そういうことではなくて、表現のスタイル・内容が
 
大きく変化することもあるが、それは何か本質的な変
 
化がその人に起きた場合だ。何らかの大きな出来事に
 
会って、従来の価値観がぶち壊されたとき人は大きく
 
変わる。 
 
 あるいは、それまでのスタイルを維持することに疲
 
れてしまって、楽な方へシフトするときも変わるけれ
 
ど、こちらの方はあまり良い結果にならない。
 
 
 こういうことを書いていると桑田圭佑の顔が浮か
 
ぶ。サザンのデビュー以来「天才だ!」と思って桑田
 
の曲を聞き続けていたけど、『白い恋人達』以降は聴
 
かなくなった。毒を吐かなくなったからだ。さらにメ
 
ロディーも手練手管で作るようになったと感じて、私
 
は急激に冷めてしまった。いまだに残念に思っている
 
が、同じことはあらゆる表現者に起きるし、仕方がな
 
いことだ。 
 
 桑田の場合は、これまでに無い表現を生み出すこと
 
時代的に不可能になったというタイミングも大きい
 
だろうけど、毒を吐かなくなったのはなぜなのかと不
 
思議だ。何か個人的に大きなことがあったのだろうな
 
と思っている。
 
 
 長く表現を続ける人には、そういう撤退やマンネリ
 
のどちらかが起こる。どちらもが起こることもある。
 
が、そういうことは当人の能力や責任とは別の話だ。
 
それは遅かれ早かれ起こる。必然であって避けられな
 
いのだ。
 
 けれど、撤退はともかく、マンネリはものともせず
 
に続けるのが望ましい。表現しようという意欲が無理
 
なく出てくるのなら、むしろその表現はされるべきだ
 
ろう。
 
 
 私には30年以上、幾度となく読み返している本が
 
いくつも有る。それらの本の持つムードのようなもの
 
に浸ることで、自分の感覚が安定する(下手をすれ
 
ば、自己暗示のタコツボにはまり込む危険があるけ
 
ど)。すでに暗記してしまっている文章を読んで、あ
 
らたな発見もあったりする。血が通ったものは古くな
 
らない。
 
 
 確かゲーテが言っている。
 
 「充分に読め。が、沢山読むな」
 
 
 誰の言葉か忘れたけれど、こういうのも有る。
 
 「多くの女を愛した男より、ひとりの女を愛し続け
 
た男の方が、より深く女というものを知っている」
 
 
 本であれ何事であれそうだろう。
 
 
 だから表現する者はあれこれ考えずに“自分なり”
 
にまかせてゆけばいいのだろう。その方が、そこに血
 
が通う。
 
 
 自分が掘った深さだけ、その表現は誰かの深いとこ
 
ろに触れるだろうけれど、自分の深いところに触れた
 
くない人は、深く掘られた表現を避ける。そして浅い
 
人生を生きる。
 
 いつまでかは知らないけれど、まだしばらく、私は
 
世の中のお話を掘り返してゆくのだろう。そこを覗き
 
込みたい人は必ずいるはずだから。
 
 私がしていることは、表現というより解体作業だろ
 
うと思うが、人は工事現場に通りかかると、覗き込み
 
たくなるものだから。
 
 
 
 
 

2026年2月1日日曜日

成功の秘訣

 
 
 このブログには似つかわしくないタイトルですが、
 
世の中の人は意外と〈成功の秘訣〉を知らないような
 
ので書いてみようと思います。
 
 
 〈成功の秘訣〉は単純です。
 
 「本気でやること」
 
 それに尽きます。
 
 
 ダイエットに何度も失敗する人がいますね。あと禁
 
煙とか禁酒とかいろいろありますが、ああいう失敗の
 
原因は決まってます。本気じゃないからです。もちろ
 
ん仕事などでもそうです。 
 
 人というものは、本気になるとそのことにのめり込
 
みます。他のことなんかそっちのけでそれに注力し、
 
それが生活の中心になってしまうものです。
 
 「◯◯ダイエットで上手くいかなかった・・」
 
 本気の人はそんな戯言など口にしません。それがダ
 
メなら次の手を打ち、目的を達成するまでやり続けま
 
す。本気とはそういうことです。
 
 
 「依存症になっている人もいて、そういう人はまた
 
違う」という意見もあるのでしょうが、依存症が考え
 
られるなら、そういう方面の専門家を訪ねて指導を仰
 
ぐというアプローチもするでしょう。本気とはそうい
 
うことで、とにかく目標を達成するまで引き下がりは
 
しません。
 
 「〇〇したい」というのが、意識の表面のつじつま
 
合わせでしかない人に成功はありません。そういう人
 
は、自分の本当の望みが分かっていないか、なんらか
 
の深層心理の働きで、自分の本当の望みから目をそら
 
す為に、気乗りのしない目的を掲げてお茶を濁して
 
いるのです。
 
 
 では本気になれることをどうやって見つけるか?
 
 やりたいことに本気になるにはどうすればいいか?
 
 
 その方法はありません。
 
 本気になれることに出会うとか、何かに本気になれ
 
るかどうかは運です。自分でどうこうできることでは
 
ありません。また自分が本気になれることが、必ずし
 
も自分にとって良いこととは限りません。破滅の道を
 
突っ走ることになるかもしれません(破滅も一種の成
 
功かもしれませんね)。本気になれることを探そうと
 
する人は、社会に化かされてるんですよ。
 
 
 このブログらしくなってきましたね。
 
 ホントに成功する人は、目標を持ち、成功しような
 
どと思いません。おのずと何かをやり続けてしまうも
 
のです。自分が「本気」であることにも気付きません
 
し、「成功」なんて言葉が出る幕はありません。その
 
おかげで「失敗」もありません。ただやっているだけ
 
なので、何が起きても「失敗」にならない。上手くい
 
かなくても、単に「停滞」や「つまづき」でしかあり
 
ません。
 
 
 本当に「成功」と言えることは、「気が付いたら面
 
白いことになっていた」ということでしょう。
 
 たとえ自分の「本気」が“徹底的にぐうたらでいる
 
こと”であったとしても、そこにそこはかとなく面白
 
い気分が漂っているのなら、それは「成功」と言える
 
かもしれません。
 
 
 「成功? 何それ?」
 
 そんな意識で生きられるなら、その人生は成功で
 
しょう。
 
 〈成功の秘訣〉は「成功なんて知ったこっちゃな
 
い」という無頓着さを持つことでもあるでしょうけ
 
ど、それを持てるかも運ですしね。
 
 
 この一文が誰かにとっての“そういう運”になるの
 
なら、このブログとしては成功でしょうね。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2026年1月4日日曜日

わかっていること

 
 
 さっき義姉から電話が掛かってきて、兄が亡くなっ
 
たそうだ。
 
  一昨年肺ガンの治療をして、その後また一度入院し
 
たあと、今回肺炎で入院していた。二日前に本人から
 
電話があって「そんなに大したことはないから、数日
 
で退院になるだろう」と笑っていたが、病状が急変し
 
たらしい。「大したことはない」と言いながら、本人
 
は「これはダメかも」という予感があって、めったに
 
連絡を取り合わない私に電話をしてきたのだろうと思
 
っている。
 
 
 七つ年上の兄は、父親を亡くした時にまだ幼かった
 
私を不憫に思ったようで、父親代わりとまではいかな
 
いが、可愛がってくれた。優しい兄だった。
 
 
 うちの奥さんは普通の人だから、知らせを受けて、
 
「人間わからないなぁ」と悲しんでくれたけれど、な
 
にもわからないことはない。誰でも死ぬ。
 
 兄自身も、一昨年に見舞いに行った時に「自分が死
 
ぬのは何も恐くない。ただ嫁さんと息子のために治療
 
してる」と言っていたし、その気持ちはよくわかる。
 
 世の中の標準からすると少し早いから、義姉さんと
 
息子のことを思えば無念さはあるだろうけれど、「仕
 
方がないな・・」と思っているのではないだろうか。
 
 
 これで私の親兄弟はいなくなった。「人が死んでも
 
悲しくない」という私でも、さすがに少し悲しいけれ
 
ど、私が兄を悲しがらせる側にならなかったのは、兄
 
への礼を尽くしたことになるのではないか。
 
 
 《 わたしたちは死から生まれてきた 》
 
 死は命の母体。ひと時の「生きる」を終えたら誰も
 
がみんな、死へ帰る。
 
 
 兄は言っているんじゃないだろうか。
 
 「お先に。お前たちはもうしばらく面倒な思いをし
 
ときな」
 
 
 それが私の勝手な妄想でもいいではないか。
 
 誰でも死ぬんだから、そういう態度で受け止めるの
 
がふさわしいだろう。
 
 
 兄貴、お疲れさん。いろいろありがとう。
 
 
 
 
  
 
  

2025年12月10日水曜日

行きがからないで・・・

 
 
 前回の話を書き終えたあとに、自分で「唐突感が強
 
いなぁ」と思った。
 
 一ヶ月以上ブログを書いていなかったところに、い
 
きなりイエスの言葉で始まる感じが、あまりこのブロ
 
グらしくない気がしたけど、何も計算や思惑はない。
 
出るに任せて書いただけなので、その面ではこのブロ
 
グらしいのだろう。
 
 
 私は「行きがかり上で・・」ということは、なるべ
 
く排除して生きて行きたいと思っている。世の中のお
 
話しに引っかかって無理したり、上辺だけのことはし
 
たくない。それは自分も面白くないし、世の中に対し
 
ても誠実ではないと思うから。
 
 とはいえ、直接に世の中と関わるときはそうせざる
 
を得ないことは多い。表面上、それなり安定している
 
お話をぶち壊すのは無粋だし、それをやるなら代わり
 
のものを提供して安定させてあげなければ不親切だと
 
思っている。だからお話に合わせる。
 
 
 自分の自由にできる時と場所では「世の中のお話し
 
の行きがかり上で・・」ではなく、「自分が生きてる
 
上での行きがかり上で・・」を優先したい。その方が
 
先に書いたように面白いし、世の中に対しても誠実だ
 
ろう。
 
 というわけで、前回の唐突さは「自分が生きている
 
上での行きがかり上」が形になったということが、
 
「世の中のお話しの行きがかり上」には相容れなくて
 
唐突に感じることになったというようだ。
 
 
 「世の中のお話の行きがかり上」に合わせすぎると
 
ロクなことにならない。過労死したり心を病んだりす
 
る。 
 
 命の行きがかりに従って生きないから人は苦しむ。
 
 “生きがかり”とでも言おうか。命の誘導に従って
 
生きてゆくことがしあわせだろう。
 
 
 と、ここで前回の話と繋がったような気がする。行
 
き当たりばったりのでまかせも、気付かぬところで繋
 
がっている。「海の水を取っ払えば、陸地は全部繋
 
がっているようなもの」。大袈裟だけど、そういうこ
 
とのような気がする。 そして、この思いつきも何かに
 
繋がるのでしょう。行きがかりで次の話を書くかどう
 
かは知りませんが。