2026年6月20日土曜日

なんだか知らないままに

 
 
 
 歳を取ると日々があっという間に過ぎる。人生がど
 
んどん過ぎてゆく。
 
 「なんだろうなぁ」
 
 日々を過ごしながらそんなことを思う。
 
 
 なんだか知らないけど、とにかく人生は過ぎてゆ
 
く。
 
 過ぎてゆくものは仕方がない。何かの意味や価値を
 
こじつける必要もないので、過ぎるままで不足はな
 
い。
 
 
 前に「人生は過ぎさせるもの」と書いたことがある
  
(『時間の散歩』2025/5)。 けれど世の中では「人生
 
は歩んで行くもの」という捉え方が主流だろう。

 
 「自分が人生を展開させてゆく」という意識と、
 
「自分の前で人生が展開してゆく」という意識とでは
 
まったく違う。
 
 あらゆる生き物も、無生物であっても、すべての存
 
在は受動的なものだと私は思っている。何を見てもそ
 
う思わざるを得ない。能動的なものが無いというよ
 
り、能動性あるいは自発性というものが存在しない。
 
世界の動きに中心は無い。
 
 
 中心の無い世界の中で、すべてが関わり合いながら
 
世界が展開していく。自分の周りで世界が展開し、そ
 
れに連れて自分も展開していく。それは当然、能動的
 
ではないし、受動し合う動きは、最早受動的とも言え
 
ないだろう。 
 
 
 二宮尊徳がこういう言葉を遺しているそうだ。
 
 
 風呂の中で自分の方にもっとお湯が欲しいとお湯
 
 をかき寄せても、そのそばからお湯は向こうへ行
 
 ってしまう。反対に、向こうにいる人にお湯をあ
 
 げようとしても、お湯はこちらに回ってくる
 
 
 これは人の世の有様を表わすと共に、世界の有様も
 
語っているのだろう。受け手も贈り手もない。自分の
 
視点から見るしかないので、勘違いするだけだ。
 
 
 個人の視点やタイムラインからすれば、物事は行っ
 
たり来たり留まったりするように見える。けれど自分
 
も含めた全体は展開し続けている。自分だけが自発的
 
に動くことはできない。
 
 
 こういう話を読んで頷くか、バカにするか・・・。
 
 それさえも自分では決められない。 
 
 
 「見させられ、聞かせられ、生きさせられている」
 
と思えるのなら、それは幸運な展開なのだと私は思
 
う。
 
 そんなのは、自分の足で歩きたいとこだわる人には
 
許されない話だろうけれど、それもそういう展開だと
 
いうだけだ。もう少し気楽にした方が良いだろうに。
 
 
  寝ていても 運ばれてゆく 夜汽車かな
 
                  作者不詳 
 
 
 
 
 
 

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