2026年6月2日火曜日

自分が邪魔をする

 
 
 
 日々、人の言葉や何かの出来事に接して、わたしち
 
は何かを思うけれど、それは「思った」のか、「思わ
 
されてしまった」のか・・・、私は「思わされてしま
 
った」という立場をとる。わたしたちの思考は常に後
 
付けだ。自由意志など無い。
 
 
 生きていることは過去の後始末のようなもので、真
 
に「自発的」と言えるような思考も行為も無い。どの
 
ように飾ろうと繕ってみようと、わたしたちは過去や
 
その時々の状況に動かされているのであって、自ら動
 
いているのではない。
 
 やむにやまれず何かを考え、何かをして生きてい
 
る。自分というものは、その動かされている“動き”
 
のイメージであって、確固としたものは無い。
 
 
 そう思わざるを得ないので、私はそう思って(思わ
 
されて)いるけれど、自分の意思があると思う人は、
 
私のような者を見ると、虚しいし面倒だと思うだろ
 
う。しかし、当の本人は「思わされている」方が楽
 
だ。「南無阿弥陀仏」と同じで、自分は無責任でいら
 
れるし、自分に思わせる“何か”に任せておけばいい
 
ので気楽なものだ。もとよりそういう風に思わされて
 
しまっているのだから仕方がない。それに抵抗しよう
 
と思ったとしても、その抵抗さえ思わされてのこと
 
だ・・・手も足も出ない。
 
 
 浄土真宗の僧侶の藤原正遠さんは「我に手のなし」
 
(打つ手は無い)と仰ってらしたけど、自分の力・意
 
思は幻想だ。アタマが自身の存在意義を示したくて、
 
自分の力・意思があると都合の良い解釈をするだけ
 
だ。
 
 正遠さんは「(程度の酷い)煩悩がでてきたらこま
 
りますよねぇ」という問いに対して、「下さる煩悩し
 
か出んもの(だから安心していればいい)」と答えて
 
いる。その徹底的に無責任とも言える自己否定は、逆
 
説的に破滅的な煩悩が力を持つのを抑える。“気楽
 
さ”からは、煩悩へ送り込まれるエネルギーが出てこ
 
ないから。そして気楽にしていると、軽くなった自分
 
を押しのけて、“何か”の力が現れやすくなる。良か
 
れと思って邪魔をしていた自分が力を抜くと、“何
 
か”の働きがスムーズになり、自分という動かされて
 
いる“動き”もスムーズになる。気楽さが、さらなる
 
気楽さを生んでいく。
 
 
 この話全体が、私のアタマが都合の良い解釈をして
 
いるだけかもしれないけれど、それもそう思わされて
 
のこと・・・我に手のなし・・・気楽なものだなぁ。
 
 
 
 
 

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