一年ぐらい前に、『アシュターヴァクラ・ギー
ター』という本があるのを知った。本というより書物
という方が相応しいインドの古典です。You Tube の
おすすめにこの本の朗読が出てきて、その内容が素晴
らしいので本を買った。
「ギーター」というのは「詩」のことで、『バガ
ヴァッド・ギーター』が有名で、いろいろ研究がされ
て解説書なども沢山あるけれど、この『アシュター
ヴァクラ・ギーター』について検索しても、私が買っ
た本の紹介以外ほとんど何も出てこない。たぶん歴史
の中に埋もれていたものが、近年になってスピリチュ
アル系の人たちに掘り起こされ、知られるようになっ
たんじゃないだろうか。
「アシュターバクラという聖者が書いた詩」という
意味のタイトルらしいけれど、本当の著者も書かれた
頃も不明だそうで、そのあたりの事情と本の内容も
『老子』に似ている。老子も、その人物が実在したの
かどうかよく分かっていない。内容の本質も変わらな
いだろうけど、その語り口となるとかなり違う。
『老子』がかなり社会性を踏まえた上で語られてい
るのに対して、『アシュターヴァクラ・ギーター』は
完全に個人的な感覚を語っている。何の配慮もなく、
直截に、自分の知り得たことを吐露している。
それは仏教のテキストとも、他のさまざまな聖典と
も、スピリチュアル系の多くの本とも違う特殊なもの
だ(もちろん私の知っている範囲でのことだけど)。
その個人的で直截な語りのせいだろうけど、この本
の言葉はとても印象的で心に響くのに、読んだあとに
印象だけが残って、言葉が残らない。読んでしばらく
すると「えーと、なんて書いてあったかな・・」とい
う感じで、言葉が思い出せない。こんな不思議な本は
ない。自分が特殊なのか、単に物覚えが悪くなっただ
けなのかもしれないが、こういうことはいままでに無
い。
前回書いた澤木興道老師の言葉のように、印象深い
言葉はその言葉自体もおのずと覚えてしまうものだけ
ど、この本は何か違う。これはどういうことか?
これまでこのブログでも何度か書いているけれど、
言葉というものは伝えたこいとを指し示すものであっ
て、そのものではない。だから、伝えられたら言葉自
体は用済みだと言える。この『アシュターヴァクラ・
ギーター』は、見事にそのものを直接指し示し切って
いるのではないか?だから言葉は用済みになって残ら
ないのではないのか?印象だけが残るのは、言葉が完
璧にその機能を果たしているからではないのか?
このブログを始めたときから、印象に残る言葉を残
したいと思ってきたけれど、それはとんでもなく筋違
いなことだったのかもしれない。
ものを書いたり話したりするのなら、印象が残る言
葉を述べるのが最善なのだ。
『アシュターヴァクラ・ギーター』は、この種の書
物として最高のものだろう。が、誰が読んでも印象だ
けが残るというようなことはないだろうし、そこに示
されているものを受け取れるわけではない。それなり
の素養が要る・・・いや、素養というより馴染みと言
う方が良いかも知れない。 『アシュターヴァクラ・
ギーター』が指し示すものを、わずかでも意識した経
験が要るだろう。もっとも、それは誰でも自分の中に
持っているので、それに馴染んでいけばいい。
『アシュターヴァクラ・ギーター』を、そこから受
取る印象に意識を向けながら何度でも何度でも読んで
いると、やがて「なるほど、その通りだ」と感じる時
が来て、得も言われぬ清々しさのようなものに満たさ
れるだろうと思う。
言葉が残らず、印象だけが残る。
それは言葉(思考)から開放されるということ。
アシュターヴァクラは、徹頭徹尾言葉の外を指し示
している。
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