2026年9月5日土曜日

「無印良品」

 
 
 
 今回のタイトルは、別に『無印良品』の商品や会社
 
の話をしようというのではなく、「『無印良品』とい
 
う四文字は立派な仏教用語になるな」と思ったので、
 
それを書いてみようと思った次第です。
 
 
 「無印良品」と書いて、「印(しるし)無きは、良
 
品(りょうぼん)なり」と読んでみる。
 
 「印」=「ラベル」として、「ラベルが無い」とす
 
る。
 
 
 わたしたちはあらゆることにラベルを貼る。
 
 良い・悪い、きれい・汚い、賢い・馬鹿、上手・下
 
手、偉い・偉くない・・・四六時中ラベルを貼る。
 
 信号が青に変わったのに、前の車が発進しない。
 
 「なんだ馬鹿野郎・・・」
 
 一瞬でラベルを貼る。そのラベル貼りが何をもたら
 
すかなんて、まず考えたりしない。
 
 
 次に「良品」とは何か?
 
 「品」は仏教では「ぼん」と読む。
 
 「上品・中品・下品」(じょうぼん・ちゅうぼん・
 
げぼん)と3つある。 
 
 さらにそれぞれの「品」の中で「上生・中生・下
 
生」(じょうしょう・ちゅうしょう・げしょう)と分
 
かれて、9つのランクができる。「上品上生」「下品
 
下生」などとなる。
 
 これは現世での救われ方のランクというようなもの
 
で、「上品上生」なら菩薩のような人で、現世でほぼ
 
救われている。逆に「下品下生」となると、極悪非道
 
な悪人や自分のことしか考えない我利我利亡者という
 
ことになり、地獄へ直行という具合。そこから、世間
 
では救いのない人間を「下品(げひん)」と言う。
 
 
 この9つのランクは「九体阿弥陀」というものに対
 
応していて、どのように救いようのない悪人であろう
 
とも阿弥陀仏はそれぞれに救うという「九体阿弥陀信
 
仰」を形作っている。極悪人でも救われる。
 
 「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人おや」  
 
                (歎異抄) 

 
 とはいうものの「品」が下がるほど現世では苦しむ
 
ので、できれば「品」が高い生き方が望ましい。で、
 
「良品(りょうぼん)」となるためにはどうしたら良
 
いかということで、「ラベル貼りをしない」となる。
 
 
 ラベル貼りをすると、そのラベルにこだわりができ
 
る。自分の考えがラベルごとに固定される。
 
 わたしたちは他人にも自分自身にもラベルを貼るけ
 
れど、貼れば貼るほど、固定されて動かせないものが
 
増えてゆき、身動きが取れなくなって苦しくな
 
る・・・自分がそんなことをしているなどと夢にも思
 
わず、自分が苦しんでいることにさえ気付かなかった
 
りする。自縄自縛になっていることを「安定してい
 
る」とまで思う・・・。
 
 
 なんでもない自分。
 
 なんでもないみんな。
 
 なんでもない世界。
 
 それが本当の世界なのは間違いない。ラベルを貼ら
 
なければ成立しない世の中に生きていると、それが分
 
からない。
 
 
 「印無きは、良品なり」
 
 
 『無印良品』のロゴは日常的に目にする。そのたび
 
にこの言葉を思い出すのは、世の中の縛りから自分を
 
リセットする良いキッカケになるので、結構イイので
 
はないでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 

2026年9月4日金曜日

意識の構造について

 
 
 
 以前、わたしたちの意識の構造について書いたこと
 
があります。〈自意識〉の後ろに〈無意識〉があり、
 
その後ろに意識の活動するベースとしての〈無の意
 
識〉があると。
 
 
 昨日それをまた考えていて、少し加えておかないと
 
いけないことがあると思い、図にしてみることにし
 
た。
 
 
 

 
 
 「外接意識」「内部意識」がいわゆる「自意識」
 
で、わたしたちが考えたり、意識に直接関わってくる
 
感覚・感情の部分を指す。
 
 
 「外接意識」は、わたしたちの意識を取り巻く自然
 
環境・身体感覚・人間社会とやり取りをする部分。
 
 
 「内部意識」は、「外接意識」が働くためのバック
 
アップ倉庫のようなもので、夢を見たり、幻聴・幻覚
 
が現れる時などに、その内容が意識の表面に出てくる
 
だけで、普段は意識下にあって「外接意識」とやり取
 
りをしている。
 
 
 「無意識」は、全く意識の表面に出てくることもな
 
く、言語化・音声化・映像化もされない領域で、「内
 
部意識」とリンクしながら、「自意識」の動きと働き
 
の強さを決定付けている。
 
 
 これら3つの意識領域を内包して、意識活動の場と
 
なっているのが「無の意識」(または「空識」)で、
 
これは何の働きも無い。ただ意識活動全体を見てい
 
 
 
 
 これが私の考える意識の構造で、普段「アタマ」と
 
表現しているのは、概ね「自意識」の部分ということ
 
になりますね。
 
 (「外接意識」「内部意識」「無の意識」「空識」と
 
いうのは、私の造語です。他の人が同じ言葉を使って
 
いたとしても、関係はありません )
 
 
 この意識の構造というのは、これを踏まえた上で世
 
界との関わりを考えると色々と便利なので、そういう
 
ことにしているだけで「これが意識構造の最終解!」
 
などと思っているわけではありません。私にはしっく
 
りくるということです。(他の人の参考にもなるとは
 
思いますが・・・そうでなければ、ここに載せるのは
 
ムダでしかありませんし)
 
 
 で、これを使って世界とどう関わるかなんですが、
 
世界はこの図のどこにあるでしょう?
 
 
 世界はわたしたち一人一人を取り巻いているわけで
 
すから、「無の意識」の外にあるのでしょうか?
 
 
 いいえ。世界は「外接意識」の中にあります。
 
 
 「外接意識」と表現しているので、実際の世界は外
 
にあると言っているようですが、それは説明の為の方
 
便で、私達の意識が世界と見なしているものは、物語
 
化されて「自意識」の中にあります。
 
 
 世界が外にあるのなら、例えばお釈迦さんが悟りを
 
ひらいたところで、世界との関係は本質的に何も変わ
 
りません。「私は悟った」とタコ壺の中で自己暗示に
 
酔っているだけです(よく居ますね。そういう人)。
 
 世界が自意識の中にあるからこそ、悟りをひらいた
 
りすると、世界を俯瞰するようにして、世界との関わ
 
りが生む苦悩から完全に開放されるわけです。
 
 
 わたしたちが普段関わっている「世界」というもの
 
は、自意識の中にある物語であり、生きて行くその
 
時々に関わるのは、その断片でしかありません。
 
 もちろん、その物語の影響で命さえ失うことがあり
 
ますが、「命さえ・・」という価値感自体が物語の中
 
にあります。
 
 
 「命さえ物語でしかない」というと、命や世界とい
 
う物語をムダなものでしかないと言っているようです
 
が、人が生きる限り物語は無視できないので、「ムダ
 
だ」と済ましているわけにもいきません。
 
 けれど「これは物語であって、生きることの本質で
 
はない」と踏まえることができれば、関わりに余裕が
 
生まれます。その上で命と物語を丁寧に扱う  する
 
と、生きることに面白味が出てきます。
 
 
 この考えは一つの方便です。屁理屈です。けれど、
 
生きることに面白味と気楽さをもたらす、一つの手立
 
てになり得る。
 
 
 「気楽に面白がる」
 
 生きることに、それより望ましいことがあるとは、
 
私には思えません。