32歳の時、私は一旦ドロップアウトした。仕事にや
り甲斐が見いだせなくなって、三年間一切働かずに過
ごした。
公園でハトに餌をやったり、山に行ったり、街をぶ
らぶらしたり、家で絵を描いたりしながら、目的も無
く先のことも考えずに過ごしていた。
そんなある日、近くの駅前のベンチに座って行き交
う人を眺めていた時、今の自分には何の肩書も無いこ
とに気が付いた。強いて言うなら “神戸市民” とい
うぐらいのもので「ああ、自分は社会の外にいるんだ
な」と思い、それが面白かった。
大抵の人は人生のほとんどの時間を肩書として生き
る。役割と言ってもいい、社会の中でいくつかの肩書
をこなしながら過ごす。学生が終われば仕事上の肩書
を身に着け、家庭を持てば妻や夫や父・母という肩書
も持つ。世の中には、同時に10や20の肩書を持っ
ている人さえいるが、自分にはああいう人の感覚が理
解できない。大抵は成り行きでそうなるのだろうけ
ど、たぶんそもそもそういうことが好きなのだろう。
私とは違う種類の人たちだ。
生きていれば社会と関わらざるを得ないので、肩書
を持つことは仕方がないけれど、多くの人は肩書が無
いと不安になるのではないだろうか。
肩書が無いということは役割が無いということで、
要するに “役立たず”ということになり、自己肯定
感が持てなくて困るだろう。定年になって、その後に
アルバイトなどして働く人が普通にいるが、あれは小
遣い稼ぎや暇つぶしというだけではなく、社会に関わ
らず、何もしてないと自分が役立たずのように感じる
からだろう。私は「別に役が立たなくても(役が無く
ても)いいではないか」と思うのだけど、それまでの
人生を肩書で生きてきた人には、役の無い自分に落ち
着くことなどできないのだろう。
“肩書とは関係の無い自分” と親しむことなく生
きることは、自分をないがしろにすることだ。そうい
う生き方をする縁ならしかたがないし、それがその人
の人生ならそれでいいのだけど、せっかく生まれてき
たのだから、それはもったいないと私は思うし、たぶ
ん成仏できない。
〈魂魄この世に留まりて・・〉ということになるだ
ろう。
ホスピスで長く働く医師や看護師のインタビューを
何度か聞いたことがあるけれど、入所者の中には死を
目前にしてうろたえる人と、落ち着いて静かに死を受
け入れる人がいると言う。そういう話を聞くと、イメ
ージとしては “うろたえる人” の方が成仏できない
のではないか、と感じる人が多いのではないだろう
か。
なぜそのような違いが出るのか? 私は “肩書とは
関係の無い自分” と親しんだかどうかの違いだろう
と思う。一番すべきこと、必ずすべきことをやらずに
生きてしまったという感覚が、あせりを生むのだろ
う。当人にはその感覚が何を表しているのかは分から
ないままで・・・。
“肩書とは関係の無い自分” に親しむ術を養えた
なら、たとえ社会で役が立たなくてもかまわない。う
ろたえることなく、過ごして行けるだろう。そして、
遅いか早いかに関わらず、最期の時が来たら落ち着い
て “最期” へと進んで行けることだろう。
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