2025年12月5日金曜日

求めよ、さらば与えられん?

 
 
 
 「求めよ、さらば与えられん」
 
 クリスチャンじゃなくても聞いたことがあるであろ
 
う有名な言葉ですが、異論も多いであろう言葉です。
 
誰だって「求めたって与えてもらえねぇよ」という経
 
験をいっぱいしているでしょうからね。それに求めて
 
いないのに与えられることもありますしね。
 
 この言葉は、熱心に求めれば必ず与えられるという
 
意味合いとされているようです。「夢をあきらめない
 
で」みたいな感じでしょうか。
 
 
 これはイエスの言葉ですが、イエスがそんな俗なこ
 
とを言うでしょうか?たぶん大事なことが欠けたまま
 
伝えられたのだと思います。ここでイエスが「求め
 
よ」と言っているのは、人のさまざまな望みに対して
 
ではなく、〈神の恩寵〉〈神の許し〉ということに対
 
してであって、それ以外の望みについては、逆に「求
 
めるな」とイエスは言うでしょう。
 
 「神の恩寵、神の許し以外のものは何も求めるな。
 
その上で神の恩寵、神の許しを求めよ、さらば与えら
 
れん」
 
 それが本当に語られた内容だろうと思います。イエ
 
スの他の言葉から推測するならばね。
 
 
 「野のユリを見よ」という言葉は、ユリのように神
 
にすべてを委ねて、思い煩うなという文脈で語られま
 
す。
 
 「子ども(赤ん坊)のようにならなければ、天の国
 
に入ることはできない」という言葉も、何も考えるな
 
ということでしょう。
 
 「望むべきは〈神の恩寵〉〈神の許し〉だけでいい
 
のだ」イエスはそう言っているのだと思います。
 
 「そうできれば、必ず与えられる」と、でも本当に
 
そうでしょうか?
 
 
 私は少し間違っていると思います。イエスが間違っ
 
ているのか、伝えた者が間違ったの知りませんが、表
 
現に少し不備が有ると思います。この言葉はこうある
 
べきです。
 
 
 「神の恩寵、神の許しだけを求め、それ以外のこと
 
は何も求めるな。さらば、すでに与えられていること
 
に気付くだろう」
 
 一言で言えば
 
 「求めるな、もう与えられている」
 
 
 いま自分がここに在る。
 
 それが〈神の恩寵〉であり〈神の許し〉です。その
 
他の自分が思い煩うことは〈人のお話〉です。「そう
 
いうことは二の次なんだよ」とイエスは言っていま
 
す。
 
 
 野のユリとあなたと何が違う?
 
 共に、いまここに在るではないか
 
 青い空に太陽が在るではないか
 
 雲が広がり雨が降るではないか
 
 身を横たえる大地が在るではないか
 
 生が与えられ、死が与えられているではないか
 
 その中で、生かされるままに生きてゆけ
 
 生かされるままに生きるしか手立てはないのだ
 
 そこに神のよろこびがある
 
 
 それがイエスの語りたいことのすべてでしょう。
 
 
 
 求めるな、もう与えられている
 
 求めれば見失うであろう 
  
 
 イエスに確認を取りたいところですが・・。
 
 
 
 
  
  
 

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