この前テレビを観てたら、ひとりのアスリートがイ
ンタビューに答えて「自分を信じて・・・云々」と話
していた。よく聞く言葉ですね。「自分を信じる」。
何か困難に出合っている人に対して「自分を信じ
て」という言葉が向けられることもありますけど、あ
れを聞くと強い違和感を感じます。「自分に、可能性
や幸運を呼び込む力のようなものが有ると思い込め」
ということでしょうけど、そんな自信どこから持って
くるんでしょう?私なんかには到底無理です。自分を
信じることなんかできません。信じる根拠がありませ
ん。そういう場合に私にできるのは「(やる気がある
なら)とにかくやってみる。後はなるようになるしか
ない」ということだけです。ダメだろうと思ったらや
めます。無理くりでもやろうとはしません。「自分を
信じる」という無理をしてまで何をしようというので
しょう?「自分を信じる」という根拠のない方針を採
らなければならないような目的は、それ自体が根拠の
ないこと・・妄想の範疇にあることなのではないでし
ょうか?
現実的なことなら「自分を信じる」なんて方針の出
る幕は無いように思います。その結果がどうであれ、
具体的にこなしてゆく道筋が見えるものでしょう。
「自分を信じる」というように意識的にならければ
いけないのは、やる気が無くなってきているというこ
とでしょう?やる気が無くなってきたのならやらなけ
ればいいだけのことだと思いますけどね。
どのような理由であれ、やる気が無くなってきたの
なら止めればいいのであって、自分の本音を押さえつ
けて行きがかりの方を優先するのは自分に親切じゃな
い。いったい何のためにそれをやろうとしているの
か?「行きがかり上でも、これはやるべきだ」という
決意が自分の中から湧いてくるのならいいけれど、誰
かからの見た目や、理想とする自分のあり方に縛られ
て自分をコントロールしようとするとロクなことにな
らないでしょう。
「自分を信じる」という言葉が使われる時には、そ
こには必ず社会的評価が絡んでいる。社会と関係が無
いことなら「自分を信じる」なんて思考は出てこな
い。
自分を信じようとする人は、社会の評価基準を持ち
込んで自分をバカにしている人です。自分に対してと
ても不親切な人です。そういう人の“自分”が可哀相
です。
《 社会の見た目の何かになる必要はない 》
これはバーノン・ハワードの言葉ですが、人の苦悩
の大部分が社会の見た目の何かになろうとすることで
生まれます。誰もがそういう風に刷り込まれて育つの
で仕方がないけれど、人は誰も《 社会の見た目の何か
になる必要はない 》と意識しておくべきだと私は思っ
ています。
もちろん、わたしたちは社会を無視しては生きてゆ
けませんから、社会の見た目も気にかけておく必要は
あります。けれど「本当は社会は自分が生きる場所で
はない」という前提で社会と関わらなければ、自分が
生きるのではなくて、“社会の見た目の何か”が生き
ることになってしまいます。自分はどこかにいってし
まう。
「自分を信じる」
この言葉を聞くたびに、私は「何を言ってるんだ」
と不快に感じます。
自分は信じるものではない。
いまここに自分は在るのに、信じる必要なんてある
わけがない。
自分は許すものです。
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