2025年10月17日金曜日

清々しいとは何なのか

 
 
 
 一昨日の朝、家の外に出るととても澄み切った青空が広
 
がっていた。前夜に雨が降ったことと、秋らしくなってきた
 
ことが合わさって、なかなか感じられないような清々しい空
 
だった。
 
 しばらく空を見上げながら「気持ちがいいなぁ」と思いつ
 
つ、「人間はなぜ澄んだものが好きなんだろう」と考えた。
 
 
 出雲に「日本最初の宮」とされる須賀神社があって、その 
 
「須賀(すが)」という名前の由来が、須佐之男命がこの地
 
が清々しいからここに宮を作ったということなのだそうだ
 
が、そのような言い伝えが残るほど、清々しいこと、澄んで
 
いることは重要なことなのだろう。それが人すべてなのか、
 
特に日本人がそうなのかまでは知らないけれど。
 
 
 <澄んでいる〉
 
 わざわざ言ほどでもなく「余計なものがなく、ありのまま
 
が見通せる」ということだろうけど、人がそれを求め、それ
 
を嬉しく感じるということは、「余計なもののせいで、あり
 
のままが見通せない」というのが普通だとわたしたちが感じ
 
ているせいだろう。そして「これは本来の状態ではない」と
 
感じているからこそ、澄んだ青空や澄んだ川や海を見て気分
 
が良くなるのだろう。
 
 
 その感覚は、わたしたちが普段濁ったものに囲まれて生き
 
ているということを象徴的に示している。意識は本来澄んで
 
いるものだからこそ、外の世界に見える「澄んだもの」と親
 
和するのではないのか。
 
 
 一昨日、澄んだ空を見上げながら、私は意識が空に蒸散し
 
てしまうかの様な感じがしたけれど、そういう感覚を「清々
 
しい」と言うのではないのだろうか。
 
 自分の外の澄明さと自分の中の澄明さの間で、意識の表面
 
にある思考や感情が解けてゆくことで、心の重さ・濁りが払
 
われる。
 
 
 心の重荷・こだわりが解ける時、人は「清々した」と言う
 
けれど、それは本来の心の状態に戻れたということだろう。
 
わたしたちの心は、本来澄んでいるのだ。
 
 
 余分なものを持ち込まなければ、わたしたちの心は、雨上
 
がりの秋空のようにどこまでも見通せる広々として何の負担
 
もないもの・・・。たとえ余分なものが視線の先に有って
 
も、それはひとかたまりの雲のようなもの。少し視線をずら
 
せば、そこに青空がある。
 
 詩的に過ぎると思われるかもしれないけれど、澄んだ空を
 
見て「心の中に清々しさが広がる」などと表現するではない
 
か。やはり、心の中には澄んだ空があるのだ。それが本来の
 
心の在り方なのだ。
 
 
 
 
 
 

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