井上陽水の曲に『ビルの最上階』というのがあります。そ
の曲は “楽観的にみても悲観的にも 不可解な空白が青空に
浮かんだまま” という歌詞で締めくくられるのですが、その
「不可解な空白」が十五階建てのビルの最上階に在って、そ
の下の各階では、人間たちがそれぞれに、その場だけのお話
しの中で時間と人生を消費しているといった曲です。
わたしたちのアタマは「不可解な空白」がとても嫌いで
す。身の毛がよだつほど恐れていると言ってもいいでしょ
う。なので、空白があれば物理的かつ心理的にすぐ埋めよう
とします。そこには合理性のようなものがしつらえられます
が、そもそもが恐怖からの行動ですから、本当は合理性など
ありません。不条理な行動に合理性や正当性のようなものが
後付けされるだけです。ちょっと客観的に見れば、「アタマ
大丈夫かい?」というようなことが展開しています。
曲の中でも「アタマ大丈夫かい?」という視点の、陽水の
シニカルな歌詞が続いてゆきます。(興味があれば聴いてく
ださい)
私たちは常日頃、空白を埋めようと動き回っています。か
らだが動けなくてもアタマは動き続けて、思考の空白を埋め
続けます。
断捨離などすると、空白を作っているように思えますが、
アタマの中は「自分は断捨離をしている🩷」という満足感で
埋まってゆきます。なので、断捨離し切ってしまって、満足
感が追加されなくなると、なんとも居心地の悪いことになる
はずです。アタマの中の空白を埋めるものが欲しくなるので
す。よほどの “宗教的達観” のようなものを身に付けている人
でなければ、きっとね。
ビルの各階ではその場だけの不毛なお話しが繰り広げられ
ているのですが、それはそれぞれの階がそもそも空白であれ
ばこそ展開することができるのであって、“不可解な空白” は
最上階に限ったことではない。お話しの背後にはどこにでも
“不可解な空白” が広がっている。だから埋めて無いことにし
ようとしないで、在る(?)ものには目を向けた方が良い。
「不可解」ではあるけれど、それは「解く必要がない」とい
うことでもある。
わたしたちの考えや行動になんら影響されずに、そこにあ
り続ける不変なもの、“空白” 。
それを “楽観的” に見るか “悲観的” に見るかで、生きるこ
との感触は大きく違う。
在るものを無いことにすれば、それは必ず問題を生むに決
まっているのだから、“楽観的” に見るのにしくはない。
お話しはわたしたちを裏切るが、“空白” は決してわたした
ちを裏切ることはない。
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