前回、孤独について書いたけれど、仏教の、最も古く、釈
迦の言葉を忠実に伝えているだろうとされる聖典である『ス
ッパニパータ(ブッダのことば)』の中で第一章・第三節、
に【犀の角】と題された41の言葉が有って、どれも〔犀の
角のようにただ独り歩め〕という言葉で締めくくられてい
る。
私は学者じやないし、仏教学を学んだこともない。ただ自
分で本を買って読んだりしただけなので、こういう経典を読
んでも印象に残る部分を憶えているだけです。そしてこの
『スッパニパータ』の中では、〔犀の角のようにただ独り歩
め〕という言葉が強烈に印象に残っている(というより、こ
れしか憶えていない😅)。それは、この言葉が私の感覚から
するととても重要だったからでしょう。
〔ただ独り歩め〕
その言葉が、私を、迷いから本来あるべき位置へ引き戻
す。
【犀の角】という節では、「人(世の中)と交わると妄執
に害されるので独りでいなさい」ということが繰り返し語ら
れるのだけど、釈迦はインドの行者のように隠遁生活をしろ
などと言っているのではない。
「わたしたちの命は本来独りなのだから、いつもそのこと
に心を落ち着けていなさい」
「独りであることを忘れずに、世の中と関わってゆきなさ
い」
そう諭しているのだと思う。
わたしたちは、本来、独りです。独りで生まれて来て、独
りで死んでゆくのですから、それは間違いないことでしょ
う。その本来性に深く落ち着くと、そこは世の中とは一切関
わっていないことが分かる。世の中というアタマの作り上げ
ているお話しから、まったく独立していることが分かる。そ
こには苦しみも悩みも無い。だから〔ただ独り歩め〕。
以前に『不幸になってみよう!』(2020/4)という話の
中でも書きましたが、わたしたちはストーリーを持たなけれ
ば不幸になれません。悩み苦しみはストーリーの中に有る。
悩み苦しみはストーリーの中だけで生まれる。ストーリーの
外には静けさと安らぎだけが有るのです。だから〔ただ独り
歩め〕。
自分の「独りである」という本来性を大事にし、社会に誘
い出されることなく、世の中のお話し・アタマの作るストー
リーに気付いているならば、わたしたちは本来、平安なのだ
からと。
〔犀の角のようにただ独り歩め〕
それは何も淋しいことじゃない。本来そうなのだから。
それは何も虚しいことじゃない。本来そうなのだから。
それは何も恐ろしいことじゃない。本来そうなのだから。
〔犀の角〕のように独りで歩むことで、どこかにたどり着
いたり、何かになろうというのではない。わたしたちは本来
〔犀の角〕がイメージさせるような、堂々として、揺らぐこ
とのない〔独り〕という存在だ。世の中のお話しに惑わされ
ているので、それを忘れているだけ。だから〔ただ独り歩
め〕
そして本来の〔独り〕に落ち着いたとき、逆説的だけどわ
たしたちは独りではなくなる。世界と一つであることを知る
から。
(ああ、『スッパニパータ(ブッダのことば)』を読み返
してみよう・・・)
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