2024年6月15日土曜日

「やりたいこと」信仰



 「自己表現」という言葉があるけど、私はあれが大嫌い

で、「“自己” なんて陳腐なもの表現されたら不愉快だ」と思

っている。“自己” なんてものは、せいぜい表現の為の足場で

あって、表に出すようなものじゃない。それを何を勘違いす

るのか「これがわたしだ!」みたいに表に出してくる輩がい

る。そういうのを見ると、呆れるし不快になる。勘弁してほ

しい。


 例えば歌を歌ったり楽器を演奏したりするとき、表現すべ

きはその曲の世界なのに、「わたしはこんなに声が出るの

よ!」「オレはこんなにテクニックがあるんだ!」というよ

うに、自分の能力を見せようとする人間が結構いる。そし

て、そういう輩を「凄い!」と評価する連中もそこそこいる

ものだから、気持ちの悪い「自己表現」とやらが絶えること

が無い。困ったもんだ(本当は困りはしないけど😅)。

 ああいうのは承認欲求が強すぎるんだろうな。それだけ自

分に自信がないのだろう。


 良い表現者は上手に “自分” を消す。 “自分” は表現の邪

魔だから。時には “自分” を消し過ぎて、 “自分” が窒息して

しまい、破綻する場合もある。マイケル・ジャクソンが死ん

でしまったのはそういうことなんだろうと思っている。〔マ

イケル・ジャクソン〕というアイコンが独立し過ぎて、本人

は本当に消えてしまった。

 そういう例はたくさんある。その時代の流れにモロに巻き

込まれて食いつぶさたり、表現にエネルギーが流れ過ぎて、

自分が疲弊してしまうのだ。


 一方で「自己表現」をしたい人間は、そもそも “自分” が

不安定なので ”自分” を確認しようと必死だ。 “自分” に何

よりも関心があるので、 ”自分” を表に出して、「他の人が

それを認めてくれたら安心できる」と無意識に思っているの

だろう。


 「そんなもの見たくないよ」

 冷たい言い方だけど、「自己表現」なんてことをしている

人間には、誰かがそう言ってあげた方がいい。「自己表現」

なんて、その人に何ももたらさない。薄っぺらい張りぼての

自己像が大きくなるばかりで、大きくなった分、張りぼては

風に揺さぶられやすい。その “自己” は世の中の変化や自分自

身の変化という風に、かえって揺さぶられやすくなるだけ

だ。そんなことより、自分の中に、表現なんかする必要のな

い自己を探す方がいい(探すというよりは確かめると言った

方が適切だろうけど)。


 そもそも「表現」という言葉も気に入らない。そこには作

為的な匂いを感じる。個人から世の中にもたらされる “良い

もの” は「表出」するものだろう。自然に出てくるものだろ

う。

 個人は「表出」するものの単なる通り道であるだけだ。そ

て、自分から “良いもの” が「表出」する幸運に出会ったの

なら、自分がその通り道になったことを喜び、光栄に想えば

いいのだ。


 そして、こういうことを考えていると頭に浮かぶのが「や

りたいこと」というやつ。

 「自分がやりたいことをできるのがしあわせ」だとか、

「やりたいことをすることに、人間の価値がある」みたいな

風潮があるけれど、それ本当かい?

 “自分” という、得体のしれない、それでいて凡庸であるこ

との多いものが「やりたいこと」ということが、本当に生き

る上で重要なのか?

 《 自意識というものは、社会が脳に浸潤してきたもので、

どちらかといえば自分ではなく社会に属するものです 》

 いままでに何度かそう書いているけれど、「自分のやりた

いこと」というのは、実は「社会がわたしたちにやらせたい

こと」なのではないのか?

 「やりたいことをせよ」という教義を絶対視する、一種の

信仰ではないだろうか。


 「やるべきことをする」

 「やらざるを得ないことをする」

 「やることがやぶさかでないことをする」 


 そのように「“自分” が求めること」より、「世界」と「身

体」と「意識の深い部分」から求められることに、この “自

分” を使ってゆく・・・。その方が “自分” が活きるのではな

いだろうか?


 世界の中で “自分” を出そうとすればするほど、 “自分” は

世界から浮いてゆくだろう(社会という、元々世界から浮い

ているものとは繋がるだろうけど)。そしてわたしたちの不

安定さは増して行く。


 前に『信じる者に救いはない』(2023/10)という話も書

いたけれど、「やりたいこと」を疑ってみるのも自分の為で

はないだろうか。




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