今日は仏教のお話しです。
仏教では、如来も菩薩も「一切衆生を救うのが目的」と教
えています。仏は、善人も悪人も地獄にいる人も残らず救お
うというわけです。
ところが、仏教の開祖であるお釈迦さんは、悟りを開いた
ときに「我と大地と有情、同時成道」と言った。「自分と世
界、すべてが救われている」と悟ったのですね。
というわけで、少なくともお釈迦さんが悟った2500年
前からは、善人も悪人も地獄にいる人も全員救われているの
ですから、如来も菩薩も仕事が無いというのが本当のところ
なんです。じゃあ、如来と菩薩は何をしているのか?
ほとんどの人間は自分が救われているのに気付いていない
ので、わたしたちの知らないところでそれに気付かそうとし
ているのかもしれませんが、実のところ「何もしていない」
ようです。
「救われてるんだから、もうそのままでいいよね」
そんな感じなんじゃないでしょうか。
救われてるのを知らない人も放ったらかしです。「なるよ
うになってるんだから、それで良い。なるようにしかならな
いんだし」と。
お寺へ行って仏像を見ると、如来はおおむね無表情で、菩
薩はほんのかすかな笑みを浮かべてじっとしているだけ(じ
っとしてて当然ですが)。することが無いからでしょう。そ
してたぶん、仏像は見る人にこう語りかけている。「余計な
事考えてない?」。
「成る」
「する」でもなく「為す」でも「成す」でもない。
すべては成るべくして成る。成り続ける。常に完成してい
て、次の完成を生んでゆく。
完成しているんだから、救われているわけですね。みんな
成仏している。それが何を意味するかというと、誰もが仏だ
ということです。実は如来も菩薩もわたしたちのことなんで
すよ。とてもそうは思えないけれど、そうなんです。人の皮
(人というストーリー)を被った仏なんです。被ったという
より、被らされているという方が近いでしょうけど、おかげ
で仏が表に現れてこない。それは残念な事ではあるけれど、
まぁ、救われているんだからべつに良いのです。
さまざまな仏がいます。
助平菩薩、嘘つき菩薩、ねたみ菩薩、泥棒如来、人殺し如
来・・・その他諸々・・・。
ムチャクチャ言っているようですが、そういうことなんで
す。表面上はそう感じられなくても仏なんです。「悉皆成
仏(しっかいじょうぶつ)」と言ったりしますけどね。
「人の皮」の後ろにあるもの。そこを意識すれば、その時
のわたしたちのまなざしは、仏像に表現されているあのまな
ざしなんです。自分の中の仏が現れるんです。
それは、そのまなざしを向けられるものと、自分自身に救
いを感じさせます。
悉(あまね)く、皆が仏(ほとけ)成(な)り
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