2017年2月21日火曜日

浮いて 待て

  《 浮いて 待て。 》


 誰もが人生にしがみついている。

 誰もが自分にしがみついている。

 その手を放す。

 
 力を抜く。 
 
 力を抜けば浮く。

 
「浮いて 待て」

 小学生がプールの時間に習う。

 無力になる。

 もともと無力なんだから。



 わたしたちは無力でしょ?

 今、こうして生きているけれど、今日までの間に死んでい


たとしても、別に不思議ではない。さまざまの病気、災害、

交通事故、凶悪犯罪、戦争、テロなど、常にコントロール出

来ない危険にさらされているのですから、今もって生き続け

ていることは、たまたまです。自分の力で、全てのリスクを

回避して生きているのではありません。飛行機に乗っても、

電車に乗っても、命を預けているわけですから。

 でも、わたしたちは自分の力で生きて来たと、すぐに考え


ます。「自分には、生きる力がある」と思いたいんですね。

 あると言えば、あるのですが、そんなの状況次第では何の


役にも立たなかったかも知れないんです。 運良く、そんな

状況に出くわさなかっただけなのです。

 頭が良いとか、運動能力が高いとか、忍耐力があるとか、


人によって色々な自信があるでしょうが、そんなの運でし

ょ。 

 障害を持って生まれたらどうなんでしょう? 虐待されて

育ったらどうだったんでしょう? 紛争地帯に生まれたら、

望む教育を受けられるでしょうか? 努力でどうにか出来る

事ではありません。自分に今ある能力は、たまたま手に入れ

たものなのです。そして、その能力は条件が合う時にだけし

か、役には立たないものです。ですが人は、その力を自身で

過大評価したりします。それは、生きて行くうえでの不安を

減らしたいから・・。すべてが運や偶然でしかないというの

は、心もとなさすぎるから、何か確固としたものが欲しい。

だから自分の力が、生きて行く為に有効だと信じたいのでし

ょう。

 そして困難な状況に直面した時も、自分の力でなんとか

しょうと、必死になって頑張る・・・。頑張りますが・・、

んなに上手くもいきませんよね。 なぜでしょう?

 きっと、自分の能力を超えているか、状況に合っていない


のでしょう。つまり、無駄な努力という訳です。

 無駄な努力は、ムダですよね。

 なのに、わたしたちは無駄な努力を続けてしまいがちで


す。動くのを止めると、状況に飲み込まれてしまいそうに感

じてしまうんです。でも、もがけばもがくほど、消耗してし

まいます。

 だから、 「浮いて、待て」 なんです。

 今は小学生が、学校で習います。「水に落ちたら、無理せ


ずに力を抜いて、仰向けに浮いて救助を待て」と。 
 
 実際にそうして助けられた例が出て来ています。
 
 パニックを起こして無駄な動きをするのが、一番ヤバい。


 パニクると、風呂でも溺れてしまいます。

 人生も同じだと思いますね。

 力を抜いて、状況に身をまかせて、状況の力に持ち上げら


れて行く。 無力になる。 

 どうせ無力なんだから。

 それが、本当なんだから。

 

 

世界は惰性で動いている

 

 《 世界は惰性で動いている 》



 明日の予定は何ですか?

 仕事? 遊び? 勉強? 結婚式? お葬式? 

 それとも、何の予定も無いですか?

 仮にハワイへ旅行に行くとして、その予定はいつ立てたもので

しょう? 一か月前にしておきましょうか。 では、あなたは一か

月前にハワイへ行くことに決めました。でも、決めたのは本当に

あなたでしょうか?

 なぜ、ハワイなんでしょう? なぜ、明日なんでしょう? なぜ、

行く気になったのでしょう? 誰と行くのか、ひとりなのか? 友

達と行くとして、なぜ、その友達なのでしょう? 

 なぜ、明日ハワイへ行くことになったのか、すべての理由を説

明できるでしょうか・・・?

 実はわたしたちが日々やっている事にハッキリとした理由はあ

りません。 ありますか?

 わたしは、「コーヒーを飲みたいなぁ」と思って、さっきコーヒー

を淹れて飲んでいますが、コーヒーを飲みたい理由は『コーヒー

を飲みたいと思ったから』ということです。でも、「コーヒーを飲み

たい」と思った理由は何でしょう? コーヒーが好きだから? で

は、なぜコーヒーが好きなんでしょう? なぜ、今なんでしょう?

 何の話を始めたかというと、「意思」(「意志」も含めた意味で)

の話なんですが、「意思」というのは自分のものでは無いという

ことなんです。

 サラッと書いちゃいましたが、「意思は自分のものでは無い」

なんていうのは、とんでもない事ですよね。「意思」が自分のもの

でなければ、いったい何が自分なんだ! というぐらいの大事

です。

 わたしたちは、瞬間々々、さまざまな選択をしながら生きてい

ます。その都度、自分が選択しているし、自分が決めているとい

う実感しかありませんが、実は自分が決めているつもりでいるだ

けだと、私は考えています。(こう考えること自体も、私が考えつ

いたわけではないということになりますね)


 わたしたちの意思は、自分も含めた、この世界のすべての出

来事の関わり合い、せめぎ合いの中に生まれる副産物だという

ことです。例えば、真冬になると北海道に流氷がやってきますが

あの流氷のひとつひとつが、さまざまな出来事だとします。流氷

というのは、岸に押し寄せると、それぞれがぶつかり合って、「ミ

シミシ」とか「キューキュー」とか音を立てるそうですが、わたした

ちの「意思」は、そのキシミの音のようなものです。

 自分と、周りの出来事がぶつかり合ってキシむ音が、わたした

ちの「意思」というわけです。

 それは止めようとしても止められないし、どんな音を出すかも

決められません。

 北へ押されたかと思った次の瞬間、こんどは西への圧力が来

ます。そして自分自身も西隣へ圧力を掛けることになりますが、

自分で西へ動いたつもりになったりします。

 わたしたちの世界は、全てが無限に、複雑に関係し合って動き

続けています。わたしたちの住んでいる銀河系でさえ、宇宙の

ほんの小さな一点にすぎず、宇宙の中を流されています。その

中で、わたしたちに自律的な「意思」など存在しうる訳がないの

です。


 138億年前にビッグバンが起きて、わたしたちの宇宙(世界)が

始まったというのが、現在の主流の考え方だと思いますが、物

理的には “ある系の運動は、外の系から力が加わらない限り、

同じ方向に動き続ける” わけですから、わたしたちの宇宙はビ

ッグバン以後、素粒子の一粒に至るまで、惰性で動いていると

考えていいでしょう。 ( 誰かがコントロールしているわけでは

ないでしょうし、もしコントロールしている者がいるなら、それこそ

「すべては神の意志」になってしまいます。別にそれでもかまい

ませんが )

 わたしたちの身体も、たまたま素粒子が集まって、一時こんな

形に出来ているのですから、わたしたちの「意思」も、それによる

「行動」も惰性なのです。

 人の世では、良いとか悪いとか偉いとか汚いとか、いろいろな

人が居ますが、皆それぞれ惰性で動いてるだけですから、そう

在るしかないんですね。

 この頃、トランプ大統領が就任して世間はなんだかんだ騒いで

いますが、彼自身も、何であんなことしているのか本当はわから

ないんですよ。自分がやってるつもりなだけです。

 わたしたち、みんなそうなんです。