先週から市内のあちこちの掲示板にこのポスターが見られ
るようになった。
「またやってる・・・」と思う。
オオキンケイギクについては、このブログで二回も話題に
しているのでもういいのだが、私は植物が好きなので、こう
いう行為を見せられると、つい「ムッ」としてしまう。繁殖
力の強い外来植物は他にいくらでもあるのだが、何かといえ
ばオオキンケイギクがやり玉に上げられる。人間は自分の事
を棚に上げてこういう事をする。「フェアじゃない」と思
う。「ズルい」と思う。気に入らない。
別に私はことさらオオキンケイギクに肩入れしているわけ
でもない。キレイだから好きな花ではあるけど、オオキンケ
イギクが日本から消えてなくなっても、それはそれで構わな
い。ただ、この花を目の敵にする人間のズルさと無知が気に
入らなくて、つい引っ掛かりを感じてしまう。
何がズルくて無知なのかは、以前に書いたものを読んでも
らいたい。(『オオキンケイギクに代わって言わせてもら
う』2019/5、『花の声・虫の声』2021/5 )
この世界のほとんどの事は、少し深掘りすると、すぐにさ
まざまな事柄と関係する複雑さが見えてきて、「良い」とか
「悪い」などという単純な二者択一などできないことに気付
く。「う~む・・・」と唸って、お手上げ状態の中で「さし
あたり、これが一番マシだろう・・・」という選択をするし
かないことになる。そうならないとしたら、それは、その判
断をする人間がズルいか、無知なのだ。
上っ面だけの、ごまかしの解決をして、それが「正しい」
かのように振舞う人間を見ると張り倒してやりたくなる(イ
カン。地の凶暴さが出てしまった・・・)。
社会というものは、根本的に出来損ないなのだから、社会
に表れてくる問題を根本的に解決することはできない。でき
ないのだから、一応の、その場しのぎの解決策を採るしかな
い。それはしようがない。けれど、「これは一応のことで、
根本的な解決ではありません」というエクスキューズが有る
べきだろう。社会と、それを作り動かしている自分たち人間
の出来損ないさ加減を、常に肝に銘じるべきだろう。それを
しないから、人間は歴史上に数々の惨事を刻んできたのだ。
自身のズルさ、無知さ、無能さを認めたくないのがわたし
たちのアタマで、そのことがわたしたち自身を苦しめるし、
世界に醜悪なものをもたらしもする。
なので私は言い続けることになる。「アタマが悪い」と。
何の力も無いのに、言わずにいられなくて・・・。
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