もう何千年も前にパンドラの箱を開けてしまって、わたし
たち人間は苦しみ続けている。
パンドラの箱からあらゆる禍が飛び出した後、最後に出て
来たのは「希望」だったという。それでなぐさめのつもりな
のだろうが、ことによると「希望」こそが最悪の禍だったか
もしれない。
あらゆる禍がこの世界に生まれて、人々を怖れさせ、苦し
めても、それが続くなら、それが当たり前になってしまう。
普通になってしまう。そうなれば、それはもう怖れや苦しみ
としての力を失う。「望みはしないけれど、そういうもの
だ」と感じることだろう。でも、そこに「希望」があるとど
うだろう? 「これは避けられるのではないだろうか」と思
う。そして避けられないと「なぜこんな目に遭うのか?」と
思うだろう。「希望」は曲者だ。「希望」が禍を生むとまで
は言わないが、「希望」は禍を生き延びさせてしまう。
最近では、日本人は震度3~4ぐらいの地震に遭っても、
「よく揺れたね、ちょっと怖かったね」ぐらいの感覚だけ
ど、これが地震の無い国の人ならば顔面蒼白になるぐらい怯
えることだろう。その違いは、日本人が地震に対して「望み
はしないけど、そういうものだ」という感覚を持ってしまっ
ているからだ。「それぐらいは、日本に暮らしてたらあるよ
ね」と思っている。
普通の範疇のことだから、「そんなこと無くなって欲し
い」などという「希望」は持たないので、震度3~4の揺れ
が禍になることは無く、すぐに単なる経験の一つとして過ぎ
て行ってしまう。禍の禍々しさは、受け取る人間の意識次第
で大きく変わる。それを拒めば拒むほど、その禍々しさは増
す。
「希望」は、 “今” や “ここ” を否定させ、“今” でも “こ
こ” でもない “何処か” へ人を誘い出す働きを強く持ってい
る。しかし、人にとって “今” と “ここ” 以外に現実は無
い。“今” と “ここ” 以外のものは、すべて観念の中にしかな
いのだが、人は「希望」に突き動かされ、自ら観念の中に入
り込み、苦しむ。
生きていることは苦しい。その苦しみから逃れたいが為に
最後の望みとして手に取った「希望」だが、それを投げ捨て
てこそ、人は禍から自由になれるのだろう。そういう意味
では、わたしたちにはまだ〈希望〉はあるようだ。
「パンドラの箱」とは、私やあなたの意識のことに他なら
ない。それを開けたのは私やあなたではないのだが、そこか
ら出たものは、私やあなたの意識の中で散らばったままにな
っている。
それを惜しむことなく、「希望」もろとも投げ捨ててしま
えば、そこには空の「パンドラの箱」が残る。その箱の中
は、もはや、何ひとつ禍の残っていない、無限の広がりだ。
ゼウスは人をからかったのだろう。
「お前たちに、このなぞなぞが解けるかな」と。
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