夕飯を食べてちょっと外へ出てみたら、コオロギが盛んに
鳴いている。 秋が来るのだなぁ。
コオロギはこの日本でいつからこうして鳴いているのだろ
う?日本人はいつからコオロギの声なんかを愛でるようにな
ったのだろう?
縄文時代には火焔型土器や土偶を作るような精神性の高さ
を備えていたわけだから、きっと虫の声を愛でていたことだ
ろう。そのような感性・文化を一万年以上も受け継いで来た
のだと思うと、なにやらただ事ならぬものを感じるなぁ。
一万年前と今では、わたしたちの周りに広がる世界は「同
じ惑星か?」というほど違うけれど、コオロギの声は変わっ
ていない。わたしたちの身体も変わっていない。コオロギの
声とわたしたちの身体の間には変なものがあふれかえっては
いるけれども、それは表面上のことなのだと改めて思う。映
画のセットと本質的な違いは無く、大道具・小道具の作りこ
み方が念入りだというだけだ。
そういう発想でもって生きていると、物の価値などという
ものを本気で信じ込める人が沢山いることが不思議でたまら
ない(そっちが普通なんだけど)。よくやるよ。
ネットニュースを見てると、新型 i Phone のハイエンド機
種が「30万円ぐらいになるんじゃないか?」なんて書いて
ある。どう考えてもぼったくりだろう。どうせカメラの性能
がまた少し上がるだけの話だろうから。それに30万円を出
すなんてのは、間違いなく妄想の世界だね。技術革新を考え
れば、たぶん5万円で売っても利益は出るんじゃないか? あ
こぎな商売を続ける Apple なんかをなんでありがたがるの
か? まぁ「なんでか」は知っているけど・・・。
それはともかく、さまざまな道具を使って自分たちの世界
を飾り付けて、もったい付けて、ほんのひととき悦に入っ
て、あとに残るのはゴミの山。
自分の手で火焔型土器や土偶を作って、クリエイティブな
喜びを持っていたであろう縄文人のことを思うと、現代人は
本当に幼稚だなと思ってしまう。この100年ほどで、日本
人(だけではないが)は文化的に怖ろしく退化したようだ。
大道具も小道具も道具でしかなく、それ自体は一過性で便
宜上の価値しかない。わたしたちが本当に価値と呼べるもの
は、道具の向こうとこちらに在るはずだが、現代人はそれを
ほとんど見失っている。
1万年の時を経ても変わらないもの。それを「本当の価値
だ」と言っても間違いはなかろう。
コオロギの声は、いまも昔もわたしたちの耳と心を楽しま
せる。人としての本質的な穏やかさに立ち返らせてくれる。
こころしておかなければ、間にある物は、わたしたちの豊
かさを邪魔するだけになってしまう。物に目を奪われて、
「豊かさ」を一度も感じたことがない人の方が多いようだけ
ど、それは空恐ろしく、とてつもなく悲しい話だ。せっかく
生まれて来たというのにねぇ・・・。
0 件のコメント:
コメントを投稿