You Tube で、サムネに【ブッダの教え】なんて書いてあ
る動画をちょっと見てみたら、「自分らしく生きるために」
みたいな話で自己啓発本なんかによくあるような内容で、
「これのどこが【ブッダの教え】だ」と少し不快になった
(私が【ブッダの教え】を間違わずに理解している保証もな
いけれど・・・)。
で、「自分は『自分らしさ』についてどんなことをブログ
に書いていたっけ?」と思って、以前のブログ(『自分らし
さに惑わされて』2023/7・『「自分らしさは自分じゃないで
しょう』2019/2)を読み返していたら、「 “自分” がするこ
とは、要求ばっかりです」なんて書いてあって、その言葉を
深掘りしたくなった。ホント、“自分” がすることは要求ばっ
かり。
他人にも要求するけれど、自分自身に対しても要求ばっか
りする。
「それじゃいけない」「ああしろ」「こうしろ」と、“自
分” ほど、自分にとって鬱陶しいものはないというのが普通
でしょう。まぁ、その「普通」に気が付かないのが普通だろ
うけど。
このブログを始めてすぐに書いたことで、《 意識(自意
識)というものは社会が脳の中に浸潤して来たもので、どち
らかと言えば自分ではなく社会に属するものです 》というの
があるけれど(『意識というものは・・・』2017/1 )、“自
分” というものはわたしたちに忍び込んでいる社会なので、
わたしたちのために活動しているのではありません。だから
「ああしろ」「こうしろ」と鬱陶しいわけです。要するに
〈 アタマが悪い 〉ということですね。
【ブッダの教え】の基本的なことに「無我」というものが
あるけれど、「我なんて無いんだ」ということで、「我とい
うものは、本当の自分じゃないですよ」と教えてくれている
わけですね。本当の自分じゃないものに関わっていると、本
当の自分を生きられなくなるのは当然のことで、本当の自分
を生きられないのなら、それは不幸に決まっているでしょ
う。
なので【ブッダの教え】といいながら、自己啓発本のよう
に「自分らしく生きること」が「社会的に成功することや安
定すること」のように教えている動画を見て、私は不愉快に
なるわけです。
「自分らしく生きたい」「自分らしく生きよう」と自分に
言っている “自分” に「ちょっと静かにしろ!鬱陶しい!」と
黙らせて、いまのこの自分を味わってみるのは、やってみる
値打ちのあることだと思うのです。
「自分らしく」なかろうがどうであろうが、いま自分は生
きている。誰もが、この宇宙で一回こっきりのそれぞれの人
生のいまを生きている。脳の中に忍び込んだ社会(アタマ)
とは無関係の自分がある。それは何にも縛られていない。何
も求めていない。何も恐れていない。自分らしくする必要な
どない自分が在る。
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