ずいぶん前に「一寸先は透明」という言葉を使った
ことがある(『一寸先は闇か?』2022/9)。一寸先は透
明、未来は透明、意識上の物語を介入させなければ、
未来に何も見えはしない。
わたしたちはごく当たり前に未来を思い描く。未来
に意識を向けると、自動的に物語を生成してしまう。
ポジティブだったりネガティブだったり、期待したり
恐れたり、その都度物語の傾向は違うけれど、その違
いは未来に意識を向けた時点での気分に決定付けられ
る。今上機嫌ならポジティブな未来像を、今不安なら
不安な未来像を生成する。
いずれにしても、その未来像は今の自分の気分が作
り出す幻影でしかないけれど、バカげたことに、自分
が作り出した幻影に実際の自分の行動が影響を受けて
しまう。良くも悪くも無意識に自らが生成した幻影
に、自分の未来を方向付けられてしまう。
何の未来像も生成されなかった場合に訪れるはずだ
った未来は訪れることはなく、それがどのようなもの
なるはずだったかは知る由もない。わたしたちに訪れ
る未来のほとんどは、今の気分によって汚されたもの
だ。
わたしたちは、今の気分に汚されていない未来をど
れほど受け取っているだろうか?
期待も不安も無く、欲望や拒否からも自由なままに
未来を待つことがどれだけあるだろうか?
透明な未来を受け取ると、それは透明な今になる。
そして透明な今には、必然的に透明な未来がやって来
る。詩的な表現に過ぎるかもしれないけれど、そうな
るはずだ。
わたしたちのアタマの介入しない未来を受け取るの
はどんな気分だろうか・・・。
誰もそんなことを考えたりしないだろうけれど、
やってみる価値のあることだと私は思う。