2018年9月13日木曜日

災害の夏だった


 やっと暑さが一段落して、秋の気配がしてきた。

 この夏は災害が印象に残る夏になった様に思う。

 洪水・土砂崩れ・土石流・暴風・地震。「ああ、日本だな

ぁ・・・」などと思う。

 日本を評して「災害列島」などと言う事がある。確かにそ

うだろう。けれどそれは、この国の自然の恵みの豊かさと背

中合わせのものでもある。おいしい事だけをいただくわけに

はいかないのである。



 私が小さいころ、神戸でも広範囲の水害が起きた。私の住

んでいた所でも30cmほど水が来て、床下浸水したのをよく

憶えている。

 その時、隣近所のどこの家でも、玄関に板を立てて隙間を

布や土嚢で塞ぎ、みんながバケツで水を外にかきだしてい

た。子供だった私は、面白がって一緒に水をかきだしていた

のだけれど、中学生ぐらいになった頃にその時のこと思いだ

し、「あんなことしてたけど、表に水をかきだしても、裏か

らいくらでも水は入って来てたはずだよなぁ。みんなパニッ

クってたんだなぁ」と思ったのだった。



 災害などに合うと、ちゃんと考えているつもりでも、そう

そう冷静ではいられない。あからさまにパニックを起こして

いる場合も多いし、「正常性バイアス」と呼ばれる思考の偏

りを起こして、落ち着き過ぎてしまって大変なことになる事

もある。その場しのぎを繰り返して、後で大きな代償を払う

ことになったりね。それはそれで仕方がないだろう。人間だ

ものね。でも、落ち着いていた方が良いのは確かです。

 じゃぁ、災害の時にどうしたら落ち着いていられるのか?

 これといった方法があるわけではないでしょうねぇ。

 危機管理の専門家であっても、実際にその場に居合わせた

らパニックを起こすかもしれませんし、運次第といったとこ

ろではないでしょうか。

 むしろ、災害の時にパニックを起こしてしまうことも含め

て「災害」だと思ってしまえばよさそうです。言いかえれば

「それが人生だ」と・・。



 生きていれば、何が起こるか分かりません。いつ死ぬか分

かりません。

 世界が自分の都合の良いように動いてくれるわけじゃない

し、その動きに合わせて、自分が都合よく動けるかどうかも

分かったもんじゃありません。「自分の動き」も “世界の動

き” の一部ですからね。



 わたしたちは、「“世界” の中で、自分が生きている」と

思っています(普通はそうだと思います)。でも、自分も 

“世界” の一部ですから、「“世界” の中で、自分が生きてい

る」というのはおかしいんですよね。「自分も含めた “世

界” が動いている」というのが本当です。



 “世界” は、わたしたちが生きるステージじゃありませ

ん。自分も含めて、 “世界” です。

 「自分は別」じゃない。自分も “世界” と一緒に動いてい

るわけです。



 わたしたちは特別じゃない。

 わたしたちは “世界” から独立して存在しているんじゃな

い。どっぷりと “世界” の一部です。そんなこと当たり前で

す。にもかかわらず、わたしたちはその当たり前になかなか

気付けない。

 どういうわけか、わたしたちは「自分は別」だと思いたい

んです。そして、そう思い込んでいるのが普通です。

 「自分は生きている」と思う事が、「自分は別」というこ

とに他ならない。「自」を “世界” から「分けて」、初めて

「自分」になるわけですからね。



 でもね、生きているのは本当に「自分」なんでしょうか?

 わたしたちのアタマが分けなければ、そもそも「自分」な

んてないんだから、生きているのは「自分」ではなさそうで

す。

 本当に生きているのは、“世界” だけです。

 どういうわけだか知りませんが、その一部が「自分」とい

う意識を持ってしまったのが、わたしたちなんですね。

 そしてその「自分」という意識があることによって、わた

したちは “世界” からはぐれてしまった・・・。だから、す

ぐに「淋しく」て「虚しく」ていたたまれなくなってしまう

んですね。

 でもって、淋しいものだから、淋しい者同士が繋がろうと

するのだけれど、“世界” からはぐれた者同士が繋がろうと

しても、その繋がりたい「自分」は意識が生んだ観念でしか

ないから、大抵は、繋がったつもりにしかなれない。

 その繋がりたがる「自分」を取っ払ってしまえば、そもそ

も「自分」は “世界” の一部だから、全てと繋がってるんだ

けどね・・。



 「自分は淋しい」と感じたりするのは、「自分」という意

識を持つからであって、「自分」という意識を持つ限り、淋

しさから逃れる事はできない。「自分」と、「淋しさ」「虚

しさ」なんかはセットになっているのです。



 「わたしは!わたしは!」などと、自己主張の強い人ほど

ホントは淋しい人ですね。

 「わたし?・・・はぁ・・?」などと、自分のことにあま

り頓着しない人ほど、淋しさを感じにくい人です。



 考えてみれば当然のことで、「わたしは!」と言って前に

出てくる人は、自分が突出してしまうのだから、一人ぼっち

にならざるを得ない。

 「わたし?・・・はぁ・・?」などと言っている人は、

人々の中に埋没しているのだから一人ぼっちではない。エゴ

が力を持つほどに、人は孤独になってしまう。

 ところが不思議なことに、世の中ではみんな逆に捉えてい

る。

 「わたしは!」と前に出てくる人は、アグレッシブで目立

つので、一人ぼっちじゃないように見えるし、本人も表面上

はそう思ってたりする。

 方や、「わたし?・・・はぁ・・?」という人は、「自分

は冴えなくて、つまんない人間だ・・」などと、ため息をつ

いていたりして、淋しそうに見えたりする。自分でも、鬱々

としてたり・・。

 でも、本当は逆です。そう思い込んでいるだけです。
 

 《 エゴは孤独です 》



 エゴが強ければ強い程、孤独です。



 エゴが強ければ、良かれ悪しかれ世の中で目立ちます。

 そのアグレッシブさによって、世の中でリーダーシップを

とったりするので、まわりに人々が集まって孤独ではなさそ

うだったりしますが、それはイメージに過ぎません。

 そういう人は、「明るさ」や「元気さ」「華やかさ」など

を演出して、「自分は孤独ではない」というイメージを持ち

たがるのですが、そもそもアグレッシブさは、孤独から逃れ

たいがゆえの足掻きです。

 満足している人は、行動しませんからね。行動する人は

「足りていない」人です。

 「わたしは!」と自分を立てるから、浮いてしまって何か

が足りないと思ってしまう。で、足りない何かを埋め合わせ

る為に、必死になって動き回っているだけのことです。ご苦

労さんなことですね。



 一方、「わたし?・・・はぁ・・?」なんて思ってる人

は、危機感がないからこそ、そういう立ち位置なわけなの

で、実はけっこう満たされていたりします。あまり実感が湧

かなかったりするでしょうがね。



 世の中というものは、“孤独で、淋しくて、虚しいがゆえ

にアグレッシブな人達” が作るので、そういう人達に都合の

良い価値観が支配的になります。みんなそれに勘違いさせら

れているんですよ。

 “ぼちぼち、なんとなく、それなりに生きている人” の方

が、ほんとは幸福度が高いのです(幸福とは言い切れないけ

どね)。



 災害の話から始めたのに、なんだかほとんど違うところへ

行ってしまっているなぁ。「自分は “世界” の一部」という

話でした。

 「自分」に、災害が降りかかるわけではないのです。

 災害と一緒に、「自分」も生きているということです。あ

るいは災害と一緒に、「自分」も変わってゆく(死ぬ)とい

うことですね。

 固定した「自分」というものにしがみ付くから、状況の大

きな変化(災害)に脅かされるので  「自分がこんな目に

合うなんて思いもしなかった」ってこと、よく聞きますよ

  、「自分」というものの実態の無さを踏まえておけ

ば、災害もそれなりにやんわりとやり過ごせそうな気がしま

す。


 《 災難に逢う時節には災難に逢うがよろしく候

     死ぬ時節には死ぬがよろしく候

     これはこれ災難をのがるる妙法にて候 》

                   良寛



 災害に遭っても、“ぼちぼち、なんとなく、それなりに” 

していればそれでいいのだと・・・。

 「まぁ、そういうこともあるわなぁ・・」なんて。

 自分も災害もひっくるめた命なんだと・・・。

 「生」だけじゃなく、「生死」もろともで命なんだ

と・・・。




 取って付けたような結末になってしまったなぁ。自分の都

合の良いようには行かないのである。

 けど、自分の都合とは違うからこそ面白くなったりもす

る。

 「自分の都合なんてそれ程のものかよ!」

 などと言ってみたい。そもそも「自分」って、それほどの

ものかよ!



 諸悪の根源  苦しみの根源  は、ひとりひとりの「自

分」じゃないの?








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