2018年9月30日日曜日

チョウのように、花のように。


 今朝外へ出ると、家の脇のシソの花にシジミチョウやミツ

バチが来ていて、静かに蜜を吸っている。

 「平和だなぁ」

と、思わずつぶやく。

 そうして、彼らをながめていると、近くの交差点からイラ

ついたクラクションの音が聞こえてくる。

 「人間は、なにやってるんだか・・・」

 まぁ、まいどお馴染みの事ではあるが・・・。



 彼らが蜜を吸って「美味しい」と思っているのかどうかは

知らない。それが彼らにとってしあわせなのかどうかも知ら

ない。ただ、彼らは人とは違って、自らが生きるべき生き方

を、迷いなく生きていることは確かだろう。


 人は、何が「正しいこと」かを知らず。「正しいと思うこ

と」に確信が持てない。にもかかわらず、「自分は正しい」

という思いを持たなければ不安で生きていられない。

 何が「正しいこと」かを知らないので、常に迷って右往左

往している。心理的にも物理的にも・・・。

 右往左往したところで、何が「正しいこと」か知らないの

だから、なんにもならないんだけどね。



 チョウやミツバチには迷いは無い(無いと思う)。

 淡々とひたすらに、自分も、自分がいる世界も、疑うこと

く生きている。羨ましいなぁ。

 羨ましいけれど、先程も書いたように、彼らがしあわせを

感じているかどうかは知らない。人間の常識から考えると、

そういうことは感じていなさそうだ。

 そうだとすれば、しあわせを感じる事が出来るのは、わた

したち人間の特権かも知れない。



 「アタマが悪い。アタマが悪い」と何度も書いて来たけれ

ど、わたしたちの頭は「しあわせを感じられる」という素晴

らしい資質を持ち合わせている。

 もしそうでないのなら、人間なんかロクなことしないの

で、さっさと滅びて消え去った方が良さそうに思う。



 スピリチュアルの導師の中には、「人間に意識があるの

は、“世界が存在することの喜び” を、〈世界〉を代表して

(世界の一部として)人間が感じる為だ」といった言い方を

する者も多い。

 「人間に意識がなければ、この世界に意識はないのだか

ら、世界の存在自体に何の意味も無い。〈世界〉は人間を通

して “自身(世界)” を感じたいだろう」という風な意味の

ことを言う。



 言いたいことは分かる。(分かります?)

 そうかも知れないと思う。

 けれど、それを手放しで肯定できる程、私は自分を「正し

い」と値踏みすることは出来ない。

 でも、わたしたちが、わたしたちも含めた世界全体を「良

いもの」「喜ばしいもの」と感じ、しあわせを感じられるな

ら、それは〈世界〉からすれば、まんざらでもないだろう。



 アタマが迷って右往左往するのにあまり付き合わないで、

なるべく、淡々と穏やかに、すんなり、あっさり、のびやか

にわたしたちが生きることを、〈世界〉は喜ぶのじゃないだ

ろうか、という気がする。なにせ、わたしたちは世界の一部

なんだから・・・。


 〈世界〉にとって、わたしたちが悩み苦しむことは、わた

したちの身体の一部の具合が悪いようなもので、「このごろ

膝が痛くてやだなぁ・・」といったようなつまらなさを〈世

界〉は感じるだろう。わたしたちは機嫌がいい方がイイ。

 わたしたちが機嫌良くなって、そのことを〈世界〉が気分

良く感じて、〈世界〉と一緒に機嫌良く生きる・・・。



 その「機嫌良さ」は、自分が何かを達成するとか、自分の

存在意義を何かで保証するとかいうものではなくて、自分自

身を含めた〈世界〉が用意しているすべてを、受け入れて、

その中に安住することから来るものですが・・・。

 「すでに、すべてがある」

 そのことを確かめる・・・。


 『手を合わせる意味』(2017/4)という回でも書いたの

ですけど、私は奈良の唐招提寺で千手観音を見て、その千本

の手が「すべての者を救う」ためにあるのではなくて、「す

べて与えてある」ということだと思ったんですね。

 そう思って考えてみると、確かに、間違いなく、「この世

界にあるものは、すべてある」じゃないか。

 「足りない」と思うのは、わたしたちのアタマ(エゴ)の

都合であって、〈世界〉とは関係ない。勝手なわがままを言

っているだけなんだ。


 アタマがあれこれ考えて、「足りない」ものを手に入れ

て、それでエゴが満足するのならそれもいいけれど、実際に

やっている事といえば、「何か隠されている」と思ってあち

こち覗き回っているだけに過ぎない。

 覗き回らなくったって、「すべて与えてある」。


 そりゃぁ、〈世界〉は無限に広いのだから、自分に見えな

いものもある。けれど、〈世界〉は見えているものだけで充

分に美しくはないだろうか?

 そばにあるものだって、充分に優しさを持っていないだろ

うか?

 自分がそれを感じようとしないだけなんじゃないのか?

 自分がそれを見ようとしないだけなんじゃないのか?


 チョウやミツバチがしあわせを感じていないとしても、ア

タマ(エゴ)に惑わされて、感じられるはずのしあわせを感

じられない人間よりはマシなんじゃないかな?


 シソの蜜はやっぱり甘いだろう。






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