年が明けて2021年。この “2021年” という数字を見てい
てなんとも不思議な気持ちになった。
というのは、自分が10~20代、いや、40代の頃でも、
“2021年” なんて数字は、ほとんど SFに出てくるものであ
って、それが現実になるというイメージは無かった。なぜか
しら、昨年の “2020年” にはそういう感じは持たなかったの
だが、“何か” を越えたのだろう。
そんな感覚を覚える一方で、人間のしていることといった
ら相変わらずだ。
人間の生み出したものは大きく変貌し、想像でしかなかっ
たことが現実になっているし、想像もしなかったことを目の
当たりにしたりもしている。けれど、当の人間そのものは、
相も変わらずアタマが悪いまま・・・。残念ながら、「あけ
ましておめでとうございます」などとは言う気になれない。
「あけました・・・、ご苦労さんです・・・」そんな気分か
なぁ。
なぜ「ご苦労さん」なのかと考えてみるに、わたしたちの
“アタマ” は「合理性」と「感情(情動)」で出来ているけれ
ど、「合理性」が “物” に働きかけてそのパワーを果てしなく
増大させているのに対して、「感情」の方は何の進歩も成長
も無いからだろう。
「合理性」の指標は「正・誤」で、「感情」の指標は
「快・不快」だ。
この二つを用いて、人は物事を判断するのだが、そこに大
きな問題がある。
「正」→「快」であれば良いけれど、「快」→「正」と判
断するのが、人間の実情であって、人間は「感情優位」なも
のです。
なので、「合理性」は「快・不快」に引きずられ、非合理
な「感情」の道具となる。それが、人間の身体性の範囲での
ことであれば、「寒い」→「服を着る・暖を取る」といった
ことで問題は無いのだが、観念的な「快・不快」に引きずら
れるとなると、問題を起こす。「ムカつく」→「相手を殴
る・SNSで罵る」といった具合に。
さらに、先端技術の使われるような、高度に「合理性」で
出来ていること ロケットの打ち上げのような でも、
そのスタートが観念的な「快・不快」によるものであれば、
問題を作り出すだけでしかない。なぜなら、観念には実体が
無いので、どれほど具体的な「合理性」を積み上げても、そ
れは宙に浮いた異物にしかならない。それに、身体的な
「快・不快」に対処する事は、時間的にも物理的にも小さな
活動で終わるけれど、観念的な「快・不快」への対処には際
限がない。もともと実体が無いものの「快・不快」なのだか
ら。
そうして、観念的な「快・不快」に端を発する活動は、ど
んなに「合理的」であろうと、ブレーキをかけなければ、無
限に問題を大きくして行くことになり、ある限界を越えると
破滅する。古代文明がいくつも滅んだように。
冒頭の話に戻るけど、“2021年” という数字を私が SF 的
に感じるということは、そこに現実味が無いということでも
あるようだ。なにか、観念的なものが身体的なものを完全に
駆逐してしまったようなイメージを “2021年” という数字か
ら受け取ってしまう。「これまでと何かが違う」と私の感覚
が言う。
考えてみるに、去年一年間、「新型コロナ騒動」という観
念の暴走に世界中が引っ掻き回されるのを目の当たりにし続
け、身体性・具体性が人類規模で見過ごされていることを、
嫌というほど感じさせられたのだから、人間のやることに心
底現実味を感じられなくなったのだろう。
私は「合理性」より「感覚」の側に立ちたい。「観念」で
はなく「在るもの」を拠り所にしたい。なぜなら、わたした
ちは「合理性」から生まれたのではないから。
気付いた時には自分が在って、この世界が存在していて、
それが何故なのか分からないという寄る辺なさから逃れよう
と、わたしたちは「合理性」にすがる。でも、それはわたし
たちの出来損ないのアタマが後付けででっち上げたものだ。
間に合わせに過ぎない。
「合理性」のロケットで宇宙という虚無を探索するより、
「感覚」という地面に立って、風や日差しを楽しむ方が気分
が良いのに決まっている。
決まっているはずだと思うのだけれど・・・。
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