さっきまで、今朝録画しておいたEテレの『こころの時
代』を見ていた。
今日は、終末期の癌患者さんやその家族の方たちのこころ
のケアを長年続けておられるお坊さんと、これまで関わった
方の話を聴けたのだが、とても良い番組だった。
番組を見ている途中で、気が付いたことがあった。話の中
にそういう言葉が出て来たわけではないのだけれど、わたし
たちには「心の物語」が必要なんだなと。
何千年も昔から、宗教というものがその役割を担ってきた
けれど、残念ながら、あまり上手く機能して来たとは思えな
い。そこで語られる物語は、信じなければ成立しない所でと
どまり、信じる必要さえない所までは、なかなか導いてはく
れない。だからこそ、篤い信仰を持った人であっても、自分
の身近な人の死に深く深く打ちのめされたり、自分自身の死
を自然に受け止めたり出来ないといったことが起きてしま
う。
それは、そこで語られる物語が、自意識や社会意識の中に
納まっているものであって、その外にある「死」に象徴され
ることに対して、開かれていないからだろう。
わたしの中に浮かんだ「心の物語」というのは、「死」に
対して開かれていて、「生」と「死」をつなぐ道のようなも
のとして、語られ、持たれるべきものです。では、それはど
のようなものか?
「物語」といっても、それは必ずしもストーリーというわ
けではない。「生」と「死」をつなぐ道筋として、こころに
留め置かれるもの。いくつかの言葉、イメージ、気配といっ
たもの。
「死」は「生」を分断するものではない。
最近の私は「命」というものを〈 存在させるエネルギー 〉
という風に感じている。
この世界のありとあらゆる “存在” を在らしめる働きだと感
じているんです。その働きによって、まず無生物(物)が存
在させられ、その無生物のあちらこちらに、さらなるエネル
ギーが集約することで、生命が動き出す。
~私の中のひとつの「心の物語」~
ひとりの歌手がいる。彼が歌い出すと、そこに歌が生ま
れ、ひと時のあいだ、美や喜びや楽しみや切なさなどが交錯
するが、歌が終われば、また静寂が訪れる。そこには沈黙を
守る歌手が立っている。彼が消えてなくなるわけではない。
「死」とは、歌を生みだす歌手のようなものであり、
「生」とは「死」が歌う歌のようなものである。わたしたち
それぞれの歌であるそれぞれの「生」は、「死」というエネ
ルギーに支えられて生まれ、時が来れば「死」という沈黙の
中へ静かに還る。絶対の安らぎの中へ戻り、次の歌となるの
を待つ、あるいは、その安らぎの中で、他の歌を聴いてい
る。
人は、「死」が歌う、“わたし” という「生」のバイブレー
ションを直接受け取り、他の “わたしたち” のバイブレーショ
ンも楽しむ。生み出された “わたし” を慈しみながら。そして
また、静寂と安らぎへと戻る時まで・・・。
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