この度、家族からの要請によってスマホを持つことになっ
た。以前に書いたことがあるが、私はこれまでケータイとい
うものを持ったことがない。そんな私がスマホを持つなん
て・・・。富士山でも噴火するかもしれない。噴火したらご
めんなさい。でも私のせいではない。
このご時世、何が起こるか分からないので連絡が取れるよ
うにしておいてほしいというのだが、何が起こるか分からな
いのはいつのご時世でも同じだ。さらに、何が起こるか分か
らないのであれば、ケータイが繋がらないということも起こ
り得る。さらに言えば、数時間連絡が付かないからといって
大した違いもあるまいと思う。すぐに連絡が付こうが、連絡
が付かなかろうが、「何か」が起こってしまった後の「連
絡」なのだから、どちらにしても事後処理で、後の祭りだ。
家族には以前にこのブログに書いた『スキャンダル・クラ
ブ』(2018/4)という話でも読んでもらいたいところだが、
このブログを家族に見せるつもりは無い。ということで、代
わりに、いまこれを見ているあなたに読んでもらいたいと思
う。おもしろいと思うので。
スマホを持つことにしたのは、持ってなくても不便だとは
思っていないが、有ればいろいろ役に立つのは分かっている
し、料金も安くなってきたことなので、頑なに拒むことでも
ないから、「そろそろいいか」という気になっただけのこ
と。けど、あまり使わないだろうな。これまで使う事情が無
いから持っていなかったわけで、それは変わらないからね。
「スマホは必需品」という言葉をちょくちょく耳にするけ
ど、これまでそれを持たずに来た私は一体どういう人間なの
か? 「必需品」であるものを持たずにこれまで生きて来たの
だから、スマホは人間にとって「必需品」ではないだろう。
私がそれを証明している。「スマホは必需品」という人間
は、「スマホが必需品であるような生き方」に自分を追い込
んできたということであって、ただの依存症か、他人の動向
が気になる人か、何かの見当違いをしている人だろう。「必
需品」というのは最低限の衣食住の事であって、それ以外は
何であれオマケ、おなぐさみ、贅沢品の類いだということを
忘れると、人は道を誤る。縄文人なんて、それこそグリコの
オマケ程度しか物を持たなかっただろうけど、しあわせを感
じてたと思うよ。むしろ、現代人よりしあわせを感じること
が多かったかもしれない。
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ということで数日が経ち、いま私はスマホを手にしてい
る。
実際に持つとよく分かるのは、常に、意識の中に薄っすら
と「スマホに何かの通知が来ているかもしれない」という意
識があるということ。私の意識の一部が常に「待ち受け」状
態になっている。スマホが「待ち受け」でバッテリーを消費
するように、私の意識の一部のエネルギーが常に少し消費さ
れ続けている。社会のしがらみがまた一つ増えた。ああ、メ
ンドウだ。みんな、こんなメンドウなことよくやってるな
ぁ。
先日、田中邦衛さんが亡くなったが、『北の国から』の五
郎さんのセリフでこういうのがあったな。
「“知る権利” ってのがあるだろ? 俺のは、“な~んも知ら
ん権利” !」
社会とむやみに繋がると、いらないエネルギーを使うこと
になる。けれど、まぁお付き合いもしなくちゃならない。こ
れも「ご縁」だということで、程々にたしなんで行こうと思
っている。
ふと、『2001年宇宙の旅』を思い出した。「モノリス」の
形はスマホのようだと。
人は知恵と道具を手にするごとに、知恵と道具を利用して
いるつもりで、知恵と道具に縛られてゆく・・・。そしてそ
の分だけ、しあわせから遠ざかるのだろう・・・。
気を付けよう・・・。
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