今日、須磨海岸へ行った。阪神間唯一の海水浴場で、私の
子供の頃からの遊び場でもある。昔は簡単な道具で釣りをし
て、砂浜の流木で焚火をして魚を焼いて食べたりしていた
が、今は「焚火禁止」で、お上品な場所になっている。もち
ろん、行けば気分はイイけどね。
たまたま、今日は神戸の農産物や小さな飲食店をアピール
するイベントをやっていて、まぁまぁ人が来ていた。
そこを歩きながら、イベント関係者やお客さんを見ている
と、「ああ、もう時代が変わったんだな。自分は昭和の人間
だな・・」と思った。
そこに集うのは主に20~30代の人たちで、服装などから
“意識高い系” の人たちのように見えた。泥臭くない。ドメス
ティックな感じが薄い。オーガニックな感じのお洒落をして
いて、私にとってはとっつきにくい感じがしたのだった。
「自分は間違いなく、古い部類の人間になったのだ」
そう思い、少しショックを受けた。
《 すべての存在は時代に殉じる 》とは以前に書いた。当然
ながら私もそれから自由ではない。これまで生きて来た時代
に縛られている。新しい時代に、自分のすべてで関わること
はできない。私はそれを認める。ショックではあるけれど。
今日見かけた若い人たちも、30年後には同じ思いをする
ことだろう。
今日生まれた子供たちも、60年後には同じ思いをするだ
ろう。
そうして、時代から取り残される時に役に立つのは、時代
に関係ない、人間と世界の本質を知っていることだろう。
すべての存在が、時代とも場所とも関係ない普遍性を、そ
の内に持っている。
すべての存在が、時代とも場所とも関係ない普遍性の内
に、存在している。
時代に取り残されようが、時代から外れようが、世の中か
らはぐれようが、のけ者にされようが、私たちはそれよりも
はるかに大きく、本質的なものによって存在させられてい
る。
たとえ今、時代に殺されても、自分がそれに存在させられ
たということは否定できない。
時代に殉じるしかなくても、自分が存在している、存在し
た、ということ否定できない。
《 すべての存在は時代に殉じる 》
それと同時に
《 すべての存在は時代が生み出す 》
自分を生かしている本質に気付いた時、人の意識は時代の
手の中に在りながらも、時代を越える。
時代に対して、こうウソぶいてもいい。
わたしを生みださずにいられたか?
わたしを死なせずにいられるか?
時代自身も、時代には逆らえない。
時代も、時代に殉ずるのである。
口から出まかせですごい事に気付いてしまった・・・。
これも時代の為せる業。
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