「気楽に生きられない人へ」と題した昨日の話は、タイト
ルにそぐわない大袈裟な話になってしまった。アタマが悪い
ね。
けれど、気楽にしていられるようになるには、一度徹底的
に真剣になってみる必要があるのでしょう。例えば、仏教の
歴史の中でいわゆる「悟り」をひらいたような人は、大抵大
きな不幸に遭っている。その苦悩から解放されたいと、生き
ることや世界というものを徹底的に考え抜き、感じ取ろうと
した結果「悟り」をひらいた。ようするに「気楽になっ
た」。
私は以前まで「悟り」というものを大袈裟に考えていまし
た。なにやら高尚で、人の到達し得る最高に格の高い境地の
ような・・・。努力を重ね、妥協を排除し、ほとんど命懸け
のように真剣に取り組んで到達し得るものだというような。
けれど、いまは違っている。ほとんど真逆に考えている。
努力をやめ、妥協しまくり、ほとんどテキトーに、ゆるゆ
ると、なりゆきにまかせることで「ああ、なんだぁ、そうか
ぁ😀」と思い当たるものだと考えている。それは、ある意味
「徹底的に・・」ということではあるけれど。
「悟りを得る」「悟りをひらく」という “求める心” が、努
力に繋がるわけですが、「悟る」ためには “求める心” はどう
考えても邪魔でしょう。それはエゴだから、どんなに努力し
ても、“求める心” が最後に障壁として残ってしまう。だから
悟りたいのならば悟ることを放棄した方がいい。
立派な人になろうとか、徳を積もうとか、「自分を良い人
間と思いたい」という欲求を投げ出して、「自分はひとりの
人間で、だから当然出来損ないで、良くなり切るなんてこと
は不可能なんだから、カッコつけてもしょうがない」と、い
まのまま、あるがままにまかせてしまう。努力をやめ、妥協
しまくり、ほとんどテキトーに、ゆるゆると、なりゆきにま
かせる・・・。
「そんなことしてたら落伍者(古い言い方ですけど)にな
ってしまう・・・」と思われるかもしれないですけど、そう
なったとしても、それは「カッコつけようとしている人々の
中での落伍者」ということなので、むしろ地に足の着いた、
落ち着きのある状態でしょう。
落伍すればいいのです。落ちればいいのですよ。
「悟り」とかいうと、誰でも「上にある」というようなイ
メージを持つことでしょうけど、「悟り」は下にある。
上がろうとしないで、望みにしがみつかないで、手を放し
て落ちて行ったところに「悟り」はある。
落ちるといっても 1 mmもない距離です。いま、ここで、
いま、ここに落ちる・・・。
努力をやめ・・・と書きましたが、「上がろうとするのを
やめる」「手を放す」というのは「努力」のうちに入るのか
もしれません。でも、まぁそれぐらいはしましょう。一歩歩
く程度のことです。
はじめの方で書きましたが、「悟る」とは「気楽になる」
ことです。それだけのことです。昔の人たちがもったいぶっ
て大袈裟に考えてしまっただけのことです。
まぁ、昔の人には昔なりの事情があったでしょうから、責
める気もバカにする気もありませんが、気楽になればいいの
です。
どうせ生きて死ぬだけです。何をしたって、済んでしまえ
ば何ということもないのです。世界を征服したってしばらく
したら寿命は尽きる。それだけのことでしかないのです。何
ものかになる必要なんてないのです。ひとかどの者になった
ところで、それはそれだけのことです。聖人も極悪人も、つ
まるところ「人」です。一番望ましいのは「ただの人」であ
ることのように思います。徹底的に「ただの人」を謳歌する
ことだと。
もしかすると、なりゆきで立派な人になるかもしれませ
ん。聖人とあがめられるようになるかもしれません。それは
それで悪いことでもありませんが、「それだけのことだ」と
気付いていなければなりません。つまるところ「ただの人」
なんだと。
まぁ、極悪人にはならないようにした方がいいでしょう
が、もしなってしまっても気楽に極悪人をやったほうがいい
でしょうね。
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