〈 もし、結婚したくなった時、「この人の為に、自分の人
生を棒に振ってもイイや!」と思えるなら、その結婚は良い
ものになるのだろうと思います 〉
そう書いたのは『結婚してもしあわせになる方法』
(2017/4)の中ででした。誰かが結婚したり、結婚生活の悩
みや不満を口にしていたりすると、いまでもすぐにこの言葉
が頭をよぎります。
結婚をしあわせなものにしたいのなら、この考えは必須だ
と思っていますが、今日はこの言葉の適用範囲をもっと拡大
してやろうと思って、ブログを書き始めたのです。こう言い
換えてみましょう。
「この人生の為に、自分の人生を棒に振ってもイイや!」
と思えるなら、その人生は良いものになるだろうと思いま
す。
ちょっと意味がわかりませんね。解説してゆきましょう。
始めに出てくる「この人生」は、生まれてきて死ぬまで
〈とにかく生きてゆく人生〉のことです。後の方の「自分の
人生」は、〈世の中でさまざまな物語に自分を投影しなが
ら、できるだけ望みが叶うようにしたい人生〉のことです。
ですから、「自分の人生を棒に振る」というのは、〈自分
の望みなんか二の次にしよう〉ということですね。その上で
〈とにかく続いてゆくこの人生を受け入れてゆこう〉と肚を
括ることで、人生は良いものになるというわけです。
しかし〈自分の望みなんか二の次〉にして、人生が良いも
のになるのでしょうか?
なります。
以前、「ストーリー(物語)を持たなければ不幸になれな
い」ということを書きました。「ストーリーを持たなけれ
ば、人は本来やすらいでいる存在だ」と。(『不幸になって
みよう!』2020/4)
〈望み〉というのは物語の中で生まれます。〈世の中の物
語に自分を投影して望みが叶うようにする〉というのは、物
語の中に身を置くことですが、物語の中には必ず不幸が発生
します。それは避けられません。そこに身を置けば、人生が
良いものになるはずありません。幸・不幸のシーソーゲーム
で揺れているだけです。刺激が欲しいのならそれでいいので
しょうが、刺激はしょせん刺激でしかありませんし、人は刺
激に慣れてしまうものです。そうなると、シーソーの落差を
大きくしないと物足りなくなるのです。中毒状態になりま
す。そしていつの日にか物語が終わる時が来て思う、人生そ
のものを、落ち着いてしみじみと味わったことが無かった
と。
《 世の中なんかたしなむ程度にしておきなさい 》と、私は
自分自身に言って聞かせますが、人生もたしなむ程度がいい
のです。〈自分の人生〉を眺めている、もう一つの人生があ
るのです。不幸の存在しない、乱されることのない落ち着き
に満ちている人生が。
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