タイトルには「無」と「責任」の間に「・」が打ってあり
ますね。「無責任」という言葉とからめての表現なのでこう
いうタイトルにしましたけど、今回書きたいことは「無の責
任」ということです。あらゆる「責任」は自分に有るのでは
なくて、「無」の方に有るという、究極に「無責任」な考え
をご紹介しようということです。
「“「責任」は「無」の方に有る” ? なんじゃそりゃぁ?」
そんな感じでしょうか? なので「無」についての説明が必要
ですね。
老子は「無為自然」と言っていて、その「無」が説明した
いことなんですが、そのために先に親鸞の言葉に触れなけれ
ばなりません。
親鸞は「自ずから、然(しか)らしむ」(自ずから、そう
あらしめられる)と言っています。なのでその言葉を手掛か
りにすると、「無為自然」というのは「無の為(な)すこと
によって、自ずからそうあらしめられる」という読み方がで
きます。
親鸞は “「阿弥陀仏」の働きによって自ずからそうなる” と
言っているのですが、老子の言葉では、その「阿弥陀仏」が
「無」という言葉で表現されているわけです。どちらにして
も、この世界そのものの働きによって、すべては自ずからそ
うなると考えているわけです。
老子は「無為自然」と言い、親鸞は「南無阿弥陀仏」と言
う。表現は違えど、どちらも言っていることは同じで、「オ
レの知ったこっちゃね~よ😊」と言っているわけです。
完全に無責任で、すべては「無の責任」。だから「知った
こっちゃね~よ😊」と・・・。
で、いまのような世の中では、こういうような無責任な態
度は断罪されてしまうし、自分自身でも罪悪感を持ちそうで
す。けれども老子や親鸞は罪悪感を持たない(親鸞は断罪は
されましたが)。なぜなら「責任」と同時に、自分の「(社
会的な)価値」を認めていないから。
社会的な「責任」と「価値」はバーターですから、片方が
なくなればもう一方もなくなる。そうして老子と親鸞は、
「責任」と「価値」という束縛から解放されて自由になっ
た。
すべては「無」に責任があるので、「無」の為すがままに
任せていれば良い。もとより任せるしかない。自分の出る幕
はないし、できることもない。すべては「無」が行う。この
自分の運・不運も、生かすも殺すも・・・。
「無」の働き(無為)に身も心もあずけて、その流れのま
まに流されて行く気楽さは、実は誰でも知っている。生まれ
てくる前。母親のおなかの中で何も考えずにいた時に・・。
アタマが悪い・・・。
0 件のコメント:
コメントを投稿