2024年7月13日土曜日

今するべきこと



  世の中で起きるあらゆることについて完璧な知識を

  持っていれば、次に起こることを計算できるのは、

  少なくとも理論上は正しい。しかし、その知識にほ

  んの少しでも見落としや誤解があれば、そのひび割

  れはどんどん大きくなり、結果として予想は完全に

  はずれてしまう。


 ちょっと前に、こういう言葉を知ったのです。これは、ア

ンリ・ポアンカレ(フランスの数学者)の言葉だということ

なんですが、誰が考えたってそうなはずで、逆に「予想がで

きる」と思う方が異常です。そして〈 世の中で起きるあらゆ

ることについて完璧な知識 〉を持っている者などいませんか

ら、将来を予測しようなどと考えるのは愚かとしか言いよう

がありません。にもかかわらず、世の中では将来を予想する

人間があとを絶たない。「良い」とか「悪い」とか。

 まあ、大雑把な予想をしてれば「そのようなこと」になっ

たりすることはあるでしょうし、たまたま予想が当たったよ

うに見える時もあるでしょう。けれども、そんなことが当た

ったところで何がどうなるというものでもありません。「あ

あ、そう」という程度のことです。当たろうが当たるまいが

それは起こるのですし、当たらなかったのならばそもそも予

測の意味も無いわけです。

 将来を予想している暇があるのなら、今を大事に、丁寧に

扱うことを心掛けた方が遥かに良い。


 今を大事に、丁寧に扱えば、次の瞬間を良い状態で迎えら

れます。そして、次の瞬間  次の今ですが  を、また大

事に、丁寧に扱えば、また良い状態が迎えられる。そうして

良い状態が続いて行くことになるのですから、その先には良

い将来が有るはずです(いつから先を「将来」と呼ぶのか知

りませんけど)。


 そして、「今この時」は、例えば一年前から見た「将来」

であるわけですが、今を大事に、丁寧に扱うのなら、一年前

から見た「将来」である今は、「良い将来」になっているわ

けです。大事にされ、丁寧に扱われて、良い状態なんですか

ら。


 今まさに困った事が起こっているとしても、その事を大事

に、丁寧に扱うのならば、その姿勢が自分に落ち着きをもた

らすはずですし、落ち着かなければ、大事に、丁寧に扱えま

せん。たとえ状況が具体的に改善しなくても、落ち着きがあ

ることはとても好ましいことです。


 たとえば、ガンになってあまり余命が無いとしましょう。

 「なぜこんな目に合うんだ、ちくしょう!」

 そんな風に自分の今をぞんざいに扱ったところでガンが治

るわけじゃない、今を大事にしなければ、今が荒れてしまう

だけのことで、状況はより悪くなる。

 そのような時に、そのような状況とそのような自分を大事

に、丁寧に扱って落ち着きを持てることは、それだけ幸福な

ことではないでしょうか?


 将来がどうなるのか?

 まぁ、誰でも不安になったり、都合の良い明るい未来を思

い描いたりしますが、それは人間のおかしな癖だと認識しつ

つ、今を大事に、丁寧に扱って、今を良いものにする・・・

それは過去の自分に対する敬意の表れとなるし、将来の自分

に対して親切でもあるでしょう。


 今、自分がどうするか?
 

 過去の幸福も、将来の幸福も、今が決定する。


 今というのは、途方もないものですね。







2024年7月5日金曜日

不可解な空白~『ビルの最上階』という曲のこと~



 井上陽水の曲に『ビルの最上階』というのがあります。そ

の曲は “楽観的にみても悲観的にも 不可解な空白が青空に

浮かんだまま” という歌詞で締めくくられるのですが、その

「不可解な空白」が十五階建てのビルの最上階に在って、そ

の下の各階では、人間たちがそれぞれに、その場だけのお話

しの中で時間と人生を消費しているといった曲です。


 わたしたちのアタマは「不可解な空白」がとても嫌いで

す。身の毛がよだつほど恐れていると言ってもいいでしょ

う。なので、空白があれば物理的かつ心理的にすぐ埋めよう

とします。そこには合理性のようなものがしつらえられます

が、そもそもが恐怖からの行動ですから、本当は合理性など

ありません。不条理な行動に合理性や正当性のようなものが

後付けされるだけです。ちょっと客観的に見れば、「アタマ

大丈夫かい?」というようなことが展開しています。

 曲の中でも「アタマ大丈夫かい?」という視点の、陽水の

シニカルな歌詞が続いてゆきます。(興味があれば聴いてく

ださい)


 私たちは常日頃、空白を埋めようと動き回っています。か

らだが動けなくてもアタマは動き続けて、思考の空白を埋め

続けます。

 断捨離などすると、空白を作っているように思えますが、

アタマの中は「自分は断捨離をしている🩷」という満足感で

埋まってゆきます。なので、断捨離し切ってしまって、満足

感が追加されなくなると、なんとも居心地の悪いことになる

はずです。アタマの中の空白を埋めるものが欲しくなるので

す。よほどの “宗教的達観” のようなものを身に付けている人

でなければ、きっとね。


 ビルの各階ではその場だけの不毛なお話しが繰り広げられ

ているのですが、それはそれぞれの階がそもそも空白であれ

ばこそ展開することができるのであって、“不可解な空白” は

最上階に限ったことではない。お話しの背後にはどこにでも

“不可解な空白” が広がっている。だから埋めて無いことにし

ようとしないで、在る(?)ものには目を向けた方が良い。

「不可解」ではあるけれど、それは「解く必要がない」とい

うことでもある。


 わたしたちの考えや行動になんら影響されずに、そこにあ

り続ける不変なもの、“空白” 。

 それを “楽観的” に見るか “悲観的” に見るかで、生きるこ

との感触は大きく違う。


 在るものを無いことにすれば、それは必ず問題を生むに決

まっているのだから、“楽観的” に見るのにしくはない。

 お話しはわたしたちを裏切るが、“空白” は決してわたした

ちを裏切ることはない。