2025年3月22日土曜日

カルトの本質

 
 
 「地下鉄サリン事件」から30年ということで、テレビがい
 
ろいろと報道している。「カルトは怖い」と思わせる代表的な
 
出来事ではあるけれど、カルトとは何なのか?カルトはどのよ
 
うに怖いのか? 
 
 
 私の考えるカルトとは、ある考えを中心に徒党を組んでいる
 
ということです。極端に言ってしまえば、徒党を組んでいる
 
ものはすべてカルトだろうと思います。そしてカルトの怖さと
 
は、徒党の持つ力であって、その思想ではない。
 
 ヤバいことを考えているとしても、一人では大したことはで
 
きない。超天才ハッカーとかなら、ネットから重要なコンピュ
 
ーターに入り込んで一人でテロが起こせるだろうけど、そうい
 
うのは特殊な場合だし、一人なら「カルト」とは言わない。
 
「カルト」の本質は徒党です。
 
 
 私は昔から群れるのが苦手だし嫌いです。生理的に避けてし
 
まいます。「なかよしこよしは なんだか怪しい」(©井上陽
 
水)、と本能的とでも言うぐらいにそう感じる。群れること自
 
体が胡散臭いんです。
 
 
 人はなぜ群れたがるのか?
 
 なぜ群れなければならないのか?
 
 
 自分の考えを自分で疑っているからでしょうね。

 
 自分の考えを心底肯定できないので、他の人との間で共感し
 
合うことで、肯定し切れない部分を誤魔化したいのでしょう。
 
そして、その共感の数が多ければ多いほど自分の考えが確かに
 
感じられるので、群れを大きくしたくなる。けれど、いくら群
 
れが大きくても誤魔化しは誤魔化しでしかありません。そして
 
群れる者は自分を誤魔化していることを心のどこかで気付いて
 
いるので、常に不安を抱えています。群れている限り救いはあ
 
りません。 

 
 釈迦は言っていますよね。「犀の角のようにただ一人歩め」
 
と。
 
  群れたがるのは、自分を誤魔化しているということだから、
 
群れていると真実に気付くことができなくなる。逆に言えば、
 
群れないことで真実に気付く可能性が生まれる。
 
 
 仏教では、修行道場のことを「叢林(そうりん)」と言うそ
 
うです。「叢」というのは「くさむら」ということで、「叢
 
林」とは植物が密集して生えている様子。修行僧が沢山集まっ
 
ていることで、曲がらずに上に伸びるしかないという意味があ
 
るそうですが、そういうのは危ない面がありますね。下手をす
 
れば徒党になる。なんだか怪しい・・・。

 
 釈迦の周りには、釈迦を師と仰ぐ者が大勢いたでしょうが、
 
教団などは作らなかったし、達磨も弟子なんか持たなかった         
 
  (二祖・慧可は後継ではあるけれど、弟子とは言えないで
 
しょう)のは、人といると自分を誤魔化すようになることを深
 
く認識していたからでしょうね。
 
 
 群れる者たちは否定されるととても怒る。自分たちの考え・
 
感覚に確信が持ち切れていないので、ちょっと否定されただけ
 
でぐらついてしまうから。そして極端な場合オウム真理教のよ
 
うなことを仕出かす。一方、絶対的な納得をしている者は、他
 
者を必要とはしないし、どのように否定されても揺るがない。
 
 「犀の角」のように、ただ一人、ゆるがずに居る。
 
 自分の考えを信じたりしない。信じる必要がないから。
 
 (もっとも、その考え・感覚がただの妄想なら、精神病院に
 
いることになるでしょうけど ・・・)
 
 
 「なかよし」なのは良いことです。けれど「なかよしこよ
 
し」になるとなんだか怪しい。お互いの間の何かを、自分たち
 
の周りの何かを見ないようにしている。そこには思考停止・感
 
覚遮断による誤魔化しが潜んでいる。
 
 
 人の集まりがすべて怪しいわけではないけれど、群れる者は
 
怪しい。それは宗教に限らない。企業だろうと政党だろうとど
 
のような結社だろうとコミュニティだろうと、それが「群れ」
 
なら怪しい。
 
 
 単なる「人の集まり」と「群れ」はどう違うのか?
 
 「群れ」は個々の違いを認めない。 
 
 「犀の角」のように独り歩む人は、さまざまに違う人たちの
 
中で揺らぐことなく居られます。その人は違いを認められるか
 
らです。

 
 「違うね😊」と言って笑い合えるような関係こそが、「なか
 
よし」であり、健全でしょうね。
 
 なかよしこよしはなんだか怪しい🤔




   

2025年3月17日月曜日

宗教とは?

 

 

 宗教とは?

 
 このブログを始めた当初からこのことを書こうと思いなが
 
ら、なんとなく後回しになってきた。別に避けていたわけでも
 
ないので、自分で「なぜなんだろうなぁ」とは思うけれど、
 
まぁ面倒な話であることは確かですね。これからその面倒をこ
 
なしてゆきたいと思います。
 
 
 まず始めにやらなければと思うのが「仏教は宗教なのか?」 
 
ということです。もちろん仏教も宗教としての部分が大きい。
 
お経を上げ、仏像などを拝んでお祈りをし、ご利益を求め、戒
 
律も有るし、極楽や地獄などの話も有る。そういう部分は宗教
 
に違いない。けれども本来釈迦が教えたのは、精神分析や哲学
 
のような考察と観察から得た、世界というものと生きるという
 
ことについての気付きです。それを元に、人が苦悩から解放さ
 
れ、穏やかに生きるために個人がどういう心構えであるべきか
 
という事を語ったのであって、信仰を求めたのではない。それ
 
が本来の仏教ですが、後の人々が人間的な色付けをして宗教に
 
してしまった。なので、宗教ではあるけれども、宗教ではな
 
い。
 
 キリスト教もそうでしょう。イエスも、ただ自分の気付きを
 
語っただけで、後の人々がイエスを祀り上げて宗教にしてしま
 
った。
 
 他の宗教については私はよく分かりませんし、個々に深入り
 
したくもないので触れませんが、基本的に宗教というものは
 
「帰依し、信仰し、教えに従えばしあわせになれる(極楽・天
 
国に行ける)」という形です。要するに、ご利益を頂く為の活
 
動ですが、それは取引です。「帰依し、信仰し、教えに従うか
 
ら、良い目にあわせてください」ということですから。だから
 
「神との契約」という言葉なんかも使われるのですね。
 
 そういう風に捉えると、宗教とは社会的活動の原初的なもの
 
だと思います。「社会の中の人」として良くあろうとするもの
 
で、個人が生きることとは直接つながっていない。社会的な繋
 
がりの中でしあわせを得ようとする活動ですから、教団や宗教
 
的コミュニティとの関りが重要になるわけです。
 
 ということで、どのような社会であっても宗教が発生する。
 
宗教は社会の成立と不可分です。無宗教な人や社会もあると思
 
われるでしょうが、そういう人や社会は、科学・経済・ヒュー
 
マニズムなどを信仰しているのであって、それらも宗教です。
 
違うように装っていますがね。

 
 以前『信じる者に救いはない』(2023/10)という話を書
 
いていますが、宗教は信じることを求めるものであるので、宗
 
教は人を救わない。
 
 一見宗教ではない、科学・ヒューマニズムなどの思想・お金
 
なども、いくら信じてもそこに救いはない。ひと時の安心は得
 
られるかもしれませんが・・・。
 
 
 なので私は宗教的な話はしたくない。このブログでは仏教な
 
どの話をさんざん書いているわけですが、それらのことを信じ
 
書いているのではありません。自分が知的に、あるいは感覚
 
的に「良い」と感じることを話題にしています。 
 
 
 とはいうものの、私も宗教的なこととは無縁ではありませ
 
ん。社会の中に生まれ、社会の中で生きているのですから、社
 
会的な部分の落ち着きを持つためには、宗教的な思考や感覚無
 
しではいられませんが、ご利益を求めて神や仏と取引する気は
 
ありません。それはあまりに不遜です。
 
 私が神や仏を拝むのは、この〈世界〉というものと自分が一
 
つのものであることを確認するための依り代としてです。信じ
 
る必要がないものの中で生きているということの気付きを見失
 
わないためです。(空や鳥やハエやゴミや地面だって拝んだり
 
します)

 
 社会で生きる上で、わたしたちに宗教は必要でしょう。それ
 
を否定する気はありません。ただ充分に気を付けないと宗教は
 
人を誤らせる。結局のところ、個人にとって宗教は関係のない
 
ものです。個人は宗教とは関係なく世界とつながっているので
 
すから。
 
 信じることをやめたとき、人は世界の真実を目にします。
 
 
 
 

2025年3月16日日曜日

何も理解していない

 
 
 わたしたちは言葉を使って世界のあらゆることを理解しよう
 
とします。例えば「リンゴの木は植物である」などと。しか
 
し、これは実のところ何も理解していない。さらに次の疑問が
 
表れるからです。「植物とは何か?」。
 
 「植物とは、空気や水から養分を得て生きてゆく生物」
 
 では「生物とは何か?」・・・
 
 キリがないので止めますが、このようにあと数回掘り下げる
 
と、「この世界とは何か?」というような究極の疑問が出て来
 
てしまいます。で、そこで行き詰まる。
 
 
 わたしたちは何も理解していない。何も理解できない。わた
 
したちが言葉を使ってできることは、表面的で一時的なつじつ
 
ま合わせだけ。むしろ表面的にでもつじつまが合うのなら良い
 
方で、つじつまが合わないままに途中で思考放棄して自分に都
 
合よく納得しようとするのが普通のやり方です。それなら、始
 
めから思考放棄した方が謙虚でずっと良い。偏見・こだわりが
 
無くて、視野が広がりますからね。
 
 でもまぁ、そういう上品な人はなかなかいないので、思考放
 
棄と思考放棄が絡まり合い、対立し合って、にっちもさっちも
 
行かないのが世の中というものです。その世の中を理解して思
 
考でなんとかしようとするのですから救いが無い。
 
 
 わたしたちは何一つ理解できない。
 
 わたしたちには何も解けない。
 
 そもそも世界を解くことはできない。
 
 世界はそういう性質のものではない。

 
 人が解きたがるのは「思考する」という病気を持っているか
 
らですが、思考しなければ生きれないという事情もあるので、
 
「思考する」ことが病気であると認識する人は多くない。けれ
 
ど「思考する」ことは、かなりの割合で人を死に導きもする病
 
気です。自分を追い詰めるだけでなく、他者をも死に至らしめ
 
もする。そういう「思考する」ことの害をすべての人がよく認
 
識するべきなのでしょうけど、社会がそれを良しとしないので
 
ほとんど語られることはない。
 
 「思考する」ことによって社会は動いて行くので、むしろ社
 
会は「思考することで良いことがもたらされる」という意識を
 
人に植え付ける。その上で、社会に大きな問題が起きても、そ
 
の責任は問題を起こした個人に転嫁されて「思考する」ことそ
 
のものの問題は語られない。
 
 
 社会が思考させ、思考が社会を作り、動かして行く。
 
 それは個人のしあわせには関係のない不毛な活動ですし、社
 
会はより複雑なものになって、人は生きづらくなるばかり。
 
 
 もちろん思考することなくしては人は生きられません。人の
 
本能は不完全ですからね。けれど、生きるためのものである
 
「思考」が人を死に導くのは本末転倒でしょう。
 
 
 
 〈 アタマは悪さをする 〉
 
 それがこのブログのメインテーマですが、本当にアタマは悪
 
い。本質的には何も理解できないのに、理解したと自らを暗示
 
に掛けて自分自身や関わる人や事を引っ掻き回す・・・。その
 
悪さだけは知っておくべきでしょう。自分と周りの安らぎを、
 
なるべく自分で乱さないために。