わたしたちは言葉を使って世界のあらゆることを理解しよう
とします。例えば「リンゴの木は植物である」などと。しか
し、これは実のところ何も理解していない。さらに次の疑問が
表れるからです。「植物とは何か?」。
「植物とは、空気や水から養分を得て生きてゆく生物」
では「生物とは何か?」・・・
キリがないので止めますが、このようにあと数回掘り下げる
と、「この世界とは何か?」というような究極の疑問が出て来
てしまいます。で、そこで行き詰まる。
わたしたちは何も理解していない。何も理解できない。わた
したちが言葉を使ってできることは、表面的で一時的なつじつ
ま合わせだけ。むしろ表面的にでもつじつまが合うのなら良い
方で、つじつまが合わないままに途中で思考放棄して自分に都
合よく納得しようとするのが普通のやり方です。それなら、始
めから思考放棄した方が謙虚でずっと良い。偏見・こだわりが
無くて、視野が広がりますからね。
でもまぁ、そういう上品な人はなかなかいないので、思考放
棄と思考放棄が絡まり合い、対立し合って、にっちもさっちも
行かないのが世の中というものです。その世の中を理解して思
考でなんとかしようとするのですから救いが無い。
わたしたちは何一つ理解できない。
わたしたちには何も解けない。
そもそも世界を解くことはできない。
世界はそういう性質のものではない。
人が解きたがるのは「思考する」という病気を持っているか
らですが、思考しなければ生きれないという事情もあるので、
「思考する」ことが病気であると認識する人は多くない。けれ
ど「思考する」ことは、かなりの割合で人を死に導きもする病
気です。自分を追い詰めるだけでなく、他者をも死に至らしめ
もする。そういう「思考する」ことの害をすべての人がよく認
識するべきなのでしょうけど、社会がそれを良しとしないので
ほとんど語られることはない。
「思考する」ことによって社会は動いて行くので、むしろ社
会は「思考することで良いことがもたらされる」という意識を
人に植え付ける。その上で、社会に大きな問題が起きても、そ
の責任は問題を起こした個人に転嫁されて「思考する」ことそ
のものの問題は語られない。
社会が思考させ、思考が社会を作り、動かして行く。
それは個人のしあわせには関係のない不毛な活動ですし、社
会はより複雑なものになって、人は生きづらくなるばかり。
もちろん思考することなくしては人は生きられません。人の
本能は不完全ですからね。けれど、生きるためのものである
「思考」が人を死に導くのは本末転倒でしょう。
〈 アタマは悪さをする 〉
それがこのブログのメインテーマですが、本当にアタマは悪
い。本質的には何も理解できないのに、理解したと自らを暗示
に掛けて自分自身や関わる人や事を引っ掻き回す・・・。その
悪さだけは知っておくべきでしょう。自分と周りの安らぎを、
なるべく自分で乱さないために。
0 件のコメント:
コメントを投稿