「神様に選ばれた人」という言い方がありますよね。「成功
者」ということでしょうけど、安直な表現だなぁと思います。
人は皆、神様に選ばれてそれぞれ生まれて来るし、神様に選
ばれてそれぞれ暮らしているし、神様に選ばれてそれぞれ死ん
でゆく・・・そういうもんだと思います。
結局のところ、この世のすべては神様が選んだわけで、その
中の何かを取り立てて神様が選んでいるわけじゃない。神様
は、誰も、何も、選んでいはない。
人なら人、トカゲならトカゲ、木なら木・・・、すべての存
在は、それぞれのままに、それぞれの在り方で存在するように
選ばれている。
善人は善人のままで、悪人は悪人のままで、長生きは長生き
なりで、早死には早死になりで、天才は天才として馬鹿は馬鹿
として・・・。すべての人が 、すべての存在するものが、そう
あるように選ばれている。神様の意向を人があれこれと選別す
るけれど、それはアタマの一人相撲でしかない。
「神はサイコロを振らない」
本当にそうです。もしも神がサイコロを持っているとした
ら、人用のサイコロは八十億面体でしょうけれど、神はサイコ
ロを振らず、わたしたちにサイコロのそれぞれの一面であるこ
とを割り振っているだけ。サイコロは振られず、サイコロの周
りで世界が展開してゆく、夜空の星が動いてゆくように・・。
仮に私が、神のサイコロの “二億三千六百三十八の目” であ
るとしたら、私はただその目であるだけでいい。いや、そうで
あるべきだし、そうあるしかない。
サイコロから離れて、“自分というサイコロ” を振れば、博打
を打つことになる。それは興奮することかもしれないが、自分
からはぐれてしまうことだろう。
いま自分が在る。
それは神様に選ばれているということ。
人は、“神のサイコロ” であることを楽しめば、それでいいん
じゃないだろうか?
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