2019年2月24日日曜日

抜けないトゲ



 私には妄想癖がある。

 「この『アタマが悪い』というブログ自体が妄想だ」と言わ

れても、積極的に反論もできない。「さもありなん」と思う。

 時には、ひとりで感動話を妄想して、ひとりで涙している

事さえある。始末が悪い。けれど、それで誰かに迷惑を掛け

るわけでもないので別に問題も無い。しかし、このブログに

は問題があると言えばあるでしょう。


 このブログを見る人は、“たまたま見てしまう” いわば

「通りすがりの人」です。その人がごく常識的に生きていら

っしゃる人の場合(そういう人の方が多いわけですが)、い

きなり《正しいとはそういうことにしておけば気が済むとい

うこと》だとか、《人には自由意志というものは無い》など

ということが冒頭に書かれていたりするのを見てしまうと、

駅で人身事故の現場に居合わせてしまったような、なんとも

イヤな気分になるのではないかと思うのです。消したいけど

消せない記憶というか、「抜けないトゲ」がささるという

か、そんな感じになりかねない。

 私の価値感やしあわせの定義とは違い、常識的なものの見

方で、それなりに落ち着いて暮らしてらっしゃる人に、こん

なものせていいのか? という思いも有るわけです。


 一休さんの歌に、《 釈迦という いたずら者が 世に出でて

多くの人を惑わすかな 》というのがありますが、余計な事

を言う奴がいるから、かえって人が要らない悩みを抱えると

いうことも確かに有りますね。そういう意味では「申し訳な

いなぁ」と思いますが、一休さんの歌も一休さん独特のアイ

ロニーであって、「釈迦などいない方が良かった」と言って

いるわけではない。釈迦がいなければ、一休さんもいない。

そんなこと一休さんは百も承知ですね。

 人は皆、普通の常識の中で惑いに惑っているのですから、

釈迦に惑わされた方が良いわけです。私もそう思います。だ

から、このブログで「抜けないトゲ」が刺さる人も、それが

ご縁だと思ってもらったらいいでしょう。世の中何が起こる

か分かりません。人間万事塞翁が馬。(それはともかく、自

分とお釈迦さまを同列に扱うのもどうなの?)


 話は意外な方へ飛びますが、騒音防止や地震の揺れを抑え

る考え方で、逆の位相の波を当ててそれを抑える方法が有り

ますね、ノイズキャンセリングヘッドホンなどに使われてい

る・・。お釈迦さまの語った事というのは、そういうことだ

と思うんです。人の常識が肯定している事を否定し、否定し

ている事を肯定するという。

 常識の波(常識の思考)に揺さぶられて苦しんでいる人間

に対して、それを相殺する考えをぶつけることで、心が波立

つのを抑えて平静にしてしまおうとするんですね。


 もともと、この世界は是も非も無い平静な世界なのに、エ

ゴが偏った見方で捉えてしまう為に、わたしたちの心は波立

ち乱れ、世界が凸凹に見え、騒々しくなってしまう。だから

「是非善悪は偏見だよ」と、是にはその非を、非にはその是

を、善にはその悪を、悪にはその善を示して、「本来はなん

でもないんだよ」と気付かせようとしている・・・。


 今まで何度かその言葉を引用していますが、沢木興道老師

はこんなことも言っています。

《 なんともないところへ誘い込もうというのが仏法じゃ 》


 「なんともないんじゃつまんない・・」と思うのが普通で

しょうが、それは不安をごまかそうと刺激を求めることに慣

れ切ってしまって、「なんともないこと」を体験していない

だけですね。「なんともないこと」は、ただ退屈なだけだと

思っているだけ。「なんともないこと」を、ちゃんと、深

く、心で味わってみた事が無いのです。常に、アタマで世界

と対応しているから、世界が平静であることに耐えられな

い。アタマは自分が特別だと思いたいですから、「世界がす

べてなんともない」なんて許せないのです。

 でもその結果、「自分は特別だ」と思おうとして、余計な

事をして自分で苦しむ。アタマが悪い。


 だから、アタマが聞きたがらない言葉が役に立ったりする

わけです。

 「ヤだな・・・」と思うということは、その事が自分にと

って大きな意味を持っている証しですね。そのことが、自分

を苦しめている “自分という在り方” を解消する鍵になる。


 「抜けないトゲ」が抜けないのは、トゲのせいではなく

て、そのトゲが刺さっているアタマ(エゴ・思考)がカチカ

チだからです。

 自分(エゴ)を守ろうと、あまりにも防御を固め過ぎてい

るからです。極端に言えば、そもそも自分が無ければトゲの

刺さりようが無いわけですから。


 「明日死ぬかもしれないよ」とか、「自分なんて思い込み

だよ」なんて言われて、不安になったり不愉快になったりす

るのは、防御を固め過ぎているからですね。だって、わたし

たちは本当に「明日死ぬかもしれない」し、自分でも自分の

事が分かっているわけじゃないですから。


 「なんでもないこと」が「すばらしいこと」だと思えるな

ら、それは “特別” じゃないでしょうか?

 私は、「なんでもないこと」の広大無辺さを知る方がいい

と思っていますけどね。




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