2019年2月14日木曜日

「死」から生まれて来た


 「死」という言葉ほど、わたしたちにネガティブなイメー

ジを持たせる言葉はないだろう。わたしたちが最も忌み嫌う

事を表わしているのだから。

 わたしたちが死ぬと、死の世界に入る訳だけれども、そこ

はわたしたちが生まれる前に居たところでもある。わたした

ちは「死」から生まれて来た。


 こういう表現に違和感を覚える人も多いことと思う。“死

んだら「死」” 、というのは当然だけども、“「死」から生

まれる” というのは、何やら心穏やかではない感じです。

 けれど、自然界では「死」は次の「生」へと循環してい

る。わたしたち人間も例外ではない。


 当然だけど、この地球上のすべての生き物は、物質で出来

ている。その身体を作っているのは、海や大地や大気が持っ

ている成分と同じであって、生き物はその成分の循環の中に

組み込まれている。そして、地球の物質の総量に比べて、生

き物の総量は圧倒的に少ない。この地球の上で、生き物が存

在するベースとなっているのは “物質” だということは疑い

ようが無いことです。

 生き物が死ぬと、その身体はいったん生物では無い状態に

戻る。身体の内外で、即、細菌が増殖し始めたりするので、

厳密にはそうとも言い切れないですが、“その個体” として

は、無生物に戻る。

 生き物が生まれる時は、親の身体に取り込まれた物質が卵

細胞として再構成され、そこから新たな命がスタートする

(細菌などはまた違うけれども)。死んでから存在する所

と、生まれる前に存在する所は同じです。その世界は「生」

ではない世界ですから、つまり「死」の世界です。わたした

ちは「死」から生まれて、「死」へと戻って行く。


 「死」なんて言葉を使わずに、「あの世」とか言えばもう

少し当たり障りが良いのかもしれませんが、「あの世」では

ちょっと宗教臭いというかオカルトっぽいので、使いたくな

いという気分があります。

 今回「死」と何度も書いているのは、「死」という言葉の

イメージを変えてもいいんじゃないかと思ったからです。

 「死」=「おわり」ではなくて、「死」=「生の母体」と

いったイメージに捉えてみたいんです。



 わたしたちは生きているので、どうしても「生」の側から

「死」を捉える。

 「死」が何か分からないし、「生」がいまの自分の在り方

で、常に生きようとする衝動に突き動かされているので、

「死」に対して否定的な思いを抱かざるを得ない。

 けれど、先ほど書いたように、この世界は「死」がベース

になっている。「生」は、「死」から生み出される存在の

り方の一つの形式です。

 わたしたちは、「死」を、わたしたちより大きく、わたし

たちを包括するものとして捉え直した方が良いのだと思う。

どんなに否定しても、どうせ必ず死ぬしね。


 「生」は、「死」から生み出される。

 わたしたちが “自分” や “自分の大事な◯◯” という個体

にこだわらなければ、恐ろしいものではない。逆に、「死」

は “「生」へのモーメント” に満ちた、限りなく豊かな世界

と捉えることが出来る(「だったら死んでみろ」なんて、せ

かさないでね)。


 老子が語った〈タオ〉とは、「死」のことだともいえるで

しょう。

 〈タオ〉というのは、「生」さえ懐に入れた、「死」とい

う “世界の働きの根源” のことだと。


 「死」は冷たく停止しているのではない。

 「死」は、動き続け、変わり続ける。

 「生」よりも高次の存在。

 「生の母体」であり、《命》の総体。

 わたしたちはそこから生まれて、そこへ帰る。


 自爆テロをするような「死を怖れない」という意味じゃな

く、普通に生きて普通に死ぬ暮らしの中で、「死は『生の母

体』」と捉えて「死」を怖れなくなれば、人は穏やかに生き

られるはずです。なぜなら、「死」がわたしたちの不安の

源であり、不安がわたしたちの愚行の根源だからです。


 「死」は「生」の破壊ではない。

 「生」は「死」から作られる。

 わたしたちは「死」から生まれて来た。

 ほんとうは、「死」は温かい(ような気がする・・)。

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