前々回、自然が人工環境に慣れて、人工環境さえその懐に
取り込み始めたのではないかというような事を書いたけれ
ど、自然が街の中に浸潤してきたように、「出しゃばり過ぎ
たアタマ(思考)を身体(感覚)が押し戻す」というような
ことが、密かに起こり始めているのかもしれないなどと思
う。
鬱病だとかパニック障害だとか、引きこもりやニート、さ
まざまな依存症なんかが増えていること。すくなくともそう
いったことが広く取り沙汰されるようになっていることは、
極限まできつくなってきたアタマの支配に、感覚(身体)が
耐えきれなくなって来たことを物語っているように思う。
もう限界なんだろう。アタマの暴走に対応できない人間が
どんどん増えてきて、社会はそれを無視できなくなってきて
いるのではないだろうか。
前に『見えないデモ』(2019/9)という話を書いたこと
があるけど、先に挙げた問題はアタマの暴走に対する無意識
の抗議、反抗なのだろう。セルフネグレクトなんかもそうな
んだろうなと思う。
人類の歴史の中で、多くの革命が起きて来たけど、新しい
革命が起きようとしているのかもしれない。
これまで、革命に参加した者たちは、既成の社会に対して
反旗をひるがえし、立ち上がり、立ちふさがり、対抗し、闘
い、新しい社会を作った(その社会も、結局新たな問題をう
みだすのだけど)。けれど、この度の革命はそれとは違うの
ではないか。これまでは、社会の中に改革者の考えを具体化
する余地があった。けれど、この社会にはもうその余地が無
さそうだ。
人が社会に付け加えうる、新しく、具体的なアイデアはも
う出尽くし、極限まで管理された世界には、既成の社会を受
け入れられない人間が立つスペースが残されてはいない。そ
して自然な成り行きとして、社会からはみ出した人間は、は
み出したままで生きようとするしかない・・・。
ところが、その結果、まったく意図していないにも関わら
ず、はみ出した人間たちは無意識に革命を起こしているのか
もしれない。新しい革命のスタイルは “社会に参加しない
(できない)” 、 “社会に関わらない(関われない)” というこ
と。
新しい革命家たちは、反旗などひるがえさない。立ち上が
らない。立ちふさがりなどしない。対抗しない。闘わない。
新しい社会を作ろうとはしない。 ただただ、社会に対して無
言で、無意識で、「NO」と言う。「NO」と言わざるを得
ないので・・・。
そんな消極的で無気力とも見えるような人間たちから、
「革命」と呼べるような、社会を変える力など現れるのか?
社会というものは、当然ながら人が集まらなければ力を持
たない。人が集まれば集まるほど、社会の力は増す。もし
も、「もう社会に参加したくない。できない」という人間
が、どんどん増えれば、その社会は、それまでの形を維持で
きなくなる。
「ブラック企業」からまともな人が逃げ出すように、「ブ
ラック社会」からはまともな人間 本来そうあるべき人
間 は逃げ出す。人がいなければ社会は動けない。動けな
くなった社会は変わらざるを得ない。それは革命ではないだ
ろうか?
“社会不適応者” を持ち上げすぎだろうか? でも、不適応に
なるには、そこにはそれなりの理由が有る。それなりの必然
性が有る。けれど、それはハッキリとは言葉にならないの
で、彼らは身を以て「社会の不完全さ」の部分を具現化して
みせる(そもそも “完全な社会” は存在し得ないのだが)。
“社会不適応者” は社会が生む。当たり前と言えば当たり前
な話だ。
現代社会はその構成員に対する要求レベルを加速度的に引
き上げてきた。肥大化し複雑を極めるこの社会の中で活動す
るには、人間的ではいられない。社会は高度になるほど、人
を選ぶ。そこから外れる者が増えるのは当たり前。それはも
う普通の人間の精神を疲弊させてあまりあるものになってし
まったのだ。
“社会不適応者” の数が、ある閾値を越えた時。その社会は
機能不全に陥る。そして社会は変わり始める。
無言で、無力な、大勢の人間たちの無為によって、人間の
社会がかつてない変革を向かえるかもしれない・・・。
まぁ、「しれない・・・」って話なだけだけれど、もしか
すればもしかするかもよ。