2020年11月27日金曜日

新しい革命



 前々回、自然が人工環境に慣れて、人工環境さえその懐に

取り込み始めたのではないかというような事を書いたけれ

ど、自然が街の中に浸潤してきたように、「出しゃばり過ぎ

たアタマ(思考)を身体(感覚)が押し戻す」というような

ことが、密かに起こり始めているのかもしれないなどと思

う。


 鬱病だとかパニック障害だとか、引きこもりやニート、さ

まざまな依存症なんかが増えていること。すくなくともそう

いったことが広く取り沙汰されるようになっていることは、

極限まできつくなってきたアタマの支配に、感覚(身体)が

耐えきれなくなって来たことを物語っているように思う。

 もう限界なんだろう。アタマの暴走に対応できない人間が

どんどん増えてきて、社会はそれを無視できなくなってきて

いるのではないだろうか。

 前に『見えないデモ』(2019/9)という話を書いたこと

があるけど、先に挙げた問題はアタマの暴走に対する無意識

の抗議、反抗なのだろう。セルフネグレクトなんかもそうな

んだろうなと思う。


 人類の歴史の中で、多くの革命が起きて来たけど、新しい

革命が起きようとしているのかもしれない。

 これまで、革命に参加した者たちは、既成の社会に対して

反旗をひるがえし、立ち上がり、立ちふさがり、対抗し、闘

い、新しい社会を作った(その社会も、結局新たな問題をう

みだすのだけど)。けれど、この度の革命はそれとは違うの

ではないか。これまでは、社会の中に改革者の考えを具体化

する余地があった。けれど、この社会にはもうその余地が無

さそうだ。

 人が社会に付け加えうる、新しく、具体的なアイデアはも

う出尽くし、極限まで管理された世界には、既成の社会を受

け入れられない人間が立つスペースが残されてはいない。そ

して自然な成り行きとして、社会からはみ出した人間は、は

み出したままで生きようとするしかない・・・。

 ところが、その結果、まったく意図していないにも関わら

ず、はみ出した人間たちは無意識に革命を起こしているのか

もしれない。新しい革命のスタイルは “社会に参加しない

(できない)” 、 “社会に関わらない(関われない)” というこ

と。


 新しい革命家たちは、反旗などひるがえさない。立ち上が

らない。立ちふさがりなどしない。対抗しない。闘わない。

新しい社会を作ろうとはしない。 ただただ、社会に対して無

言で、無意識で、「NO」と言う。「NO」と言わざるを得

ないので・・・。


 そんな消極的で無気力とも見えるような人間たちから、

「革命」と呼べるような、社会を変える力など現れるのか?


 社会というものは、当然ながら人が集まらなければ力を持

たない。人が集まれば集まるほど、社会の力は増す。もし

も、「もう社会に参加したくない。できない」という人間

が、どんどん増えれば、その社会は、それまでの形を維持で

きなくなる。

 「ブラック企業」からまともな人が逃げ出すように、「ブ

ラック社会」からはまともな人間  本来そうあるべき人

  は逃げ出す。人がいなければ社会は動けない。動けな

くなった社会は変わらざるを得ない。それは革命ではないだ

ろうか?


 “社会不適応者” を持ち上げすぎだろうか? でも、不適応に

なるには、そこにはそれなりの理由が有る。それなりの必然

性が有る。けれど、それはハッキリとは言葉にならないの

で、彼らは身を以て「社会の不完全さ」の部分を具現化して

みせる(そもそも “完全な社会” は存在し得ないのだが)。


 “社会不適応者” は社会が生む。当たり前と言えば当たり前

な話だ。 

 現代社会はその構成員に対する要求レベルを加速度的に引

き上げてきた。肥大化し複雑を極めるこの社会の中で活動す

るには、人間的ではいられない。社会は高度になるほど、人

を選ぶ。そこから外れる者が増えるのは当たり前。それはも

う普通の人間の精神を疲弊させてあまりあるものになってし

まったのだ。


 “社会不適応者” の数が、ある閾値を越えた時。その社会は

機能不全に陥る。そして社会は変わり始める。

 無言で、無力な、大勢の人間たちの無為によって、人間の

社会がかつてない変革を向かえるかもしれない・・・。

 まぁ、「しれない・・・」って話なだけだけれど、もしか

ればもしかするかもよ。





 

2020年11月23日月曜日

真っ当な(真っ当であろう)話。



  “「分ける」意識” を脇にどければ、しあわせになる。


 そんなことをこの前書いて、その続きを次に書こうとして

いたのだけれど、家の前でイソヒヨドリを見かけたものだか

ら、そっちに気を取られて、「続き」を書くことを忘れてし

まい、別の話題を書いてしまった。

 ということで、一回飛んで、今回が続きです。


 “「分ける」意識” を脇にどければ、しあわせになるという

が、なぜ真っ当か?


 「しあわせ」という言葉は、「し合わせる」  「し」は

「彼が料理を・・」などという時の「し」で、「物事が行

われる・起きる」という意味だそうだ  ということで、

「物事と物事が合わさって良い状態になる」ことから来てい

る言葉だそうだ。「良いめぐり合わせ」、要するに「ラッキ

ー(幸運)」ってことですね。でも、私が言いたい「しあわ

せ」は、「ラッキー」ということではない。「ラッキー」か

らも「アンラッキー」からも解き放たれた状態を、しょうが

ないので「しあわせ」という言葉で表しているんです。

 「安心(あんじん)」とか「涅槃」とか「解脱」とかいう

言葉を使えばいいんですが、それだと仏教臭くなる。これま

での話の流れでは使いたくないんですね。日本人には宗教ア

レルギーみたいな人が大勢いるので、はじめから「今回は仏

教について語ろう!」みたいなことでなければ、“仏教丸出

し” 感のある言葉は使いたくない。

 で、仮に「しあわせ」という言葉を使ってるわけですが、

本当は言葉にできない。


 言葉は「分ける」ことで初めて成立し、機能するのです

が、私は “「分ける」を脇にどける” と言っているのですか

ら、それは言葉にできない。あえて強引に言えば「すべが合

わさっている完全な状態」が本当の「しあわせ」とでも言う

のでしょう。


 実際に、わたしたちの目の前には世界がある。自分の身体

も世界の一部としてある。その中に自分の思考があり、それ

らに気付いているこの意識がある。それを誰も否定しないで

しょう。(真っ当でしょ?)

 その “世界” を「分けない」。

 「分け」なければ、世界は丸ごとそのままここに在るわけ

です。というより本当は「分けられない」ものを、アタマが

「分けた」つもりになっているに過ぎない。アタマが「分

け」ようが、意味付けしようが、そんなことは関係ない。“世

界” はアタマの右往左往も飲み込んで、そのまま、丸ごとの

ままに在り続けている。「すべてが合わさっている」その 

“丸ごとのままの味わい” を「しあわせ」と言っています。


 その “丸ごとのままの味わい” というものが、誰の中にも常

にあるのです。アタマが「分ける」からそれが分からなくな

るのです。いや、気付けなくなるのです。


 実は、わたしたちはいつもそれに気付いている。いつも

を味わっている。けれど、普段は、自分が生きているとい

うことを忘れて、生きている。普段は自分の心臓が動いてい

ることを忘れて生きている。自分の周り全方位にこの世界が

広がっていることを忘れて生きている。それは「分ける」か

ら。「分けたもの」に意識が向くから。そのせいで、他のす

べてを忘れてしまうから。


 アタマは、四六時中、世界を分けている。それは止められ

ない。

 無心になんてなれない。

 思考を止めることはできない。

 無我になんてならない。

 苦しみはなくならない。


 でも、無心で無思考で無我の、〈意識の本体〉とでも言う

べきものがわたしたちを包んでいる。わたしたちの中にまで

広がっている。そこから、悩んだり苦しんだり怒ったり笑っ

たり欲張ったり悲しんだりしているアタマの右往左往を観て

いることはできる。実は誰でも四六時中そうしている。アタ

マの大騒ぎに気を取られてしまっているだけなんだ。


 自分が悩んだり苦しんだりしている時、悩んだり苦しんだ

りしていることを〈自分〉で気付いているでしょう? その

〈自分〉はどこにいるのか?


 「分ける」ことから逃れられないアタマの、後ろに、周り

に・・・。

 アタマが走り回るフィールドとして、アタマが思考を描く

キャンバスとして、“丸ごとのまま” を味わっている〈意識の

本体〉がある。

 実は、誰でも、いつでも、そこにいる。

 そこには、「しあわせ」しかない。


 すごく真っ当な話だと、私は思いますが。

 もしかして「狂ってる」?



2020年11月22日日曜日

『ラピュタ』へ近づく

 

 家の前の縁石の隙間に、三年ほど前からカンサイタンポポ

が生えている。もう長いこと、街中で見かけるタンポポはセ

イヨウタンポポばかりだったけど、最近は少し事情が変わっ

てきた。近くの道路沿いや側溝ではエゾタンポポのようなタ

ンポポも何株か有る。

 人間が、在来種の生きられる環境を攪乱し、改変し、一度

は追いやられた在来種が、街の環境に適応し始めたんじゃな

いかと思っている。残念ながらシロバナタンポポは戻ってな

いが。


 アスファルトとコンクリートで固められた環境は、乾燥す

る。それに加えて、コンクリートから溶出するカルシウム分

で、わずかな土壌もアルカリ化する。それは、もととも酸性

土壌である日本で生きてきた在来種の多くには不向きなの

で、多くの在来種は街に住めなくなってしまったと考える。

 ところが、高度経済成長から半世紀が経ち、街から追いや

られた在来種たちは、世代を重ねるうちに、何度も新しい街

の環境へとトライし、最近になって、街の環境に適応できる

ものたちが現われたのだろう。


 今年は全国でクマの被害が多いという。山の木の実が少な

いから人の生活圏に出てくるというのが定説のようになって

いるけど、それだけではあるまい。

 クマに限らず、さまざまな野生動物にとって、人間の作り

出した環境は異常で警戒を要するものだったろうが、五十年

の間に彼らは世代交代を重ね、彼らにとっても人工環境は当

たり前のものになり、人間の作り出した環境を問題視しなく

なったのだろう。もはや、人工環境も自然の一部になったの

だ。だから、札幌の市街地にヒグマが出てきたりする。

 我が家でも、この夏はアライグマが来て、裏に置いてある

棚をひっくり返したし、玄関先をタヌキが駆け抜けたりもす

る。五年ほど前からは、町内にイソヒヨドリが住み着いてい

るし、十年ほど前からは毎年冬にジョウビタキがやって来る

が、そのような例は全国にいくらでもある。

 街も、彼らの行動エリアに取り込まれた以上、人は野生動

物との関わり方を考え直さなければならないだろうね。時代

が変わったのだ。


 神戸という町は、六甲山の南部・西部・北部を取り囲むよ

うにして成り立っていて、私は昔から南部に住んでいる。山

の 300~400mあたりまで建物が這い上がるように進出して

いて、以前は、六甲山を見ると、「自然を喰ってる」という

印象だったのだが、最近はその印象が変わってきた。

 神戸市の政策でグリーンベルト構想というのが有って、六

甲山から流れる川沿いに緑地を保全してきた。その植生がか

なり育ち、海沿いから見ると山が街の中に浸潤してきてるよ

うに感じるようになったのだ。

 「なんか、『ラピュタ』みたいになってきたな」とこの夏

に思ったりもした。


 この先、自然はどんどん人間の作った環境に浸潤してくる

ことだろう。

 それを「自然の反撃」というように捉える者もいるだろう

が、自然の中での人為の限界が露わになってきただけなんじ

ゃないだろうか。

 人間のムチャな振る舞いに、少し面食らって引いていた自

然が、「なんてことないな」と元の場所に戻り始めたという

感じだろう。

 「そんなのイヤだ。怖い、気持ち悪い」という人間の方が

多くて、今まで通り自然を排除し続けようとするかもしれな

いけど、そのコストはこれまで以上に大きい物になるだろう

ね。


 『天空の城ラピュタ』のクライマックスで、シータがこう

言うね。
 

 「どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想な

ロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ」


 地面を覆い隠し、タワーマンションを建て、土から離れよ

うとして来たけど、所詮、人間は自然(土)の一部の存在。

たった五十年で、わがままは通らなくなってきたんだ。


 シータは、ムスカという “観念の象徴” に、お下げ髪を切ら

れて少女から大人になる。そして、『ラピュタ』という “命

象徴” を守る決意をする。

 私たちも、もう大人になる時が来ているのだろう。


 さて、私もいい大人なんだから、アライグマとどう付き合

うかを考えないと。厄介だけど・・・。



2020年11月20日金曜日

"自分” が無い時



 前回の最後の方で、何の気なしに「“自分” は無い方がしあ

わせなんだから」と書いてしまった。このブログを今まで読

んだことがない人が見たら、「何それ?」「どういうこ

と?」という話だろうけど、まぁそういう話ばかり書いて来

たので、書いてる当人からすれば当たり前のことです。

 大阪では「『551の豚まん』が有る時」がしあわせなのだ

そうだが、私のところでは「“自分” が無い時」がしあわせな

んです。「二日目のカレーは旨い」ぐらいの常識です。

 でもまぁ、よい話のキッカケになると思ったので、なぜ

「“自分” は無い方がしあわせ」なのかを解説することにしま

す。


 わたしたちがどんなに努力したとしても、どんなに幸運に

恵まれたとしても、“自分” というものの中に「しあわせ」が

発生することはありません。首尾よく事が運んだとしても、

“自分” の中に発生するのは「幸福感」や「満足感」という

“感覚” に過ぎません。それは一過性の心理状態にとどまり

ます。結婚式で「幸福感」に涙したカップルが、ハネムーン

先でケンカするなんてザラですし、「あ~、美味かった!腹

いっぱい!」と満足した奴が、「食べ過ぎて気分悪い・・」

とか言ってるのもよくある事ですね。

 一事が万事で、普通、人が「しあわせ」だと言うことは、

「幸福感」や「満足感」という言葉で表される、“肯定的な気

分の一時的なピーク” でしかない。 すぐに減退してしまうの

です。そして、次のピークを求めて動き出す・・・。


 では、なぜ “自分” の中には、「しあわせ」ではなく、「幸

福感」や「満足感」という、「感」しか生まれないのでしょ

うか? 


 「分ける」からです。

 わたしたちのアタマは、ものを分けます。

 まず、世界と自分を分けます。分けるからこそ「自・分」

というものが存在できます。

 そして、あらゆることを「自分」の都合で分けます。その

ために言葉が存在するのか、言葉が存在してしまったために

分けるしかなくなったのかは判然としませんが、人は世界を

分けざるを得ません。自分に起こる事も分けざるを得ませ

ん。区別し、判別し、選別し、差別し、当然の成り行きとし

て、そこには評価が生まれます。良いか悪いか、上か下か、

大きいか小さいか・・・。わたしたちの、そのアタマの癖

が、喜びや安らぎでさえ切り取り、評価の対象としてしま

う。どんなに望ましいことでも、“思考のかけら” として貶め

られ、「そのとき」の「ひとつの気分」という断片でしかな

くなってしまう・・・。私は、「しあわせ」というものを、

そのような断片だとは思っていません。そのようなものだと

は思いたくないし、そのつもりも無い。私は、自身の体験上

「しあわせ」というものは、もっともっと広大なものである

と実感している。昔、たまたま、その「広大さ」を一瞥した

のでね。


 その “「分ける」自分” を仕分けして、脇にどければ、そこ

には “「分けない」意識” というものが存在する。


 それは「分けない」。

 「絶対開」として在る、“すべてに「開いている」意識” 。


  “すべてに「開いている」” のだから、そこには「不満」の

生まれようが無い。

 そのような “「不満」の生まれようが無い” 在り方を、私は

「しあわせ」と呼びたい。


 そのようなわけで、「“自分” は無い方がしあわせなんだか

ら」という話になるのですが、真っ当な話だとは思いません

か?


 ちょっと疲れちゃったので、「真っ当だ」と思えない人の

為の話は、この次に。





2020年11月19日木曜日

自分のトリセツ



 『息子のトリセツ』とう本が売れているそうだ。今朝テレ

ビで紹介してた。

 著者は、脳科学と人工知能の研究者をしている女性だそう

で、これまでにも『妻のトリセツ』『夫のトリセツ』などの

著書があるという。

 内容は知らないが、どれも、脳科学や認知科学に基づいた

「性差」を踏まえた上で、息子や妻や夫に接すれば、その取

り扱いが楽になるということなのだろう。まあそうだろう

な。世の中には「性差」を無視したがる変な人たちもいるの

で困ったもんだが、そもそも男と女の身体は物理的に違いが

あるのだから、当然、ものの見方、感じ方が違って当たり前

だ。その当たり前を、「仕方がないこととして受け入れた方

がやり易いよ」と、この著者は言っているのだろう。読んで

ないけど。


 男と女のものの見方の一番大きい違いで、事あるごとに問

題を生みだすのが、「何を以て正しいとするか?」というこ

とだろう。


 男は「理屈が通っていれば正しい」とする。

 方や女は「自分が気に入れば正しい」とする。


 女も理屈に基づいて物事を「正しい・正しくない」と判断

するが、「理屈が正しいから、気に入る」のではなく「自分

が気に入る理屈は、正しい」というのが基本的なスタンスと

なる。女にとって「理屈」は “道具” でしかないので、「理

屈」がひっくり返ろうが大したことではない。「理屈」など

に自分の正当性の根拠などあたえてない。都合がよければ使

うという程度だ。女にとっての正当性の根拠は「自分の気に

入るかどうか」なのだ。

 一方、男はとにかく理屈っぽい。まず「理屈」なのだが、

男にとっての「理屈」は道具ではなく “足場” だ。自分の気に

入る「理屈」が支配する “場” に立って、男は自分の正当性を

保つ。なので、男の場合、その「理屈」がひっくり返ると、

自分自身もひっくり返ってしまう。「理屈」が通らないと、

身動きができなくなる。というわけで、理屈が通らないと男

は危機感を感じて怒り出す。その「理屈」の正しさは、自分

が「正しいと思っている」だけに過ぎないのだが・・・。


 男にしろ女にしろ、結局のところ自分が気に入ることを正

しいとするだけなのだが、その際に「理屈」が果たす役割が

かなり違う。

 男と女が揉める時、男の方はしっかりと理屈を展開すれば

その “場” を支配したつもりでいるが、女の方からすれば、目

の前に目障りなものがチョロチョロしているに過ぎない。な

ので、女は男の理屈をうっちゃってしまう。伝家の宝刀「理

屈」をないがしろにされた男は足場がぐらつき、パニックを

起こして物理的な対処法に訴えたりする。暴力とかね。


 というわけで、世界中どこにいっても、夫が妻の尻に敷か

れている理由が分かる。

 理屈を無視された男は、暴力に訴えるぐらいしか手段を見

いだせないのだが、それは罪を犯すことになるので、まとも

な男なら、渋々黙り込むしかない。「女房は怖い」と。

 その結果、世界のどこへ行っても、夫というものは十中八

九、女房の尻に敷かれているか、DV男なのだ。恐怖にかられ

た男たちが、宗教的な理由をでっち上げて、女の力を削いで

いたりもするけどね。


 『妻のトリセツ』という本がどういう内容なのかは知らな

いが、その秘訣は一つしかない。「妻に勝とうとしないこ

と」。

 『夫のトリセツ』という本がどういう内容なのかは知らな

いが、その秘訣は一つしかない。「夫を負かさないこと」。

 いずれにせよ、「勝つ」ということを保留するに限る。


 そもそも、望んで一緒になるんでしょ?大抵は?

 何で相手に勝とうとする?

 「一緒にいる」のなら、“仲良くする” のが当たり前でしょ

う。

 結婚であれ、他の人間関係であれ、人と人とが「一緒にい

よう」とするのは、「仲良くできそうだから」だけではだめ

でしょう。“仲良くする” ためでなきゃいけないと思うんだ

が・・・。


 “仲良くする” のなら、「自分の都合は一まず置いとい

て・・・」というのが筋の通った話だと思うんだけどね。

 自己主張して我を通したいのなら、特定の誰か相手ではな

く、不特定多数を相手にすべきだね。それだけの度量なり暴

力性なりを持たない人は、身近な人と “仲良くする” ことを考

えるべきでしょうよ。
 

 男と女は違う。それ以前に人と人とは皆違う。

 違う者同士が自分の都合なり、正しさなりを出し合えば揉

めるのが必然。当たり前過ぎる話だ。だったら「自分の都合

は一まず置いといて・・・」というのは当然だ。どうせ何の

根拠もないそれぞれの陳腐な都合なんだから、そんなのに拘

るのが幼稚なんだ。くだらない。


 人と人とが一緒にいるのなら、“仲良くする” にしくはな

い。仲良くしないのなら一緒にいるべきではない。

 息子や妻や夫の「トリセツ」は役には立つだろう。けれ

ど、そんな小細工に腐心する以前に、仲良くすることを第一

義にすればそれでいいのだ。要するに「あなたの都合を優先

しましょう」という態度でいればいいだけの話なんだ。

 「あなたの都合を優先しましょう」を続けていると、相手

の方も「あなたの都合を優先しましょう」という風になるも

のです。そうして「仲良さ」が深まって行く。相手がサイコ

パスとかじゃなければね。


 本当に必要なのは『自分のトリセツ』でしょうよ。


 『息子(妻・夫)のトリセツ』を読んで、それを実践する

のなら、自分の見方・行動を変えることになるのだから、自

分自身の扱いを変えることになる。それは結局、『自分のト

リセツ』ということでしょう? どうせなら、相手を自分の望

む方向へ誘導しようというのではなくて、自分を相手の望む

方向へ誘導して行こうという方が上品だと思う。


 「それじゃあ自分が無くなってしまう」


 いいじゃないですか。「自分」は、無い方がしあわせなん

だから。


 このブログは、結構『自分のトリセツ』になってると思う

けどね。

 



2020年11月14日土曜日

世界に触れている



 今、私の指がパソコンのキーボードに触れている。今日は

「触れる」ということについて書こうと思う。

 「触れる」というのは、普通には「触覚」の働きのことだ

と考える。でも、実際にはわたしたちの五感すべては、それ

ぞれに割り当てられた対象に「触れる」ことを目的として備

わっている。わたしたちは身体の全てを使って、世界と触れ

合っている。


 「触覚」は言うまでもないが、「味覚」「嗅覚」はそれぞ

れに入ってきた物質に触れて、「それ」がどういうものであ

るかを確かめる為に有る。

 「視覚」は光に触れているのであるし、「聴覚」は空気な

どの振動に触れている。それだけにとどまらず、わたしたち

は身体のさまざまな器官と連携しながら、さまざまなものと

触れ合う。

  皮膚や身体の様々な部分で「圧力」や「引力」を感じてい

るし、「温度」「湿度」も感じている。「免疫系」は身体に

入って来る異物と触れ合って、それが危険なものではないか

などと判断する。(今、書いて気付いたが「免疫覚」という

概念が必要なのではないだろうか?)

 そのようにして、わたしたちは常に世界と触れ合いを持

ち、世界と、自身の身体の内部が、今現在どのような状況な

のかを認識しようとしている。


 わたしたちは世界と触れ合わずに存在することはできな

い。

 いつだってわたしたちの身体は地面なり床なりに触れてい

る。たとえ宙に浮かんでも空気に触れているし、宇宙空間に

裸で放り出されても、近くの星の引力や宇宙線に触れてい

る。言うならば、存在する限り、「世界」と触れている。

「生きている」ということは、「世界と触れ合う」というこ

となのかもしれない。


 と、ここまで話を進めてきたところで、“ちゃぶ台返し” の

ようなことをしちゃいますが、「触れる」ということは、わ

たしたちが自身を世界とは独立して存在する「個」として認

識するからこその感覚です。実は、「わたしたちは世界に触

れているのではない」というのが本当ではないか?「個」と

いう意識を持つから「触れている」という感覚が有るのであ

って、自分自身も、本来は世界の一部分なのだから、「触れ

ている」などと感じずに、世界と一体化していることが自然

なのだろうと思う(そうじゃないからこそ「人間だ」ともい

えるが・・・)。


 人は、「五感」(さしあたり「免疫覚」というのは除けて

おきましょう)を「世界」と繋がっているために使うのでは

なくて、「世界」と「自分」を分けるために使っている。そ

れをしているのがわたしたちのアタマ(自意識)なのです。

 「触れる」ということを、「世界」と「自分」を分ける為

ではなく、“「世界」と「自分」が一つである” ことの再認識

のために使うべきではないか? そのためにこそ、わたしたち

のアタマの存在理由が有るのではないか?


 仮に、素粒子レベルで考えれば、わたしたちの身体なんて

スカスカの宇宙空間のようなものです。そこには自分の身体

とか、外の物質などという区別は無く、そこに境目は無い。

また、宇宙レベルで考えても、わたしたち一人々々なんて、

地球という惑星の物質のカケラに過ぎない。自意識というも

のが無ければ「自分」などというものは成り立たないものな

のです。

 そこで改めて「触れる」ということに立ち戻ってみる。


 今、あなたが触れているスマホなりパソコンなりに、改め

て「そっ」と触れて欲しい。

 それを、「自分とは別のもの」として探ったり利用したり

する意識ではなく、一緒にこの世界を形作っている存在とし

て触れてみて欲しい。その「機能」は脇にどけて、「物」と

して触れて欲しい。「それ」は本当に自分の外にあるものな

のか?


 極端な「変なこと」を言っていると思われるかもしれな

い。でも、ネット上の中傷に傷付いたりするというのは、人

が、スマホの画面に表れているものと一体化していて、「た

だの物だ」と捉えられないからでしょう? 


 ならば、どうせならば、自分が触れているものを通して、

出来損ないの誰かのアタマと繋がるのではなく(私の “アタ

マ” は、ここでは一応除外しておいてね)、ダイレクト

「世界」と繋がってはどうでしょう? いや、実際に「自分」

が「世界」と繋がっていて、“「自分」と「世界」は分けられ

ない” 。“「自分」と「世界」はひとつだ”。と、「触れる」

ことで確かめてみてはどうでしょう?


 とはいえ、スマホを見ながら、「これは自分と一つだ」と

は思いにくいでしょう。

 なので、そこに座ったままでもいいし、寝転んでみてもい

い。目を閉じて、自分に触れている服や、椅子や床や空気や

音と「自分」に境界があるのかどうかを確かめてみて欲し

い。

 「自分が世界に触れている」のか、「“触れているものすべ

とこの身体” 。一まとめに自分」なのか?


 「人馬一体」なんていう言葉がある。

 職人の使う道具は手の延長だったりする。

 自分の着ている服を汚されたりしたら、自分が傷付けられ

たように感じたりする。

 ならば、自分を取り巻く物や自分の生きている世界と、自

分が「一つ」だと感じることはそんなに荒唐無稽な話ではな

いはずだ。


 人が皆、「触れる」ということを、“世界と自分を分けるた

め” にではなく、“世界と自分は一つだ” と再認識するために

するのなら・・・、わたしたち自身とわたしたちのこの世界

はどうなると思いますか?