このごろよく考える。文化のどん詰まりであろうこの時代
に在って、人はこれからどうするのだろう?
勝手にどん詰まりだと決めつけてるけど、そう思うのだか
らしょうがない。どん詰まりだということで話しを進める。
たとえどん詰まりでも、別にそれで世界が行き詰まって停
止してしまうわけでもない。文化が行き詰まっても、それで
も世界は続いて行く。ならば、人はこれまでとは違う文化へ
と舵を切るのだろう。そうせざるを得ないだろう。ではそれ
はどのような文化か?
これまで文化は拡大と分化を極めてきた。ならば、それと
は違う方向へ向かうだろうと考えるのが常識的(?)な見方
ではないだろうか。振れ切った振り子は、反対へ動くしかな
い。文化は、縮小し統合される方へと動いて行くことになる
のだろう。
とはいえ、文化があまりにも単純なものになることは考え
られない。具体的な多様性は残しつつも、ある一つの全人類
的な価値観・傾向を持つものになって行くのではと考える。
その基盤となるのが、現在のネット社会なのだろう。
リアルタイムで、全世界の人間が共通の問題に向き合い意
見を交換できるのだ。そこでは、民族や国籍や宗教などの差
異を越えて、人間として共通の喜び、安らぎ、本当に避ける
べき問題は「何か」ということを分かり合える可能性はあ
る。それはネット社会になったからこその可能性だろう。
人類が、それぞれの土地で数千年も各々に築いて来た文化
のどん詰まりに、全世界の人間が情報を共有できるようにな
ったのは必然のような気がする。
拡大と分化のどん詰まりに来て、これ以上進み様が無い状
況のところへ、統合への反転を可能にし得る、“ネット” とい
うツールが生み出されたことは、人類が新たな局面へと舵を
切る為に、起こるべくして起こったのだと思いたい。しか
し、ここでしくじれば、人類の未来はこれまでより、さらに
暗いものになるのかもしれない。人は自分の見たい物だけに
興味を向けるものだから、しくじる可能性の方が高いのかも
ね。
まぁ、この先どうなるかは誰にも分からない。でも、文化
がどん詰まりなのは間違いではないだろう。人が「気持ちい
い」とか「楽しい」とか感じることにはバリエーションの限
界が有る。例えば音楽であれば、誰だって和音を聞けば気分
が良いし、不協和音を聞けば気持ち悪いものだが、和音の数
は限られている。そしてその和音と和音の組み合わせも限ら
れている。人は、もうとっくにそれらを使い切り、慣れてし
まっている。それと同じような事が、あらゆるジャンルで起
こってしまっていて、もうこの先にはクリエイティブなもの
は無い。人はもう倦んでいる。反転するしかないのだと思う
ね。
エゴにそそのかされ、文化に酔わされ、不安に追い立てら
れ、人はいたずらに動き続けて来た。でも、もうそれも行き
詰まった。
「これまで動き過ぎだったね。もうのんびりしょう」
そういう人間は増えて行くのではないだろうか?
《 世の中に寝るより楽はなかりけり
浮世のバカは起きて働く 》
浮世は、もはや地面からはるかに浮き上がり過ぎている。
80歳を越えて病気で死ぬことさえ受け入れないとかね。
もう、地に足を着けて生きて死ぬことを、掴み直す時が来
ているのだろう。そう思いたいね。
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