今、私の指がパソコンのキーボードに触れている。今日は
「触れる」ということについて書こうと思う。
「触れる」というのは、普通には「触覚」の働きのことだ
と考える。でも、実際にはわたしたちの五感すべては、それ
ぞれに割り当てられた対象に「触れる」ことを目的として備
わっている。わたしたちは身体の全てを使って、世界と触れ
合っている。
「触覚」は言うまでもないが、「味覚」「嗅覚」はそれぞ
れに入ってきた物質に触れて、「それ」がどういうものであ
るかを確かめる為に有る。
「視覚」は光に触れているのであるし、「聴覚」は空気な
どの振動に触れている。それだけにとどまらず、わたしたち
は身体のさまざまな器官と連携しながら、さまざまなものと
触れ合う。
皮膚や身体の様々な部分で「圧力」や「引力」を感じてい
るし、「温度」「湿度」も感じている。「免疫系」は身体に
入って来る異物と触れ合って、それが危険なものではないか
などと判断する。(今、書いて気付いたが「免疫覚」という
概念が必要なのではないだろうか?)
そのようにして、わたしたちは常に世界と触れ合いを持
ち、世界と、自身の身体の内部が、今現在どのような状況な
のかを認識しようとしている。
わたしたちは世界と触れ合わずに存在することはできな
い。
いつだってわたしたちの身体は地面なり床なりに触れてい
る。たとえ宙に浮かんでも空気に触れているし、宇宙空間に
裸で放り出されても、近くの星の引力や宇宙線に触れてい
る。言うならば、存在する限り、「世界」と触れている。
「生きている」ということは、「世界と触れ合う」というこ
となのかもしれない。
と、ここまで話を進めてきたところで、“ちゃぶ台返し” の
ようなことをしちゃいますが、「触れる」ということは、わ
たしたちが自身を世界とは独立して存在する「個」として認
識するからこその感覚です。実は、「わたしたちは世界に触
れているのではない」というのが本当ではないか?「個」と
いう意識を持つから「触れている」という感覚が有るのであ
って、自分自身も、本来は世界の一部分なのだから、「触れ
ている」などと感じずに、世界と一体化していることが自然
なのだろうと思う(そうじゃないからこそ「人間だ」ともい
えるが・・・)。
人は、「五感」(さしあたり「免疫覚」というのは除けて
おきましょう)を「世界」と繋がっているために使うのでは
なくて、「世界」と「自分」を分けるために使っている。そ
れをしているのがわたしたちのアタマ(自意識)なのです。
「触れる」ということを、「世界」と「自分」を分ける為
ではなく、“「世界」と「自分」が一つである” ことの再認識
のために使うべきではないか? そのためにこそ、わたしたち
のアタマの存在理由が有るのではないか?
仮に、素粒子レベルで考えれば、わたしたちの身体なんて
スカスカの宇宙空間のようなものです。そこには自分の身体
とか、外の物質などという区別は無く、そこに境目は無い。
また、宇宙レベルで考えても、わたしたち一人々々なんて、
地球という惑星の物質のカケラに過ぎない。自意識というも
のが無ければ「自分」などというものは成り立たないものな
のです。
そこで改めて「触れる」ということに立ち戻ってみる。
今、あなたが触れているスマホなりパソコンなりに、改め
て「そっ」と触れて欲しい。
それを、「自分とは別のもの」として探ったり利用したり
する意識ではなく、一緒にこの世界を形作っている存在とし
て触れてみて欲しい。その「機能」は脇にどけて、「物」と
して触れて欲しい。「それ」は本当に自分の外にあるものな
のか?
極端な「変なこと」を言っていると思われるかもしれな
い。でも、ネット上の中傷に傷付いたりするというのは、人
が、スマホの画面に表れているものと一体化していて、「た
だの物だ」と捉えられないからでしょう?
ならば、どうせならば、自分が触れているものを通して、
出来損ないの誰かのアタマと繋がるのではなく(私の “アタ
マ” は、ここでは一応除外しておいてね)、ダイレクトに
「世界」と繋がってはどうでしょう? いや、実際に「自分」
が「世界」と繋がっていて、“「自分」と「世界」は分けられ
ない” 。“「自分」と「世界」はひとつだ”。と、「触れる」
ことで確かめてみてはどうでしょう?
とはいえ、スマホを見ながら、「これは自分と一つだ」と
は思いにくいでしょう。
なので、そこに座ったままでもいいし、寝転んでみてもい
い。目を閉じて、自分に触れている服や、椅子や床や空気や
音と「自分」に境界があるのかどうかを確かめてみて欲し
い。
「自分が世界に触れている」のか、「“触れているものすべ
てとこの身体” 。一まとめに自分」なのか?
「人馬一体」なんていう言葉がある。
職人の使う道具は手の延長だったりする。
自分の着ている服を汚されたりしたら、自分が傷付けられ
たように感じたりする。
ならば、自分を取り巻く物や自分の生きている世界と、自
分が「一つ」だと感じることはそんなに荒唐無稽な話ではな
いはずだ。
人が皆、「触れる」ということを、“世界と自分を分けるた
め” にではなく、“世界と自分は一つだ” と再認識するために
するのなら・・・、わたしたち自身とわたしたちのこの世界
はどうなると思いますか?
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