2025年5月23日金曜日

時間の散歩

 
 
 わたしたちは、あれやこれやと迷う。
 
 道に迷う。外食で何を食べようかと迷う。どの製品を買お
 
うかと迷う。「選択肢が多すぎると選べなくなる」という認
 
知科学の研究もあるけど、選択肢があるからこそ迷う。
 
 "選択肢”とは何かと言えば、"自分の希望・満足を叶える
 
ための策”ということだろう。わたしたちは希望を叶え、満
 
足しようとして迷う。
 
 
 道に迷うのは目的地があるからで、散歩してれば迷わな
 
い。方向音痴で家に帰れないとかなら別だけど、「帰らなく
 
てもいいや」と思えば(!)それも迷ってることにはならな
 
い。
 
 
 わたしたちがあれやこれやと人生で迷うのは、目的を持
 
ち、それを達成することで満足を得ようと思うから。
 
 散歩するように生活している人は迷わない。
 
 散歩するように生きている人は迷わない。 
 
 人生というのものは、散歩するように楽しむことができる
 
ものだと思うけれど、ものごころ付いたときからそういう風
 
に思えないように育てられる。親(大人)は、子供が迷うよ
 
うに教える。まるでそれが良いことであるかのように。

 
 「わたしは時間を散歩してるのだ」
 
 そんな気分で人生を過ごせば迷いは無い。
 
 出会うことそれぞれに「へぇ〜、こんなことが有るんだ」
 
「あっ!こういうのも有りなんだ・・」みたいに楽しめるだ
 
ろう。
 
 けれども、普通はそういうようにはならない。なぜかとい
 
えば、散歩で目にするものは自分のものではないから、所有
 
欲が満たせない。アタマは自分のものにしてこそ満足するの
 
で、眺めるだけなんて暇つぶしにしかならないというように
 
思っている。所有欲と言われるのもは、いったい何なんだろ
 
うか?
 
 
 いまは、誰も彼もがそこら中でちょっとしたものにでもス
 
マホを向け、写真に収める。写真に撮ることで、意識の上で
 
は「自分のもの」になるからだろう。しかし、なんだってア
 
タマはなんでもかんでも「自分のもの」にしたいのか?
 
 
 「持っている」「持つ」という行為は、「持つ」というこ
 
とをする主体が有ってこそ成立する。わたしたちのアタマは
 
「持つ」ことによって、〈自分〉というもの(主体)が存在
 
していると確認したいのだろう。しかし、いつもいつも確認
 
したくなることこそが、〈自分〉というものは実は存在して
 
いないことを示している。存在していないというのが言い過
 
ぎなら、約束事でしかないと言おうか。
 
 どう表現するかはともかく、〈自分〉というものは曖昧な
 
ものです。思考で固めていなければぼやけてしまう。だから
 
こそ、アタマは四六時中考えることを止められない。そして
 
何かを手にしようとする。
 
 
 目的を定め、目にしたものを手に入れ、そうしながら時間
 
を過ごした先に、たどり着くのは死です。どうにかこうにか
 
保ち続けてきた〈自分〉も消え去る・・・もともと無いから
 
です。 

 
 散歩するように生きる。
 
 〈自分〉というもの、〈自分の人生〉というものも、景
 
色・体験の一つだと眺める。
 
 普通にわたしたちが街を散歩するような気楽さで、人生を
 
眺めることもできる。人生というものは、そうやって過ぎて
 
ゆかせ、眺めるものだというのが、人が生きることの楽しみ
 
なんじゃないのだろうか?

 
 ほんの何十年。せいぜい百年だけれど、時間を散歩するよ
 
うに過ごす・・・。生きるということの本質はそういうこと
 
だろう。

 
 
 
 
 

2025年5月22日木曜日

愚に生きる

 
 
 
 テレビで四国遍路の番組を観ていたら、一番の難所と言わ
 
れる山道にお遍路さんを励ます言葉が書かれていて、その中
 
に「愚に生きる」というのが有った。
 
 
 「愚」というのは、「計算しない」「損得勘定をしない」
 
ということだろう。
 
 長い遍路を歩き続けて、お寺を参るだけ。「こんなにしん
 
どい思いをして、これが何になるのだろう・・」という思い
 
が浮かんでくるだろうことを見越して、「愚に生きる」と一
 
声掛ける。
 
 「損得勘定をやめて」「何になるのかなんて計算せずに」
 
と促す。
 
 
 四国遍路をしようなどという人は、単に興味本位だった
 
り、マラソンをするような気持ちの人もいるだろうけど、
 
にがしかの迷いや悩みを抱えていて、遍路をすればそこから
 
抜け出す糸口がつかめるかもしれないという思いを持つ人が
 
多いことだろう。「愚に生きる」というのは、遍路の真髄を
 
突いた言葉なんじゃないだろうか。

 
 
 「こんなことをしていていいのか?」
 
 「このままだとどうなるのか?」
 
 そんな風にいろいろと考えてしまい、現状を肯定できず、
 
自分の進む道に確証が持てず、過去の自分の行いはまずかっ
 
たのではないかとか、まずいことをしたとか・・・。そのよ
 
うに人は苦悩する。
 
 特に大きな悩みや迷いでなくとも、人は誰も大なり小なり
 
そういうものを抱えているものだけど、迷い・悩みというも
 
のは、あれやこれやと計算をすることで生まれてくるものだ
 
ろう。だから、ただ歩く。
 
 目指す場所が有るとはいえ、ただ寺に参るだけで、なんに
 
もならない。日常を離れて、なんにもならないことをひたす
 
ら続けること。
 
 お寺に行って「パワースポットでエネルギーをもらう」と
 
か「心を浄化する」などと考える者もいるのだろうけど、そ
 
ういう人が遍路をしても、それこそなんにもならないだろ
 
う。
 
 無意味なことをただ続ける。
 
 無意味なことをただ続けているその時も、自分は生きてい
 
る。
 
 意味がなくても人は生きている。生き続けている。
 
 ただ歩く。ただ生きる。
 
 あれこれと計算するアタマの右往左往を置き去りにする。
 
 自分は本来ただ生きているだけなんだということに気付
 
く。
 
 その気付きが人を開放する。
 
 だから「愚に生きる」。
 
 
 そもそも、生まれて来て死んで行くのだから、生きている
 
ことはなんにもならないのに、損得勘定を考えることを刷り
 
込まれて、「上手にやれば、なにかになる」と思わされてい
 
る。その固定観念が人を苦悩させる。

 
 なんになるかなんて考えずに、とにかく遍路道を歩いてい
 
ると、山道の湿気を肌が感じる。風を頬をなでる、髪をとか
 
す。鳥の声が聞こえる。里を歩けば、人が声を掛ける。饅頭
 
をくれる。そういう体験は、人が生きてゆくことを端的に示
 
している。それだけのことで、そういうものだし、それでい
 
いのだ。
 
 大層なお話を刷り込まれて、利口に生きようとすることが
 
人を迷わせる。度がすぎれば、自分自身や世の中に害を成す
 
(それが一見して害に見えなくても)。
 
 
 どこのどなたが書いたものかは知らないけれど、遍路道に
 
「愚に生きる」と記したのは、その人の実体験からなんだろ
 
うなぁ。






2025年5月12日月曜日

さしあたり····

 
 
 このブログを書いていると「さしあたり」という言葉をよ
 
く使うように思う。「しばらくは」とか「ひとまず」なんか
 
もよく使っているんじゃないだろうか。ものごとに完璧は無
 
いし、この世は諸行無常だと思っているから、おのずとそう
 
いう言い回しになるのだろうけど、それに加えて「さしあた
 
り」という言葉の持つ感じが好きなんだろうなぁ。
 
 
 いい言葉だと思いませんか?「さしあたり」って。 
 
 人生設計なんてことを考えるような人や完璧主義者は「さ
 
しあたり」なんてイラっとくるような言葉なんでしょうけ
 
ど、世の中何が起こるか分からないのが本当なんだから、な
 
んでも「さしあたりこれでイケる」というのなら御の字なわ
 
けです。
 
 
 で、この「さしあたり」が行き詰まる頃に、次の「さしあ
 
たり」をでっち上げられたらさしあたりオーケーなわけで
 
す。そうやって「さしあたり」を繫いで行くのが人生という
 
ものでしょう。でも、その人生の局面々々を「さしあたり」
 
という意識でこなしてゆくのと、「一時しのぎで・・・」と
 
いう「ちゃんとできていない」というような意識で過ごすの
 
とでは気楽さがだいぶん違うでしょう。
 
 
 いまの社会は、「将来の見通しを立てる」とか、「万全の
 
準備をして」とか、そういう観念を強く刷り込んできますけ
 
ど、そんなこと無理でしょ?人生のある一面だけに限れば可
 
能かもしれないけれど、「思い通り出世してお金も貯められ
 
た・・・けど事故に遭って歩けなくなった」「自分が夢に描
 
いた立場になれた・・・けど、世の中が変わってしまって価
 
値がない」みたいなことが起こるわけです。諸行無常です。
 
だから「さしあたり」の方が世の中の実情に合っているわけ
 
です。変化することを前提なわけですから。
 
 
 夢や目標を持って、それが実現できたら安心・・・なんて
 
ことを誰もが漠然と信じてる・・・けれど、そういう人が本
 
当に安心する時は来ない。そういう人の安心は、条件付きの
 
安心だから。
 
 
 世界は諸行無常だから、「こうなったら安心」はこうなっ
 
ても長く続かない。「さしあたりイケるから、まぁ安心」と
 
いう小さな条件で納得できる方が現実に即してる。さらに言
 
えば無条件で安心してしまえれば、その安心は永遠に続く。
 
 
 破壊的な出来事にみまわれてそのままにしておくと出来事
 
に潰されてしまうから、さしあたりなんとかするしかないけ
 
ど、さしあたりなんとかできたら大したものですよ。
 
 自分の人生に条件を付けないで、「さしあたり」を繫いで
 
生きて行けるなら、それはとても良い人生だと私はさしあた
 
り思います。
 
 
 
 
 

2025年5月9日金曜日

線を引く

 
 
 いまから三十年以上前、私の働いていた職場に知的障害を
 
持つ人たちが職業体験に来た。職場の者たちは親切に対応し
 
て予定の日数を終えたのだけど、その人たちと仕事をしなが
 
ら、私はあることに気がついた。
 
 
 当時の職場にいた私より少し先輩の一人の女性は、いわば
 
頭が悪く、簡単な計算とかでも苦手だし、物覚えも悪いし、
 
少し感情的になりやすい面もあった。基本的に良い人なの
 
で、まわりから嫌われたりはしていなかったが、仕事ができ
 
ないことでバカにされたりすることはよくあった。
 
 先輩でもあるので、私はバカにしたりはしなかったけれ
 
ど、まわりからバカにされるのを見ても「まぁ、そうだな」
 
と思っていた。ところが、職業体験に来た先の人たちの扱わ
 
れ方を見たときに「この人たちとあの先輩と、どこで線引き
 
をするんだ?」と思ってしまった。
 
 
 あの職業体験に来た人たちは、仕事ができなくても親切に
 
扱われ、障害者として社会的なサポートも受けている。一方
 
あの先輩は、一応普通に仕事はできるけれど、ちょっとした
 
失敗をするたびにバカにされてしまうし、社会からのサポー
 
トも無い・・・。私は「これはなんだ?」と思った。そし
 
て、誰かの至らなさについて、ものが言えなくなってしまっ
 
た。
 
 
 あの障害を持つ人たちに配慮し、親切にするのなら、あの
 
先輩にも配慮し、親切であるのが筋だ。だってあの人たちの
 
間に線引きをすることはできないから。この気付きはその後
 
の私のものの見方に大きな影響を与えた。
 
 
 最近「境界知能」という言葉が使われるようになってき
 
た。この言葉がいつ頃から有るのか知らないけれど、そうい
 
う概念・認識が人々の意識に留められるのは良いことだ。と
 
はいうものの、今後もその境界にいる人たちが社会的配慮を
 
受けられることは望めないだろうなと思う。社会の中の個人
 
が配慮してくれることはあってもね。
 
 
 人の知能だけではなく、本来、世界のあらゆることは線引
 
きすることができない、分けられないものはたくさんある。
 
養老孟司先生が書かれていたが、解剖学的に言えば「口」だ
 
とか「指」だとか「心臓」だとかいうものは区別できない。
 
全部つながっていて、便宜的に分けているだけだと。身体以
 
外でもあらゆることがそうだ。
 
 
 人間が作り出した物は一応分けることができる。ネジはネ
 
ジで、コップはコップだ。でも自然のものは分けられない。
 
 スズメがウンコをする。確かにスズメとウンコは別だけれ
 
ど、ウンコとスズメは、自然の命のつながりのそれぞれの一
 
面だとも言える。それを分けて見るのは、わたしたちのアタ
 
マのクセによる。アタマは分けなければしようがないから。
 
 分けなければ「自分」が存在できなくなるから、アタマは
 
なんでもかんでも分けてしまう。特にその区別が自身の存在
 
意義を強く感じさせる事柄は分けずにいられない。分けなけ
 
れば自分の存在がぐらついてしまう。

 
 アタマにとって「境界知能」という曖昧なものはとても具
 
合が悪い。
 
 「自分は良い。あれは良くない」
 
 「自分は普通。あれは異常」
 
 「自分は賢い。あいつはバカ」
 
 そういうはっきりした区別をすることで、アタマは安定感
 
を得る。しかし境界が曖昧だと、自分が区別しておきたいこ
 
とが、自分の方へ侵食してきてしまう。「もしかして自分も
 
あれと同じ部分があるのか?・・・」と思わせられてしま
 
う。アタマは線を引きたい。線を引いて「自分は良い側だ」
 
と思いたい。
 
 人がアタマ中心でいる限り線引きはやめられない。そし
 
て、社会というものが人々のアタマの働きで作られ動いて
 
いる以上、社会の中の線引きもなくならない。「境界知能」
 
という言葉が広く世に知られたところで、そこに線を引けな
 
くなったとしても、代わりに何かの線引きをしてアタマは安
 
定を得ようとするだろう。
 
 
 アタマが安定を得られるのならそれで良いということもあ
 
るだろうけれど、その安定はすぐ揺らぐ。そもそも線を引け
 
ないところに無理やり線を引くのだから、そんなもの長続き
 
しない。だから世の中にいさかいは絶えない。ひとりの人間
 
の中でもしょっちゅう葛藤や苦悩が有るのは、無理に線を引
 
いているからだ。
 
 
 線を引かないと、はなはだ落ち着きが悪い。気持ちが悪
 
い。中途半端でスッキリしない。自分というものが曖昧にな
 
るから。けれど、曖昧でありながら、その曖昧な自分がここ
 
に存在しているという事実に目を向けることは、大事なこと
 
を気付かせる。
 
 線を引いて、区別しなければならない「自分」以前に、と
 
にかくここに自分が在る。説明も区別も無く自分が在る。
 
 アタマの右往左往に関係なく自分が在る。そこに落ち着け
 
ば、いさかいや葛藤や苦悩はよそ事になる。ましてや、自分
 
と他人を区別してバカにしたりなどという愚かさは出る幕が
 
無い。
 
 
 線を引くことが愚かさを生む。世界に苦しみを生む。