わたしたちは、あれやこれやと迷う。
道に迷う。外食で何を食べようかと迷う。どの製品を買お
うかと迷う。「選択肢が多すぎると選べなくなる」という認
知科学の研究もあるけど、選択肢があるからこそ迷う。
"選択肢”とは何かと言えば、"自分の希望・満足を叶える
ための策”ということだろう。わたしたちは希望を叶え、満
足しようとして迷う。
道に迷うのは目的地があるからで、散歩してれば迷わな
い。方向音痴で家に帰れないとかなら別だけど、「帰らなく
てもいいや」と思えば(!)それも迷ってることにはならな
い。
わたしたちがあれやこれやと人生で迷うのは、目的を持
ち、それを達成することで満足を得ようと思うから。
散歩するように生活している人は迷わない。
散歩するように生きている人は迷わない。
人生というのものは、散歩するように楽しむことができる
ものだと思うけれど、ものごころ付いたときからそういう風
に思えないように育てられる。親(大人)は、子供が迷うよ
うに教える。まるでそれが良いことであるかのように。
「わたしは時間を散歩してるのだ」
そんな気分で人生を過ごせば迷いは無い。
出会うことそれぞれに「へぇ〜、こんなことが有るんだ」
「あっ!こういうのも有りなんだ・・」みたいに楽しめるだ
ろう。
けれども、普通はそういうようにはならない。なぜかとい
えば、散歩で目にするものは自分のものではないから、所有
欲が満たせない。アタマは自分のものにしてこそ満足するの
で、眺めるだけなんて暇つぶしにしかならないというように
思っている。所有欲と言われるのもは、いったい何なんだろ
うか?
いまは、誰も彼もがそこら中でちょっとしたものにでもス
マホを向け、写真に収める。写真に撮ることで、意識の上で
は「自分のもの」になるからだろう。しかし、なんだってア
タマはなんでもかんでも「自分のもの」にしたいのか?
「持っている」「持つ」という行為は、「持つ」というこ
とをする主体が有ってこそ成立する。わたしたちのアタマは
「持つ」ことによって、〈自分〉というもの(主体)が存在
していると確認したいのだろう。しかし、いつもいつも確認
したくなることこそが、〈自分〉というものは実は存在して
いないことを示している。存在していないというのが言い過
ぎなら、約束事でしかないと言おうか。
どう表現するかはともかく、〈自分〉というものは曖昧な
ものです。思考で固めていなければぼやけてしまう。だから
こそ、アタマは四六時中考えることを止められない。そして
何かを手にしようとする。
目的を定め、目にしたものを手に入れ、そうしながら時間
を過ごした先に、たどり着くのは死です。どうにかこうにか
保ち続けてきた〈自分〉も消え去る・・・もともと無いから
です。
散歩するように生きる。
〈自分〉というもの、〈自分の人生〉というものも、景
色・体験の一つだと眺める。
普通にわたしたちが街を散歩するような気楽さで、人生を
眺めることもできる。人生というものは、そうやって過ぎて
ゆかせ、眺めるものだというのが、人が生きることの楽しみ
なんじゃないのだろうか?
ほんの何十年。せいぜい百年だけれど、時間を散歩するよ
うに過ごす・・・。生きるということの本質はそういうこと
だろう。